6月16日は農暦の5月5日、端午節である。沈宏非の食べ物エッセイの第2回として、端午節にちなんだ食べ物、ちまき(中国語で“粽子”zong4zi)を取り上げる。
比粽子還寃
ちまきよりもっと恨めしい
ちまきは月餅と同様、漢民族の季節(“節令”)の食品の代表である。これらは、2種類の異なる食物だが、一年のなかで2つの異なる節季に属し、また漢語文化のなかで二つの異なる隠喩である。ひとつははるか天空を指し、もうひとつは逆に水の底に隠れる。
笹の葉を剥き、月餅を切って割れば、それに続くのは中国家庭共通の一家団欒の暖かいひとときである。しかしながら、ちまきと月餅の由来は決してそんなに暖かいものではなく、却って深い憎しみ、不安、不当な扱いや暴力で満ち溢れている。“月餅”ということばは、最も早くは《夢粱録》に出てくるが、しかし南宋に到るまで中秋節の食品は季節の瓜や果物が中心で、月餅はあまり普及しておらず、少なくとも、まだ風俗習慣を形成していなかった。月餅業界で信じるに足る歴史となっているのは、むしろ《野客叢談》に記載されている民間のひとつの歴史説話である。「元の至正26年夏……中秋節に至っての佳話。劉伯温は月餅の内に“八月十五殺韃子”(8月15日に韃靼人を殺せ)の書付を隠し、互いに連携して蜂起し、各地の胡人は是の日の夕刻皆殺傷された。中秋の夜、民間では夜飲せざるは無く、酒興に乗じて之を為し、勢い破竹の如きのみ!胡人は漢字を識(し)らず、因りて覆亡せらる。」
端午節の由来については、端午節は、最も古い言い方では、その起源は上古三代の“蘭浴”に由来する。《大載礼記・夏小正》の解釈によれば、“五月五日蓄蘭為沐浴”(5月5日に蘭の花を集めて沐浴する)。目的は“此日蓄採衆薬,以触除毒気”(この日集めた薬で擦って毒気を除く)為であった。古人は、5月5日は陽気が極限に達し、万物が繁茂し、正に“毒気”が最も盛んとなる日であると信じていた。しかし、素朴な“天人感応”(神様が感応する)は、その後中国人の風俗の複雑な“人人感応”(人々が感応する)に取って代わられた。伍子胥を記念する、というのは各種の伝説のなかのひとつである。伍子胥は呉王闔閭を補佐し覇業を完成させた功臣だが、闔閭の死後、伍子胥は次第に寵を失い、新呉王の夫差は太宰伯嚭の讒言を信じ、剣を賜い彼を自尽させ、彼の死体を5月5日に銭塘江に沈めた。これより江蘇、浙江一帯の人々は毎年5月5日にこれを祭った。
伝聞のその二は、蔡邕の《琴操》に見られる。「介子綏は其の腓股を割きて以って重耳に嚼(か)ましむ。重耳が国に復(かえ)り、子綏独り得る所無し。綏甚だ怨恨し、乃ち龍蛇之歌を作り以って之に感じ、遂に遁げて山に入る。文公驚き悟り之を迎えんとするも、終に出ずるを肯んぜず。文公は燔山に令して之を求めしむるも、子綏は遂に木を抱きて焼死す。文公は民に令して五月五日は火を発するを得ずと。」
伝聞の三は、《会稽典録》に見られる。「女子曹娥は、会稽上虞に上る。父は弦歌を能くし、巫(祈祷師)となる。漢の安帝の二年五月五日于県江沂にて、涛(大波)が波神を迎え溺死し、屍骸を得ず。娥は年十四、乃ち江の縁にて号泣し、昼夜声を絶えざること七日、遂に江に投げて死す。」
記念されている者が男であれ女であれ、民であれ官であれ、これらの人が皆、共同の死因を持っていることを見つけるのは、難しいことではない。それはひとつの文字、“冤”(恨み)である!もちろん、端午の民俗で最もpopularで、最も教育的意義があり、最もちまきの発生と直接関係するのは、“屈原記念”説である。
