今回も「AEDと皇族」シリーズです。
「皇族が動けば巨大利権と詐欺が動く」というくらい、彼ら(天皇家)中心とした旧宮家たちは歴史的にも様々な団体の名誉総裁など重役について、広告塔を張って、私たちの税金を自らの関連企業に流し込む悪行の手助けをしています。
一日でも早く、皇族が解体され、まっとうな人が政治や経済を治める時代が来るようにしなければ
現在日本が抱えている問題は解決されません。
自分達の私腹を肥やすために、庶民に重税を課し、大企業には免税措置ともとれるような抜け穴法を用意しておき、
巻き上げた税金を山分けしている、百害合って一利なしです。
今日も私たちの税金を使ってどこかで豪遊しているかと思うと馬鹿らしくなってきます。
どうか、1日でも早く、日本国民が彼らの詐欺に気付いて、全ての国民が己の利益や財産のために生きるのを止める日がくることを願うばかりです。
さて、AEDと皇族の関係については少しづつですが、調査は進んでいます。
AEDだけに限らず、心臓系、いわゆる循環器医療機器は日本と外国との内外価格差が激しい商品となっています。
AEDは本当に必要なのだろうか?)医療機器と医療技術の値段格差の実態
医療機器メーカー、代理店がぼろ儲けしており、当の医者は毎日奴隷のようにこき使われている現状です。
医療費高騰の問題は製薬会社や医療機器メーカーといったハード面であるのにも関わらず、誰もメスを入れようとしません。
論点をずらし、「医師不足」ばかりをあげつらう有名人は後を絶ちません。
医師は足りています。医師が働く環境が劣悪だというだけなのです。
「俺は医者だぞ!?」
とふんぞり返っても、時給換算すればコンビニバイト以下ということもありうる業界です。
「医師を使い捨てカイロのようにしたい」と考えている悪人がいて、さらに医学部を新設して暴利を貪りたいと考えている悪人が後を絶たないだけです。
救急と周産期以外の医療機関は不要ですから、医師含め看護師もボイコットすればいいだけなのですが、リーダー不在の医療業界ではまずもってムリでしょう。
「患者の命よりも自分の生活が大事な人しかいない」のが現在の医療現場の実情です。
では、医師がどれだけ劣悪で、責任ばかりを負わされ、過労死ラインを簡単に飛び越えることができる、常軌を逸した職業であるかをご紹介いたします。
・・・・・・(臨時 vol 99 「はっきり言おう、医師の労働環境は劣悪だ」医療ガバナンス学会 (2009年4月30日 11:51)
武蔵浦和メディカルセンター ただともひろ胃腸科肛門科 多田 智裕
今年3月から日本医師会の新しいテレビCMが放送されています。初めて見る人にとって、その内容は衝撃的なものと言えるのではないでしょうか。
CMには、当直勤務が月に4~6回、そして睡眠時間は3時間くらいという医師が登場します。その医師は決して特別な存在ではなく、4人に1人の勤 務医が過労死基準を超える時間外労働をしていることがナレーションで語られます。さらに、産婦人科医の1カ月の勤務時間は平均341時間・・・。医師の労働環境が想像を絶するほど劣悪であることを、CMは訴えています。そんな中の3月25日、産婦人科の最後の砦である24時間対応の「総合周産期母子医療センター」指定病院の1つ、愛育病院(東京都港区)が、東京都に指定の返上を申し出るという事態が発生しました。 きっかけは、労働基準監督署から是正勧告を受けたためでした。勧告に従って医師の勤務時間を週40時間、月160時間程度にまで減らすと、当直体制が維持できないということなのです。
医師の過重労働問題は今に始まったことではありません。でも「医師なのだから(それくらい働いて)当然」とする発想の中、これまで誰も手を付けてこなかった問題だったのです。そして、いつしか、この問題は決して開けてはいけない
「パンドラの箱」と化していたのです。
今回はこの医療界の「パンドラの箱」と形容される医師の過重労働問題を考えてみたいと思います。医師の残業代はきちんと支払われているのか まず問題となるのは、医師の時間外労働代金がこれまで十分に支払われてこなかったという実態があることです。
多くの病院で、時間外労働代金はすべて支払われているわけではありません。時間外労働については「勤務時間」と記載した書類を提出し、その中で時間外労働と認められた部分のみが支われるのです。この手続き自体は合法なのでしょうが、現実問題として医師の1カ月の平均勤務時間は約250時間です。とすると、残業時間だけで月平均90時間近 くになりま
す。その全部を支払っている病院はほとんど存在しないでしょう。所属長の権限で無難な残業時間(月20~30時間程度)のみを時間外労働として支払っている場合が大半なのではないかと思います。
私がかつて勤務したことのある病院では、医師の出勤簿は出勤日の欄に印鑑を押すだけで、タイムカードは使用していませんでした。うがった見方をすると、医師から「支給してくれ」と言われた時に言い逃れできるようにするための事務
方の策略だったのかもしれません。多くの公立病院では今もタイムカード がないのではないでしょうか。
医療機関では、深夜の急患に時間外診察をすると、通常の給与の5割増し以上の支給が必要になります。これを法令通りに支払うとすると莫大な金額が新たに発生します。
滋賀県立成人病センター(守山市)では医師の残業代を規定より少なく算定していたとして、県病院事業庁と幹部らが書類送検されました。未払い残業代金の総額は合計で約6億円でした。
でも、支払うことができる病院はまだましな方です。ただでさえ医療費削減政策の下、2008年度調査では8割近くの病院が赤字で、その平均赤字額は過去最大の100床あたり月1300万円に達している状況なのです。何億円にもおよぶ正規の
残業代金を支払う余力のある病院は少ないでしょう。
実際に3月10日 沖縄県立八重山病院は2月分以降の時間外勤務手当を当初予算額超過のために支給しないという事態に陥っています。
さらに深い闇、「宿直」という問題時間外労働賃金が満足に支払われてこなかったという問題だけであれば、一般企業でもよくある話なのかも知れません。しかし医療機関の場合、それで話は終わりません。
医師の仕事には、「宿直勤務」という規定があります。病院に入院している人たちが急変した時のために病院内に夜間待機する勤務のことです。本来は日勤の医師からの申し送りをチェックしたあと病院内で寝るだけで、基本的に医療行為
をしないことが宿直の定義になります。
しかしながら冒頭の愛育病院では、夜間救急対応に当たる医師たちを「宿直」勤務扱いにしていました。労働基準法に則った「夜間勤務」としての処理をしていなかったのです。病院管理者は順当な訴訟と裁判がなされれば、刑事罰を受け
ること必至でしょう。
日本で最も条件が良く、秋篠宮妃紀子様が悠仁様を出産された産科病院ですら、そんな状態なのです。事実、総合周産期母子医療センターの97%の施設が、愛育病院と同様に夜間勤務を「宿直」扱いとしているのです。産科病院に限らず、日
本の病院で救急対応に当たる医師たちを「夜間勤務」として扱っている病院は皆無に等しいでしょう。
<※天皇家が関わっている病院だから劣悪なのだと思いますが(汗>
でも法律に反しているとはいえ、懸命に救急医療を支えてきた医療機関のトップを軒並み刑事罰に処するのはあまりにも理不尽すぎます。この騒動、いったいどのように落としどころをつければよいのでしょうか?
