中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

西安南郊の古墳で何万体もの裸体の兵士俑が発見される

2010年01月31日 | 中国史
 また考古学上の発見があった。前漢時代の古墳から、何万体もの裸体の兵士の埴輪が出土したのである。このことを報じた新聞記事を、用語の解釈をつけながら読んでいきたい。

【タイトル】西安南郊大墓発現数以万計裸体戦俑
      2010年01月28日  来源:《重慶晚報》

[訳]西安南郊の古墳で何万体もの裸体の兵士俑が発見される

● 数以万計 shu3yi3wan4ji4 数が万にのぼると見積もられる /計:計算する。→通常、前に“按”、“以”などの介詞句を用い、後に目的語を伴う。
● 戦俑:兵士の埴輪

 当一排排赤身裸体的陶俑被発掘時,考古人員驚呆了,這些在漢景帝陽陵常見的大批裸体陶俑,竟然在西安南郊一大墓的陪葬坑出現,而且数量衆多,数不勝数。這儿,又埋藏着哪位王侯将相?

[訳]一列一列の裸体の陶俑が発掘された時、考古学者は驚いた。これら漢景帝の陽陵でよく見られる大量の裸体の陶俑が、意外にも西安南郊の古墳の陪葬坑で見つかり、しかもその数は数えきれないほど多かった。ここに埋葬されているのは、どの王侯、将軍、宰相であろうか。

● 排 pai2 [量詞]列
● 漢景帝陽陵:漢景帝・劉啓陵墓は、咸陽市秦都区張家湾の空港自動車専用道の西側にある。陵墓は東西166.5m、南北155.4m,高さ31.6m、升を伏せた形をしている。1990年5月、漢陵考古隊が陽陵南区で一組14列、全部で24個の俑坑の埋葬施設を発見した。現在までに第6、第8号の二つの坑が調査整理され、盗掘に遭っていたが、彩俑彩陶400余件、銅・鉄の兵器、農耕工具、装飾品、貨幣千余件を出土した。また、17号坑からは土木車数乗と車に従う一群の陶兵陶俑を発掘した。出土陶俑は全て裸体の男性で、髪の毛、髭、眉、眼が黒く塗られている他、全身がオレンジ系の赤色で彩色されていた。推測では、陽陵の陶俑の総数は数万体に達するとみられる。

※劉啓(B.C.188年-141年)は漢文帝・劉恒の子で、文帝、景帝は漢王朝創始期の繁栄時期の“文景之治”を行い、社会経済、文化の発展を推進した。B.C.126年、景帝の王皇后が病死し、また陽陵に葬られた。

● 坑 keng1 坑道。立て穴。
● 数不勝数 shu3bu4sheng4shu3 数えきれない

 随着一年多的考古発掘,考古人員終于掲開了謎団,該墓葬群就是西漢赫赫有名的大司馬衛将軍張安世的家族墓地。

[訳]一年余りの考古発掘で、考古学者は遂に一連の謎を明らかにした。この墓葬群は前漢時代のあの有名な大司馬衛将軍、張安世の家族の墓地であると。

● 掲開 jie1kai1 明らかにする
● 赫赫有名 he4he4you3ming2 名声が非常に高いことの形容。 /赫赫:目覚ましく盛大である様子。
● 大司馬:官名。《周礼》では、大司馬を夏の官吏の長とする。漢の武帝(劉徹)は元狩四年(前119)に太尉を罷め、初めて大司馬を置き、大将軍、驃騎将軍の号の前に加え、例えば大司馬大将軍・衛青、大司馬驃騎将軍・霍去病のように呼んだ。
● 衛将軍 漢代、文帝は代王から帝位を継いだ際、衛将軍を設け、信任していた宋昌を衛将軍に任じ、京城の各軍を統括させた。防衛部隊の統帥であり、二品の位であった。後に驃騎将軍、車騎将軍が将軍府を開設し、官属を設置、禁兵を掌握し、政務を執った。

■ 南郊驚現両座“甲”字大墓
[訳]西安南郊で二つの“甲”字型大墓が発見される

 2008年7月,陝西省考古研究院在考古勘探時,大型“甲”字墓的出現引起了考古専家的特別関注。而随着墓葬的発掘,一系列的驚喜更是扑面而来。

[訳]2008年7月、陝西省考古研究院が考古調査をした際、大型の“甲”字墓の出現は考古学者の関心を集めた。そして墓の発掘が進むにつれ、一連の驚きが顔をなでた。

● 勘探 kan1tan4 (地下資源などを)調査する。探査する。
● 驚喜 jing1xi3 驚きと喜び
● 扑面 pu1mian4 真正面から顔に当たる。[例]清風扑面:そよ風が顔をなでる

