前回に続き、間違い易い語句の使い方を、例文の間違いから見ていく。種本は、張広信著 《字詞句語 病誤五百例》 1981年内蒙古人民出版社である。
(三)同義語の使い方
同義語の意味の違い、使い方の違いは、なかなか微妙で難しく、それゆえ辞書にもその比較説明が記されていたりする。間違い易い事例として、以下いくつかの例が紹介されている。
1、升入高中以后,我就下決心学好各門功課。考上大学――這是我的夢想。
“夢想”というのは現実離れした妄想のことで、けなす意味合いを持つ(“貶義詞”という)。未来のことへの希望をいう場合は“理想”を使い、これはほめ言葉(“褒義詞”という)である。ここは、“夢想”を“理想”に変えなければならない。
2、霸権主義者貌似強大,実際上是很胆小的,在世界公正輿論面前,他們已経成了過街老鼠。
“胆小”はことを恐れる意味で、感情的な色合いはあまりない。ことに当たって恐れているが、見かけは強がってみせることは“怯懦qie4nuo4”といい、これは“貶義詞”であり、感情的な色合いが濃い。ここは、“胆小”を“怯懦”に変えなければならない。
● 貌似 mao4si4 ~らしく見える。うわべはよく似ている
● 過街老鼠 guo4jie1lao3shu3(通りを横切るネズミの意味から)皆に憎まれている悪人のたとえ。嫌われ者。鼻つまみ者
3、你応該明白,経常抄襲別人的作業,這様做的結果是相当厳重的。
“結果”は一般の事物の発展の最後の状態で、それ自身に良い悪いのニュアンスは無い。しかし、この文で言っているのは悪辣な行為であるので、貶義詞の“后果”や“悪果”を用いるのがふさわしい。ちなみにその反対に褒義詞は“成果”である。
● 抄襲 chao1xi2 剽窃(ひょうせつ)する。盗作する
4、隣居家的王奶奶已経七十多歳了,她年邁体弱,歩履艱難,可是五個儿子你推我,我推你的,誰也不扶養王奶奶,虧了王奶奶贍養他們的一片辛苦。
本来の意味は、“扶養”fu2yang3 は夫婦間で生活の面倒を見ることであり、“贍養”shan4yang3 は子女が父母の生活の面倒を見ること、“撫養”fu3yang3 は父母が子女を養育することであるが、最近は“扶養”が幅広い意味で使われているようだ。この例では、“贍養”は明らかに使い方がおかしく、本来の意味では“撫養”だし、或いは“扶養”で統一すべきである。
● 年邁 nian2mai4 年をとる。高齢になる
5、因为上学期考试両門功课不及格,爸爸狠狠地批判了我一顿。
“批判”は語気が強く、誤った思想や行為を系統だって分析し論駁することで、ここでは適当でない。ここは、相手の誤りを指摘して注意したり意見を言うことなので、“批評”が適当である。
● 狠狠 hen3hen3 厳しく尚、“功课”は授業のことだが、教科を数える量詞は“門”である。
6、他雖然是班干部,但也不能欺圧同学。
“欺圧”は侮って圧迫するという意味で、語気がたいへん強く、戦いや国家間の争いの時などに用いられる。同級生をいじめる、というような使い方では、“欺負”qi1fu、“欺侮”qi1wu3 を用いる。
7、完成家庭作業,這是毎個同学的使命。
“使命”は企業の事業の使命、人生の使命、といった、重要な任務について使われる。一方、例で言っているのは、もっと軽い、一般的な、「やるべきこと」を言っている。したがって、“任務”を使うのが適当である。
8、薛明同学長得很肥,走起路来,一摇一晃的,脚歩也顕得很重。
“肥”というのは、ふつう、肉類などの脂肪分が多いことを言い、人が太っていることを言う時には、“胖”を使う。
9、弟弟冒着大雨,臉色慌張地跑回家里説:“不好了!李奶奶家的屋里全是水,箱子都漂起来了!”