医師の過重労働問題が、決して開けてはならない「パンドラの箱」に例えられる理由が分かっていただけたのではないかと思います。
東京都が示したあまりにも「先送り」の解決策こうした騒動のさなか、東京都は「医師の当直中の仮眠時間などは時間外勤務に入れる必要はなく、労働基準監督署の勧告の解釈を再検討すれば、当直体制の維持は可能」と指導したと報道されています。
例えば、夜7時から翌朝8時まで宿直勤務をしていたとします。宿直中の夜11時から1時間、そして夜中3時から30分間だけ救急車や急患の対応を したとします。
その場合、勤務形態はやはり「宿直」のままにして、救急車や急患の対応をした1時間30分のみを時間外勤務としてカウントしろということです。
現実問題として、一刻を争うような救急患者の対応に当たると、睡眠時間は細切れになって、とてもまとまった時間は眠れません。こうした場合は宿直勤務とはしないのが当然ではないかと思うのです。ところが東京都の職員は、「宿直」扱いのままで処理するよう指導したわけです。何のことはない、はっきり言ってしまえば、面倒な騒動を引き起こすパンドラの箱のふたを閉めて、違法行為を継続するように圧力をかけたということです。
東京都は目先の書類のつじつま合わせをすることが最優先なのでしょうか。医師の過重労働という本質的な問題については知らん顔を決め込み、睡眠不足による医療事故の誘発を抑えるという行政責任を果たすつもりも全くないようです。
<※睡眠時間を削ってでも受験勉強して医学部に合格してきているためか、文句を言いながらも耐え切ってしまうのでしょうね>
舛添大臣は圧力に負けずにパンドラの箱を開けられるか
では、今までと同じようにパンドラの箱は開けられないまま、「大人の解決」
として先送りされてしまうのでしょうか?
そう思った矢先の4月14日のことです。舛添要一厚生労働大臣が厚生労働委員会で、次のように答弁しました。
「(宿直規定を含めた医師の過重労働問題という)『パンドラの箱』を開けようとした時に、『閉めろ』という、ものすごい圧力がある。しかし、この問題は国民のためを考えて、きちんとやりたいと思う」パンドラの箱を開けてしまえば、時間外労働賃金を支払うことができずに倒産する病院や、そして当直医師を確保できないために救急医療を中止する病 院が
発生してしまうかもしれません。でも、いくら働いても残業代はつかないし、深夜勤務も宿直扱いで労働時間にはカウントされないという状況が改善されないままでは、じわじわと医療現場の荒廃が進むだけだと思うのです。
舛添大臣にはぜひとも「閉めろ」という圧力に負けずにパンドラの箱を開いて、政治でしかできないリーダーシップを発揮し、解決に当たってくれることを望みます。パンドラの箱から一番最後には「希望」が出てくるはずなのですから。
・・・・・・・・(転載ここまで)
>現実問題として医師の1カ月の平均勤務時間は約250時間です。とすると、残業時間だけで月平均90時間近 くになりま
す。
>その全部を支払っている病院はほとんど存在しないでしょう。所属長の権限で無難な残業時間(月20~30時間程度)のみを時間外労働として支払っている場合が大半なのではないかと思います。
>滋賀県立成人病センター(守山市)では医師の残業代を規定より少なく算定していたとして、県病院事業庁と幹部らが書>類送検されました。未払い残業代金の総額は合計で約6億円でした。
月平均90時間、週に換算すると、22時間、1日あたり、4時間。
一日12時間労働というわけですね。
医師の平均給与が年800万円、16ヶ月で割る(12ヶ月+賞与4か月分)と月収50万円。
冷静に考えると民間企業なら部長クラスですね。
> でも、支払うことができる病院はまだましな方です。ただでさえ医療費削減政策の下、2008年度調査では8割近くの>病院が赤字で、その平均赤字額は過去最大の100床あたり月1300万円に達している状況なのです。何億円にもおよぶ正>規の残業代金を支払う余力のある病院は少ないでしょう。
>しかしながら冒頭の愛育病院では、夜間救急対応に当たる医師たちを「宿直」勤務扱いにしていました。労働基準法に則>った「夜間勤務」としての処理をしていなかったのです。病院管理者は順当な訴訟と裁判がなされれば、刑事罰を受け
>ること必至でしょう。
>睡眠不足による医療事故の誘発を抑えるという行政責任を果たすつもりも全くないようです。
不思議なのは、こんな劣悪な環境であるにもかかわらず、未だに医学部を目指す子ども達が多く、医学部を目指させる親が多いことです。
単に社会的地位が高く、「俺は医者だぞ!」ならぬ
「息子は医者ですが何か?」「孫は医者ですが何か?」
な狂った親や家族を持つ子どもは気の毒です。
ですから、医学部を目指す=20代後半でいきなり部長待遇の仕事を目指す=医師を目指すのは狂気の沙汰以外にありません。
20代後半で病棟の看護婦全員部下になるわけですよ。
いきなり店長ですよ。
マネジメントできるわけがありません。
ですから、自分がやってしまうのでしょう。
リーダーシップも学ばず、マネジメントも学ばず、現場のリーダーになるのは本当に大変です。
こんな仕組みに放り込むことが親の愛だと、、相当親は洗脳されていますね、、、。
そしてやっと手に入れたと思った地位や資格も手に入れてわかることは、バックにいる製薬会社や医療機器メーカーの言いなり。
利益構造が、技術者に回っていかないように法律を作ったり、診療報酬制度を運用しています。
そもそも、彼らだけ暴利を貪り、医療関係者を地獄に突き落とすことが喜びとなっている人達ですから、さらに医療環境を悪化させたいと思っているに違いありません。
医療現場の労働環境を悪化させる⇒退職者が増える
⇒医療の質が下がる⇒医師不足となる
⇒医師養成機関が必要と世論を誘導する⇒医学部新設工事が必要となる
⇒財源が必要となるため増税できる
⇒ゼネコンが儲かる+政治家、文科省、厚労省他高級官僚が天下りできる。
というスパイラルです。
ですから、悪人たちは、「医療の質向上」や「国民の生命を守る」と口で言っているだけで、そんな気さらっさら無いんですね。
もっと国民を苦しめて、冷静な判断ができなくなり、現場医師を国民が攻撃する世論誘導をすることで、現場医師を盾にして隠れ蓑の影で自分達は国民の税金を関係機関、利益団体に誘導して山分けしているだけなのです。
ですから、医師は早い話、「健康不安」「生命不安」を餌に暴利を貪る悪人(暴力団、右翼)たちに、おこぼれを貰っているに過ぎず、フロントマンとして体よく利用されているのです。
単純ですが、この構造に築いても、医学部を卒業した医師は、一般社会には出て行こうとはしません。
医学部6年間で、医学以外のことをほとんど学んでいないし、世間からチヤホヤされすぎて、名誉やプライドを手放せないからではないでしょうか?