伍子胥、介子綏、曹娥の3人の男女の“冤友”(恨み友達)と比べ、屈原が実は最も激しい恨み辛みで死んだとはいえない。たとえ伍子胥、介子綏、屈原の3人が皆“投入与回報”(投入とそれへの報い)の高度の不対称により死んだにしても、“投入”ということについて言えば、屈原が楚国にした貢献は、伍子胥の呉、介子綏の周に遠く及ばない。しかし私から見て、最も恨んで死んだのは、上記の3人の男でもなければ、少女の曹娥でもなく、曹娥の父親である。ひとりの漢代の“神職者”として、曹娥の父は“涛迎波神溺死”、大波にのまれて溺死したことにより、恨みはこの伝説の中の“波神”を恨むのだが、それは他でもなく、正に“四大端午冤魂”のひとつの伍子胥である。“波神”という栄光の称号は、江蘇、浙江の民衆が伍子胥の死体が銭塘江の中に沈められた後、彼に贈ったものだ。
何れにせよ、この四人は皆5月5日(曹娥の父が溺死したのはこの日で、曹娥本人は七日後に江に身を投げた)に死んだのだが、しかしただ屈原ひとりの死が直接、或いは間接に私たちがちまきを食べるという風俗習慣を創造し維持することとなった。端午にちまきを食べることの“屈原記念”説は、梁呉均の《続斉諧記》にはじめて見られる。「屈原は五月五日汨羅水に投ず、楚人之を哀しむ。此の日に至り、竹筒に米を貯えしを水に投じ以って之を祭る。漢の建武に中り、長沙の区回は忽ち一士人の自らを三閭大夫と云うを見る。回に謂いて曰く、君祭を見るに当たり、甚だ良しと聞く。常年跤龍(みずち)に窃まれし所、今若し恵み有れば、楝(おうち、栴檀(センダン))葉を以て其の上を塞ぎ、緑糸を以て之を纏え。此の二物は跤龍の憚(はばか)る所と。回、其の言に依る。今五月五日粽を作り楝葉、五花絲を帯びるは、遺風也。」
屈原は紀元前278年の農暦五月初五に死んだ。この点についての異論はあまり無い。しかし、「跤龍の憚る所」という言い方については、ある人は懐疑的な態度をとっている。例えば、聞一多教授は生前ずっと、ちまきや龍船(ペーロン)を含む種々の端午の儀礼は、実際は「龍をトーテム(中国語で“図騰”)として崇拝する民族が先祖を祭る日」と関係があると考えていた。つまり、江の中に沈めるちまきはただ単に跤龍を祭る為で、水の底で爆雷としてあの屈原に不利な跤龍を「威嚇」したり彼らの注意力を移すものではない。
端午にちまきを食べることの“屈原記念”説は全部が全部信じられないが、“屈原記念”説自身についても、歳月を経て民間の語り伝えのなかで免れがたい変異が生じた。最も顕著な変異は、“跤龍”が魚やエビに変わり、「跤龍に憚る」は「魚やエビに食べさせる」に改められた。小さい時に大人が言うのを聞くと、ちまきを水の中に投げ入れるのは、屈原の死体が“魚”に食べられないようにする為だと言われた。湖南省の旅行宣伝資料には、次のように説明されている。「言い伝えによると、この地の人は(屈原が江に身を投げ国に殉じた)しらせを聞いてたいへん悲しみ、次々船を出して救助に行った。人々は屈原が魚に食べてしまわれるに忍びず、米を笹で包み江中に投げ入れ、魚のえさとした。」或いは曰く、「人は江の中の魚やエビが屈原を食いちぎるのを恐れ、船を漕いで屈原を救助に行くと同時に、自分の船のちまきを江に投げ入れ、魚に食べさせた。これより中華民族が端午に龍舟を漕ぎ、ちまきを食べる風俗習慣が形作られた。しかし一代の愛国詩人は生きて帰ることができず、屈原が江に身を投げてから数日が経ってから、漁民に引き上げられたが、頭部は既に魚に一部分が食いちぎられ、そのむすめの娘婿が彼の為に金でできた頭 半分を添えて埋葬した。娘婿は墓を暴き金の頭を盗む者がいるのではないかと疑い、遂に薄絹のスカートに土を入れ、疑塚(偽の墓)を築いたところ、神助に逢い一夜にして十二の疑塚が築き上げられた。」