“臉色”は一般に顔に現れた色を指し、“他臉色蒼白,象閙了一場大病”(彼は青白い顔をしているが、大病をしたかのようだ)などという時に使う。驚愕、不安、憤怒、猜疑などの内心の動きが顔に現れることをいう時は、“神色”を使う。
10、這是一个美麗的小村庄。春天,燕子従南方飛来,和人們一起歓楽地歌唱。村外,各種花草繁華地生長起来,是那様的可愛。
“繁華”は都市や街がにぎやかで繁栄している様を表し、“上海是我国最繁華的大都市”という言い方をする。この場合は、草木が盛んに生い茂る様なので、“繁茂”を使わなければならない。
11、這座城市擁有悠久歴史。
“擁有”は、土地、人口、財産などを持つ、領有する、という意味である。“我国擁有九百六十万平方米的土地”などという時に用いる。対象は具体的な物である。これに対し、例のように抽象的なものの場合は、“具有”を用いなければならない。
12、校門外是一条寛敞的油漆馬路。
“油漆”はペンキのことであり、ここはアスファルトの舗装道路のことだから、“柏油”を使うのが正しい。尚、アスファルト、コールタールは正式には“瀝青”li4qing1 といい、“瀝青路”という言い方もある。
13、暑假我乗火車去奶奶家,沿路車窓外一望無際的田野上,社員們繁忙的景象浮現在我的眼前。
“浮現”というのは、過去に経験した情景が頭の中に現れることであり、“看着遺像,爺爺慈祥的面孔又浮現在我的眼前”という使い方をする。この場合は、実際の情景が眼の前に展開されることなので、“出現”や“展現”を使うべきである。
14、我覚得絵画、撮影藝術也応当百花斉放,不能光時髦,一窩蜂。弄得美人画、美人照充満報刊雑誌。
“充満”はいっぱいつまっている、敷き詰められている、という意味で、これ自身には、ほめたり、けなしたりする意味あいはなく、使用範囲も広く、“教室里充満了熱烈的気氛”のように使う。一方、例文は“時髦”、流行を追うだけではいけないと言い、「美女の絵や写真が新聞や雑誌に氾濫している」状況を批判的な口調で言っているのだから、“充満”ではなく、貶義詞の“充斥”chong1chi4 をつかうことで、「はびこる、氾濫する」、という意味合いが出てくる。
● 一窩蜂 yi1wo1feng1 一群のハチのように、群れをなす様。
15、小弟弟做完作業,問我:“哥哥,我長大了是考文,還是考理工呢?”他才上小学,就提出這様的問題,使我感到很忽然。
“忽然”は副詞であり、突然、思いがけずに事が起こる、という意味である。しかし副詞は同じ副詞の“很”の修飾を受けることはできないし、動詞“感到”の賓語になることもできないので、ここに使うのは正しくない。“突然”であれば、副詞だけでなく形容詞として使えるので、ここで使うのにふさわしい。
16、上自習的鈴声響了,同学們都坐好了,王彬回過頭来問我:“呂強,目前你準備做物理作業嗎?”
“目前”は目下、現在の意味ではあるが、話をしている現在の状況のみを指し、その時間的な範囲は狭い。例では、物理の宿題をする準備をしているのだから、時間の範囲は少し前の過去にまで遡り、やや不自然な感じがする。“現在”であれば、話をしている時点の前後のある程度の時間をさすことができ、この場合に使うのにふさわしい。
17、開学初,同学們都準備好了上学所必須的文具。
“必須”は必ずそうしなければならない、という意味の副詞であり、通常は動詞の前に置いて状況語(副詞性修飾語、或いは連用修飾語)として用いる。ところが、例文は助詞“所”+動詞(形容詞)+“的”で名詞“文具”を修飾させる構文になっており、副詞“必須”を使うのは正しくない。ここは、形容詞(動詞)の“必需”、或いは“需要”を使うべきである。
18、我們不好好学習,怎麼対得起祖国和人民対我們青年一代的希望?