 昨日,在対外公布正在発掘的鳳栖原西漢家族墓地考古情况時,負責該墓葬群発掘的領隊省考古研究院副院長張仲立説,這一西漢墓地規模大、規格高,其中最引人注目的是墓園中部的大型“甲”字大墓,専家為其編号M8。M8大墓総長有60多米,而其中的墓室部分長35米,寛24.5米,距離地面有15米。考古専家説,只有王侯級別的人員才可能具有如此“甲”字大墓。

[訳]昨日、現在発掘中の鳳栖原西漢家族墓地の考古調査状況の対外発表時、この墓葬群の発掘隊の責任者である陝西省考古研究院副院長、張仲立が言うところでは、この前漢の墓地の規模は大きく、規格が高く、最も注目されるのは墓園中部の大型の“甲”字型大墓で、専門家はそれにM8という通し番号を付けた。M8大墓は総延長が60m余り、その中の墓室部分の長さは35m、幅24.5m、地面からの距離は15mである。考古学者の説明によれば、王侯クラスの人物のみがこのような“甲”字型大墓を作ることができた。

 而在墓室東、南、西三个壁面,均有“之”字状的台階,考古専家推測可能為修復時往上運土的道路。在M8的周囲則分布着6座大小不一的陪葬坑,最長的有38米,最短的有6米。而在距离M8不遠処,又現一座“甲”字大墓,但与M8相比,明顕小了很多,専家推測為墓主夫人墓。

[訳]墓室の東、南、西の三つの壁面には、全て“之”字型の階段があり、考古学者は建設時に上方へ土を運ぶ道路であった可能性があると推測する。M8の周囲には6基の大小異なる陪葬坑が分布し、その最も長いものは38m、最も短いものは6mである。そしてM8から余り遠くないところに、もう一基の“甲”字型大墓が見つかったが、これはM8と比べると、明らかにずっと小さく、専門家は墓主の夫人の墓であろうと推測する。

■ “駟馬一車”疑為皇帝所賜
[訳]“4頭立ての馬車”は皇帝から賜ったものではないか?
 ● 駟馬 si4ma3 4頭立ての馬

 昨日在考古現場,考古専家史全平向記者描述大墓内的発掘更譲人驚喜。
[訳]昨日発掘現場で、考古学者の史全平は記者に大墓内の発掘は更に人を驚かすものであったと述べた。

 在墓道中部的前箱,両千年過去了,色的木炭、周囲的粘網依然保存完好,而底部則舗設着整斉的方磚。“這里出土了実用的‘駟馬一車’両駕,極其珍貴。此外,還有很多冥車馬。”史全平説,“駟馬一車”是当時真的車馬陪葬,両千年后,馬匹只剰下白骨,車早已腐朽,幸運的是車馬遺跡十分完整,依然可以看出当年的華麗。“車的豪華装飾、漆皮、華蓋、青銅構件等物件,都具有帝王身份。”考古専家推測,該“駟馬一車”応該為皇帝御賜。

[訳]墓道中部の前室は、二千年が経過しているが、黒色の木炭、周囲の粘網は依然としてよく保存されており、底部にはきちんとした方形の磚が敷かれている。「ここで実際に用いられた“4頭立ての馬車”二輌が出土したのは、極めて珍しい。この他、たくさんの陪葬された車馬があった。」史全平の説明では、“4頭立ての馬車”は当時の本当の車馬を陪葬し、二千年後、馬は白骨だけが残り、車はとっくに朽ち果てていたが、幸いにも車馬の遺跡は完全にそのまま残っており、依然として当時の華麗さを見ることができる。「車の豪華な装飾、漆の破片、華蓋、青銅の部品等は、帝王の身分を示している。」考古学者は、この“4頭立ての馬車”は皇帝から下賜されたものにちがいないと推測している。
● 華蓋 hua2gai4 帝王の車につけた絹がさ

■ 陪葬坑驚現“千軍戦俑”

 在M8的周囲,考古専家先后発現6座大小不一的陪葬坑。掲開一座座陪葬坑,驚現“千軍戦俑”,有陶俑、木俑。正在発掘的k6号坑内,数以万計的陶俑雖倒在坑内,却個個精神抖擻,面部清晰,紅紅的嘴唇,濃的眉毛,還有着各種髪式,有的神情凝重,有的面容祥和。“雖然陶俑這麼多,却很難找到同様的臉。”史全平説。

