中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

中国語の修辞:色彩の配合(1)ことばの感情的色彩

2010年05月22日 | 中国語

  ことばの色彩とは、ことばの修辞の色彩を指す。人々の思想交流の過程で、特定の言語環境と交流対象の要求に適応するため、人々が使用することば自身が特定の表情や態度、雰囲気を表現する独特の格調を含有すること、これがことばの修辞的色彩である。ことばの音声形式、語彙の意味、文法機能、修辞的色彩が、この全体の内容を構成する。

 ことばの修辞的色彩は人々が長期間ことばを使う過程で次第に形成された。それは個人がことばを使う上での特殊な表現ではなく、人々全てが理解して使うことができる、安定したものである。修辞的色彩を帯びたことばは、必ず一定の使用範囲と使用状況を持ち、一定の条件制限を持つ。いわゆることばの修辞的色彩の配合とは、ことばを運用する時、修辞的色彩を持ったことばが規定された状況と互いに一致することを指す。そうでなければ、感情上の抵触や雰囲気上の相矛盾が生じてしまう。

 当然、ことばの修辞的色彩は永久に変わらない(中国で“一成不変”yi1cheng2bu4bian4)ものではない。例えば、社会観念の変化、ことばの使用範囲の変化により、ことばの修辞的色彩が変化することはあり得る。

 ことばの修辞的色彩には、ことばの感情的色彩と語体の色彩の二つの面が含まれる。

               (一)ことばの感情的色彩の配合

 いくつかのことばは一定の意味を表現する以外に、同時に一種の感情態度を表現することができ、こうしたことばは感情的色彩を帯びている。例えば私たちが語彙の領域で言う“褒義詞”(ほめことば)、“貶義詞”(けなしことば)がそれである。単語(“詞”)だけでなく、いくつかの成語、慣用句、ことわざ、かけことば(“歇后語”)にも褒貶の意味を帯びたものがある。

例えば:
  “再接再”“日新月異”“万衆一心”“開門紅”“人心斉,泰山移”“千里送鵞毛 ― 礼軽情意重”これらは何れも“褒義詞”である。
  “変本加”“日暮途窮”“四分五裂”“拍馬屁”“天下烏鴉一般”“黄鼠狼給鶏拜年 ― 没安好心”これらは何れも“貶義詞”である。
 これらのことばはそれ自身愛憎感情を明確に表現することができ、典型的な感情的色彩を帯びたことばである。

 ことばの中に感情の色彩を帯びたことばはごく一部分に過ぎず、大部分のことばは感情の色彩を帯びない。いくつかのことばの基本的な意味は感情の色彩を帯びていないが、その派生する意味には、しばしばある種の感情的な色彩を帯びている。例えば“高”ということばは、“這棵樹很高”の中では感情的色彩を帯びないが、“你的技術真高”の中では感情的色彩を帯びる。また、例えば“紅、白”は本来は二種の色で、感情的色彩は無いが、京劇の中で、赤色の隈取り(“臉譜”lian3pu3)は忠義を表し、白色の隈取りは狡猾を表し、観衆は一目見ればすぐにわかる。ここの“紅”と“白”は感情の色彩を帯びている。“上遊、中遊”(上流、中流)は本来は川の流れの異なった場所で、感情的色彩は無いが、“力争上遊”(努めて高いところをめざす)、“甘居中遊”(出世欲がなく、ほどほどでよしとする)の中では、感情的色彩を帯びる。  

 使用する場面が異なると、いくつかのことばは異なった感情的色彩を表す。
例えば:
第一組
(1)他頑強地与疾病作斗争。
(2)我們消滅了頑強抵抗的敵人。
第二組
(1)必須強調指出:“左”傾路線也会給革命帯来惨重的損失。
(2)犯了錯誤,就応該多検査自己,不能一味強調客観原因。
 第一組の前の例の“頑強”は褒義(ほめる)の感情的色彩を帯びている。後の例の“頑強”は中立的である。第二組の前の例の“強調”は中立的で、後の例の“強調”は貶義(けなす)の感情的色彩を帯びている。