“希望”は自分に対しても他人に対して幅広く使うことができるものの、意味は幾分軽い感じがする。例文は組織全体から見た個人に対する期待、或いは年長者から見た後輩に対する期待、という意味合いであり、こうした場合、“期望”がよりふさわしい。ちなみに、“期望”は自分から他人に対する希望、期待にのみ用いることができ、自らに対しては用いることができない。
19、在這個向“四化”進軍的偉大時期,我們青年人応該珍惜時刻,発奮図強,刻苦学習,使自己成為有用的人才。
“時期”というのは、一般にある一定の長さの年月を指し、その年月は比較的短いことが多い。一方、歴史上のある時期の政治、経済、文化等の状況が他の時期と異なる場合に、その時期を称して“時代”といい、比較的長い年月を指すことが多い。例文では、この本が書かれた、中国が四つの現代化を進めていた当時の状況で、その前の文革時代と状況が明らかに異なり、かつ今後もそれが長い間続くという思いが込められていることから、“時代”を使うのがふさわしい。“時刻”は時間の中のある一点を指す。青年が時間を惜しまなければならない、大切にしなければならない、というのは、一般的な概念で、あらゆる時間がそうであり、ある限られた時間のみをいうのではないから、ここでは“時間”、或いは“時光”を使わなければならない。
20、生物課上,老師給我們解剖小兔,拉開小兔的肚皮以后,我一看到里面的腸子肚子就有点害怕,老師還想解剖它的脳袋,但怎麼也擘不開。
“拉開”、“肚皮”、“腸子肚子”、“脳袋”、“擘”bai1 は全て口語で使うことばだが、例文は“解剖”jie3pou1 という学術行為の話なので、使うべき用語は異なる。腹を開くのは、“拉開”ではなく、“切開”qie1kai1 でなければならない。腹は、“肚皮”ではなく“腹部”を使う。胃腸は“腸子肚子”ではなく“腸胃”である。ちなみに、胃腸薬は“腸胃薬”である。頭は“脳袋”ではなく“頭顱”tou2lu2 である。開くのは“擘”bai1 ではなく“剖”pou1 である。ちなみに、“擘”bai1 という動作は、物を両手で持ってふたつに割ることで、たとえば饅頭を両手でふたつに割る動作がこのことばの意味である。
同義語の間違った使い方のお話は以上であるが、こういう内容も、自分で本を読みながら整理していくと、理解の再確認ができ、おもしろい。ただ、ことばの使い方は、時代とともに変わっていくので、20年前にはこうだったが、今は多少使い方が異なっているかもしれない。何かサンプルがあれば、教えていただきたい。
【原文】 張広信著 《字詞句語 病誤五百例》 1981年内蒙古人民出版社
(三)同義語の使い方
同義語の意味の違い、使い方の違いは、なかなか微妙で難しく、それゆえ辞書にもその比較説明が記されていたりする。間違い易い事例として、以下いくつかの例が紹介されている。
1、升入高中以后,我就下決心学好各門功課。考上大学――這是我的夢想。
“夢想”というのは現実離れした妄想のことで、けなす意味合いを持つ(“貶義詞”という)。未来のことへの希望をいう場合は“理想”を使い、これはほめ言葉(“褒義詞”という)である。ここは、“夢想”を“理想”に変えなければならない。
2、霸権主義者貌似強大,実際上是很胆小的,在世界公正輿論面前,他們已経成了過街老鼠。
“胆小”はことを恐れる意味で、感情的な色合いはあまりない。ことに当たって恐れているが、見かけは強がってみせることは“怯懦qie4nuo4”といい、これは“貶義詞”であり、感情的な色合いが濃い。ここは、“胆小”を“怯懦”に変えなければならない。
● 貌似 mao4si4 ~らしく見える。うわべはよく似ている
● 過街老鼠 guo4jie1lao3shu3(通りを横切るネズミの意味から)皆に憎まれている悪人のたとえ。嫌われ者。鼻つまみ者
3、你応該明白,経常抄襲別人的作業,這様做的結果是相当厳重的。
“結果”は一般の事物の発展の最後の状態で、それ自身に良い悪いのニュアンスは無い。しかし、この文で言っているのは悪辣な行為であるので、貶義詞の“后果”や“悪果”を用いるのがふさわしい。ちなみにその反対に褒義詞は“成果”である。
● 抄襲 chao1xi2 剽窃(ひょうせつ)する。盗作する
4、隣居家的王奶奶已経七十多歳了,她年邁体弱,歩履艱難,可是五個儿子你推我,我推你的,誰也不扶養王奶奶,虧了王奶奶贍養他們的一片辛苦。