医学部に入った彼らは、医師の先輩以外には、不遜になり高慢な態度をとることを覚えさせられます。
なんとも可愛そうな人生ではないでしょうか?
話題が変わりますが、日本医療を最悪にしてきた人物が「聖路加看護大学理事長日野原重明医師」です。
・・・・・・・・(まず、癌治療の「早期発見・早期治療」などと銘打って、日本で初めて「人間ドッグ」を開設し、「予防治療」なるものを広めた立役者が、実は先日死んだばかりの「日野原重明」です。)
---------------------(以下、こちらから転載)
■訃報 日野原重明さん 105歳=医師
「元気に老いる」体現 命と平和訴え続け
100歳を超えて現役の医師として活躍し、「元気に老いる」を体現した聖路加国際病院名誉院長で文化勲章受章者の日野原重明(ひのはら・しげあき)さんが18日、呼吸不全のため死去した。
105歳。葬儀は病院葬として29日午後1時、東京都港区南青山2の33の20の青山葬儀所。喪主は長男明夫(あきお)さん。
1911年山口県生まれ。
京都帝大医学部卒業後、41年に聖路加国際病院に内科医として赴任し、2012年に聖路加看護大(現聖路加国際大)理事長の座を退くまで71年間、一線で働き続けた。
同病院名誉院長、同大名誉理事長に就任後も患者と言葉を交わしていた。
病院によると、日野原さんと話すことが患者の生きがいや喜びにつながっていたという。
早くから予防医学の重要性を説き、民間では初となる人間ドックを同病院に開設。
「生活習慣病」という言葉も生み出した。
一方で、「75歳以上」の人を「新老人」と名付け、00年には「新老人の会」を設立。老後の新しい生き方を提唱した。
東京大空襲でも診察に当たり、薬不足などで救えなかった経験から「命と平和の尊さ」を訴え続けた。
95年のオウム真理教による地下鉄サリン事件で病院長として陣頭指揮を執った。
---------------------(転載ここまで)
もし「人間ドッグ」が存在しなければ、日本人の多くが「癌」と診断されて、ムダに死ぬこともなかったでしょう。
ですから、多くの人々を「癌」に見せかけて殺してきた立役者の一人が、実はこの「日野原重明」だったのです。
マスコミは彼のことをいかにも人の良さそうな名医として報道していますが、調べれば調べるほど、この「日野原重明」は筋金入りの悪であり、イルミナティの最重要人物であることが明らかになってきました。
まず以下の記事を読んでみてください。少し長いですが、非常に重大な記事です。
---------------------(以下、こちらから転載)
■地下鉄サリン事件で日比谷線が最も多くの犠牲者を出したのはなぜか?
(1)3月20日に東京メトロ霞ヶ関駅で慰霊式を挙行するのは、「地下鉄サリン事件」と呼ばれる出来事の真相を隠蔽する為ではないか?
今年も3月20日に「地下鉄サリン事件」と呼ばれる出来事の慰霊式が東京メトロ霞ヶ関駅で挙行された。
TBSニュースバードや NHK総合では、「現場となった霞ヶ関駅」と言う言い方をしていた。
この言い方は間違いではないだろう。だけど、この言い方をいくつかの放送局がして、何より毎年霞ヶ関駅で慰霊式を挙行する事により、多くの人々は霞ヶ関駅が1番たくさんの被害者を出して1番悲惨な状況だったと誤解するようになっていないだろうか。
実は、地下鉄サリン事件で最も多くの被害者を出したのは、東京都中央区にある日比谷線の築地駅です!
○地下鉄サリン事件
築地駅は、後述する聖路加国際病院の最寄り駅です。
私には、3月20日に東京メトロ霞ヶ関駅で慰霊式を挙行するのは、「地下鉄サリン事件」と呼ばれる出来事の真相を隠蔽する為のように思えてならない。
(2)営団地下鉄<当時>霞ヶ関駅
オウムは強制捜査を妨害するために、警察庁のある霞ヶ関に通勤する警察幹部を狙って地下鉄にサリンを撒き、捜査を撹乱し、その間に証拠隠滅を狙っていたと言われている。
1995年3月20日は月曜日で、事件は平日朝のラッシュアワーのピーク時に発生した。
霞ヶ関の官公庁の公務員は、通常は午前9時30分頃に出勤することが多い<えっ、そんなに遅いの! 羨ましい!>。
しかし、月曜日だけは朝早くに朝礼があるところが多く、8時という早い時間を狙ったのはそういう官公庁の 内部を知っている者が犯人の中にいたからではないかと推測されている。
霞ヶ関の官公庁の公務員、取り分け、霞ヶ関に通勤する警察幹部を狙ったと言う点に着目すれば、確かに霞ヶ関駅は象徴的な駅には違いない。
(3)地下鉄霞ケ関駅から採取した毒物が入っているとされる容器を運び出す警視庁科学捜査研究所の職員が笑顔なのはなぜか?