 いくつかのことばは本来必ずしも感情的色彩を帯びないが、形式の変化により、一定の感情的色彩を帯びる。例えばいくつかの名詞や形容詞は、“儿化”をすると、「好きである、好む」という感情的色彩を帯びる。例えば、“小孩儿、大個儿、黒黒儿的、亮亮儿的、紅撲撲儿的、香噴噴儿的”がそうである。これと対照的なのが、“乱糟糟、冷清清、臭烘烘、陰惨惨”で、これらはもともと憎悪の感情的色彩を表すことばであるので、“儿化”ができない。
 いくつかの二音節の形容詞に類似した繋ぎの成分“里”を加えることで、一種の憎悪の感情を表す。例えば、“慌里慌張、胡里胡塗、洋里洋気”等である。いくつかの“三、四”或いは“七、八”等の数詞をはめ込んだ成語も貶義を帯びる。例えば、“朝三暮四、顛三倒四、不三不四、乱七八糟、七零八落、七拼八湊”等である。また例えば“四分五裂、四平八穏、五花八門、胡説八道”も、これらの数詞と関係がある。  

 感情的色彩を帯びたことばを正しく使用するには、ことばの感情的色彩の配合に注意することがたいへん重要である。どのようなことばをどんな事物の上に使うかは、作者のことばの使い方文を綴る(中国語で“遣詞造語”qian3ci2zao4ju4)能力が反映されるだけでなく、作者の立場や観点も反映される。
 魯迅の《紀念劉和珍君》という文の中に、次のような一節がある。
(1)我向来是不憚以最壊的悪意来推測中国人的。但這回却很有点出于我的意外。一是当局者竟会這様地凶残,一是流言家竟如此之下劣,一是中国的女性臨難竟能如是之従容
 ここでは“当局者”、“流言家”に対し、貶義詞の“凶残”、“下劣”を用い、劉和珍君等の女性には、褒義詞“従容”を用いており、魯迅の愛憎を鮮明に表現している。  

 また、次の例を見てみよう。
(2)翻開歴史看看,你們還站得住几天!你們完了,快完了!我們的光明就要出現了。我們看,光明就在我們眼前,而現在正是黎明之前那个最黒暗的時候。我們有力量打破這個黒暗,争到光明!
(3)如果美是専指婆娑或旁逸斜出之類而言,那麼,白楊樹算不得樹中的好女子。但是它偉岸、正直、朴質、厳粛,也不缺乏温和,更不用提它的堅強不屈挺拔,它是樹中的偉丈夫
・婆娑 po2suo1 円を描いて軽やかに舞うさま
・旁逸斜出 pang2yi4xie2chu1 樹の枝が幹から横に伸びる。

 例(2)は聞一多の《最后一次的講演》の中で、当時の政府当局の横暴、恥知らずさを叱責している。ここでは“完了”、“黒暗”といった貶義詞を用い、彼の執政者への恨み、軽蔑を表現している。

 例(3)は茅盾の《白楊礼賛》の中で、“偉岸、正直、朴質、厳粛,堅強不屈、挺拔,偉丈夫”等の褒義詞により西北高原に傲然と立つ白楊樹を称え、抗日戦争を堅持する北方の人々を礼賛している。

 これだけでなく、本来は感情的色彩の無いことばが、特定の言語環境の中で使われると、ある種の感情的色彩を帯び、筆者の感情を適切に表現することができる。
(4)可是,他却不能和大伙在一起了,而要単独去見什麼谷××!
(5)呢子馬褂緞子鞋,
  洼洼里来了崔二爺。
  一脳袋像個山薬蛋,
  両鼠眼笑成一条線。

 例(4)の“什麼”は、本来は疑問代詞だが、ここでは軽蔑の感情を表す。
 例(5)の“顆”は、本来は一般的な量詞だが、“脳袋”“眼睛”を表すのに用い、一種の風刺、憎悪の色彩がある。ここでの代詞、量詞は、画龍点睛の作用をしている。  

 もし私たちが感情的色彩を帯びたことばの運用がうまくなければ、態度が曖昧で、立場がはっきりせず、文章の表現効果を減少させるか損なうであろう。
例えば:
(6)今天下午召開了村民大会,当場把老東山、孫守財几戸富裕中農的糧食、地瓜干,一粒不少,一両不差地退還。并且民兵隊長江水山当衆向他們道歉,指導員曹振還借机大肆宣伝了貧雇中農是一家的道理。
(7)日本兵的馬隊和大批偽軍浩浩蕩蕩地開進了趙各庄。