[訳]M8の周囲で、考古学者は前後して6基の大きさの異なる陪葬坑を発見した。一基一基の陪葬坑を調べると、驚くべきことに“千軍の兵士俑”が現れ、その中には陶俑、木俑があった。現在発掘中のk6号坑内では、数万体あると見積もられる陶俑が坑内に横倒しになっているが、その一体一体は生き生きとして、顔は表情がはっきりして、真赤な唇、漆黒の眉毛、またいろいろな髪型をし、ある者は表情に威厳があり、ある者は温和な顔つきをしている。「陶俑はこんなにたくさんあるのに、同じ顔を捜すのは難しい」と史全平は語った。
● 抖擻 dou3sou3 (元気などを)奮い起こす。奮い立つ
● 凝重 ning2zhong4 荘重である。厳かで重々しい

“這些陶俑与漢陽陵的陶俑相似,大約60厘米高。”張仲立説,現在雖然看着陶俑都是赤身裸体,没有胳膊,但在胳膊処都留有孔,而在坑内専家們還発現了盔甲的残片,可見這些陶俑原先都穿有各種各様的衣服。而在坑内,出土了大量的兵器銅鏃、刀、箭等,還有十分少見的6金6銅的青銅鐘,還有做飯用的陶釜。

[訳]「これらの陶俑と漢陽陵の陶俑はよく似ており、大きさは約60cmの高さである。」張仲立の説明では、現在は陶俑は皆裸であり、腕が無いが、腕のところには穴が残っており、坑内で専門家は甲冑の残片を発見しており、これらの陶俑は元々は様々な衣服を着ていたものと思われる。坑内で、大量の銅の矢じり、刀、弓矢等が出土し、またたいへん珍しい6金6銅の青銅鐘が発見され、また炊事用の陶釜も出土している。
● 盔甲 kui1jia3 甲冑(かっちゅう)
● 青銅鐘 qing1tong2zhong1 青銅でできた釣鐘
● 陶釜 tao2fu3 古代の陶制の炊事器具。口と底が円形で、蓋ができるようになっていた。

■“長楽未央”瓦当現身祠堂

 此次墓園祠堂的発現也顕得十分珍貴。考古専家丁岩説,在祠堂還発現了“長楽未央”的瓦当,這種皇家才用的瓦当,可見墓主人尊貴的身份,可能為御賜之物。

[訳]今回の墓園の祠堂の発見はたいへん貴重である。考古学者、丁岩の説明では、祠堂で“長楽未央”の瓦当が発見されており、こうした皇室でのみ用いられる瓦当から、墓主は高貴な身分であると思われ、下賜されたものである可能性が高い。
● 祠堂 ci2tang2 一族の先祖を祭ってあるところ。祠堂(しどう)。
● 長楽未央:漢代の長楽古瓦上に“長楽未央”四文字が刻まれている。“長楽”の意味は: 国君は親和力により臣民を導き、国を永続させなければならない。前漢の宮殿は漢帝国の統治の中心として“長楽”を宮殿の名前にしていた。帝王自らも君と臣民の永久の親和を願いとしていた。“未央” は「尽きない」という意味。前漢の宮殿に“未央”と命名し、漢帝国の永続を願った。
● 瓦当 wa3dang1 瓦当(がとう)。軒瓦の先端の模様や文字が刻まれている部分

■ 有望掲開古代軍事秘密

 大小不等的6個陪葬坑,目前還有3座没有発掘,這3座内是否還存在着“千軍戦俑”?是否也站立在坑内接受人們的検閲?

[訳]大小異なる6基の陪葬坑は、これまで3基はまだ発掘されていないが、これら3基にも“千軍の兵士俑”が存在し、坑内に立って人々の観閲を受けるのだろうか。

 考古専家説,此次発掘中完整的軍旅用品極為罕見,在我国古代軍事史上具有劃時代的意義。専家対陶俑的修復和墓葬的進一歩発掘,是否能掲開古代軍事秘密,目前還不得而知。

[訳]考古学者の説明によれば、今回発掘された完全な軍隊用品は極めて珍しいもので、我国の古代軍事史のうえで画期的な意義を持つであろう。専門家の陶俑の修復と墓の今後の発掘により、古代の軍事的な秘密が明らかになるかどうかは、現在は知る由もない。
● 不得而知 bu4de2er2zhi1 知る由がない