↑画像:地下鉄霞ケ関駅から採取した毒物が入っているとされる容器を運び出す笑顔の警視庁科学捜査研究所の職員 1995年3月20日、東京・千代田区
多くの人々が倒れている状況で、多くの人々が倒れている状況の原因となった毒物が入っているとされる容器を運び出す時、笑顔でいられるものだろうか?
常識的に考えれば、笑顔は消え失せ緊張感に満ちあふれているのではないかと思われる。
それなのに、このリラックス感たっぷりの警視庁科学捜査研究所の職員の笑顔はいったい何を意味するのだろうか?
もしかしたら、中には毒物など入っていないのではないだろうか。笑顔の警視庁科学捜査研究所の職員は芝居を演じているのではないだろうか。
もっと踏み込んで書けば、自分達の計画が決行されている事に無上の喜びを感じているようにも見える。
(4)地下鉄サリン事件で日比谷線が最も多くの犠牲者を出したのはなぜか?
地下鉄サリン事件のターゲットにされたのは、丸ノ内線、日比谷線で各2編成、千代田線で1編成、計5編成の地下鉄車内だった。
↑画像 東京地下鉄路線図 1995年当時
地下鉄サリン事件で13名の方々が逝去された。その中で何と10名が日比谷線利用者であった。
○地下鉄サリン事件 – Wikipedia
その中で北千住7時43分発の日比谷線中目黒方面行きが8名の死者を出している。なぜ、突出して死者数が多いのか?
北千住発日比谷線は散布役の林泰男(現在は小池泰男)と送迎役の杉本繁郎が担当したとされている。
他の実行犯がサリン2パックを携帯したのに対し、林は3パックを携帯した。
また、3パックの内1パックが破損し、二重層のパックの内袋から外袋内にサリンが染み出ていた。
彼は北千住7時43分発の電車の3号車に上野駅から乗車した。
林は秋葉原駅で実行犯のうち最も多くの穴を開けサリンを散布したとされている。
以上がWikipediaなどから判る突出して死者数が多い理由である。
事件発生後の8時10分、日比谷線は複 数の駅で乗客が倒れ、また運転士から爆発事故との通報を受け、築地駅と神谷町駅に多くの緊急車両が送られた。
次第に被害が拡大したため営団は8時35分、 日比谷線の全列車の運転を見合わせ、列車・ホームにいた乗客を避難させた。一方で千代田線・丸ノ内線では不審物・刺激臭の通報のみで、更に被害発生の確認 が遅かったため、運行が継続された。
(5)なぜ林泰男だけ3パックを携帯し秋葉原駅で実行犯のうち最も多くの穴を開けたのか?
それは最初から実に広い収容スペースがある東京築地の聖路加国際病院に多数の犠牲者を収容するつもりだったからではないだろうか。
秋葉原駅で実行犯のうち最も多くの穴を開けたというのは絶妙である。こうする事により、悲惨な状況のピークになる頃、電車は聖路加国際病院の最寄り駅・築地駅に到着する。
(6)東京二十三区内で戦時中に全く爆撃がなく無被害だったエリア
ロックフェラー財団の寄付で建てられた図書館のある東京帝国大学付近。アメリカ聖公会の建てた聖路加国際病院付近。日本正教会のニコライ堂(東京復活大聖堂)と関連施設。
丸の内の第一生命館や明治生命館などがある地域などは、戦後統治に米軍が駐屯するために残してました。
金持ちが住む白金<しろがね>地区、谷中・根津・千駄木地区など。
空襲の標的になったのは主に貧乏な人々が多く住む下町で、ここは人口が密集しているために爆撃の効果が高い上、何より産業・経済の集積地だった。
1995年の阪神淡路大震災も、貧乏な人々が多く住むエリアが壊滅的な打撃を受けた。
多くの人々が不幸に陥る出来事があった際、金持ちは助かっている例が多い。
(7)聖路加国際病院
地下鉄サリン事件の時、大半の患者が運ばれた聖路加国際病院は、元米軍極東中央病院です。
病院名は、使徒パウロの協力者の一人であり、新約聖書の福音書の一つである『ルカによる福音書』の著者とされる聖人ルカの漢字表記に由来している。
1874年、東京・築地の外国人居留地に、スコットランド一致長老教会の宣教医師ヘンリー・フォールズが健康社築地病院を設立した。その後、築地近辺で転々と場所を移動した。
フォールズはこの地でエドワード・モースの弥生町遺跡発掘に協力する中で、土器に残された指紋に興味を持ち、指紋捜査法を発見した。エドワード・モースと申す人は、大森貝塚を発掘した事で有名です。
1902年: フォールズが帰国した後荒廃していた築地病院の建物を、米国聖公会の宣教医師ルドルフ・トイスラーが買い取り、聖路加病院とした。ロシア革命が起きた1917年に、聖路加国際病院と改称した。
1923年、関東大震災で病院が倒壊、入院患者80名を青山学院の寄宿舎に移送、後に仮設病院を建設して診療を継続した。新病院が完成後は、仮設病院は管理棟や看護専門学校(後の聖路加看護大学)として使用された。
1933年、 皇室・米国聖公会・米赤十字などの寄付により新病院再建(現在の旧館)された。
1943年、政府に「大東亜中央病院」という名称に改名させられた。特高警察がスパイの嫌疑で日野原重明氏や日野原氏の同僚を取り調べたり、特高警察が患者を装って病院に出入りし、「大東亜中央病院」を監視をしていた。
1945年: 当病院があることにより築地・明石町一帯はアメリカ軍機による東京大空襲の爆撃を免れた。
日本の敗戦後には旧称に復帰したが、日本を占領下においた連合国軍を構成する一員となったアメリカ軍に病院施設が接収されて米軍極東中央病院として使用されたため、現在の国立がんセンター中央病院がある場所に「聖路加築地分院」を開設して診療を行った。1955年、「本院」がアメリカ軍から返還され、現在 地に戻った。
(8)日野原重明 104年間の人生 PART1
↑画像 2015年11月1日実施「日野原重明先生 104歳 記念講演」のポスター
日野原重明氏は、1911年10月4日、山口県山口市湯田にある母の実家で生まれた。
(註・「湯田」という地名は、イエス・キリストを裏切った「イスカリオテのユダ」から来ているのでしょうか。)
6日後の10月10日、 清で武昌新軍が蜂起した。世に言う「辛亥革命」が始まったのだ。
前年の1910年、メキシコ革命が始まっていた。
メキシコ革命は、1877年以来メキシコ大統領の座にあったポルフィリオ・ディアス氏に対する反対運動として始まった。
日野原重明氏が生まれた翌月11月、継続中のメキシコ革命で、農民派のサパタ氏が蜂起した。
日野原重明氏が生まれた日本は、中国やメキシコとは真逆の動きが進展していた。革命的な動きを弾圧する動きである。
1910年に起きた大逆事件の裁判で幸徳秋水氏ら被告全24人に、大審院が死刑判決を下したのは1911年1月18日 であった。
さて、7歳で洗礼を受けた日野原重明氏は、731部隊の石井四郎が首席で卒業した京都帝国大学医学部を卒業後、1941年に聖路加国際病院の内科医となった。
1951年、聖路加国際病院内科医長に就任した。
1957年、石橋湛山首相が脳梗塞で倒れ入院した際、石橋首相の主治医を務めた。
(9)石橋湛山氏を首相の座から引きずり降ろしたのは誰か?
