※挿絵: 賈母受大家的礼
前回は、春節前の年越しの行事として、12月8日の“臘八節”から、恩賞の銀子の受け取り、祖先を祭る宗廟の礼拝の様子などについて述べていましたが、次には皆のお楽しみ、“圧歳銭”、お年玉が待っています。《紅楼夢》の中での春節の行事の風景について、見ていきます。
■[1]
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・荷包 he2bao1 昔の中国服にはポケットが付いていなかったので、様々な形のポシェットを肩から掛け、その中に細々とした小物を入れて携帯した。絹の布地で作られ、色や形は様々で、刺繍などで飾り付けたものも多い。
□ 若い人たちにとって、年越しはこの上なく幸福である。それはただ、年長の人たちがお年玉をくれるからである。では、賈府の中ではどのようであるのだろうか。
ご隠居様は宗廟から出て来ると、先ず寧国府へ行って、皆の挨拶を受けた。なぜなら彼女の世代の老人の中では、彼女が代表で、長幼の順が一番だからである。それゆえ、彼女に寧国府に来てもらい、屋敷の中で座ってもらい、一族の人々の、ひざまずいて地に頭をつける礼を受けた。一人ずつやって来て、挨拶が済むと、今度はご隠居様から、お年玉を渡し、荷包を渡した。
■[2]
・寒門小戸 han2men2 xiao3hu4 “寒門”も“小戸”も「貧しい家」の意味。
・前儿 qian2r (=前天)おととい。一昨日。
・[金果]ke4 昔、貨幣として使用された、金や銀の小さな塊。
・磕頭 ke1tou2 ぬかずく。頭を地面につけて拝礼する。
・奢靡 she1mi3 贅沢三昧
□ お年玉は、今日もまだ有り、赤い紙袋に、お金を入れて、挨拶をしてから、年長者が年少者に手渡す。現在、次第に“利市”という呼び名に変わっている。会社でも渡すし、プライベートでも渡すし、正月にお年玉を渡すのは、皆がよく知っている行事となっている。
当時のお年玉は、現在とは少し異なり、第一にそれは正月の一日に渡すのではなく、大晦日に渡し、年越しの時に渡した。どれだけの金額を渡したか。貧しい家では、普通、渡す金額はたいへん少なく、形ばかりのものだった。賈府のような貴族、諸侯の家では、その様子は全く違ったものであった。
どれだけの金額を渡すのか。《紅楼夢》53回を見てみよう。賈珍と尤氏が部屋で座っていると、召使の女がお盆を捧げ持って入って来て、こう報告した。興儿からお盆を持って行くように言われました。また興儿の話を告げた。おととい、153両6銭7分の金の粒を型に入れて、220個の金の塊を作りました。
“傾”とは、型に入れて、一個一個の小さな塊の金を作ることである。金の塊はどれくらいの大きさか。一般には一両(50グラム)以下である。153両6銭7分の金の粒を型に入れて、220個の金の塊を作ったのだから、計算するとだいたい1個が7銭(約35グラム)である。それを捧げ持って来た。尤氏が受け取って見てみると、梅の花の形のもの、ハスの花の形のもの、如意の形のもの、八宝連春(仏法での八種類の宝物の図案を連ねたもの)の形など、様々な形の小さな金の塊であった。これを何に使うのか。大晦日の日に、お年玉として配るのである。
賈府でお年玉を配る時は、金の塊を配った。1個が7銭の重さである。7銭の重さの金の塊はどれくらいの金額に相当するのだろうか。烏進孝が地租を納める時、賈蓉と少し話をしているが、その中でお妃さまが年越しをされる時は、最高で百両の金をお渡しになるが、それは銀千両余りに相当する。金と銀の交換レートは、変化が大きい。最も古くは1:5で、後に1:10、嘗ては1:30、1:50で交換したこともある。いわゆる“換”というのは、銀何両を金1両と交換するかということである。曹雪芹の時代には、当時の物価からみて、だいたい金1両が銀数十両と交換された。
私たちは劉ばあさんが言った次の話を参考にすることができる:「あんたがたのお屋敷では、蟹(上海ガニ)を一回食べるのに、20両の銀子を使われる。銀子20両といえば、私たち農家の者が一年暮らしていける。」それなら、7銭の金は、だいたい銀10両くらいなので、つまり、お年玉で渡される一個の金の塊は、劉ばあさんのような家では、半年分の生活費に相当する。
ましてや、中にはもらえるお年玉が、一個の金の塊に止まらない人もいた。例えば、賈宝玉は、新年の挨拶の時は、全ての年長者に対し、額を地面につけて拝礼し、彼らは皆お年玉をくれるので、一人賈のご隠居様に止まらない。もし宝玉のような人物に金の塊をあげないなら、他に誰に渡すというのか。賈宝玉がもらえるお年玉は、きっとたいへん多いに違いない。具体的にはどれくらいもらえるのか。紅楼夢の中では書かれていないが、私たちはこう想像すればよい。彼はどれくらいの年齢の世代か。彼が額を地面につけて拝礼しなければならない相手は何人いるか。毎回、無駄に頭を下げる訳ではない。しかもこれは寧国府だけの話であって、栄国府の分はまだ勘定に入れていない。
次に、尤氏はまだこう言っている:前に言ったあの銀の塊を、あの人に言いつけて早く配ってくださいな。どうです、まだ銀の塊がある。つまり、お年玉を配るのには、ランクが分かれていて、どのような人は、金の塊を配り、どのような人は、銀の塊を配るかの別がある。
賈府で配られるお年玉から、こうした貴族、諸侯の家の贅沢な生活が見て取れる。年越しの、一年に一回のこととはいえ、これはたいへんなことだ。
■[3]
・博大精深 bo2da4 jing1shen1 学問などが幅広くて深いこと。
・可見一斑 ke3jian4 yi1ban1 一端が垣間見られる。→本来の成語は、“管中窺豹kui1bao4,可見一斑”管を通してヒョウを見ても、斑紋の一部は見ることができる。(そこから転じて)見方が狭くても、およその見当はつく。前句、後句それぞれ単独でも、同じ意味で用いられる。
・登峰造極 deng1feng1 zao4ji2 [成語]学問や技能が最高潮に達する。
・経意 jing1yi4 注意する。
□ 中国文化は非常に幅広くて中身が深く、非常に具体的な物にそれが現れる。お正月に人々が身に付ける装飾品での、その一端が垣間見られる。我が国の古代の男女は、荷包(小さなポシェット)を身に付ける習慣があった。それが清朝になって、最高潮に達した。上は皇族百官から下は平民大衆に至るまで、皆が精緻に作った荷包を身に付けた。荷包は一般に祝い事の時に、贈り物として親しい友人に贈られた。或いは男女が愛し合い、婚約をしたしるしとなった。それでは、小さな荷包の中にどのような伝説や物語、深い寓意が含まれるのだろうか。
紅楼夢という本は、わざとその王朝や年代、地方や国を、ぼやかせた。これはその芸術的な意向に則らせるためである。けれども、しばしば注意しないうちに、その時代の情報が漏れ出す。荷包もその一例である。なぜなら荷包が広く使われるのは、清代に於いてであり、清朝以前は、荷包はめったに使われなかった。
■[4]
・華佗、或いは華陀 hua2 tuo2 後漢末、魏初の名医。字は元化。麻沸散(麻酔薬)による外科手術、五禽戯と称する体操などを始める。曹操の侍医となったが、後殺された。
・孫思邈 sun simiao3 581(西魏大統7年)~682(唐永淳元年)京兆華原(現在の陝西省耀県)の人。一生を漢方薬の研究に充て、峨嵋山や終南山で薬草の採集を行いつつ、臨床試験を行った。中国で系統的な漢方研究した先駆者。
・守歳 shou3sui4 大晦日の夜、寝ずに年越しをする。
・総而言之 zong3 er2 yan2zhi1 [成語]要するに。
・討口彩 tao3 kou3cai3 “口彩”は縁起の良いことば。“討口彩”で、縁起の良いことばを追い求める。
□ ご隠居様は新年の挨拶を受けた後、家族が集まり宴会が始まる。宴会では、一つ一つの料理について細かくは紹介しないが、いくつかの特別なものについて見てみよう。その中で、最も特別なものは、“屠蘇酒”と呼ばれる。“屠蘇酒”とは何か。
北宋の王安石に一つの詩があり、こう言っている:「爆竹の音の中の今年の大晦日、春風が温かい風を屠蘇に吹き入れる。」嘗ては年越しの時、どの家でも屠蘇を飲んだ。これは一種の薬酒で、華佗が処方したものである。後に、孫思邈がそれを伝え、今日でもこの処方が存在する。
年越しの前に、この薬を調剤して布で包み、井戸の中に吊るしておく。大晦日に、取り出して、これを酒に漬ける。大晦日が過ぎ、年越しの食事の時、家中の老いも若きも皆が飲む。これは邪気を払い、不浄を遠ざけ、百病に罹らぬよう、予防的な意味もあるものである。これは儀礼上の意味だけでなく、一種の健康保険食品であった。
この酒を飲む時、飲み方も特別であった。一般に家の中では老幼の順序があり、酒を飲む時は、年長者が先に飲み、年配の人を敬った。屠蘇酒はしかしこれと異なり、年齢の最も小さい者から飲み始め、長幼の順序の最低の者が先に飲んだ。
蘇東坡にそれにちなんだ詩があり、毎年最後に屠蘇を飲んだ、と言っている。年齢が高いと、毎年の年越しで、いつも屠蘇酒を飲むのが一番最後であった。彼の弟の蘇轍にも詩があり、最後に都市を飲むのを辞せずと言っている。これも年齢が高いから、屠蘇酒を飲むのが最後であったと言う。
爆竹の音の中、大晦日を迎え、年越しは寝ないで過ごすのは、賈家も例外でなく、一家団欒して、屠蘇酒を飲み、“合歓湯”を飲み、“吉祥果”も有り、“如意糕”も有りで、しかしこれらのものがいったい何であったのかは、もはや考証しようが無い。要するに、皆縁起を担いだ食品である。
