胸突坂をぐーんと登ると、左側に細川家の文化財を管理、保存、公開している『永青文庫』があります。
昭和30年代を思い出させる落ち着きのある建物は、もともと細川家の事務所で、昭和48年から博物館になったのだそうです。中には、アンドレ・マルローやグレース王妃が訪れた際の写真も展示されていました。入場料、10人以上の団体は¥500。
“黄庭堅”(こうていけん)という11世紀、宋時代の書家の「伏波神祠詩巻」(ふくはしんししかん/ 正しく文字を打つ事すら大変!)を展示していました。(あ~、やっと書けた

)
筆や、墨、硯なども展示されており、ふーん、こういう墨を、こういう硯で擦って、こういう濃い、太い、力強い『気』のこもった字が書かれているのかー、と納得させられます。
文字ひとつひとつは結構読めるのですが、要するに漢文ですから、正確にはちんぶんかんぶん・・。いえ、ちんぷんかんぷんです。

が、しかし、我々には『古文書解読』の伊藤一美先生という無敵の大家がついているので、あっと言う間に大意を教えて頂き、一同「へえ~!」と、トリビアとガッテンの押しボタンを叩きまくるのでした。
また、面白かったのは、巻物に、朱印がいくつも押してあって、代々の所有者の経緯が分かることでした。中には、10種以上もの朱印が押してある物もありました。大きさも2cm 角から7-8cm の物、円形、楕円など、デザインも色々です。
何世紀にも渡って、色々な人の手を経て、今日まで残されてきた文化財。公の博物館で見ると、創作された当初から博物館に在ったような、極あたりまえな感じがしてしまうのですが、「細川家のコレクション」というように、個人の所有物として見ると、その人手に渡った経緯まで想像したくなるから不思議です。
わざわざ人に見せたくなる“お宝”を所蔵しているというのはスゴイことです。さすが、細川家。お殿様です。そう、現在のご当主は、細川護煕さん。総理大臣をあっと言う間に止めてしまわれたお殿様です。でも、あの当時の費用を全部、ご自分が被り、その為に工芸品の陶芸をやっていらっしゃる話を聞いたことがあります。
敷地内の、新江戸川公演を少しのぞいてみて、この坂を下るとまた登って来るのが大変そうなのが分かって、諦めて、敷地内の喫茶店に入り、休憩。足を喜ばせました。
『永青文庫』の入り口へ、講師の土肥さんが飲み物券(一律¥600)を18人分、代表して買いに行って下さり、皆さんそれぞれ好きなドリンクを注文しました。
私は、写真の、細川護煕さんお手製の器で飲めるお抹茶を頂きました。“江戸茶碗”だそうです。お茶じたいも、器も、上品で軽やか。重たすぎない心地よい充実感にひたりました。
その隣にある『和敬塾』は細川家の本邸があった所で、村上春樹も過ごして「ノルウェーの森」の舞台になったと言われているそうですが、その前を通って目白通りに出て、今度は雑司ヶ谷の『鬼子母神』を目指します。
都電の踏切を渡って、けやきの巨木が並ぶ通りを行きます。この辺りの商店街の『鬼子母神』のオニの字は、自分の子を取られて悔い改め、オニではなくなった『鬼子母神』にちなんで、ツノが付かない、上のチョンが抜けたオニの字になっていました。もちろんパソコンでは変換できず。
『鬼子母神』境内は、大きな木が多く、落ち着いた雰囲気でした。夕方で人が少なかったこともありますが、静かに地元に根付いた、生きた信仰の聖地であることを感じました。
ススキの穂で作ったミミズクがお土産として有名だそうで、お店に立ち寄りました。それをお買いになった方が何人もいらっしゃいましたが、私は置き場所を考えて、竹の皮製のミミズクにしました。どーせ2枚目の写真はアップできないので、オマケ番外編で載せましょう。
5時をまわり、そろそろお腹も空いてきて、自然解散の時刻となりました。鬼子母神、雑司ヶ谷、と少しずつ人数が減りましたが、私は目白組に付いて行き、皇太子様御用達であったという中華飯店で、皆さんと懇親会に参加しました。
美味しく、愉しい一日でした。