 例(6)で指導員・曹振が革命の道理の宣伝を行う、という動詞“宣伝”を受ける副詞は“大力”(強力に。力を込めて)でなければならず、貶義詞である“大肆”(はばかりなく。躍起になって)を使ってはならない。
 例(7)の“浩浩蕩蕩”(hao4hao4dang4dang4 威風堂々とした)は褒義の成語であり、この文章で使うのは適当でない。

 また、当然ながら貶義詞は敵に対して用いるだけでなく、筆者が不満に感じている事物に対しても用いられる。例えば:
(8)七斤嫂听到書上写着,可真是完全絶望了;自己急得没法,便忽然又恨到七斤。伊用筷子指着他的鼻尖説:“這死屍自作自受!造反的時候,我本来説,不要撑船了,不要上城了。他偏要死進城去,滚進城去,進城便被人剪去了辮子。従前是絹光烏黒的辮子,現在弄得僧不僧道不道的。這囚徒自作自受,帯累了我們又怎麼説呢?這活死屍的囚徒……”
・自作自受 zi4zuo4zi4shou4 自業自得
・撑船 cheng1chuan2 さおさす。さおで船を操る。時流に乗る(辮髪を切るという世の中の風潮に追随すること)
・僧不僧道不道 seng1bu4seng1dao4bu4dao4 (辮髪を切ってしまったので)坊さんのようで坊さんでない。僧は仏教の僧。道は道教の道師。

 魯迅が《風波》の中で描いた七斤嫂はごく普通の農村の婦人であるが、彼女は茂源酒店の主人、趙七爺が“皇帝已経坐了龍庭”(龍庭long2ting2 朝廷)と言うのを聞き、びっくりした。また趙七爺が“没有辮子,該当何罪,書上都有一条一条明明白白写着的。不管他家里有些什麼人。”と言うのを聞き、火の出る程に慌てた。なぜなら彼女の夫は辮髪をもう切ってしまっていたからである。そして、自分の夫を恨み、ひどく罵った。文の中で、“死屍”“自作自受”“死進城”“滚進城”“僧不僧道不道”“囚徒”“活死屍”等の一連の貶義語を用いている。

 もちろん、ことばの感情的色彩は永久に変わらないものではない。社会の発展変化、政治道徳の標準の変化により、ことばの感情的色彩も変化する。例えば、“清高”、“礼教”、“老爺”、“明哲保身”、“謹少慎微”は旧社会では褒義詞であったものが、新中国成立後は次第に貶義詞に転化した。
・明哲保身 ming2zhe2bao3shen1 現在の意味は、こざかしく保身の術にたけ、あたらずさわらずの態度をとること。以前は、知恵のある人は自分に危険を及ぼすことにはかかわらない、君子危うきに近寄らずで、それが社会の美徳であった。
・謹少慎微 jin3shao3shen4wei1 あまりに用心深く慎重であること。[類似語]縮手縮脚

 “通俗”“平凡”“因陋就簡”“千方百計”“牢不可破”は次第に貶義詞から中性的に転化した。
・因陋就簡 yin1lou4jiu4jian3 粗末なものでも利用できるものは利用し、できるだけ節約すること
・千方百計 qian1fang1bai3ji4 あらゆる方法を講ずる。百方手を尽くす
・牢不可破 lao2bu4ke3po4 堅牢で壊すことができない。確固不抜である。

  いくつかの中性詞、例えば“改良”“蜕化”“検討”“交代”“暴露”等は貶義、さげすみの意味を持つようになった。
・蜕化 tui4hua4 虫が脱皮することから、変質するという意味。考えや意志が全面的に変わることをさす。

 正確にことばの感情的色彩の変化を把握することは、私たちが正しくことばを使い、思考を表現する上で、たいへん必要なことである。

 上で述べたように、異なった感情の色彩のあることばを正確に使用することで、私たちの立場や態度を鮮明に、強調して表現することができる。しかし、表現上の特殊な必要から、わざといくつかの反語を使い、文字上の意味と心の中の意志を反対にし、ことばの感情的色彩を臨時に根本的に変化させることで、強烈な表現効果を持たせることがある。

 反語はしばしば褒義詞をわざと相手をけなすのに用い、諷刺や嘲弄の語気を表す。例えば、魯迅の《衝》の中の一節:
(9)流氓欺郷下老,洋人打中国人,教育庁長衝小学生,都是善于克敵的豪傑