これらのものを食べ終わった後も、まだたくさんの行事が有り、先ず爆竹を鳴らす。これは紅楼夢第54回で書かれていて、パチパチと爆竹が鳴ると、林黛玉は体が弱いので、ご隠居様は林黛玉を胸の中に抱きしめた。賈宝玉、史湘去、薛宝釵も大人達に抱きしめられていた。この時、王煕鳳が言った:私だけ誰も抱いてくれないのね。王煕鳳という人はたいへん可愛らしい人で、時にはチャンスがあると可笑しなことを言って、皆を楽しませてくれる。尤氏はこう言った:よしよし、私があなたを抱いてあげるわ。
これは紅楼夢の中の、爆竹を鳴らす時のたいへん心温まる場面である。これは大晦日の晩に、賈府の中の寧国府と栄国府で起こった一連のお話である。
そしてここから見て取れるのは、中国の伝統的な節句である春節は、いつ如何なる場所でも、当時の人にとって厳粛なものであり、私たちにとっても、紅楼夢のこの一節の描写は同様に研究する価値のあるもので、それは我が国の古代、とりわけ清代に、裕福な家の風習がどのようであったかについて、充分な描写である。同時に、裕福な家と貧しい家の生活との間には、大きな格差があったのである。
(次回に続く)
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紅楼夢第53回寧国府過年祭宗廟
春節、端午節、中秋節という中国の伝統的な節句は、人々の生活に深く根ざしたもので、今日でも季節の節目としてこれらの節句を過ごしますし、様々な伝統行事が行われています。
清代の小説《紅楼夢》の中では、旧時代の上流階級の人々が、これらの節句をどのように過ごしていたかが書かれています。
この《紅楼夢》の中で描かれた伝統節句というテーマで、中国中央電視台の人気番組、《百家講壇》の中で周嶺という方がお話をされています。この《紅楼夢中的節日》の文章版が、《百度文庫》に収められていました。今回から数回に分け、この内容について、見ていきたいと思います。
周嶺(1950~)は、中国科技財富雑誌社社長、南海石油控股有限公司董事局主席という実業家として活躍していると共に、《紅楼夢》研究、いわゆる紅学の学者でもあります。
■[1]
《红楼梦》中描写的节日有许多,如端午,元宵,中秋等,都是中国的传统节日。然而其中曹雪芹给予重中之重的描写的仍是春节。而我本次研究的正是这传承文化。
首先,先来看看春节。
根据周汝昌先生《红楼纪历》,红楼梦前八十回的故事,发生在十五年的时间段里。其中第十三年,占的篇幅最多,从十八回后半到五十三回,前后跨了三十五回,差不多将近八十回的一半。
十八回的后半讲的是贾元春省亲,五十三回就说到,又到一年的年尾了。既然写的是十五年当中的故事,一定是过了十五个年。十五个年,大部分都是略写的,详细写过年,写得最多的是五十三回到五十四回,也就是第十三年的年尾,到十四年的年初。
五十三回,一开始就讲,王夫人和凤姐在忙年事。接着,就是贾珍看着丫头,仆妇,小厮,抬供桌,洗供器,开祠堂,打扫房屋,准备祖宗的遗真影像,准备过年了。
过去过年,和今天过年的说法,略有不同。在中国,过年这个庆祝活动,已经有四千多年的历史了。但是,称做春节,大概只有近百年的事。过去也有春节这个说法,但这个春节指的是立春,不是大年初一,不是这一段节庆的时间。
・周汝昌 1918年4月14日——2012年5月31日。紅楼夢研究の第一人者だった。
・省親 xǐngqīn 帰省する。里帰りする。
・鳳姐 fèngjiě 王熙鳳のこと。賈璉の妻。
[和訳]《紅楼夢》中で描写された節句はたいへん多く、端午、元宵、中秋などは、皆中国の伝統の節句である。しかしその中で曹雪芹がとりわけ重視して描いたのはやはり春節である。そして私が今回研究したのも正にこうした伝統的に継承された文化である。
先ず、春節を見てみよう。
周汝昌先生の《紅楼紀歴》によれば、《紅楼夢》の前半80回の物語は、15年の時間の間に起こったことである。そのうち13年目が、割かれた紙面が最も多く、18回後半から53回まで、前後35回を跨り、80回のほぼ半分近くを占める。
18回の後半で述べているのは、賈元春の里帰りで、53回まで来て、また一年の終わりの話になるのである。15年の間の出来事を書いている以上、15年が経ったのは間違いない。15年の間、大部分が簡略に書かれていて、年越しのことが詳しく書かれているのは、最も多く書かれているのは53回から54回までで、つまり13年目の年末から14年目の年初について書かれている。
53回は、最初から、王夫人と熙鳳が年越しの準備をする話である。続いて、賈珍が若い女中、年かさの女中、小僧に会い、供物台を運び、お供えの器を洗い、祠堂を開けて、お堂の掃除をし、祖先の遺影を準備し、年越しの準備をした。
昔の年越しは、今日の年越しのやり方とは、いささか異なる。中国では、年越しという節句の行事には、4千年余りの歴史がある。しかし、それを春節と称するのは、おおよそここ百年の事に過ぎない。過去にも春節という言い方はあったが、それは立春のことを言い、農歴の1月1日ではなく、この日を中心とする祝日のことではない。
■[2]
过年,过春节,第一件要做的事情,就是忙年。过去中国是一个农耕国家,是一个农耕社会。到了冬天,进入农闲,曹操有诗说:孟冬十月,锥不入地,流澌浮漂。意思就是说,这个时候地也冻了,水也冻了,所有的农具都收起来了,农活都干完了,劳累了一年,收成也上来了,猎物也收到家里来了,因此,大部分时间,大家都在忙于庆祝和休息,久而久之,就形成了一个非常特殊的民间习俗。就是选择一段时间,大举庆祝一下,要庆祝,就要准备庆祝活动所需要的东西,发展到后来,就变成了“忙年”。
忙年,要忙很多天,基本上入了腊月,忙年就开始了。所以,红楼梦里,进入腊月以后开始忙年,正是反映了这样一个久远的风俗。
农历腊月里,最重大的节日之一,就是十二月初八,这一天,在古代被称为“腊日”,俗称“腊八节”。而这一点在第十九回有着记录,其所记配方:各色米豆加五种菜果(红枣、栗子、花生、菱角、香芋)。而香芋则另比“香玉”,代指林黛玉。由贾宝玉的一个故事引出。这一点记载和我们现在的腊八粥存在差别。所以从这之中也可发现在当时同样有吃腊八粥过节的习俗。那么过完腊八之后就要开始忙年了,俗话说“二十三糖瓜粘,二十四扫房子”其中的“糖瓜粘”就是祭灶。
出这两项主要活动以外还有采买年货等活动,而在红楼梦中还有两项曹雪芹着重进行了描写。一种是恩赏银子。他们家是世袭的官,因为祖上有功,所以有银子可领。于是在五十三回中就有了贾蓉去领银子的一段。即以下一部分:
・孟冬 mèngdōng 旧暦10月。“孟”は季節の最初の月のことを言った。
・澌 sī 尽きる
・浮漂 fúpiāo 浮かび漂う。
[和訳] 年越し、つまり春節を過ごすのに、第一にやらないといけないことは、年越しの行事である。嘗て中国は農耕国家であり、農耕社会であった。冬になると、農閑期になり、曹操の詩に言う:「旧暦の10月は、寒さで錐も地面に突き刺さらず、川の流れは尽きて、氷が浮かび漂う。」その意味は、この季節には、地面も凍り、水も凍ってしまうということ。全ての農具を片づけ、農業の仕事は全てやり終え、一年間がんばったので、収穫も上げることができ、猟で得た獲物も家に持ち帰った。したがって、大部分の時間を、皆が収穫のお祝いと休息に使った。長い年月のうちに、特別な民間の風習が形成された。つまり、ある一定の時期を選んで、大勢でお祝いをした。お祝いをするには、お祝いに必要な物を準備しなければならなくなり、それが発展して、後に“忙年”、つまり年越しの準備となった。
“忙年”とは、何日も忙しくしなければならず、基本的に12月に入ると、年越しの準備が始まった。したがって、《紅楼夢》では、旧暦の12月に入ると年越しの準備が始まり、正にこのような古くからの風俗が反映されているのである。
農歴の12月で、最も重要な祝日の一つは、12月8日であり、この日のことを、昔は“臘日”と言い、俗に“臘八節”と言った。この点については第19回に記載があり、“臘八粥”の材料を記してある:様々な米や豆に五種類の木の実(干しナツメ、栗、ピーナツ、菱の実、サトイモ)を加えた。“香芋”(サトイモ)は“香玉”と音が同じで、林黛玉のことを指す。賈宝玉が話したお話から引用されている。この記載は現在の臘八粥とは違いがあるが、この話の中から、当時も同様に臘八粥を食べて節句を祝う風習があったことが分かる。“臘八”が過ぎると年越しの準備が始まり、俗に「23日には糖瓜(麦芽糖で作った瓜型の飴)を竈に貼り付け、24日には部屋を掃除する」と言う。このうち、“糖瓜粘”(糖瓜を竈に貼る)とは、竈の神様をお祭りすることである。
これら二つの主要な行事以外に年越し用の品物を買う仕事があり、《紅楼夢》では更に二つの事を曹雪芹が重点的に描いている。一つは恩賞の銀子である。彼らの家は世襲の官吏であり、祖先に功績があったため、銀子を受け取ることができた。第53回に、賈蓉が銀子を受け取りに行く場面がある。それは、次の一節である:
■[3]