孫崎享(まごさきうける)氏の著書「アメリカに潰された政治家たち」で、アメリカと戦った12人の政治家の一人として評価されているのが、石橋湛山氏である。
石橋湛山氏は、首相就任後すぐ、不審な病に倒れ辞職した。
その後88歳まで生き、長生きであった。あの時の病はなんだったのか。薬物攻撃を受けたのではないかとも指摘されている。その説が正しいとすれば、誰が薬物攻撃をしたのか?
石橋湛山首相が脳梗塞で倒れ入院した際、石橋首相の主治医を務めたのがクリスチャンの日野原重明氏ですので、日野原重明氏の可能性が高い。
(10)よど号ハイジャック事件
1970年、日野原重明氏は、福岡での内科学会への途上によど号ハイジャック事件に遭い、韓国の金浦国際空港で解放された。
日本初のハイジャック事件ということもあり、犯行グループが「この飛行機は我々がハイジャックした」という犯行声明に対し、「ハイジャック」の意味を知らなかった日本人乗客の為に日野原重明氏は自ら手を挙げ、「ハイジャックとは飛行機を乗っ取って乗客を人質にすることです」と機内で説明した。
ハイジャック中に犯人グループから人質へ本が提供されたが、応じたのは日野原だけで、『カラマーゾフの兄弟』を借りた。
日本初のハイジャック事件で、この驚くべき落ち着き。事前に日本初のハイジャック事件が起きる事を知っていなければ、これだけの落ち着きは示せないのではないだろうか。
日野原氏以外は犯人グループから本を借りなかったと言う事実は、その時点において、日野原氏以外の搭乗客は不安におののいていた事を示すと思われる。
また、その事実は、日野原氏がよど号をハイジャックしたグループと通じていたのではないかという疑惑を深める。
犯人グループは赤軍派を名乗り、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に亡命する意思を示して同国に向かうよう要求し、よど号は福岡と大韓民国(韓国)の金浦国際空港を経由して朝鮮民主主義人民共和国の美林飛行場に到着した。
運航乗務員を除く乗員と乗客は福岡とソウルで解放されたものの、身代わりとなった運輸政務次官山村新治郎氏と運航乗務員、犯人グループはハイジャックされた機で北朝鮮に向かい、運輸政務次官山村氏と運航乗務員はその後帰国したものの、犯人グループは亡命した。
なお、犯人グループが亡命した北朝鮮が、本日<2016年3月21日>午後3時19~4時5分(日本時間同)の間に、咸鏡南道(ハムギョンナムド)咸興(ハムフン)南方から日本海に向けて短距離の飛翔体(ひしょうたい)を5発発射したと明らかにした。
(11)日野原重明氏 104年間の人生 PART2
1974年、聖路加国際病院を定年退職。聖路加看護大学学長(第4代)に就任(1998年迄)。
1992年に聖路加国際病院院長に就任(1996年迄)。 無給で院長を務めた。
1995年3月20日、地下鉄サリン事件が起きた。
院長であった日野原氏の判断により、事件後直ちに当日の全ての外来受診を休診にして被害者の受け入れを 無制限に実施し、同病院は被害者治療の拠点となり、朝のラッシュ時に起きたテロ事件でありながら、犠牲者を最少限に抑えることに繋がったと評価されている。
この病院の対応は、ペンタゴンをはじめ諸外国からも絶賛された。
○ペンタゴンの驚嘆 地下鉄サリン事件の聖路加国際病院
1996年、財団法人聖路加国際病院理事長に就任、院長を退任し聖路加国際病院名誉院長となった。
日野原氏は日本で最初に人間ドックを開設、早くから予防医学の重要性を説き終末期医療の普及にも尽くした。
従来は「成人病」と呼ばれていた一群の病気の名称を「生活習慣病」に改めたのも彼である。
2001年12月に出版した著書『生きかた上手』は120万部以上を売り上げた。
高齢者の希望の星的存在となっている。
保守思想を持ち、皇室を崇敬。度々皇室行事に招かれている。
新日本国憲法に勤皇奉仕義務を明記するよう求めている。
一方で、朝日新聞で執筆中のコラム「95歳の私 あるがまま行く」において、君が代に代わる新国歌の制定も提案した。
君が代に代わる新国歌の制定、私は賛成です。それにしても「勤皇奉仕義務」ですか、日野原さんってウルトラ右翼なんですね。「勤皇奉仕義務」、私は反対です。
でも、もしかしたら、日野原さんは似非右翼かもしれない。
私は高天原山事変の首謀者と指摘されている中曽根康弘氏も似非右翼ではないかと考えている。
日野原さんが似非右翼ではないかと考える理由は、よど号ハイジャック事件の犯人グループ<赤軍派>と通じている可能性があるからだ。
さて、日野原氏は100歳を超えてなおスケジュールは2、3年先まで一杯という多忙な日々を送っている。
乗り物でのわずかな移動時間も原稿執筆に使い、日々の睡眠時間は4時間半、週に1度は徹夜をするという生活だったが、96歳にして徹夜をやめ、睡眠を5時間に増やしたと言う。
日野原氏は少なくとも 110歳まで現役を続けることを目標にしていると語っている。
日野原重明氏は、日本の医師・医学博士であり、現在、一般財団法人聖路加 国際メディカルセンター理事長、聖路加国際病院名誉院長、上智大学日本グリーフケア研究所名誉所長、公益財団法人笹川記念保健協力財団名誉会長、一般財団 法人ライフ・プランニング・センター理事長、公益財団法人聖ルカ・ライフサイエンス研究所理事長などを務める。
(12)よど号ハイジャック事件のその後 【証拠湮滅】山村新治郎氏の娘は操られていたのか?