本来の意味は、“扶養”fu2yang3 は夫婦間で生活の面倒を見ることであり、“贍養”shan4yang3 は子女が父母の生活の面倒を見ること、“撫養”fu3yang3 は父母が子女を養育することであるが、最近は“扶養”が幅広い意味で使われているようだ。この例では、“贍養”は明らかに使い方がおかしく、本来の意味では“撫養”だし、或いは“扶養”で統一すべきである。
● 年邁 nian2mai4 年をとる。高齢になる
5、因为上学期考试両門功课不及格,爸爸狠狠地批判了我一顿。
“批判”は語気が強く、誤った思想や行為を系統だって分析し論駁することで、ここでは適当でない。ここは、相手の誤りを指摘して注意したり意見を言うことなので、“批評”が適当である。
● 狠狠 hen3hen3 厳しく尚、“功课”は授業のことだが、教科を数える量詞は“門”である。
6、他雖然是班干部,但也不能欺圧同学。
“欺圧”は侮って圧迫するという意味で、語気がたいへん強く、戦いや国家間の争いの時などに用いられる。同級生をいじめる、というような使い方では、“欺負”qi1fu、“欺侮”qi1wu3 を用いる。
7、完成家庭作業,這是毎個同学的使命。
“使命”は企業の事業の使命、人生の使命、といった、重要な任務について使われる。一方、例で言っているのは、もっと軽い、一般的な、「やるべきこと」を言っている。したがって、“任務”を使うのが適当である。
8、薛明同学長得很肥,走起路来,一摇一晃的,脚歩也顕得很重。
“肥”というのは、ふつう、肉類などの脂肪分が多いことを言い、人が太っていることを言う時には、“胖”を使う。
9、弟弟冒着大雨,臉色慌張地跑回家里説:“不好了!李奶奶家的屋里全是水,箱子都漂起来了!”
“臉色”は一般に顔に現れた色を指し、“他臉色蒼白,象閙了一場大病”(彼は青白い顔をしているが、大病をしたかのようだ)などという時に使う。驚愕、不安、憤怒、猜疑などの内心の動きが顔に現れることをいう時は、“神色”を使う。
10、這是一个美麗的小村庄。春天,燕子従南方飛来,和人們一起歓楽地歌唱。村外,各種花草繁華地生長起来,是那様的可愛。
“繁華”は都市や街がにぎやかで繁栄している様を表し、“上海是我国最繁華的大都市”という言い方をする。この場合は、草木が盛んに生い茂る様なので、“繁茂”を使わなければならない。
11、這座城市擁有悠久歴史。
“擁有”は、土地、人口、財産などを持つ、領有する、という意味である。“我国擁有九百六十万平方米的土地”などという時に用いる。対象は具体的な物である。これに対し、例のように抽象的なものの場合は、“具有”を用いなければならない。
12、校門外是一条寛敞的油漆馬路。
“油漆”はペンキのことであり、ここはアスファルトの舗装道路のことだから、“柏油”を使うのが正しい。尚、アスファルト、コールタールは正式には“瀝青”li4qing1 といい、“瀝青路”という言い方もある。
13、暑假我乗火車去奶奶家,沿路車窓外一望無際的田野上,社員們繁忙的景象浮現在我的眼前。
“浮現”というのは、過去に経験した情景が頭の中に現れることであり、“看着遺像,爺爺慈祥的面孔又浮現在我的眼前”という使い方をする。この場合は、実際の情景が眼の前に展開されることなので、“出現”や“展現”を使うべきである。
14、我覚得絵画、撮影藝術也応当百花斉放,不能光時髦,一窩蜂。弄得美人画、美人照充満報刊雑誌。
“充満”はいっぱいつまっている、敷き詰められている、という意味で、これ自身には、ほめたり、けなしたりする意味あいはなく、使用範囲も広く、“教室里充満了熱烈的気氛”のように使う。一方、例文は“時髦”、流行を追うだけではいけないと言い、「美女の絵や写真が新聞や雑誌に氾濫している」状況を批判的な口調で言っているのだから、“充満”ではなく、貶義詞の“充斥”chong1chi4 をつかうことで、「はびこる、氾濫する」、という意味合いが出てくる。
● 一窩蜂 yi1wo1feng1 一群のハチのように、群れをなす様。
15、小弟弟做完作業,問我:“哥哥,我長大了是考文,還是考理工呢?”他才上小学,就提出這様的問題,使我感到很忽然。
“忽然”は副詞であり、突然、思いがけずに事が起こる、という意味である。しかし副詞は同じ副詞の“很”の修飾を受けることはできないし、動詞“感到”の賓語になることもできないので、ここに使うのは正しくない。“突然”であれば、副詞だけでなく形容詞として使えるので、ここで使うのにふさわしい。
16、上自習的鈴声響了,同学們都坐好了,王彬回過頭来問我:“呂強,目前你準備做物理作業嗎?”