この十二の疑塚(二十の小山型の土の山であり、また二十個の巨大なちまきにも似ている)は汨羅市の西北4キロの汨羅江北岸の玉笥山東5キロのところの汨羅山上にちらばっており、土の山の前には「故楚三閭大夫の墓」の石碑が立っている。
「龍に憚ろ」うと「魚にえさを与え」ようと、目的は皆祭祀の為で、死者の魂を呼び戻す為である。実際、屈原の時代の楚文化の伝統により、屈原本人は死に臨んで既に自分の為に2篇の招魂の文字材料を準備していた。即ち《楚辞》のなかの《招魂》と《大招》である。これらの文字の中で私たちが発見できるのは、死者の魂を呼び戻す作業に用いる必要のある素材はたいへん煩雑で、ぜいたくだと言うことができる。食べるという項目だけでも、“五穀雑糧、豚犬亀鶏、飛禽走獣、美酒佳醸”を含んでいる。これと同時に、魂が帰ってくるのを待つのに更に16人の「赤い唇白い歯、豊満だが骨は華奢。腰が細く首がほっそりし、行いが見目麗しく、体が美しく、目が美しくはにかみやであり、客あしらいの上手な」美女の捧げものが含まれ、この尊敬すべき遊魂に「勝手気まま」にしてもらう。真剣に《楚辞》を研究をし出してから、毎回ちまきを食べる度に、皿の中のあの小さな固まりが貧乏臭い葉っぱ包みの米に見えて、たいへん申し訳なく思う。しかし私は、それでも水の中にちまきを投げ込むという方法で溺死者の霊魂を呼び戻すのは、まだ良い味わいを失っていないと思う。少なくとも、私たちが今日忙しく水中から「ブラックボックス」(中国語で“黒匣子”)を引き上げるのに比べると、ずっと優雅である。
もちろん、端午とちまき同様、《楚辞》のこの2篇の招魂に関する文章が果たして屈原の“原作”かどうか、文学者、歴史学者の間でずっと大きな論争となってきた。
天下無双
屈原が身を投げたのは汨羅江(江西修水県に源を発し、西へ流れ湖南平江県、汨羅市を経て、汨水と羅水が湘陰県で合流した後、湘江に入る)であり、楚の都の郢は湖北江陵県であるが、今日の市場で最も流行しているちまきの発祥の地は、湖南でも湖北でもなく、浙江の湖州である。
種類のうえでは、ちまきはおおよそ“京、浙、川、閩、粤”(北京、浙江、四川、福建、広東)の五大流派に分けられる。浙江の“湖州粽子”はちまきの王と公認されている。嘉興“五芳斎”の製品は湖州と嘉興のちまきを主に作られている。ここ数日、広州の各大型スーパーをぶらついてみれば、ほとんど全てのちまきを売るカウンターには、“五芳斎”の製品であふれていた(中国語で“満坑満谷”)。この“過江龍”(川を渡ってきた龍)の暴威の下、広東原産の“裹蒸粽”(guo3zheng1zong4 包んで蒸したちまき)は首をすくめてしまった(中国語で“縮頭縮脳”)かのように見える。この“地頭蛇”(その土地の顔役、ボス)もかつては大いに勢いがあったにもかかわらず。“南史大官進裹蒸,今之角黍也”(南史の大官が進貢した裹蒸は、今日の角黍である)《表異録》。ひとりの浙江人として、金庸は彼の小説の中で、これまで“湖州粽子”をほめたり広めたりする機会を作ったことがない。