一时贾珍进来吃饭,贾蓉之妻回避了。贾珍因问尤氏:“咱们春祭的恩赏可领了不曾?”尤氏道:“今儿我打发蓉儿关去了。”贾珍道:“咱们家虽不等这几两银子使,多少是皇上天恩。早关了来,给那边老太太见过,置了祖宗的供,上领皇上的恩,下则是托祖宗的福。咱们那怕用一万银子供祖宗,到底不如这个又体面,又是沾恩锡福的。除咱们这样一二家之外,那些世袭穷官儿家,若不仗着这银子,拿什么上供过年?真正皇恩浩大,想的周到。”尤氏道:“正是这话。”二人正说着,只见人回:“哥儿来了”。贾珍便命叫他进来。只见贾蓉捧了一个小黄布口袋进来。贾珍道:“怎么去了这一日。”贾蓉陪笑回说:“今儿不在礼部关领,又分在光禄寺库上,因又到了光禄寺才领了下来。光禄寺的官儿们都说问父亲好,多日不见,都着实想念。”贾珍笑道:“他们那里是想我。这又到了年下了,不是想我的东西,就是想我的戏酒了。”一面说,一面瞧那黄布口袋,上有印就是“皇恩永锡”四个大字,那一边又有礼部祠祭司的印记,又写着一行小字,道是“宁国公贾演荣国公贾源恩赐永远春祭赏共二分,净折银若干两,某年月日龙禁尉候补侍卫贾蓉当堂领讫,值年寺丞某人”,下面一个朱笔花押。贾珍吃过饭,盥漱毕,换了靴帽,命贾蓉捧着银子跟了来,回过贾母王夫人,又至这边回过贾赦邢夫人,方回家去,取出银子,命将口袋向宗祠大炉内焚了。
[和訳] ある時、賈珍が入って来て食事をしたが、賈蓉の妻は席をはずした。賈珍はそれで妻の尤氏に尋ねた:「私たちは正月の恩賞はもらえるのだろうか?」尤氏は言った:「今日、私は蓉ちゃんに受け取りに行ってもらいました。」賈珍は言った:「我が家はこの幾ばくかの銀子を当てにするまでもないが、どれだけ今上陛下の御恩を受けたかということだ。早々に受け取って来て、あちらのご隠居様にお目にかかり、ご先祖様にお供えをすれば、上には帝の御恩を賜り、下にはご先祖様に感謝申し上げたことになる。私たちがよしんば一万の銀子をご先祖にお供えしたとしても、結局これほど体面が保て、御恩を被り幸福を賜ったことにはならない。けれども私たちのような数軒の家を除いて、ああいう世襲の貧乏役人の家では、この銀子を当てにしないと、どうやって年越しをすることができるだろう。本当に帝の御恩は大きく、よくお心遣いがなされたことよ。」尤氏は言った:「本当にその通りで。」二人がこう話をしていると、「お坊ちゃまがお戻りになりました。」と取り次ぎの者が言った。賈珍はそれでこちらに来るよう言いつけた。賈蓉は黄色い布の袋を捧げ持って入って来た。賈珍は言った:「今日はどのような案配であったか?」賈蓉は作り笑いをして言った:「今日は礼部ではお配りにならず、光禄寺の庫裏でお配りになるというので、また光禄寺に行ってようやく受け取ることができました。光禄寺のお役人方は皆、父上によろしく、しばらくお会いしていないので、本当にお会いしたいとのことでした。」賈珍は笑って言った:「あの者達がどうして私のことを思うものか。年末になったので、私から贈り物を期待しているか、さもなければ酒を飲ませてほしいのさ。」そう言いながら、その黄色い布袋を見ると、その上には“皇恩永錫”(帝の恩を永遠に賜う)の四文字が印刷され、その一方の端には礼部祠祭司の印があり、また小さな文字でこう書かれていた:「寧国公・賈演、栄国公・賈源には、永遠に春祭に全部で二分、銀に換算して若干両を恩賜し、某年月日に龍禁尉候補侍衛、賈蓉が代理で受け取った。本年当番の寺丞、某人」その下に朱筆で花押がなされていた。賈珍は食事を済ませ、口を漱ぐと、靴と帽子を着替え、賈蓉に命じて銀子を捧げ持ってついて来させ、ご隠居様と王夫人のところへ行き、更に賈赦と邢夫人のところへ行き、それから家へ帰ると、銀子を取り出し、布袋を宗祠(祖廟)の竈で燃やすよう命じた。
■[4]
第二项,田庄交租。这一段在之后的乌尽孝交租中有一段描写,并且这租还很多,一大长串的礼品单看的让人眼花。而其中二者的对话可以看出一点曹雪芹的隐笔就是有雹灾,涝灾,让佃户都很贫困了,但是还要送上这么一大堆东西,两千五百两银子,外加给这些哥儿姐儿的活物,那么这个年佃户是怎样过的?大家可想而知。而这也是他想要表达的“朱门酒肉臭,路有冻死骨”的思想。从中也可以看出这些达官显贵和一般的贫苦小民比较起来,悬殊是如此之大。
那么贾府这样的家庭又是如何过这个年的呢?至次日,更比往日忙,都不必细说。已到了腊月二十九日了,各色齐备,两府中都换了门神,联对,挂牌,新油了桃符,焕然一新。中国人历来就有过除夕祭祖的习俗,一来为了纪念祖先,二来则是祈求祖宗保佑子孙平安等等,那么对于贾府这样的大户达官显贵人家,又是如何祭祖的呢?那么贾府的祭祖地方在哪呢?宁国府从大门、仪门、大厅、暖阁、内厅、内三门、内仪门并内塞门,直到正堂,一路正门大开,两边阶下一色朱红大高照,点的两条金龙一般。
・田庄 tiánzhuāng 昔、官僚や地主が農村で所有していた畑や庄園。小作人に耕作させて、地租を取る。
・佃戸 diànhù 小作人
・朱門 zhūmén 朱塗りの門。金持ちの家。
・桃符 táofú 昔、新年に表門の左右二枚の扉の真ん中に掲げた桃の木の板で、上にはそれぞれ、神荼shēnshū、郁塁yùlǜという名の神様が描かれていた。
桃符
・煥然一新 huànrányīxīn 面目を一新する。“煥然”はめざましいさま。
・暖閣 nuǎngé 昔の屋敷で暖房の効率を良くするため、広い部屋の中を仕切って作った部屋。
[和訳] (年越しの行事で)二番目にやらなければならないのは、田畑からの地租の徴収である。この部分は、この後、烏尽孝が地租を納めるところで一連の描写があるが、しかもこの地租はたいへん重く、長大な贈り物のリストには、見る者は目を回す。その中の二人の対話から、曹雪芹は暗に雹の被害や、水害で、小作人はたいへん困窮していることを描いていることが分かる。その上にたくさんの贈り物や、2500両の銀子をしなければならず、更に息子や娘を人身御供として差し出し、小作人達はどうやって暮らしていけばよいのだろうか。誰でも想像がつく。そしてこのことも、曹雪芹が表現しようと思った、「金持ちの家には、酒や肉が腐るほど有るのに、道には凍えて死んだ人の屍が転がっている」という思想である。ここからも、官吏となり富を得た人と一般の貧しい庶民を比べると、その格差はかくも大きいことが見て取れる。
それでは、賈府のような家庭ではどのように年越しをしたのだろうか。翌日になると、それ以前より更に忙しくなることは、細かく言うまでもない。12月の29日になると、各種の正月用品の準備が整い、寧国府、栄国府の両家では、門神、対聯、看板を交換し、桃符を新しく描き直し、面目を一新した。中国人は伝統的に大晦日を過ごす時に祖先をお祭りする風習があり、一つには祖先を記念する為で、二つ目には祖先に子孫の平安を乞い願う為であり、それでは賈府のような大きな家で、役人になり富貴を極めた家では、どのように祖先をお祭りするのだろうか。賈府が祖先をお祭りする場所はどこにあるのか。寧国府は大門から儀門(大門の内側の儀礼門)、大庁(大広間)、暖閣、内庁(奥の間)、三の門、内儀門、更に目隠しの門があって、母屋に通じていて、ずっと正門を開くと、両側の階(きざはし)の下は一面に朱色に輝き、二匹の金の龍を描いたかのようである。
■[5]
除夕一大早贾母就带了一堆诰命夫人大清早的去皇宫朝贺,在皇宫辞岁之后,贾母就回到宗祠。诸子弟有未随入朝者,皆在宁府门前排班伺侯,然后引入宗祠。宁府西边另一个院子,黑油栅栏内五间大门,上悬一块匾,写着是“贾氏宗祠”四个字,旁书“衍圣公孔继宗书”。两旁有一副长联,写道是:
肝脑涂地,兆姓赖保育之恩,
功名贯天,百代仰蒸尝之盛。
亦衍圣公所书。进入院中,白石甬路,两边皆是苍松翠柏。月台上设着青绿古铜鼎彝等器。抱厦前上面悬一九龙金匾,写道是:
“星辉辅弼”。
乃先皇御笔。两边一副对联,写道是:
勋业有光昭日月,功名无间及儿孙。
亦是御笔。五间正殿前悬一闹龙填青匾,写道是:“慎终追远”。旁边一副对联,写道是:
已后儿孙承福德,至今黎庶念荣宁。
・抱厦 bàoxià 本殿の前に一段突き出したようにやや小ぶりの部屋、屋根を作る建築様式で、宋代には“亀頭屋”と呼ばれたが、清代には“抱厦”と呼ばれた。
抱厦
・誥命夫人 gàomìng fūrén 皇帝から位を授けられた女性。
・大清早 dàqīngzǎo 早朝から。朝っぱらから。
・肝脳塗地 gānnǎo túdì [成語]命を投げ出す。命を犠牲にする。
・兆姓 zhàoxìng 万民。一般民衆。
・勲業 xūnyè 功業。功績の顕著な事業。
・光昭日月 guāngzhāo rìyuè 日の光があまねく衆生(生きとし生ける者)を照らす。《易経》にあることば。
・無間 wújiàn 途切れがない。
・黎庶 líshù (=黎民)民衆、庶民。
[和訳] 大晦日の朝一番に、ご隠居様は位を授けられたご夫人方を何人も引き連れ、早朝から宮廷へ朝賀に行き、宮廷で歳末のご挨拶をしてから、ご隠居様は宗廟に戻って来た。親族の子弟でいっしょに宮廷に行かなかった者は、皆寧国府の大門の前に並んで控え、ご隠居様の後に宗廟に導き入れられた。寧国府の西側にもう一つ塀で囲った一角があり、黒いペンキで塗られた柵の内側には間口五間の大門があり、上には扁額が掲げられ、「賈氏宗祠」の4文字が書かれ、その傍らに「衍聖公・孔継宗書」と書かれていた。両側には一副の長い対聯があり、それにはこう書かれていた:
自分の命を投げ出しても、万民の為、子供達が無事育てられるという恩恵にあずかれるようにしよう。
功名は天下に鳴り響き、代々祭祀の煙は盛んで絶えることがない。
これも衍聖公の書であり、敷地の中に入ると、白い石を敷き詰めた通路があり、両側は青々とした松とコノテガシワの並木である。本殿前の舞台には青緑色の古い銅の鼎や彝などの器が置かれていた。本殿の一段前に突き出た屋根の下には九匹の龍の描かれた金色の扁額が掛っており、こう書かれていた:
「(賈家は)綺羅星のように輝き、(皇室の為に)補佐をする」
これは先代の帝のお筆によるものである。両側には一副の対聯があり、こう書かれていた:
功績は日の光が全てを照らすように明らかで、功名は絶えることなく子孫にまで及ぶ。
これもまた帝のお筆である。五間の広さのある本殿の前には猛り狂った龍を描いた青い扁額が掛り、こう書かれていた:「人生について謹んで考え、先賢が残してくれたものを追求する。」両側には一副の対聯があり、こう書かれていた:既に後世の子孫は幸福や恩恵を受け継ぐ。今日に至るまで、民衆の為、その栄寧を願う。
■[6]
俱是御笔。里边香烛辉煌,锦幛绣幕,虽列着神主,却看不真切。只见贾府人分昭穆排班立定:贾敬主祭,贾赦陪祭,贾珍献爵,贾琏贾琮献帛,宝玉捧香,贾菖贾菱展拜毯,守焚池。青衣乐奏,三献爵,拜兴毕,焚帛奠酒,礼毕,乐止,退出。众人围随着贾母至正堂上,影前锦幔高挂,彩屏张护,香烛辉煌。上面正居中悬着宁荣二祖遗像,皆是披蟒腰玉;两边还有几轴列祖遗影。贾荇贾芷等从内仪门挨次列站,直到正堂廊下。槛外方是贾敬贾赦,槛内是各女眷。众家人小厮皆在仪门之外。每一道菜至,传至仪门,贾荇贾芷等便接了,按次传至阶上贾敬手中。贾蓉系长房长孙,独他随女眷在槛内。每贾敬捧菜至,传于贾蓉,贾蓉便传于他妻子,又传于凤姐尤氏诸人,直传至供桌前,方传于王夫人。王夫人传于贾母,贾母方捧放在桌上。邢夫人在供桌之西,东向立,同贾母供放。直至将菜饭汤点酒茶传完,贾蓉方退出下阶,归入贾芹阶位之首。凡从文旁之名者,贾敬为首,下则从玉者,贾珍为首,再下从草头者,贾蓉为首,左昭右穆,男东女西,俟贾母拈香下拜,众人方一齐跪下,将五间大厅,三间抱厦,内外廊檐,阶上阶下两丹墀内,花团锦簇,塞的无一隙空地。鸦雀无闻,只听铿锵叮当,金铃玉珮微微摇曳之声,并起跪靴履飒沓之响。一时礼毕,贾敬贾赦等便忙退出,至荣府专候与贾母行礼。
・神主 shénzhǔ 位牌
・昭穆 zhāomù 宗教の制度やしきたりに則り、廟宇や墓所での世代や長幼の順によって並ぶ序列。
・焚池 fénchí 祭祀で線香やお供えを燃や燃やす器。
焚池
・挨次 āicì 順を追って。順次。
・長房長孫 chángfáng chángsūn 正妻、或いは第一夫人が生んだ最初の男の子、すなわち“長子”、そしてこの“長子”とその正妻、或いは第一夫人が生んだ最初の男の子、すなわち「嫡孫」のことを“長房長孫”という。
・左昭右穆 zuǒzhāo yòumù 昔、室内の座席の順位は東向きを最上席、次いで南向き、北向き、西向きとした。よって始祖は部屋では東向き、二世、四世、六世は始祖の左側、すなわち南を向き、これを“昭”と言った。三世、五世、七世は始祖の右側で、北を向いたので“穆”と言った。
・俟 sì 待つ。
・拈 niān 指先でつまむ。
・廊檐 lángyán ひさし(の下)
・丹墀 dānchí 宮殿の前の朱塗りの階(きざはし)。
・花団錦簇 huātuán jǐncù [成語]色とりどりに着飾った華やかな一団。
・鴉雀無聞 yāquè wúwén カラスや雀の鳴き声も聞こえない。たいへん静かなことの形容。
・鏗鏘 kēngqiāng 楽器のリズミカルな音。音楽のような音や声。
・叮当 dīngdang [擬声語]金属や磁器がぶつかり合う、ちりんちりんという音。
・玉珮 yùpèi 玉の装身具
・揺曳 yáoyè ゆらゆら揺れる
・颯沓 sàtà 多くの人の足音の形容。
[和訳] 何れも帝のお筆である。お堂の中は蝋燭が赤々と輝き、錦の掛け物や刺繍をした幕が掛り、位牌が並んでいるのだが、はっきりとは見えない。ただ賈府の人々がしきたりに則り並んで立っているのが見えただけである。賈敬が祭祀を主催し、賈赦はそれに付き従い、賈珍は爵を献じ、賈璉、賈琮は帛を献じ、香を捧げ、賈菖、賈菱は礼拝用の絨毯を広げ、焚池の番をした。青衣の人々が音楽を奏で、爵を三献し、拝礼が済むと、帛を燃やし酒をお供えし、礼拝が終わると、音楽は止まり、退出した。人々はご隠居様の周りに付き従い本殿へ登った。遺影の前には錦の幕が高く掲げられ、色とりどりの屏風で保護され、蝋燭の炎が赤々と輝いていた。正面には寧国府、栄国府それぞれの始祖の遺影が掛けられ、それらは皆金のウワバミの刺繍のある礼服を着、腰には玉を帯びていた。両側には更に何軸かの祖先の遺影が掛けられていた。賈荇、賈芷らは内儀門から順番に並んで立ち、その列は本殿のひさしの下まで続いた。敷居の外側には賈敬、賈赦、敷居の内側にはそれぞれの女性の親族が控えた。一家の召使たちは皆、儀門の外にいた。お供えの料理が到着する毎に、儀門まで運ばれ、賈荇、賈芷らが受け取ると、順番に手渡しで階(きざはし)の上の賈敬の所まで送られた。賈蓉は「嫡孫」であるので、彼だけが女達といっしょに本殿の敷居の内側に居た。賈敬が料理を捧げ持って来る度に、賈蓉に手渡され、賈蓉は妻に手渡し、それは又、煕鳳、尤氏などの手を経て、お供えのテーブルの前まで運ばれ、ようやく王夫人の手に渡った。王夫人はご隠居様にお渡しし、ご隠居様は料理を捧げ持つとテーブルの上に並べた。邢夫人はお供えのテーブルの西に、東を向いて立ち、ご隠居様といっしょにお供えの料理を並べた。料理、ご飯、スープ、お菓子、酒、茶を渡し終わると、賈蓉は退出して階(きざはし)を降り、賈芹を階位の首位とする列の中に戻った。凡そ名前の偏に「文」(“攵”)の付く者は、賈敬を首位とし、その次は名前に「王」の付く者で、賈珍を首位とし、その次は「草」冠の者で、賈蓉を首位とし、長幼の順、男女に分かれ、ご隠居様が香をつまんで拝礼されるのを待って、皆が一斉に跪くと、広さ五間の広間、三間の前殿、ひさしの内外、朱色で塗られた階の上も下も、色とりどりの着飾った人々が、あたりを埋め尽くして、少しの隙間も無かった。鳥のさえずりも聞こえず、ただ金属がぶつかり合うチリンチリンという音、金属の鈴や玉の装身具がかすかに揺れる音や、礼拝で立ち上がったり跪いたりする時の靴の足音が聞こえるだけだった。礼拝が終わると、賈敬、賈赦らは急いで退出し、栄国府へ行くと、ご隠居様のお戻りを待って挨拶をした。
(次回に続きます)
(その二)
■ 宝玉見是一個仙姑,喜的忙来作揖問道:“神仙姐姐不知従那里来,如今要往那里去?也不知這是何処,望乞携帯携帯.”那仙姑笑道.“吾居離恨天之上,灌愁海之中,乃放春山遣香洞太虚幻境警幻仙姑是也.司人間之風情月債,掌塵世之女怨男痴.因近来風流冤孽,纏綿于此処,是以前来訪察机会,布散相思.今忽与尓相逢,亦非偶然.此離吾境不遠.別無他物,僅有自采仙茗一盞,親醸美酒一瓮,素練舞歌姫数人,新填《紅楼夢》仙曲十二支,試随吾一遊否?”宝玉聴説,便忘了秦氏在何処.竟随了仙姑,至一所在,有石牌横建.上書“太虚幻境”四個大字,両辺一副対聯,乃是:
假作真時真亦假,
無為有処有還無.
・作揖 zuo4yi1 =拱手 拱手する。両手を組み合わせて高く挙げ、上半身を少し曲げる
・冤孽 yuan1nie4 前世の因業
・纏綿 chan2mian2 まとわりつく。つきまとう
宝玉は仙女を見ると、うれしくなって、急いで拱手して問うた。「仙女のお姉さん、どこから来られました?これからどちらに行かれるのですか?また、ここはどこなのでしょう。どうか連れて行ってください。」その仙女は笑って言った。「私は離恨天の上、灌愁海の中におります。すなわち放春山の遣香洞、太虚幻境の警幻仙女とは私のこと。人間世界の色恋の貸し借り、浮世の男女の恋や恨みを司っています。近頃、風流の罪つくりどもが、この地にまとわりついて離れませんゆえ、以前からやって来て、相思の情をちらしてやる機会をうかがっておりました。今、あなたにお会いしたのも、まんざら偶然とは言えません。ここは我が里からも遠くありません。別段何もございませんが、自ら採った茶を一杯、自ら醸した酒を一甕差し上げたいと思います。平素より踊りの鍛錬をしている歌姫が数人おり、新たに《紅楼夢》という曲を十二曲作りましたので、試みに私について遊びに来られませんか。」宝玉はそれを聞くと、秦氏がどこにいるかも忘れ、仙女について行き、とある場所にやって来た。そこは横に石の牌楼が建っており、上に“太虚幻境”の四文字が大書され、両側に対聯が掲げられ、そこには次のように書かれていた。
仮の真なる時は真もまた仮
無の有なる所は有もまた無
■ 転過牌坊,便是一座宮門,上面横書四個大字,道是:“孽海情天”.
又有一副対聯,大書云:
厚地高天,堪嘆古今情不尽.
痴男怨女,可憐風月債難償.
牌楼をくぐり抜けると、宮門があり、その上には四文字が大書され、“孽海情天”とあった。その両側にも対聯が掲げられ、次のように大書されていた。
厚地高天、歎ずるに堪えたり古今の情は尽きず、
痴男怨女、憐れむべし風月の債は償い難し。
■ 宝玉看了,心下自思道:“原来如此.但不知何為‘古今之情’.何為‘風月之債’?従今倒要領略領略.”宝玉只顧如此一想,不料早把些邪魔招入膏肓了.当下随了仙姑進入二層門内,至両辺配殿,皆有扁額対聯,一時看不尽許多,惟見有几処写的是:“痴情司”,“結怨司”,“朝啼司”,“夜怨司”,“春感司”,“秋悲司”.看了,因向仙姑道:“敢煩仙姑引我到那各司中遊玩遊玩,不知可使得?”仙姑道:“此各司中皆貯的是普天之下所有的女子過去未来的簿册,尓凡眼塵躯,未便先知的.”宝玉聴了,那里肯依,復央之再四.仙姑無奈,説:“也罷,就在此司内略随喜随喜罷了.”