“目前”は目下、現在の意味ではあるが、話をしている現在の状況のみを指し、その時間的な範囲は狭い。例では、物理の宿題をする準備をしているのだから、時間の範囲は少し前の過去にまで遡り、やや不自然な感じがする。“現在”であれば、話をしている時点の前後のある程度の時間をさすことができ、この場合に使うのにふさわしい。
17、開学初,同学們都準備好了上学所必須的文具。
“必須”は必ずそうしなければならない、という意味の副詞であり、通常は動詞の前に置いて状況語(副詞性修飾語、或いは連用修飾語)として用いる。ところが、例文は助詞“所”+動詞(形容詞)+“的”で名詞“文具”を修飾させる構文になっており、副詞“必須”を使うのは正しくない。ここは、形容詞(動詞)の“必需”、或いは“需要”を使うべきである。
18、我們不好好学習,怎麼対得起祖国和人民対我們青年一代的希望?
“希望”は自分に対しても他人に対して幅広く使うことができるものの、意味は幾分軽い感じがする。例文は組織全体から見た個人に対する期待、或いは年長者から見た後輩に対する期待、という意味合いであり、こうした場合、“期望”がよりふさわしい。ちなみに、“期望”は自分から他人に対する希望、期待にのみ用いることができ、自らに対しては用いることができない。
19、在這個向“四化”進軍的偉大時期,我們青年人応該珍惜時刻,発奮図強,刻苦学習,使自己成為有用的人才。
“時期”というのは、一般にある一定の長さの年月を指し、その年月は比較的短いことが多い。一方、歴史上のある時期の政治、経済、文化等の状況が他の時期と異なる場合に、その時期を称して“時代”といい、比較的長い年月を指すことが多い。例文では、この本が書かれた、中国が四つの現代化を進めていた当時の状況で、その前の文革時代と状況が明らかに異なり、かつ今後もそれが長い間続くという思いが込められていることから、“時代”を使うのがふさわしい。“時刻”は時間の中のある一点を指す。青年が時間を惜しまなければならない、大切にしなければならない、というのは、一般的な概念で、あらゆる時間がそうであり、ある限られた時間のみをいうのではないから、ここでは“時間”、或いは“時光”を使わなければならない。
20、生物課上,老師給我們解剖小兔,拉開小兔的肚皮以后,我一看到里面的腸子肚子就有点害怕,老師還想解剖它的脳袋,但怎麼也擘不開。
“拉開”、“肚皮”、“腸子肚子”、“脳袋”、“擘”bai1 は全て口語で使うことばだが、例文は“解剖”jie3pou1 という学術行為の話なので、使うべき用語は異なる。腹を開くのは、“拉開”ではなく、“切開”qie1kai1 でなければならない。腹は、“肚皮”ではなく“腹部”を使う。胃腸は“腸子肚子”ではなく“腸胃”である。ちなみに、胃腸薬は“腸胃薬”である。頭は“脳袋”ではなく“頭顱”tou2lu2 である。開くのは“擘”bai1 ではなく“剖”pou1 である。ちなみに、“擘”bai1 という動作は、物を両手で持ってふたつに割ることで、たとえば饅頭を両手でふたつに割る動作がこのことばの意味である。
同義語の間違った使い方のお話は以上であるが、こういう内容も、自分で本を読みながら整理していくと、理解の再確認ができ、おもしろい。ただ、ことばの使い方は、時代とともに変わっていくので、20年前にはこうだったが、今は多少使い方が異なっているかもしれない。何かサンプルがあれば、教えていただきたい。
【原文】 張広信著 《字詞句語 病誤五百例》 1981年内蒙古人民出版社