「韋小宝はひとしきり肉の香りと砂糖の香りを嗅いだ。双儿は両手で木の盆を捧げ持って、腕で帳を跳ね上げた。韋小宝は皿に4個の葉を剥いたちまきが置かれているのを見て、内心大いに喜んだ。箸を取って口に食べると、口に入れた時の甘さといったら、他に比べようもない。彼は二口で半分を食べてしまい、言った。「双儿、これはどうも湖州のちまきの様だ。味が本当に良い。」浙江湖州産のちまきは米が柔らかく餡がおいしく、天下に並ぶものが無い(“天下無双”)。揚州、湖州のちまき店、麗春院は、妓楼に上がる客があると、いつも韋小宝に使い走りをさせて届けさせた。ちまきは丸々一個、熊笹の葉で包まれ、韋小宝が盗み食いをしようにも元々非常に困難なのだが、彼はいつもちまきの角から飯粒を絞り出し、味見をした。自分が北方に行った後は、この湖州のちまきは食べられなくなった。」
金庸が言いたかったのは、実は、湖州のちまきは、天下に並ぶものが無く、妓楼の遊び客が好んだだけでなく、侠客も好んだということだ。《神雕侠侶》では、「甘いのはラードと小豆餡、塩辛いのはハムと新鮮な豚肉で、本当に美味しいことといったら他と比べようが無く、楊過は食べながら拍手喝采した。」黄薬師の閉門させられた弟子の程英が自ら作った“天下馳名”、江南粽子を食べてからは、楊過はちまきを使って彼女といちゃつこうとし、食べ残したちまきをひもでくくって投げつけ、彼女が“既見君子,云胡不喜”(君子に出会ったからには、うそを言うのは好まない)とかなんとか書いた紙切れを貼り付け、ちまきを家に届けようとした。
湖州粽は、実際は、見た目は良いが美味しくなく、直す薬の無い程の肉食主義者として、閩南(福建省南部)の肉粽が私は一番好きである。なぜかというと、それは大きくて、十分に“焼”(煮たり炊いたりして熱を加えること)されていて、心から堪能できるからである。実際、閩南の肉粽の他は、北京風と浙江系のちまきはちょっと甘すぎる。もちろん、ちまきはその始まりから味は甘すぎるのであり、《資治通鑑》の宋紀十二によれば、「癸酉、帝自ら羽林の兵を帥いて義恭を討ち、之を殺し、並びに其の四子を殺す。義恭の肢体を断ち、腸胃を分かち、眼を抜き取り、以って之を蜜漬けにし、之を“鬼眼粽”と謂う」と。閩南では蜜漬けが盛んに作られているが、未だかつて蜜漬粽というものは無い。肉粽は最上のもち米を選んでさっと炒め、豚肉は脂が三層になった塊を選んで醤油で煮込み、更に酒、醤油、ごま油で香ばしく炒めたしいたけ、蓮の実、塩卵の黄身、エビ、菜脯(漬物)、鹵肉汁(肉を煮込んだ煮汁)と少量の白砂糖を加える。豪華版は、更に干し貝柱、干しハマグリを加え、最後に笹の葉でくるんで蒸し、蒜泥(おろしニンニク)、芥辣(からし)、紅辣醤(唐辛子味噌)、蘿卜酸(ダイコンの漬物)等の調味料に浸して食べると、肉の香りと米の香りが溶け合って一体となり、豊満甘美、大変すがすがしい。
肉粽は閩南語では“焼肉粽”と言うが、実際はここで言う“焼”の字は料理の仕方ではなく、かならず熱々を食べないといけないということを強調している。外省人がいきなりそれを聞くと、閩南語の“肉粽”二字の発音は、普通語の“螞蚱”ma4zha(いなご)に多少似ており、実際、その大きさのことを言うと、“焼肉粽”を太った雌鶏とすると、湖州や嘉興のちまきは本当に“螞蚱”(いなご)に成り下がってしまう。後者の小ぶりな姿かたちは、魯迅の言い方に倣えば、中国の昔の婦人の“小粽子式脚儿”((纏足をした)ミニちまきのような足先)のようだ。