・領略 ling3lve4 はじめて知る。味わう
・膏肓 gao1huang1 膏肓(こうこう)。事態がもはや救いようのない状態にあること。
[参考]中国医学では、“膏”は胸の下部、“肓”は胸と腹の間にある薄い膜をいい、“膏”と “肓”は病気の最も治療しにくいところとされた。
・使得 shi3de2 構わない
宝玉はそれを見ると、心の中で思った。「なるほど、そういうことだったのか。しかし、“古今の情”とは何だろう。“風月の債”とは何だろう。これからそれをちょっと味わってみたいものだ。」宝玉はそんなことばかり考え、知らず知らず早くも邪(よこしま)な気持ちを膏肓に招じ入れてしまった。仙女について二層の門の内側に入ると、両側に配殿かあり、それぞれに扁額と対聯があり、一時にはあまり多くは見尽くせない。ただ、何ヵ所かに“痴情司”、“結怨司”、“朝啼司”、“夜怨司”、“春感司”、“秋悲司”などと書いてあるのが見えるだけだった。そこで仙女に言った。「できれば私にあそこをひとつひとつ見せていただきたいのですが、構わないでしょうか。」仙女は「これらの司にしまってあるのは普天の下のあらゆる女子の過去と未来の帳簿で、あなたのような凡人の目、普通の体の人には先に知らせることはできません」と答えた。宝玉はそう聞くと、どうして納得できよう、再三再四お願いしたので、仙女もどうしようもなく、言った。「わかりました。この司をちょっとだけ拝ませてあげましょう。」
■ 宝玉喜不自勝,抬頭看這司的扁上,乃是“薄命司”三字,両辺対聯写的是:
春恨秋悲皆自惹,
花容月貌為誰妍.
宝玉は喜ぶまいことか、頭を上げるとこの司の扁額を見た。そこには“薄命司”の三文字が書かれ、両側の対聯にはこう書かれていた。
春恨秋悲は皆自ら惹き起す、
花容月貌は誰が為に妍(あでや)かなる。
■ 宝玉看了,便知感嘆.進入門来,只見有十数個大厨,皆用封条封着.看那封条上,皆是各省的地名.宝玉一心只揀自己的家郷封条看,遂無心看別省的了.只見那辺厨上封条上大書七字云:“金陵十二釵正册”.宝玉問道:“何為‘金陵十二釵正册’?”警幻道:“即貴省中十二冠首女子之册,故為‘正册’.”宝玉道:“常聴人説,金陵極大,怎麼只十二個女子? 如今単我家里,上上下下,就有几百女孩子呢.”警幻冷笑道:“貴省女子固多,不過択其緊要者録之.下辺二厨則又次之.余者庸常之輩,則無册可録矣.”
宝玉はそれを見ると、なるほどと感嘆した。門を入ると、十数個の大きな戸棚があり、皆、封じ紙で封印がしてあった。その封じ紙を見ると、皆各省の地名が書かれていた。宝玉はひたすら自分のふるさとの封じ紙を探して見て、他省のものは見ようとしない。すると向こうの戸棚の封じ紙に大きく七文字、“金陵十二釵正册”と書いてあるのを見つけた。宝玉は問うた。「どうして“金陵十二釵正册”なのですか。」警幻は「すなわち、あなたの省のもっとも優れた十二人の女子の帳簿だから、“正册”というのです。」と答えた。宝玉は言った。「よく人々が言っていますが、金陵はとても大きいのに、どうしてたった十二人の女子なのですか。私の家だけでも、上から下まで、数百人の女の子がいます。」警幻は冷やかに笑って言った。「あなたの省の女子は固より多いが、その中の重要な者だけ選んで記録しています。下のふたつの棚がこれに次ぐものです。それ以外の平凡な輩は、帳簿に記録されていません。」
■ 宝玉聴説,再看下首二厨上,果然写着“金陵十二釵副册“,又一个写着“金陵十二釵又副册”.宝玉便伸手先将“又副册”厨開了,拿出一本册来,掲開一看,只見這首頁上画着一幅画,又物,也無山水,不過是水墨染的満紙烏雲濁霧而已.后有几行字跡,写的是:
霽月難逢,彩雲易散.心比天高,身為下賤.
風流霊巧,招人怨.寿夭多因毀謗生,多情公子空牽念.
・霽月 ji4yue4 晴れ上がった空の月。
宝玉はそう聞くと、下の二つ目の棚を見ると、果たして“金陵十二釵副册“と書いてあり、またもう一つには“金陵十二釵又副册”と書いてあった。宝玉は手を伸ばすと、“又副册”の棚を開き、帳簿を一冊取り出すと、開いて見てみたが、最初のページに一幅の絵が描いてあるのが見えただけであった。それは人物でもなく、山水でもなく、ただ紙一面を水墨でぼかした黒い雲と霧であるに過ぎなかった。後ろに数行の字があり、こう書かれていた。
霽月には逢い難く、彩雲は散り易し。心は天より高けれど、身は下賤なり。
風流霊巧は、人の怨みを招く。夭寿は多く誹謗により生じ、多情の公子は空しく念(おもい)を牽くのみ。
※晴霽のことを詠んだもの。多情の公子とは、当然、宝玉のことである。
■ 宝玉看了,又見后面画着一簇鮮花,一床破席,也有几句言詞,写道是:
枉自温柔和順,空云似桂如蘭,
堪優伶有福,誰知公子無縁.
宝玉が見てみると、また後ろの頁に一群の美しい花と、一枚の破れた蓆が描かれており、またいくつかの詞書きが添えられていた。書かれていたのは、
温柔和順というも枉(むな)しく、桂に似、蘭の如しと云うも空しい。
羨むに堪えたり、優伶に福有るを。誰か知らん、公子に縁無きを。
※襲人のことを詠んだもの。破れた蓆の“席”と“襲”を音が同じ、つまり諧音である。
「公子に縁無き」とあり、襲人は宝玉と結ばれることはなかった。
■ 宝玉看了不解.遂擲下這個,又去開了副册厨門, 拿起一本册来,掲開看時,只見画着一株桂花,下面有一池沼,其中水涸泥干,蓮枯藕敗,后面書云:
根并荷花一茎香,平生遭際実堪傷.
自従両地生孤木,致使香魂返故郷.
・遭際 zao1ji4 境遇。めぐりあわせ
宝玉は見ても意味がわからず、これを捨て置き、また副册の棚の戸を開き、帳簿を一冊取り出し、頁を開いて見ると、一株の木犀の花が描かれているだけで、下には沼があるが、その水は涸れ泥は干上がり、蓮は葉も根も枯れ果てている。後ろに書があり、こう書かれている。
根は荷花と並び一茎香ばし、平生の遭際、実に傷(かな)しむに堪えたり。
両地に孤木が生じてより、香魂をして故郷に返らしむを致す。
※桂花とは夏金桂、蓮は英蓮、後の香菱のことである。
詩は、香菱のことを詠んだもの。香菱は、甄士隠の娘として生まれたが、人さらいにさらわれ、のち薛潘の妾となったが、本妻の夏金桂にいびり殺される。「両地に孤木が生ず」とは、土ふたつに木ひとつなので、“桂”の字のことで、夏金桂を指す。
■ 宝玉看了仍不解.便又擲了,再去取“正册”看, 只見頭一頁上便画着両株枯木,木上懸着一囲玉帯,又有一堆雪,雪下一股金簪.也有四句言詞,道是:
可嘆停机,堪憐咏絮才.
玉帯林中挂,金簪雪里埋.
宝玉は見ても依然何の事か分からず、また捨て置き、今度は“正册”を取り出して見てみると、最初のページに二株の枯れ木が描かれ、木の上には一本の玉のベルトが懸かり、また雪が積もり、雪の中に一本の金の簪が落ちている。これにも四句の詞書きが添えられていて、それには、
嘆くべし機(はた)を停むるの徳、憐れむに堪えたり絮(わたばな)を咏じるの才。
玉帯は林中に掛かり、金簪は雪里に埋もる。
※「林中lin2zhong1の玉帯yu4dai4」とは林黛玉lin2dai4yu4のこと。「雪xue3の中の金簪」とは、薛xue1宝釵のこと(“簪”zan1も“釵”chai1もかんざしの意味)。
*可嘆停机
“停机”は《後漢書・列女伝・楽羊子妻》に出てくる話で、楽羊子が遠方に学問を修めに行くが、家が恋しくなり、一年だけで家に戻ったところ、彼の妻はちょうど機で布を織っており、楽羊子が家に戻った訳を知ると、はさみを持って機で織っていた反物を切り裂き、それにより学業の中断は将来の大業成就を放棄することだと諭し、楽羊子に学問を継続し、功名を上げるまで、中途で放棄することのないよう諌めた。
*堪怜咏絮才。
“咏絮才”は《世説新語》に出てくる話で、晋の王凝之の妻、謝道蘊の詩才にまつわるエピソード。ある冬の大雪の日、謝道蘊の叔父の謝安が雪を吟じる詩を作っていて、“白雪紛紛何所擬?”(雪がはらはらと降る様を何に譬えようか?)と言ったところ、兄の謝朗は“撒塩空中差可擬。”(塩を空中に撒く様に多少似ている)と答えたところ、すぐさま謝道蘊は、“未若柳絮因風起。”(それは柳絮(りゅうじょ)が風により起こる、と言うのに及ばない)と言い、謝安はそれをきいて大いに感嘆したという。
■ 宝玉看了仍不解.待要問時,情知他必不肯泄漏,待要丢下,又不舍.遂又往后看時,只見画着一張弓,弓上挂着香櫞.也有一首歌詞云:
二十年来辨是非,榴花開処照宮闈.
三春争及初春景,虎兔相逢大夢帰.
・香櫞 xiang1yuan2 仏手柑。シトロン
・宮闈 gong1wei2 直訳すると「宮中の脇門」だが、“宮闈”で「宮廷」の意味。
宝玉はそれを見ても依然何のことか分からず、聞いてみようかと思ったが、警幻が事情を漏らすはずがないことは明らかで、捨て去ろうかとも思ったが、捨てるのも惜しい。そこでまた続けて後ろを見てみると、一張りの弓が描かれ、弓には香櫞が掛かっていた。これにも詞書きが一首添えられ、
二十年来是非を弁じ、榴花(ざくろ)開く処、宮闈を照らす。
三春、いかで及ばん初春の景に、虎兎相逢うて大夢に帰せん。
※ここは、元春のことを言っている。弓に香櫞が掛かった絵というのは、“弓”は“宮”と音が同じ(gong1)なので、宮中のことであり、“櫞”と“元”も音が同じ(yuan2)なので、元春が宮中に入り、妃となることを言っている。
“二十年来辨是非”は、元春が二十歳で宮中に入った時は、もう人情世事に通じていたことを指す。榴花(ざくろ)は火のように赤いので“照”の字を用い、元春が鳳藻宮に入れられ、賢妃に封じられたことを言う。《北史》に北斉の安王高延宗が帝を称し,趙郡李祖収の娘を妃とした。後に皇帝が李氏の家で宴席を設けた時、妃の母親の宋氏が一対の石榴を贈った。石榴は種が多いので、子孫が繁栄するという意味でお祝いしたのである。
“三春”は春の三か月のことだが、迎春、探春、惜春の三人を指している。“初春”は元春を指す。“争及”とは、“怎及”のことで、「どうして及ぼうか」。元春の三人の姉妹は何れも彼女の栄華には及ばない、の意。
“虎兔”の句は元春の死期を言っている。つまり、寅卯の日に元春が亡くなることを暗示している。“大夢帰”とは、死ぬことを指す。またこの部分を“虎兕相逢大夢帰”と書く本もあり、この場合は、兕se4 雌の犀の意味で、猛獣どうしが相争うことから、元春の死後、ふたつの政治勢力が争うことを暗示しているという説もある。
今回はここまでにします。
ここは、詩の中で使われていることばの影の意味をひとつひとつ紐解いていかないと、本当の意味が理解できません。ということで、読むのに時間がかかってしまいますが、ご容赦を。また次回にお目にかかりましょう。
紅楼夢の第五回では、賈宝玉が夢の中で警幻仙姑に導かれて太虚幻境を訪れ、「金陵十二釵正冊」という、彼を取り巻く十二人の美女たちの運命を記された帳簿を見せてもらうこと、また警幻仙姑から秘め事の手ほどきを受ける、という筋になっています。
因東辺寧府中花園内梅花盛開,賈珍之妻尤氏乃治酒,請賈母,邢夫人,王夫人等賞花.是日先携了賈蓉之妻,二人来面請.賈母等于早飯后過来,就在会芳園游玩,先茶后酒,不過皆是寧栄二府女眷家宴小集,并無別様新文趣事可記.
