最初にタイヤに携わったのは
19歳のころ
カーショップで働かせてもらい始めた時からですので
43年の歳月が過ぎてきました、
29歳からタイヤ屋をやろうと一念発起してからも33年が過ぎて
私の人生は 主にタイヤとともに歩んできたことになります。
カーショップの仕事に行き詰まりを感じたのか
八方塞がりな心境に陥ってしまって仕事を辞めてしまいました。
それで田舎に帰って
毎日鮎釣り三昧の生活を送っていたのです。
そのお陰で無心になれたのが良かったのか
心のもやもやが晴れてきたとき
或る時 突然「タイヤ屋が出来るのではないか」という思いが
ふつふつと湧きあがったのです。
その思いを秘めて
また岐阜へ出てきて
「タイヤ屋が実現できる方法=場所探し」の為
知り合いの建築会社さんで アルバイトをしながら探す道を進み始めました。
あっちこっちの現場へ行くので
どこかで貸店舗などの情報に触れやすいと思ったのです。
そんな生活を繰り返すうち
岐阜にいた小学校の友達から連絡があり
「タイヤ屋の場所を探しているなら県庁前の有力者を紹介するので一緒に行こう」と言って
当時の市橋農協へ連れられていって
上松忍組合長とお会いすることが出来ました。
すると 私の話を聞いてくださって 力になる約束をしてくださいました。
後日 計画書・企画書を届けて 再度お願いに上がったのです。
そして半年ぐらいたってから
手ごろな小さな土地がある。といって連絡があり
一緒に地主様に お願いに行ってくださいました。
そして 「これからは若い人の時代屋で何とか貸したってくれ。」と
地主様に頭を下げて頼んでくださいました。
たった3回ほど会っただけなのに・・・・・・ありがたいことです。
左 私 真ん中 故上松組合長 右 伊藤様I(地主様) 地鎮祭当日
上松組合長に見ていただいた計画書
恩人の組合長に
最後にお会いしたのは4年ほど前
岐阜市議会議員選挙に
市橋地区から立候補された浅野マサキ候補(現議員)の選挙に応援を依頼しに来られた時です。
その時は まだお元気でしたが
先週 上松組合長の訃報に接し ふつふつと感謝の念が沸き上がってきました。
「若い者の時代やで力を貸してやって欲しい」
一生忘れることがない言葉です。
次は私が 次世代の若者の力になる番です。
「恩は遠くから返せ」
小さなタイヤ屋が実現し その後今まで存続できているのは
まさに組合長が井戸を掘ってくださったお陰なのです。
出会いの運と 場所の運 時の運 1987年の出会いは・・・・感謝するのみです!
ありがたすぎて言葉も出ません!