【原文】沈宏非《食相報告》四川人民出版社2003年
比粽子還寃
ちまきよりもっと恨めしい
ちまきは月餅と同様、漢民族の季節(“節令”)の食品の代表である。これらは、2種類の異なる食物だが、一年のなかで2つの異なる節季に属し、また漢語文化のなかで二つの異なる隠喩である。ひとつははるか天空を指し、もうひとつは逆に水の底に隠れる。
笹の葉を剥き、月餅を切って割れば、それに続くのは中国家庭共通の一家団欒の暖かいひとときである。しかしながら、ちまきと月餅の由来は決してそんなに暖かいものではなく、却って深い憎しみ、不安、不当な扱いや暴力で満ち溢れている。“月餅”ということばは、最も早くは《夢粱録》に出てくるが、しかし南宋に到るまで中秋節の食品は季節の瓜や果物が中心で、月餅はあまり普及しておらず、少なくとも、まだ風俗習慣を形成していなかった。月餅業界で信じるに足る歴史となっているのは、むしろ《野客叢談》に記載されている民間のひとつの歴史説話である。「元の至正26年夏……中秋節に至っての佳話。劉伯温は月餅の内に“八月十五殺韃子”(8月15日に韃靼人を殺せ)の書付を隠し、互いに連携して蜂起し、各地の胡人は是の日の夕刻皆殺傷された。中秋の夜、民間では夜飲せざるは無く、酒興に乗じて之を為し、勢い破竹の如きのみ!胡人は漢字を識(し)らず、因りて覆亡せらる。」
端午節の由来については、端午節は、最も古い言い方では、その起源は上古三代の“蘭浴”に由来する。《大載礼記・夏小正》の解釈によれば、“五月五日蓄蘭為沐浴”(5月5日に蘭の花を集めて沐浴する)。目的は“此日蓄採衆薬,以触除毒気”(この日集めた薬で擦って毒気を除く)為であった。古人は、5月5日は陽気が極限に達し、万物が繁茂し、正に“毒気”が最も盛んとなる日であると信じていた。しかし、素朴な“天人感応”(神様が感応する)は、その後中国人の風俗の複雑な“人人感応”(人々が感応する)に取って代わられた。伍子胥を記念する、というのは各種の伝説のなかのひとつである。伍子胥は呉王闔閭を補佐し覇業を完成させた功臣だが、闔閭の死後、伍子胥は次第に寵を失い、新呉王の夫差は太宰伯嚭の讒言を信じ、剣を賜い彼を自尽させ、彼の死体を5月5日に銭塘江に沈めた。これより江蘇、浙江一帯の人々は毎年5月5日にこれを祭った。
伝聞のその二は、蔡邕の《琴操》に見られる。「介子綏は其の腓股を割きて以って重耳に嚼(か)ましむ。重耳が国に復(かえ)り、子綏独り得る所無し。綏甚だ怨恨し、乃ち龍蛇之歌を作り以って之に感じ、遂に遁げて山に入る。文公驚き悟り之を迎えんとするも、終に出ずるを肯んぜず。文公は燔山に令して之を求めしむるも、子綏は遂に木を抱きて焼死す。文公は民に令して五月五日は火を発するを得ずと。」
伝聞の三は、《会稽典録》に見られる。「女子曹娥は、会稽上虞に上る。父は弦歌を能くし、巫(祈祷師)となる。漢の安帝の二年五月五日于県江沂にて、涛(大波)が波神を迎え溺死し、屍骸を得ず。娥は年十四、乃ち江の縁にて号泣し、昼夜声を絶えざること七日、遂に江に投げて死す。」
記念されている者が男であれ女であれ、民であれ官であれ、これらの人が皆、共同の死因を持っていることを見つけるのは、難しいことではない。それはひとつの文字、“冤”(恨み)である!もちろん、端午の民俗で最もpopularで、最も教育的意義があり、最もちまきの発生と直接関係するのは、“屈原記念”説である。