・治酒 zhi4jiu3 一席設ける。酒宴を張る
・游玩 you2wan2 遊覧する
・女眷 nv3juan4 家族中の婦女子
東側の寧府(寧国邸)の花園の梅の花が満開になったので、賈珍の妻の尤氏は宴席の用意を整え、ご隠居様、邢夫人、王夫人等を花見に招待した。この日、先ず賈蓉の妻を従え、二人で招待に来た。ご隠居様達は朝食後やって来られ、会芳園を見て回られ、先ずお茶の後、酒となったが、皆、寧、栄両邸の女たちの内輪の宴席であるので、別段書き記すべき趣向も無かった。
一時宝玉倦怠,欲睡中覚.賈母命人好生哄着,歇一回再来.賈蓉之妻秦氏便忙笑回道:“我們這里有給宝叔收拾下的屋子,老祖宗放心,只管交与我就是了.”又向宝玉的奶娘丫鬟等道:“嬷嬷mo2mo,姐姐們,請宝叔随我這里来.”賈母素知秦氏是个極妥当的人 , 生的嫋娜繊巧,行事又温柔和平,乃重孫媳中第一個得意之人,見他去安置宝玉,自是安穏的.
・好生 hao3sheng1 (=好好儿地)よく。ちゃんと
・哄 hong3 あやす。機嫌を取る
・嫋娜 niao3nuo2 しなやかである。たおやかである
しばらくして宝玉が疲れて、昼寝がしたいと言うので、ご隠居様はちゃんと面倒をみて、休ませるように言いつけた。賈蓉の妻の秦氏は愛想笑いをして答えて言うには、「ここには宝玉ちゃんのために用意した部屋がありますので、おばあ様、安心なさってください、私に任せていただけば大丈夫ですから。」また宝玉の乳母や女中達に向って、「おばさん、姉さん方、宝玉ちゃんに私について来させて。」ご隠居様はもともと秦氏がたいへんふさわしい人で、気性がたおやかで繊細で、行動がやさしくおだやかで、孫の嫁達の中で一番自慢に思っていたので、彼女が宝玉の世話をするのを見て、安心した。
当下秦氏引了一簇人来至上房内間.宝玉抬頭看見一幅画貼在上面,画的人物固好,其故事乃是《燃藜図》,也不看系何人所画,心中便有些不快.又有一幅対聯,写的是:
世事洞明皆学問,人情練達即文章.
・燃藜図 rang2li2tu2 漢代、劉向が深夜、一人座って書を声を出して読んでいると、一人の仙人が現れ、手に青藜(アカギ)の杖を持ち、杖の端を吹くと火が出て、それで彼を照らすと、彼に多くの古書を教えた。ここから、《燃藜図》は古来、「勤学」をテーマとした絵として描かれた。
秦氏が皆を連れて上房の奥の間に入った。宝玉が頭を上げると、一幅の絵が壁に掛けてあるのが見えた。絵の人物はよく描けていたが、その画題が《燃藜図》であったので、誰が描いたものか見ようともせず、心中不愉快であった。また一幅の対聯が掲げられ、そこに書かれていたのは、「世事を洞明するは皆学問、人情の練達は即ち文章(世事を洞察し、人間関係に練達するには学問を修めなければならない)」というものであった。
及看了這両句,縦然室宇精美,舗陳華麗,亦断断不肯在這里了, 忙説:“快出去!快出去!”秦氏听了笑道:“是里還不好,可往那里去呢?不然往我屋里去吧.”宝玉点頭微笑.有一個嬷嬷説道:“那里有個叔叔往侄儿房里睡覚的理?”秦氏笑道:“噯喲喲,不怕他悩.他能多大呢,就忌諱這些個!上月你没看見我那个兄弟来了,雖然与宝叔同年,両個人若站在一処,只怕那個還高些呢.”宝玉道: “我怎麼没見過?你帯他来我瞧瞧.”衆人笑道:“隔着二三十里,往那里帯去,見的日子有呢.”
この二句を見ると、たとえどんなに部屋の作りが美しく、飾りつけが華麗であっても、断じてここにいようとせず、急いで、「早くここを出よう!早くここを出よう!」と言った。秦氏はそれを聞くと笑って、「ここがだめなら、どこに行くの?そうでなければ私の部屋に行きましょう。」宝玉はうなずいてほほ笑んだ。するとひとりのばあやが言うには、「叔父様が甥御のお嫁様のお部屋でお休みになるなんてことがありましょうか?」秦氏は笑って言った。「あらあら、ご心配なく、うちの人が怒ることはありません。この子もまだいくつにもなっていないし、こんなことをやかましく言う必要はありません。先月私のあの弟が来たのをご覧にならなかった?宝ちゃんと同い年だけれど、ふたりが並んだら、あの子の方が少し高いかしら。」宝玉は言った。「どうして会わせてくれなかったの。その子を連れて来て会わせてよ。」皆は笑って言った。「ここから二三十里も離れているのに、どうやって連れてくるの。そのうちお会いになれますよ。」
説着大家来至秦氏房中.剛至房門,便有一股細細的甜香襲人而来.宝玉覚得眼餳骨軟,連説“好香!”入房向壁上看時,有唐伯虎画的《海棠春睡図》,両辺有宋学士秦太虚写的一副対聯,其聯云:
嫩寒鎖夢因春冷,芳气襲人是酒香.
・眼餳 yan3xing2 まぶたがくっつきそう
・海棠春睡図 宋・釈惠洪《冷斎夜話》の記載によれば、唐の明皇(玄宗)は沈香亭に登り、楊貴妃を召したところ、時間がまだ卯の刻(午前5時から7時)で、まだ酔いから醒めておらず、高力士に命じて侍女を助けにやらせた。楊貴妃は寝起きで化粧は乱れ、髪の毛は茫々、皇帝にお目にかかれる状態ではなかった。玄宗は笑って、「妃子(楊貴妃)の酔いは、海棠(カイドウ)の花が眠り足らないかのようだ」と言ったという。ここから、“海棠春睡”ということばが生まれた。この話は世間に広く流布し、蘇軾は《海棠》と題した詩を作った。“東風嫋嫋汎崇光,香霧空蒙月転廊。只恐夜深花睡去,故焼高燭照紅粧。”これにより、より一歩、“海棠春睡”を人格化した。明代になり、“風流才子”と呼ばれた唐伯虎(唐寅)がこの話に基づき、想像力を発揮させ、《海棠美人図》の絵を描いた。《六如居士全集》巻三に、《題海棠美人》の詩にいう。“褪尽東風満面粧,可怜蝶粉与蜂狂。自今意思誰能説,一片春心付海棠。”
注目すべきは、曹雪芹の祖父、曹寅(字は子清)は家に唐伯虎の描いた美人図を掛け、清の蒋景祁は《瑶華集》巻五の《臨江仙》に《為曹子清題唐寅美人図》と題した詞があることである。ただ、この絵が“海棠春睡”に関係するかどうかはわからない。けれども、《紅楼夢》の中で“海棠春睡”にまつわる話が何度も出てくるのは紛れもない事実である。例えば第十七回で、怡紅院の匾額を題するのに、客の一人が“祟光汎彩”と言い、第十八回で宝玉は《怡紅快緑》の詩の中で“紅粧夜未眠”と詠った。第六十三回で、湘云は詩の中で“只恐夜深花睡去”と言い、第六十二回で湘云が酔って芍薬の木陰で眠る描写も、読む者に曹雪芹が唐伯虎《海棠春睡図》を基にしていることを連想させる。
・秦太虚 すなわち秦観のこと。字は少游、また太虚といい、別に邗溝居士と号した。楊州高郵(今は江蘇省に属す)の人。北宋の文学家。宋神宗元豊八年(1085年)の進士。太学博士(即ち国立大学 教官)、秘書省正字、国史院編集官に任じられた。政治上は旧党に属する。彼と黄庭堅、晁補之、張耒で“蘇門四学士”と号し、蘇軾に師事した。
・嫩寒 nen4han2 肌寒い
そう言うと、皆は秦氏の部屋にやって来た。部屋の入り口まで来ると、ほのかな甘い香のかおりがぷうんと鼻を突いた。宝玉はうっとりしてまぶたがくっつき、骨がとろけそうになり、「いい香りだ!」と何度も叫んだ。部屋に入り、壁を見ると、唐伯虎の描いた《海棠春睡図》が掛かっており、その両側に、宋学士、秦太虚の書いた一副の対聯が掛けられており、その聯には、
「嫩寒、夢を鎖(とざ)すは春の冷たさに因り、芳气、人を襲うは是れ酒香」
とあった。
案上設着武則天当日鏡室中設的宝鏡,一辺擺着飛燕立着舞過的金盤,盤内盛着安禄山擲過傷了太真乳的木瓜,上面設着寿昌公主于含章殿下卧的宝榻,懸的是同昌公主制的聯珠帳.宝玉含笑連説:“這里好!”秦氏笑道:“我這屋子大約神仙也可以住得了.”説着親自展開了西子浣過的紗衾,移了紅娘抱過的鴛枕.于是衆奶母伏侍宝玉卧好,款款散了,只留襲人、媚人、晴雯、麝月四個丫鬟為伴.秦氏便分咐小丫鬟們,好生在廊檐下看着猫儿狗儿打架.