さて、よど号ハイジャック事件で身代わりとなった運輸政務次官<当時>山村新治郎氏は、宮崎勤事件が世間を騒がせていた1989年6月3日成立の宇野内閣(約2ヶ月の短命内閣)で運輸大臣を務めました。(同年8月10日まで=宮崎勤の自宅が捜索された日)
○地下鉄サリン事件、よど号事件と国立がんセンター、厚生労働省を繋ぐもの
1992年、山村新治郎氏は、自民党訪朝団団長として北朝鮮への訪問を翌日に控えた4月12日、自宅にて精神疾患を患った24歳の次女に出刃包丁で刺され殺害された。当時健在であった母の目の前での惨劇であった。
北朝鮮に訪問の際には22年ぶりによど号グループ首謀者の田宮高麿<社会主義者なのに貴族のような名前、まあ、本人が名付けたわけではないのですが。>と会う予定であった。
日本国憲法下で他殺された現職国会議員としては、浅沼稲次郎氏に続いて二人目(丹羽兵助氏を他殺に含めると三人目)。次女は引きこもりがちであったと言うが、茶道教室に通う等をしていた。
また、よど号事件の時、次女は2歳であったが、身代わり人質で有名になった新治郎氏を羽田空港で出迎えた。新治郎氏の選挙をよく手伝っていたことから、後援会関係者からは「次女を後継者に」と言う声も挙がる一方で、次女の精神疾患に気付く者はいなかったという。
次女は心神喪失により責任能力なしと判断され不起訴となるが、4年後に自殺している。
次女が自殺した前年、つまり、地下鉄サリン事件が起きた1995年の11月30日、田宮高麿が平壌で死亡したとされた。
当局は死因を心臓麻痺と発表した。
しかし、前日の29日に赤軍派議長だった塩見孝也が田宮に平壌駅で見送られており、死亡日前日まで田宮が元気であったことが確認されていることから、拉致 事件を追っているジャーナリストの多くが田宮の死に疑問を呈している。
(13)地下鉄サリン事件が起きる事を予期していたかのような聖路加国際病院の新病棟建設
日野原氏は東京大空襲の際に満足な医療が出来なかった経験から、「過剰投資ではないか」という批判を抑えて、大災害や戦争の際など大量被災者発生時にも機能出来る病棟として、広大なロビーや礼拝堂施設を備えた聖路加国際病院の新病棟を1992年に完成させた。
この備えは1995年の地下鉄サリン事件の際に遺憾なく発揮され、通常時の機能に対して広大すぎると非難されたロビー・礼拝堂施設は緊急応急処置場として機能した。
↑画像 運び込まれた聖路加国際病院の廊下で治療を待つ被害者たち (東京都中央区の同病院で) 1995年03月20日
(8)で記した通り、日野原氏は、1941年に聖路加国際病院の内科医となって以来現在に至る迄、聖路加国際病院と関わっている。
「東京大空襲の際に満足な医療が出来なかった経験から」と主張なさるのなら、なぜもっと早く大災害や戦争の際など大量被災者発生時にも機能出来る病棟の建設を提案なさらなかった のですか?
新病棟は、地下鉄サリン事件の3年前の1992年に完成した。
(11)で記した通り、日野原氏は、その1992年に聖路加国際病院院長に就任し、地下鉄サリン事件が起きた翌年の1996年院長を退任した。
日野原氏は、地下鉄サリン事件が起きる事が判っていて、地下鉄サリン事件に対応できる新病棟を建設し、1995年3月20日の地下鉄サリン事件に対応した翌年、使命を終えたと思い院長を退任したのではないだろうか。
事前に判っていれば、当日に入るかもしれかった手術は、他の日にずらす事も可能だし、当日、出勤する医師や看護師の数も事前にある程度増やしておく事が可能だっただろう。
何しろ、日野原氏は、院長なのだから。
---------------------(転載ここまで)
この記事を見ればお分かりの通り、「日野原重明」が「よど号ハイジャック事件」と「地下鉄サリン事件」に関与している可能性は大です。
というか、ここまで来ると、完全な「クロ」と言うしかありません。
彼は「よど号ハイジャック事件」と「地下鉄サリン事件」に関わった確信犯の一人なのです。
そして、このようなキナ臭い事件を起こして、多くの人々の命を見殺しにできるのであれば、病気にかかってもいない人たちを「人間ドッグ」に呼び寄せて大金をぼったくり、その挙句に「あなたは死の病にかかっています」と嘘の診断を下して、大量の治療費をぼったくることなど朝飯前でしょう。
そして、場合によっては「癌」と偽って、本当に人を殺してしまうわけですね。
・・・・・・・・(以上転載)
日野原医師が中心人物であったことは間違いないですね。
その日野原と関係があるのが、神奈川県知事の黒岩祐治です。
<黒岩祐治>
日本に予防医療を普及させた日野原重明さんが、18日、105歳で亡くなった。
家庭に血圧計を普及させ、人間ドックを考案し、「成人病」と呼ばれていた高血圧や高脂血症を「生活習慣病」と改名した日野原さん。終末期医療にも力を入れ、「後期高齢者」という呼び方を嫌って「新老人」と名付けた。
筆者は最近、終末期医療について取材を始め、日野原さんへインタビューしようと思っていた矢先の訃報に愕然とした。
しかし「報道2001」のディレクター時代に、キャスターだった黒岩祐治さん(現神奈川県知事)が日野原さんと懇意にしていたことを思い出し、日野原さんの功績や人柄を語ってもらった。
黒岩祐治 神奈川県知事
ーー黒岩知事は、日野原さんと長い付き合いですよね。
黒岩知事:
平成元年、28年前ですが、当時私は『FNNスーパータイム』の土日のキャスターをやっていました。番組では救急医療キャンペーンとして、救急車に医療がないのはおかしいじゃないかと訴えていましたが、当時医師会は絶対反対で、救急車に乗っているのは消防士じゃないかと、消防士に医療行為をさせるのは医師法違反だと。
これを突破するのはなかなか容易じゃないなと思っているときに、いろいろな識者にインタビューした中の1人が日野原重明先生でした。日野原さんの答えは実に明快でした。医者というものは技術をどんどん人に譲るべきだと。新しいものにどんどん挑戦するのが医者であると。だから救急車に医者が乗れるならいいけど、乗れないなら自分たちが教えて譲っていけばいいじゃないかと。凄く開明的な先生だなと思いました。
日野原さんとはそれがきっかけで、その後『感動の看護婦最前線』(※)という番組を始める際に、聖路加看護大学の理事長だった日野原さんに出演してもらおうと。日野原さんは快諾してくださって、スタジオのコメンテーターとして番組に参加してくださいました。
(※)フジテレビで92年から放送した医療ドキュメンタリーシリーズ。民間放送連盟賞を受賞。
ーー日野原さんは予防医療の普及に尽力されました。血圧測定が医療行為とみなされ、家庭で血圧を測ることができなかった当時、厚生省と交渉し血圧測定を認めさせました。神奈川県は『未病』改善に取り組んでいますが、日野原さんからの影響もありましたか?