伍子胥、介子綏、曹娥の3人の男女の“冤友”(恨み友達)と比べ、屈原が実は最も激しい恨み辛みで死んだとはいえない。たとえ伍子胥、介子綏、屈原の3人が皆“投入与回報”(投入とそれへの報い)の高度の不対称により死んだにしても、“投入”ということについて言えば、屈原が楚国にした貢献は、伍子胥の呉、介子綏の周に遠く及ばない。しかし私から見て、最も恨んで死んだのは、上記の3人の男でもなければ、少女の曹娥でもなく、曹娥の父親である。ひとりの漢代の“神職者”として、曹娥の父は“涛迎波神溺死”、大波にのまれて溺死したことにより、恨みはこの伝説の中の“波神”を恨むのだが、それは他でもなく、正に“四大端午冤魂”のひとつの伍子胥である。“波神”という栄光の称号は、江蘇、浙江の民衆が伍子胥の死体が銭塘江の中に沈められた後、彼に贈ったものだ。
何れにせよ、この四人は皆5月5日(曹娥の父が溺死したのはこの日で、曹娥本人は七日後に江に身を投げた)に死んだのだが、しかしただ屈原ひとりの死が直接、或いは間接に私たちがちまきを食べるという風俗習慣を創造し維持することとなった。端午にちまきを食べることの“屈原記念”説は、梁呉均の《続斉諧記》にはじめて見られる。「屈原は五月五日汨羅水に投ず、楚人之を哀しむ。此の日に至り、竹筒に米を貯えしを水に投じ以って之を祭る。漢の建武に中り、長沙の区回は忽ち一士人の自らを三閭大夫と云うを見る。回に謂いて曰く、君祭を見るに当たり、甚だ良しと聞く。常年跤龍(みずち)に窃まれし所、今若し恵み有れば、楝(おうち、栴檀(センダン))葉を以て其の上を塞ぎ、緑糸を以て之を纏え。此の二物は跤龍の憚(はばか)る所と。回、其の言に依る。今五月五日粽を作り楝葉、五花絲を帯びるは、遺風也。」
屈原は紀元前278年の農暦五月初五に死んだ。この点についての異論はあまり無い。しかし、「跤龍の憚る所」という言い方については、ある人は懐疑的な態度をとっている。例えば、聞一多教授は生前ずっと、ちまきや龍船(ペーロン)を含む種々の端午の儀礼は、実際は「龍をトーテム(中国語で“図騰”)として崇拝する民族が先祖を祭る日」と関係があると考えていた。つまり、江の中に沈めるちまきはただ単に跤龍を祭る為で、水の底で爆雷としてあの屈原に不利な跤龍を「威嚇」したり彼らの注意力を移すものではない。
端午にちまきを食べることの“屈原記念”説は全部が全部信じられないが、“屈原記念”説自身についても、歳月を経て民間の語り伝えのなかで免れがたい変異が生じた。最も顕著な変異は、“跤龍”が魚やエビに変わり、「跤龍に憚る」は「魚やエビに食べさせる」に改められた。小さい時に大人が言うのを聞くと、ちまきを水の中に投げ入れるのは、屈原の死体が“魚”に食べられないようにする為だと言われた。湖南省の旅行宣伝資料には、次のように説明されている。「言い伝えによると、この地の人は(屈原が江に身を投げ国に殉じた)しらせを聞いてたいへん悲しみ、次々船を出して救助に行った。人々は屈原が魚に食べてしまわれるに忍びず、米を笹で包み江中に投げ入れ、魚のえさとした。」或いは曰く、「人は江の中の魚やエビが屈原を食いちぎるのを恐れ、船を漕いで屈原を救助に行くと同時に、自分の船のちまきを江に投げ入れ、魚に食べさせた。これより中華民族が端午に龍舟を漕ぎ、ちまきを食べる風俗習慣が形作られた。しかし一代の愛国詩人は生きて帰ることができず、屈原が江に身を投げてから数日が経ってから、漁民に引き上げられたが、頭部は既に魚に一部分が食いちぎられ、そのむすめの娘婿が彼の為に金でできた頭 半分を添えて埋葬した。娘婿は墓を暴き金の頭を盗む者がいるのではないかと疑い、遂に薄絹のスカートに土を入れ、疑塚(偽の墓)を築いたところ、神助に逢い一夜にして十二の疑塚が築き上げられた。」