・飛燕 漢の成帝の后。その名の通り体が軽く、盤の上で舞ったという。
・太真 楊貴妃のこと。楊貴妃は道教に傾倒し、自ら太真と号した。
・木瓜 ボケ。木瓜海棠のことで、りんごに似た固い果実をつける。同じ“木瓜”でも亜熱帯地域の番木瓜はパパイヤのことで、これとは別者。
・寿昌公主 これは寿陽公主の誤りである。《太平御覧》巻三十に《雑五行書》を引用して次のような記載がある。“(南朝の)宋武帝の女、寿陽公主が人日(旧暦正月の七日)に含章殿の軒下で横になっていると、梅の花びらが公主の額の上に落ち、五出の花を成したが、払っても落ちなかった。皇后はこれをそのままにしていると、三日経って、洗うと落ちた。宮女たちはこれを奇異とし、それに倣った。今の梅花粧がこれである。”
・同昌公主 唐の懿宗・李漼の娘で、父親に愛され、駙馬の韋保衡に降嫁する際も、嫁入り道具は金の糸目をつけず、贅沢なものが揃えられた。聯珠帳もそのひとつで、真珠を連ねて帳(とばり)が作られた。
テーブルの上には則天武后がその昔鏡の間に並べていたという宝鏡を置き、また一方には飛燕が立ちながら舞ったという金盤を並べ、盤の中には安禄山が楊貴妃に投げつけ、その乳に傷をつけたというボケの実を盛り、上手には寿陽公主が含章殿の下で横になったという寝台が置かれ、その上には同昌公主が作った真珠を連ねた帳が掛けられていた。宝玉は笑みを浮かべ、続けざまに「ここは良い!」と言った。秦氏は笑って言った。「私の部屋でしたら、仙人でもお休みになれますわ。」そう言うと、自ら西施が洗ったという紗の掛け布団を広げ、紅娘が抱いたことがあるという鴛鴦の枕を出してきた。そうしてばあや達は宝玉を寝かせつけると、静かに出て行き、後に襲人、媚人、晴雯、麝月の四人の女中が残され付き添った。秦氏は下女たちに、軒下で猫や犬が喧嘩をしないようにちゃんと気を付けるよう言いつけた。
那宝玉剛合上眼,便惚惚的睡去,猶似秦氏在前,遂悠悠蕩蕩,随了秦氏,至一所在.但見朱欄白石,緑樹清溪,真是人跡希逢,飛塵不到.宝玉在夢中歓喜,想道:“這個去処有趣,我就在這里過一生,縦然失了家也願意,強如天天被父母師傅打呢.”正胡思之間,忽听山后有人作歌曰:
春夢随雲散,飛花逐水流,寄言衆儿女,何必覓閑愁.
宝玉は目をつむるや、瞬く間に眠りについたが、なお秦氏が眼の前にいるような気がして、遂にふらふらと秦氏について行くと、とある所に至った。見ると、赤い欄干、白い石、緑の樹木、清い渓谷と、真に人跡まれで、浮世の塵の至らぬ所であった。宝玉は夢の中で大いに喜び、思った。「ここはすてきだ。私はここで一生暮らせたら、たとえ家を失っても構わない。毎日父さん母さんや先生に折檻されるよりよっぽどましだ。」あれこれ埒もないことを思っていると、突然、山の後ろから誰かがこう歌うのが聞こえた。
春の夢は雲とともに散り、飛ぶ花は水とともに流れ去る。男の子や女の子たちに言っておきたい。どうして余計な心配ごとを探し求める必要があるのかと。
宝玉听了是女子的声音.歌声未息,早見那辺走出一個人,蹁躚嫋娜,端的与人不同.有賦為証:
・蹁躚 pian1xian1 ひらひらと
・嫋娜 niao3nuo2 しなやかである。たおやかである
宝玉が聞いたのは女性の声であった。歌声が止まないうちに、あちらから一人の人が歩いて来るのが見えた。ひらひらとしてしなやかで、端正なること、普通の人とは違っていた。賦に表わせば、こうなるだろう。
方離柳塢,乍出花房,但行処,鳥驚庭樹,将到時,影度回廊.
いましがた柳の堤を離れ、花を育てる温室から出てきたばかりだが、その行くところ、鳥は庭木に驚き、到着しようとする時、その人の影は回廊を渡って来た。
仙袂乍飄兮,聞麝蘭之馥郁,荷衣欲動兮,听環佩之鏗鏘.
仙女の袂はひらひらと漂い、蘭と麝香の香りが馥郁と漂っている。蓮の花のように幾重にも重なった衣を動かそうとすると、環佩(輪状の装身具)の当たる音がリズミカルに聞こえてきた。
靨笑春桃兮,雲髻堆翠,唇綻櫻顆兮,榴歯含香.
えくぼは春桃のよう、黒雲なす翠(みどり)の黒髪、唇はサクランボのように綻び、
ザクロのような歯は香を含んでいる
繊腰之楚楚兮,回風舞雪,珠翠之輝輝兮,鴨緑鵞黄.
細い腰の楚々としているのは、風を廻らし雪を舞わせ、真珠や翡翠のきらきらとして
いるのは、つややかな緑や黄色である。
出没花間兮,宜嗔宜喜,徘徊池上兮,若飛若揚.
花間に出没しては、怒るに宜しく喜ぶに宜しい。池の周りを徘徊しては、飛ぶが如く
揚がるが如し。
蛾眉顰笑兮,将言而未語,蓮歩乍移兮,待止而欲行.
美しい三日月眉が顔を顰めると、言おうとして未だ語っていないよう。しなやかな
歩みを移せば、止ろうとしてなお行く。
彼之良質兮,冰清玉潤,彼之華服兮,閃灼文章.
彼の良質が羨ましい、氷のように清く玉のように潤いがある。彼の華服がうらやましい、
あや模様がきらきらとまたたいている。
愛彼之貌容兮,香培玉琢,美彼之態度兮,鳳翥龍翔.
彼の容貌が愛しい、香を培い玉を磨いたかのようだ。彼の態度が美しい、鳳が舞い上がり、龍が翔けるようだ。
其素若何,春梅綻雪.其潔若何,秋菊被霜.
その素なるを何に譬えよう、春梅の雪に綻びるようだ。その潔なるを何に譬えよう、秋菊の霜を被るかのようだ。
其静若何,松生空谷.其艶若何,霞映澄塘.
その静なるを何に譬えよう、松の空谷に生えるかのよう。その艶なるを何に譬えよう、霞の澄んだ池に映ずるかのようだ。
其文若何,龍游曲沼.其神若何,月射寒江.
その文なるを何に譬えよう、龍の曲沼に遊ぶかのようだ。その神なるを何に譬えよう、月の寒江を射るかのようだ。
応慚西子,実愧王賦.
正に西施にはずかしめ、実に王昭君をはずかしめる。
奇矣哉,生于孰地.来自何方,信矣乎,瑶池不二,紫府无双.
奇なるかな、何処の地に生じ、何処より来るか。信なるかな、瑶池に二人となく、紫府に並ぶ者無し。
果何人哉?如斯之美也!
果たして何人か。かくの如く美しいのは。
紅楼夢第三十八回で、キンモクセイの花を見るために皆が集まり、上海ガニを食べた後、賈宝玉が次のような詩を詠んだ。
持螯更喜桂陰凉,潑醋擂姜興欲狂.
饕餮王孫応有酒,横行公子却無腸.
臍間積冷饞忘忌,指上沾腥洗尚香.
原為世人美口腹,坡仙曾笑一生忙.
螯(かに)を持って更に喜ぶ桂陰の涼しきを。醋(す)を潑(ま)き姜を擂(す)りて興狂わんと欲す。
饕餮(とうてつ)の王孫は酒有るべく、横行の公子は却って腸無し。
臍間(せいかん)に冷を積むも饞(むさぼ)りて忌を忘れ、指上に腥(せい)を沾(うるお)し洗えども尚香し。
原(もと)世人が口腹を美(こや)す為に、坡仙は曾て一生は忙しと笑いし。
● 螯 ao2 カニのはさみ
● 潑 po1 (水や液体を)かける。まく
● 擂 lei2 する。すりつぶす
● 饕餮 tao1tie4 饕餮(とうてつ)。伝説中の凶悪な獣。食いしん坊の比喩としても用いられる。
● 横行公子却無腸
古人給蟹取“四名”:“以其横行,則曰螃蟹;以其行声,則曰郭殻;以其外骨,則曰介士;以其内空,則曰無腸。”所以蟹便有了“横行介士”和“無腸公子”的称号。
[訳]古人はカニに「四つの名」をつけた。「横向きに歩くことから、“螃蟹”という。その形象から、“郭殻”(城郭のような殻)という。その外側に殻を持つことから“介士”(鎧を纏った兵士)という。その中が空であることから、“無腸”という。」したがってカニには「横行介士」、「無腸公子」といった呼び方がある。
● 臍qi2 へそ。
● 饞 chan2 口がいやしい。むさぼり食う
● 沾 zhan1 つく。汚れる
● 坡仙 po1xian1 蘇東坡のこと
第一句:桂陰はキンモクセイの木陰。キンモクセイは秋に橙黄色で芳香の強い小さな花をたくさんつける。中国ではこの花を乾燥させたものを茶に入れたり、粉にして菓子に入れたりする。烏龍茶にキンモクセイの香りをつけたものが桂花烏龍。上海ガニと同じ、秋の代表的な花である。醋(酢)は鎮江の陳醋、黒酢である。生姜を磨ったり細切りにしたものに酢を入れたものがカニの調味料の定番であるが、ずっりり重い、茹で立ての上海ガニを一匹手に持ち、調味料の入った小皿の前に座り、さあこれから至福の時を迎えようという喜びが表れている。
第二句:饕餮は中国古代、殷代の青銅器の図柄によく使われる伝説上の獣だが、何でも食べてしまうので、食いしん坊の比喩として用いられる。宝玉は自分をその饕餮の王孫になぞらえている。第三十七回で海棠詩社を作ることになり、各人が雅号をつけた時、彼は「怡紅公子」と号することにしたが、ここで彼は戯れでカニを「横行公子」と言って、自分と対比している。宝玉は常々自分は他の人とは行動が違う、と言われていたが、カニを手にして、ふと他と違って横歩きするので「横行公子」と呼ばれることを思い出したのであろう。しかし、カニは「無腸」、中身は空っぽである。だから、自分と同じ「公子」でも中は空っぽで、自分とは違う。自分は一方、「横行覇道」、好き勝手をしてやるぞ、と言いたいのだろうか。
第三句:中国では、カニは体を冷やすと言われる。したがって、レストランではカニを食べ終わる頃に必ずしょうが湯を持ってくる。「臍間積冷」、へそのあたり、つまりお腹が冷えるけれど、あまりおいしいのでつい、忌まねばならないのを忘れて食べるのに夢中になってしまう。「腥」はにおいが生臭いことで、カニを食べると指に生臭いにおいがついて、洗ってもそのにおいがとれない。
第四句:蘇東坡《初到黄州》「自笑平生為口忙,老来事業転荒唐」(自ら笑う平生口の為に忙し、老い来たりて事業荒唐に転ず)という句を踏まえている。世の中の人々はおいしいものを腹いっぱい食べるために、一生忙しい思いをする。ちょうど、蘇東坡がかつてそう言って笑ったように。
それを聞いて、林黛玉は次のような詩を作った。
鉄甲長戈死未忘,堆盤色相喜先嘗.