黒岩知事:
日野原先生は多くのことにチャレンジされましたね。「成人病」といっていたのを「生活習慣病」に名前を変えられた。名前は非常に大事で、成人病と名付けると、成人になったら仕方ない病気なのかなというイメージになります。そうではなくて原因は生活習慣にあるということを皆さんに知らしめることが大事だと、日野原さんは生活習慣病という言い方をされました。病気になってから治療して治すのではなく、生活習慣から改善しないといけないよというメッセージですね。
いま神奈川県では「未病」として改善することが大事だと、そのために健康寿命を延ばすことが大事だと取り組んでいます。日野原先生の想いがつながっているということですね。
ーー人間ドックを発案したのも日野原さんですね。
黒岩知事:
病気になったら病院に行って、どれだけ悪い状態かデータを調べて、それから治療するというのが医療の世界でした。しかし人間ドックは、病気でない人が健診を受けて、異常を早期に発見する。これを広めていかれたのも日野原さんですね。
神奈川県では、ウエアラブル端末やセンサーによって得られるビックデータを、人工知能で処理し「見える化」するという「未病」改善を進めています。これは「ニューフロンティア」という取り組みですけど、原点はすべて日野原さんにあると思います。
ーー日野原さんは終末期医療にも力を入れてきました。
黒岩知事:
日野原さんが力を入れたのは、独立型ホスピス(※)です。神奈川県に作られて、普及にずいぶん尽力されました。日野原さんは、人間の最期はチューブにつながれ、医者は延命のために全力をそそぐというので本当にいいのか、最期は皆にありがとうと言いながら去っていくことが必要なんじゃないか、と訴えってきました。最期はいのちが輝くということだと教えてくださったのです。
(※)がんで積極的な治療の効果が見込めない患者に、質の高いケアと療養に適した生活の場を提供する病棟
皆を巻き込み、夢を実現していくパワーの持ち主だった
ーー『後期高齢者』という言葉を日野原さんはすごく嫌って、『新老人』という呼び方にしていましたね。
黒岩知事:
日野原さんは105歳で亡くなられましたが、105歳まで生きた人の生活はいったいどうだったのか、幅広くデータを集めていくことが大事だと。それで75歳以上を「新老人」と称して、その人たちに楽しく生きがいある場を提供するだけではなくて、データを集めていくという挑戦をされていたわけですよね。日野原さんは医学、医療を大きく変える革新的な役割をされた人ですね。
ーー日野原さんというと、少食で食事はビスケットとミルクだけとよく言われていましたが?
黒岩知事:
日野原さんは少食だったとよくメディアで取り上げられていましたが、私が付き合っている中では、番組の打ち上げでの食欲なんてすごかったですよ。メリハリ付けていられたのでしょうね。ふだんは少食だったのかもしれないけど、食べるとなるともうすごい食欲でした。肉なんて、80歳、90歳になってもバクバク食べていましたよ。小食だという部分がクローズアップされるのはちょっと違うなと私は思っていましたけどね(笑)。
ーー黒岩知事は日野原さんと一緒にミュージカル劇「葉っぱのフレディ」を行っていましたが、そもそもどういう経緯で、2人でやることになったのですか?
黒岩知事:
2000年、17年前ですが、当時88歳だった日野原さんが突然「僕はミュージカルやることになったので、黒岩さんも協力してくださいよ」と。「いいですよ」と言って別れたのですが、何を協力するかわからなくて、当時テレビのキャスターだったのでそのミュージカルの宣伝協力かなと思っていました。
ところが翌日、みらいななさんという女性から電話がかかってきて、「私は日野原先生がミュージカルにしようと思っている『葉っぱのフレディ』の翻訳者です」と。いろいろと聞いてみると、ミュージカルをやることだけが決まっていて、歌も何もなしで、日野原さんが自分で書いた流れみたいなものだけあると。さらに、「2000人が入るホールが取れました。公演は2か月半後です。日野原先生が楽しみにしているので、黒岩さん何とかなりませんか」と。
ーーはあ……
黒岩知事:
私は早稲田大学のミュージカル研究会出身で、プロになった仲間の公演をたまたま観に行って、その仲間にこういう話があると相談したら、鼻で笑われました。「ミュージカルって手間暇かかるでしょ。芝居だけじゃなくて、歌詞も作って曲も作って、歌を入れてダンスも入れて、普通の芝居の3倍手間かかるじゃないですか。そんなの2か月半で出来るわけない」と。しかし結局彼は「断れないですね。じゃあ、ちょっとやってみますか」と始めたのが立ち上げだったんです。その後は必死で台本や曲を作って、子役をオーディションで選んで、ぎりぎり間に合いました。奇跡が起きたのですね。
ーー日野原さんは黒岩知事に頼む際、大学のミュージカル研究会にいたのを知っていたのですか?