この十二の疑塚(二十の小山型の土の山であり、また二十個の巨大なちまきにも似ている)は汨羅市の西北4キロの汨羅江北岸の玉笥山東5キロのところの汨羅山上にちらばっており、土の山の前には「故楚三閭大夫の墓」の石碑が立っている。
「龍に憚ろ」うと「魚にえさを与え」ようと、目的は皆祭祀の為で、死者の魂を呼び戻す為である。実際、屈原の時代の楚文化の伝統により、屈原本人は死に臨んで既に自分の為に2篇の招魂の文字材料を準備していた。即ち《楚辞》のなかの《招魂》と《大招》である。これらの文字の中で私たちが発見できるのは、死者の魂を呼び戻す作業に用いる必要のある素材はたいへん煩雑で、ぜいたくだと言うことができる。食べるという項目だけでも、“五穀雑糧、豚犬亀鶏、飛禽走獣、美酒佳醸”を含んでいる。これと同時に、魂が帰ってくるのを待つのに更に16人の「赤い唇白い歯、豊満だが骨は華奢。腰が細く首がほっそりし、行いが見目麗しく、体が美しく、目が美しくはにかみやであり、客あしらいの上手な」美女の捧げものが含まれ、この尊敬すべき遊魂に「勝手気まま」にしてもらう。真剣に《楚辞》を研究をし出してから、毎回ちまきを食べる度に、皿の中のあの小さな固まりが貧乏臭い葉っぱ包みの米に見えて、たいへん申し訳なく思う。しかし私は、それでも水の中にちまきを投げ込むという方法で溺死者の霊魂を呼び戻すのは、まだ良い味わいを失っていないと思う。少なくとも、私たちが今日忙しく水中から「ブラックボックス」(中国語で“黒匣子”)を引き上げるのに比べると、ずっと優雅である。
もちろん、端午とちまき同様、《楚辞》のこの2篇の招魂に関する文章が果たして屈原の“原作”かどうか、文学者、歴史学者の間でずっと大きな論争となってきた。
天下無双
屈原が身を投げたのは汨羅江(江西修水県に源を発し、西へ流れ湖南平江県、汨羅市を経て、汨水と羅水が湘陰県で合流した後、湘江に入る)であり、楚の都の郢は湖北江陵県であるが、今日の市場で最も流行しているちまきの発祥の地は、湖南でも湖北でもなく、浙江の湖州である。
種類のうえでは、ちまきはおおよそ“京、浙、川、閩、粤”(北京、浙江、四川、福建、広東)の五大流派に分けられる。浙江の“湖州粽子”はちまきの王と公認されている。嘉興“五芳斎”の製品は湖州と嘉興のちまきを主に作られている。ここ数日、広州の各大型スーパーをぶらついてみれば、ほとんど全てのちまきを売るカウンターには、“五芳斎”の製品であふれていた(中国語で“満坑満谷”)。この“過江龍”(川を渡ってきた龍)の暴威の下、広東原産の“裹蒸粽”(guo3zheng1zong4 包んで蒸したちまき)は首をすくめてしまった(中国語で“縮頭縮脳”)かのように見える。この“地頭蛇”(その土地の顔役、ボス)もかつては大いに勢いがあったにもかかわらず。“南史大官進裹蒸,今之角黍也”(南史の大官が進貢した裹蒸は、今日の角黍である)《表異録》。ひとりの浙江人として、金庸は彼の小説の中で、これまで“湖州粽子”をほめたり広めたりする機会を作ったことがない。「韋小宝はひとしきり肉の香りと砂糖の香りを嗅いだ。双儿は両手で木の盆を捧げ持って、腕で帳を跳ね上げた。