■ 縁何認定大墓主人是張安世

“現在可以肯定地説,大墓的主人為西漢宣帝時的重臣,被封富平侯的大司馬衛将軍張安世。”張仲立説。

[訳]「現在確実に言えることは、墓の主人は前漢の宣帝の時の重臣で、富平侯に封じられた大司馬衛将軍、張安世であるということだ。」と張仲立は語った。

 墓室内没有墓志銘縁何認定為張安世之墓呢?考古専家丁岩告記者,在這個時期并没有墓志銘,通過多方資料均証実該墓葬為張安世之墓。

[訳]墓室内に墓志銘が無いのにどんな理由で張安世の墓だと認定するのか?考古学者の丁岩が記者に語ったところでは、この時期には墓志銘が無くても、各種の資料からこの墓が張安世のものだと実証できるとのことである。

 張仲立説,史書対張安世墓葬記載得十分詳細,安世賜茔杜東,将作穿復土,起塚祠堂。此次発掘地剛好与此験証。同時,在陪葬坑内発現了多枚軍的印章,上面刻有“衛将長史”、“軍侯之印”等,而更為重要的一枚特殊的大型銅印,上面僅刻着一个字“張”,蓋印章為4乗以7厘米,如此大的印章十分少見。另外,従墓葬的形制、規模及出土的文物分析,該墓葬応該属于“列侯”級別。従種種資料験証,為大司馬衛将軍張安世的家族墓。

[訳]張仲立の説明では、史書では張安世の墓の記載がたいへん詳細で、安世は墓の東の土地を賜り、土を盛り、祠堂を作ったとある。今回の発掘地は、ちょうどそれを証明した。同時に、陪葬坑で多くの軍の印章が発見され、その上に“衛将長史”、“軍侯之印”等と刻まれており、更に重要なのは一個の特殊な大型の銅印で、上には一文字“張”とだけ刻まれ、印章を押すと7cm四方になり、このような大きな印章はたいへん珍しい。この他、墓の形式、規模、出土文物から分析すると、この墓は“列侯”クラスに属する。種々の資料の検証から、大司馬衛将軍、張安世の一族の墓としたのである。

● 賜茔杜東:《漢書・張安世伝》注:“塚地也。 茔:形声。従土,熒(yíng)省声。本義:墓地

■ 張安世,何許人也

 据史書記載,張安世是西漢重臣。字子儒。杜陵(今陝西西安東南)人。張湯之子。性謹慎,以父蔭任為郎。漢武帝時,因其記憶力強,擢為尚書令,遷光禄大夫。漢昭帝即位,拜右将軍,以輔佐有功,封富平侯。昭帝死后,他与大将軍霍光謀立宣帝有功,拜為大司馬。

[訳]史書の記載によれば、張安世は前漢(西漢)の重臣である。字(あざな)は子儒。杜陵(今の陝西省・西安市東南)の人である。張湯之の子。性格は慎み深く、父のお陰をもって任官した。漢の武帝の時、記憶力が良いとの理由から、尚書令に抜擢され、その後、光禄大夫になった。漢の昭帝が即位すると、右将軍を拝命し、皇帝を輔佐し功績があったことから、富平侯に封じられた。昭帝の死後、彼と大将軍霍光が共謀して宣帝を擁立する功があったことから、大司馬を拝命した。

 張安世還是個為官廉潔之人。他曾挙薦一人為官,后来該人来向其道謝,張安世説自己是以為挙賢達能,乃是公事,豈能私謝,于是与之絶交。

[訳]張安世は官吏としては清廉潔白の人であった。彼は嘗て一人の人物を官吏に推挙したことがあったが、後にその人が彼にお礼を言いに来ると、張安世は自分は賢人や能力のある人を推薦しただけで、公事に私謝をする必要があろうか、と言い、それからその人とは関係を絶ったという。

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 1985年くらいに咸陽博物館を訪れたことがあるが、そこで展示してあった前漢時代の兵馬俑を見たことがある。正にここで書かれているように、等身大の秦の兵馬俑とは違い、高さ60cm程度の小ぶりなものであったが、やはりその数の多さには圧倒されるものがあった。
 今回、張安世という人物のことを初めて知った。前漢は、外戚の力が強かったりし、皇帝への権力の集中が後世のようには進んでいなかったので、このような功臣は大きな財力を持っていたのだろう。
 今後、研究が進んで新たな事実が発見される可能性が大きい。