螯封嫩玉双双満,殻凸紅脂塊塊香.
多肉更怜卿八足,助情誰勧我千觴
対茲佳品酬佳節,桂拂清風菊帯霜.
鉄甲長戈死すとも未だ忘れず。盤に堆(うずたか)き色相、喜んで先ず嘗む。
螯(はさみ)は嫩玉を封じ双双に満ち、殻は紅脂に凸(ふくら)みて塊塊に香し。
肉は多く更に怜(あわ)れむ卿が八足なるを、情を助けて誰か我に千觴を勧めん。
茲の佳品に対し佳節に酬(むく)ゆれば、桂は清風を拂(はら)い菊は霜を帯べり。
● 鉄甲 tie3jia3 鉄のよろい
● 戈 ge1 矛(ほこ)
● 嫩玉 nen4yu4 柔らかい(或いはみずみずしい。色の淡い)玉
● 双 shuang1 量詞。一対。
● 觴 shang1 古代の杯(さかずき)。
● 酬 chou2 酒を勧める
● 佳節 ここでは、重陽の節句のこと。
● 拂 fu2 そっとかすめる。[例]春風拂面:春風が頬をなでる
第一句:カニを「鉄甲長戈」、鉄の甲冑を身に纏い長い戈を持つ、と形容した。それが盆の上に蒸しあがったものが積まれている、ということで、カニを食べる前の期待に胸が躍る気持が表現されている。
第二句:ここでの「螯」はハサミで、ハサミを割ると、中に玉のような白い身が詰まっている。甲羅は赤い脂でふくらんでいて、一個一個良い香りがしている。
第三句:肉のしっかり詰まった足が八本もあるのがうれしい。誰か私の気持ちを察して酒を千杯ついでくれるものはいないか。
第四句:この好き肴に向って佳節を祝えば、キンモクセイは清風になびき、菊は霜を帯びている。
これは、宝玉の詩を聞いて、それに和して即興で作ったためか、あまり良い出来ではなかったとみえ、黛玉はこの詩を書いた紙を破り、焼いてしまうように言いつけている。
それを聞いて、薛宝釵が私も一首できたと言って、次のような詩を詠んでいる。
桂靄桐陰坐挙觴,長安涎口盼重陽.
眼前道路無経緯,皮里春秋空黄.
酒未滌腥還用菊,性防積冷定須姜.
于今落釜成何益,月浦空余禾黍香.
桂靄桐陰、坐して觴を挙げ、長安は口に涎(よだれ)し重陽を盼(まちのぞ)む。
眼前の道路経緯無く、皮里春秋、黄空(むな)し。
酒未だ腥(なまぐさ)を滌(あら)わずば還(さら)に菊を用いよ、性積冷を防ぐには定(かなら)ず姜を須(もち)うべし。
今に于(於)て釜に落つるも何の益をか成さん、月浦空しく余す禾黍の香
● 靄 ai3 もや。かすみ。
● 涎 xian2 よだれ
● 長安涎口 長安は、この前に皆が菊を題に詩を作った時、宝釵が「長安公子」と詠んだことを踏まえている。長安公子は、杜甫の《飲中八仙歌》の中の、汝陽王、李進(璡)を指すと言われている。
杜甫 《飲中八仙歌》の中の一句:“汝陽三斗始朝天 道逢曲車口流涎 恨不移封向酒泉”
(汝陽三斗始めて天に朝し、道に曲(麹)車に逢えば口から涎を流し、恨むらくは封を移されて酒泉に向かわんことを。)
● 経緯 jing1wei2 機織りの縦糸と横糸。ここでは、カニは横歩きするので、眼前の道路が縦横どちらに向いていようと関係ない、ということ。
● 皮里春秋 pi2li3chun1qiu1 =皮里陽秋[成語]腹の中に「陽秋」がある。心の中だけ思って口に出さない批判。(「春秋」、「陽秋」は何れも五経のひとつ、「春秋」のこと。「春秋」は孔子が種々の事柄に褒貶を加えたとされることから、ここでは批判を意味する。
● 空黄 konghei1huang2 黒は黒道、黄は黄道のこと。黒道、黄道は占いの凶と吉。凶だ吉だと言ってもむなしいことだ。
● 滌 di2 =洗滌:洗う
● 落釜 luo4fu3 釜の中に落とす。鍋で煮られること。
● 禾黍 he2shu3 アワやキビ
第一句:靄の籠るキンモクセイやアオギリ(梧桐)の木陰に座って杯を挙げていると、長安の公子が口から涎を流したように、誰かさんと誰かさんは重陽の節句にこれから起こることを期待している。ここでは、宝玉と黛玉が仲良く詩のやりとりをしたことをあげつらい、これから更にお楽しみに入るのか、とからかっている。
第二句:横ばいのカニは、目の前の道路を歩くにも方角の見境がつかないくせに、腹の中では人のことをいろいろあげつらい、吉だ凶だと勝手なことを言っている。
第三句:酒がカニの生臭さを洗い流せないなら、酒に菊を浮かべればよい。(ここでは、菊花酒のことを言っている。重陽の節句に菊花酒を飲むと、悪気を除くことができると言われていた。)カニを食うと腹が冷えると言うが、それを防ぐには生姜を用いるがよい。
第四句:カニもこうして釜に入れられてしまえば、もういくらジタバタしてもはじまらない。カニがもと住んでいた月夜の水辺には、今は禾黍の香りだけが空しくただよっているばかりであろう。
この詩については、前半の二句を読むなり、皆の反応が;
衆人不禁叫絶.宝玉道:“写得痛快!我的詩也該焼了.”(皆思わず感嘆の声を上げた。宝玉は「すばらしい!ぼくの詩も焼き捨てなくっちゃ。」)という反応が還るできばえであった。
そして、全部聞き終えたうえでの論評は;
衆人看畢,都説這是食螃蟹絶唱,這些小題目,原要寓大意才算是大才,只是風刺世人太毒了些.(皆は見終わると、こう言った。これはカニを食べる詩の傑作だ。こうした小さな題目は、もともと大きな意味を寓するのでなければ大才とはいえない。しかしこれは世人の風刺がやや辛辣すぎる。)
作者は、この三番目の詩が言いたくて、前のふたつを付け足しで作ったと言われている。なかでもその第二句の、世の中で、陰謀や不正にあらゆる手練手管を尽くしても、最後には身を滅ぼすことになることを暗に言いたかったのである。
雲郷は、《雲郷話食》の中で、この紅楼夢での上海ガニは、実は江南地方のカニではなく、曹雪芹が暮らした北京付近に出回るカニ、つまり天津の勝芳のカニではないか、と言っている。その根拠は、第三十七回に、次のようなくだりがあるかかである。
宝釵道:“這個我已経有個主意.我們当舗里有個伙計,他們地里出的很好的肥螃蟹,前儿送了几斤来.現在這里的人,従老太太起連上園里的人,有多一半都是愛吃螃蟹的.前日姨娘還説要請老太太在園里賞桂花吃螃蟹,因為有事還没有請呢.你如今且把詩社別提起,只管普同一請.等他們散了,咱們有多少詩作不得的.我和我哥哥説,要几簍極肥極大的螃蟹来,再往舗子里取上几壇好酒,再備上四五桌果碟,豈不又省事又大家熱閙了.”
[訳]宝釵が言った。「それについては、私に考えがある。うちがやっている質屋の手代が、自分の家の田んぼから上等な肥えたカニが取れるとかで、先日幾斤か届けてくれた。今ここの人は、ご隠居様はじめご家族の人たちは、たいていの皆さんがカニが好物だ。先日母がご隠居様を園内にお招きしてキンモクセイの花見をしながらカニをご馳走しようと言っていたが、用事にまぎれてまだお招きしていない。今、詩社のことは言わないで、かまわず皆さんを誰彼無しに全部お呼びしなさい。皆さんがお帰りになってから、私たちが詩を作ることにしたらどうだろう。私が兄に話をして、一番肥えた大きなカニを幾籠かもらうので、それからお店から良い酒を少し取り寄せよう。それに果物のお皿を四五卓用意すれば、手間もはぶけるし、皆もにぎやかに楽しめる。」
ここの「他們地里出的很好的肥螃蟹」の、「地里」、つまり田んぼから取れるというところに注意する必要があり、江南では、陽澄湖はじめ、太湖、高郵湖など、産地が湖や川で、そこへ四手網や簗を仕掛けてカニを捕まえるのが一般的な光景であるのに対し、天津・勝芳では、秋に海河の水が畑に溜まり、カニが海河を遡ってきて、高粱畑で高粱を食べに上がってくるので、そこを捕獲する、だから「地里出」という言い方をするそうである。
在江南呉越間,一年到頭都能在水浜中捉到蟹,但真正講究螃蟹,要在旧歴九十月間経霜之后,団臍(母蟹)才有黄,再晚尖臍(公蟹)才有膏,這就是俗話説的“九団十尖”。而北京天気冷,霜期早,所以在旧歴七月底,八月初就講究吃螃蟹了。
● 一年到頭 一年中
● 浜 bang1 小川。日本語の浜の意味は「濱bin1」。「浜 bang1」は主に江南一帯で使う。
● 臍qi2 「肚臍」でへその意味だが、カニの甲羅の裏側、えらぶたの意味に使う。
● 団臍 tuan2qi2 雌ガニの腹部の丸い殻。或いは雌ガニの意味。「団」は丸いという意味。
● 尖臍 jian1qi2 雄ガニの腹部のとがった殻。或いは雄ガニの意味。
[訳]江南の呉越の間では、一年中池や川でカニを捕まえることができるが、本当にカニのことを言うなら、旧歴の九、十月の間の霜が降りた後、雌ガニは卵を持ち、更に遅いと雄ガニが味噌(「膏」。どう訳したらよいか迷い、とりあえず味噌とした)を持ち、これがつまり俗に言う「九月は雌で十月は雄」である。北京は寒いので、霜が降りるのが早く、旧歴七月末、八月初旬にはカニを食べる話ができる。
上記の団臍、尖臍という言い方、果たしてカニを食べる時に通じるだろうか?来年のシーズン、蘇州に行く機会があれば、是非試してみたいものである。