 また曹禺《日出》第二幕で、陳白露がわざと感じやすいようにつくろい、耐えられないほど俗っぽい顧八奶奶を皮肉って、“(故意地)你現在一天比一天会説話”、“(風刺地)怪不得你這麼聡明了”と反語を用いている。言っていることは事実ではないが、ばかな顧八奶奶はそれを真に受け、有頂天になっている。

 口語ではこれらの反語はしばしばアクセントをつけ強く読まれる。書面語では、反語の意味をより顕著にするため、よく反語のことばに引用符号、“”、「」が付けられ、時には“所謂”、“似乎”、“如此”、“怎様”といったことばが加えられる。
(10)又是一大“新生事物”,十一級幹部回家掃地。
(11)我苦笑了,閉上了眼睛,倣佛看見這些所謂“朋友”的面目,以及他們怎様的“幇忙”。

 反語は時に貶義詞を相手をほめるのに用いたり、或いは一種ユーモア、ふざけた様子を表現する。次のものは魏鋼焔《艶陽慢歩》と羅広斌、楊益言《紅岩》からの例である。
(12)剛才拽二号的胖女子,趁人們不注意,伸手到二号皮夾克里摸出来一把瓜子,嚷道:“看!俺大娘多好,老書記一出門,就預備下請客的東西了!”
  這女子,設話就像机槍連発似的,両只胖手飛快地給大家“分賍”。

(13)成崗遅疑了一下,又提出新的要求,“把収聴広播的任務也交給我吧,我的工作的確不重!”
  “你簡直是‘野心’勃勃!才給別人写信致敬,又要叫別人‘失業’?我早就看穿了你的思想活動!”李敬原眼角透出一絲笑意,但很快就消失了。

(14)有几個“慈祥”的老板到菜場去收集一些菜葉,用塩一浸,這就是她們的難得的佳肴。

 これらは一定の言語環境と語意の表現の要求に適応し、わざと反語を使っている。表現がたいへん明確であるので、読者は文字上の意味を通じ、発言者の真意を理解することができ、たいへん良い修辞効果を上げている。ここにおいて、これらのことばが元々持っていた感情的色彩は消失し、新たな感情的色彩に転化している。もちろん、これはただ臨時の偶発的運用に過ぎず、ことば自身の感情的色彩の変化ではない。

  また作者が相手の考えと、文字の上では一致しているようにみえて、実際は、思想・感情の上で根本的に異なっている場合がある。
(15)小趙的母親病重住了医院,等着銭用。我把準備買半導体的四十塊銭給他家寄了去。人們也許会説我這是“傻瓜”。只要対人民有好処,我就心甘情願地做這様的“傻瓜”。
 上の例では、貶義詞に、臨時に褒義を与えている。

  また、一種の“望文生義”(wang4wen2sheng1yi4 字面だけを見て当て推量の解釈をする)の修辞現象があり、つまりわざとことばの字面上の意味を利用し、ことばの元来の意味と感情的色彩を変えることで、表現したいと思う新たな内容に役立てる。
 例えば、“得寸進尺”(de2cun4jin4chi3 一寸を得ればさらに一尺を進もうとする)は、元々は貶義の成語であり、欲望は限りがないという意味である。しかし、ある人は、社会主義建設事業で、私たちは永遠に“得寸進尺”であるべきで、既に得た成果に満足してはならず、一寸を得たなら更に一尺進まねばならず、ひとつの任務を完了したなら直ちに新たな形勢に基づきより高い奮闘目標を設定しなければならない、と言う。ここでは貶義が褒義に変化している。
 また“目中無人”(mu4zhong1wu2ren2 眼中に人なし)という成語も貶義である。周恩来は演劇関係者への講話の中で、こう言った。“演員在舞台上看到台下千百双眼睛,就有些戦戦兢兢,当然演不好戯。因此要‘目中无人’。”ここでの“目中無人”は、演劇芸術への高い要求、高い境地を指し、褒義を含んでいる。

 以上の状況は、特定の言語環境の中でのみ出現する特定の表現方式であり、個人の言語運用での特殊な現象であると見做さなければならない。それらには一定の表現効果があるので、幅広い人々が受け入れることができる。しかし、それらは臨時の偶発的運用であるので、ことば自身の固有の感情的色彩を変えるものではない。このような状況から、感情的色彩を帯びたことばの活用を理解することができる。

【原文】胡裕樹主編《現代漢語》重訂本 上海教育出版社1995年より翻訳

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