韋小宝は皿に4個の葉を剥いたちまきが置かれているのを見て、内心大いに喜んだ。箸を取って口に食べると、口に入れた時の甘さといったら、他に比べようもない。彼は二口で半分を食べてしまい、言った。「双儿、これはどうも湖州のちまきの様だ。味が本当に良い。」浙江湖州産のちまきは米が柔らかく餡がおいしく、天下に並ぶものが無い(“天下無双”)。揚州、湖州のちまき店、麗春院は、妓楼に上がる客があると、いつも韋小宝に使い走りをさせて届けさせた。ちまきは丸々一個、熊笹の葉で包まれ、韋小宝が盗み食いをしようにも元々非常に困難なのだが、彼はいつもちまきの角から飯粒を絞り出し、味見をした。自分が北方に行った後は、この湖州のちまきは食べられなくなった。」
金庸が言いたかったのは、実は、湖州のちまきは、天下に並ぶものが無く、妓楼の遊び客が好んだだけでなく、侠客も好んだということだ。《神雕侠侶》では、「甘いのはラードと小豆餡、塩辛いのはハムと新鮮な豚肉で、本当に美味しいことといったら他と比べようが無く、楊過は食べながら拍手喝采した。」黄薬師の閉門させられた弟子の程英が自ら作った“天下馳名”、江南粽子を食べてからは、楊過はちまきを使って彼女といちゃつこうとし、食べ残したちまきをひもでくくって投げつけ、彼女が“既見君子,云胡不喜”(君子に出会ったからには、うそを言うのは好まない)とかなんとか書いた紙切れを貼り付け、ちまきを家に届けようとした。
湖州粽は、実際は、見た目は良いが美味しくなく、直す薬の無い程の肉食主義者として、閩南(福建省南部)の肉粽が私は一番好きである。なぜかというと、それは大きくて、十分に“焼”(煮たり炊いたりして熱を加えること)されていて、心から堪能できるからである。実際、閩南の肉粽の他は、北京風と浙江系のちまきはちょっと甘すぎる。もちろん、ちまきはその始まりから味は甘すぎるのであり、《資治通鑑》の宋紀十二によれば、「癸酉、帝自ら羽林の兵を帥いて義恭を討ち、之を殺し、並びに其の四子を殺す。義恭の肢体を断ち、腸胃を分かち、眼を抜き取り、以って之を蜜漬けにし、之を“鬼眼粽”と謂う」と。閩南では蜜漬けが盛んに作られているが、未だかつて蜜漬粽というものは無い。肉粽は最上のもち米を選んでさっと炒め、豚肉は脂が三層になった塊を選んで醤油で煮込み、更に酒、醤油、ごま油で香ばしく炒めたしいたけ、蓮の実、塩卵の黄身、エビ、菜脯(漬物)、鹵肉汁(肉を煮込んだ煮汁)と少量の白砂糖を加える。豪華版は、更に干し貝柱、干しハマグリを加え、最後に笹の葉でくるんで蒸し、蒜泥(おろしニンニク)、芥辣(からし)、紅辣醤(唐辛子味噌)、蘿卜酸(ダイコンの漬物)等の調味料に浸して食べると、肉の香りと米の香りが溶け合って一体となり、豊満甘美、大変すがすがしい。
肉粽は閩南語では“焼肉粽”と言うが、実際はここで言う“焼”の字は料理の仕方ではなく、かならず熱々を食べないといけないということを強調している。外省人がいきなりそれを聞くと、閩南語の“肉粽”二字の発音は、普通語の“螞蚱”ma4zha(いなご)に多少似ており、実際、その大きさのことを言うと、“焼肉粽”を太った雌鶏とすると、湖州や嘉興のちまきは本当に“螞蚱”(いなご)に成り下がってしまう。後者の小ぶりな姿かたちは、魯迅の言い方に倣えば、中国の昔の婦人の“小粽子式脚儿”((纏足をした)ミニちまきのような足先)のようだ。
【原文】沈宏非《食相報告》四川人民出版社2003年