黒岩知事:
知らないのですよ。だから不思議なご縁だと。知らないのに何で僕にふってきたのかわかりません。公演終了後、日野原さんはとても喜んで、ご家族の方もこんなに嬉しそうな顔をしたことはないと。さらに日野原さんは、「黒岩さん、やればできるじゃないですか」と。無茶ブリもひどいもので(笑)。自分でやると決めたら、皆を巻き込むパワーはすごいなと思いました。そうしたら今度はNYに行くと言いだして。皆で必死にお金集めてNY公演も実現しました。
ーーそのパワーの源泉は、何なのでしょう?
黒岩知事:
日野原さんは当時から、神様と言うか、人間じゃなかったですね。皆を巻き込んで夢を実現していくというパワーは半端じゃなかった。だからあの人は、死なないと思っていました(笑)。日野原さんが90歳を過ぎたころに、「日野原先生、忙しいですね」と言ったら、「いやあ、忙しくってもう来年のスケジュールも全部入っているんだ」と。5年手帳でも足りなくなって、10年手帳も持ってきて、10年後の日程も入れていましたね。すごいですよ。最近の日程なんて10年前に入れたんじゃないですか(笑)。
ーーあの人のおかげでどれだけ我々の平均寿命が延びたかと。人間ドックがない時代があったなんて、今では信じられないですよね。
黒岩知事:
そうですね。我々が取り組んでいるのはまさにその進化形で、1年に1回だけ徹底的に検査するのではなくて、日常生活の中でデータをどんどん蓄積・解析することで未病を「見える化」して、健康な時間を長くしようと。まさに日野原さんからの流れを実現しようとしていると、つくづく感じますね。亡くなられたことは本当に残念です。歴史を作った人ですね。
・・・・・・・・・(転載ここまで)
黒岩知事の経歴はご存知の方が多いと思いますが、フジテレビで報道を担当しており、救急救命士や看護師夜勤の特集番組を担当しており、放送大賞などを受賞しております。
日野原が成人病を生活習慣病に変え、病気を早期発見、早期治療という「予防医療」というスタイルを確立したのに対して
黒岩がそれを引き継ぐ「未病」という考えを引き継いでいます。
・・・・・・・・(未病産業とは)
「未病」とは、健康と病気を2つの明確に分けられる概念として捉えるのではなく、心身の状態は健康と病気の間を連続的に変化するものと捉え、このすべての変化の過程を表す概念です。
神奈川県では、来る超高齢社会の到来に備え、この「未病の改善」と「最先端医療・最新技術の追求」という2つのアプローチを融合する「ヘルスケア・ニューフロンティア」の取組みを進めることにより、誰もが健康で長生きできる社会を目指しています。
未病産業とは
従来の予防・診断に加え、心身全体の状態を最適化する「未病の改善」に繋がる商品やサービス等、健やかに生きる「価値」を創造する産業を「未病産業」とし、神奈川県発の産業として確立していきます。
人の健康状態は、ここまでは健康、ここからは病気と明確に区分できるわけではなく、健康と病気の間で連続的に変化しており、その状態を「未病」といいます。
未病とは
「未病」を改善するには、特定の病気になってから治療するのではなく、将来のご自分のために、普段の生活において自分の心身の状態を把握していただくことが重要です。
「マイME-BYOカルテ」は、お薬や健康診断の結果、日々の体重・血圧・歩数、母子手帳の記録など、生涯にわたる様々な種類の健康情報を記録し、管理することができます。
・・・・・・・・(転載ここまで)
「人間は全員病気だ!」といっているように聴こえますが(笑
定期健診というかたちで積極的にかつ継続的に医療機関とかかわりなさいということですね。
そこで、癌を発見して癌治療に繋げるのでしょうか?
日野原の葬儀には日本財団のっトップが来ています。
・・・・・(日本の医学・医療の発展のために長年尽力し、7月18日に105歳で永眠した日野原重明氏(聖路加国際病院名誉院長、聖路加国際大学名誉学長)の葬送・告別式が7月29日、東京・港区の青山葬儀所で営まれた。)
告別式は「病院葬」の形で行われ、キリスト教式の葬送式に続き、聖路加国際病院院長の福井次矢氏と笹川記念保健協力財団最高顧問の紀伊國献三氏が「日野原先生との思い出」を語った。
福井氏は、プライマリケア・総合診療や予防医学の推進、「生活習慣病」の概念の提唱、ホスピス・緩和ケアの導入など、医療分野における日野原氏の数々の業績を挙げながら、「(日野原)先生の教えやご配慮によって、私と同様、医療の専門職業人として幸福な人生を歩んだ者の数は数え切れない」と涙ぐみ、紀伊國氏は「(日野原)先生の活動はきわめて広く、そのすべてを理解することはできない。人のやらないことをする好奇心と実行力にはいつも驚かされた。私は先生は革命家だと思っている」と述べた。
喪主を務めた長男の日野原明夫氏は「父が特に大切にしていた言葉、『出会い』『いのち』『愛』『ゆるし』を大切にしながら、私ども家族も生きていきたい。(父は)私たちに『ありがとう』の言葉を残しながら安らかに眠りについた」と述べ、参列者に感謝の意を表した。
葬送・告別式には、医療界、政財界の関係者や一般の高齢者など約4000人が参列。遺影に向かって白いカーネーションを手向け、別れを惜しんだ。式の前には日野原氏と深い親交があった皇后さまも訪れ、遺族らに対し「日野原先生は立派なお仕事をなさってくださいました」と慰めの言葉をかけられた。
・・・・・・・・・(転載ここまで)
今回、日野原重明は生活習慣病を作り出し、オムロンと連携して血圧計を普及し、定期健康診断を作り、早期発見早期治療という概念を制度化しました。
なぜか、日野原と右翼団体の日本財団は繋がりがあります。
その日野原と黒岩神奈川県知事がフジテレビ局員時代につながって、医療ルポの作品を作りました。
黒岩祐治は(「第3の森友学園」と言われている、高木邦格理事長率いる国際医療福祉大学グループの成田市国際医療福祉大医学部用地取得問題)にも教授という形で関わっている人物でAEDの普及にも一枚噛んでいる人物です。
次回、黒岩祐治(神奈川県知事)と救急救命との関わり、AEDと神奈川県との関わりについて書いていきたいと思います。
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