人々はことばを運用する時、いつも一定のコミュニケーションの内容、目的、場面に基づき、一定の表現形式を選定する。選定されたある種の表現形式は、コミュニケーションの対象に適応しているだけでなく、特定の言語環境の制約も受けている。ことばの種々の表現形式の運用は、次第に安定し、異なった語体類型を形成する。全体的に言うと、語体は一般に口語体と書面語体の二つに分かれる。口語体には談話語体と演説語体が含まれ、書面語体には事務語体、科技語体、政治語体、文藝語体が含まれる。
異なった語体はことばの配合の面でそれぞれ異なった特徴を有する。あることばは通常ある種の語体で使用され、その他の語体では使用されず、これらのことばもある種の語体の特殊な色彩を帯びている。例えば、“快活”、“哆嗦”(duo1suo ぶるぶる震える)、“生気”は口語体の色彩を帯びている。一方、意味のよく似た“愉快”、“顫慄”(zhan4li4、“戦慄”とも書く)、“憤懣”は書面語体の色彩を帯びている。また同様に“書信”の意味では、“函”は事務語体の色彩を帯び、“書簡”は文藝語体の色彩を帯びている。
ことばの語体的色彩と感情的色彩はしばしば関連している。ある種の語体的色彩を帯びたことばは、しばしば一定の感情的色彩を帯びている。例えば書面語体的色彩を含んだことばで、“瞻仰”(zhan1yang3 仰ぎ見る)“視察”“莅臨”は褒義(ほめる意)を帯び、“囂張”(xiao1zhang1 悪い勢力や悪人がはびこる)“伎倆”(ji4liang3 やりくち)“卑劣”は貶義(けなす意)を帯びる。口語体的色彩を含んだことばでは、“勤快”“厚道”(hou4dao 温厚である)“本事”は褒義を帯び、“鬼混”“胡扯”(hu2che3 でたらめを言う)“無頼”は貶義を帯びる。私たちがあることばにある種の感情的色彩や語体的色彩を込めてものを言う時は、これはある角度から言っているのであって、このことばはひとつの色彩しか含んでいないと言っているのではない。
ことばの語体的色彩と、ことばの成分と出所は一定の関連がある。一般的に言って、方言は口語体的色彩を帯びるが、これは方言が人々の日常のことばの中で使われているからである。外来語や古語は書面語体的色彩を帯びている。これは古語や外来語は書面語の力を借りて流入し使われているからである。書面語体の中で、文藝語体は一定の方言を使用している。事務語体にはしばしば古語が出現する。外来語は科技語体や政治語体の中でよく出てくる。
正確に語体的色彩を帯びたことばを使用するのはたいへん重要である。なぜなら、それによって思想感情を適切に表現できるだけでなく、内容の表現に適応したことばの雰囲気を形作り、ことばの影響力を増すことができるからである。
例えば、葉聖陶は《相濡以沫》の中で言う:
(16)各界的人不経邀約,不凭通知,各自跑来瞻仰魯迅先生的遺容,表示欽敬和志願追随的心情。
この文で、葉聖陶は“邀約”“瞻仰”“遺容”“欽敬”“追随”等の書面語を用いて、魯迅が逝去した厳粛で重々しい雰囲気を表現し、各界人士の魯迅に対する敬慕、敬愛の感情を表現している。
上の例では、書面語体の色彩を帯びたことばを使うことは、適当である。しかし、もし農民や労働者に宣伝するのであれば、農民や労働者がよく知ったことばを選ばなければならない。つまり、大量の口語体的色彩を帯びたことばを運用してこそ、道理をわかりやすく、生き生きと話すことができ、内容は奥深いが表現はわかりやすく(中国語で“深入浅出”)してこそ、あるべき宣伝効果を上げることができる。
毛沢東は《湖南農民運動考察報告》の中で次のように農民に迷信を打破するよう宣伝している:
(17)信八字望走好運,信風水望墳山貫気。今年几个月光景,土豪劣紳貪官汚吏一斉倒台了。難道這几个月以前土豪劣紳貪官汚吏還大家走好運,大家墳山貫気,這几个月忽然大家走壊運,墳山也一斉不貫気了嗎?土豪劣紳形容你們農会的話是:巧得很羅,如今是委員世界呀,你看,啊尿都碰了委員。的確不錯,城里、郷里、工会、農会、国民党、共産党無一不有執行委員,確実是委員世界。但這也是八字墳山出的嗎?巧得很!郷下窮光蛋八字忽然都好了!墳山也忽然都貫気了!神明嗎?那是很可敬的。但是不要農民会,只要関聖帝君、観音大師,能够達倒土豪劣紳嗎?那些帝君、大士們也可怜,敬了几百年,一個土豪劣紳不曾替你們打倒!現在你們想減租,我請回你們有什麼法子,信神呀,還是信農民会?
ここで農民のよく知っていることば、例えば“八字”、“走運”、“風水”、“貫気”、“光景”、“倒台”、“啊尿”等々で革命の道理を宣伝している。これらのことばは口語的色彩を帯びており、農民と腹を割って話し(中国語で“談心”という)といるかのようで、農民にはたいへん親しみ深く感じられ、したがってこの話は、“説得農民都笑起来”(話すと農民は皆笑い出し)、たいへん良い修辞効果を上げることができたのである。
文藝作品の中で、口語を使うことが多いのは、小説、話劇、民間文学である。一方、書面語が比較的多いのは、散文、雑文、詩歌である。文藝作品で使用される書面語には特徴があり、文藝語体の色彩が濃厚で、科技、事務、政治等の語体の中に現れることは稀である。例えば:
(18)我家的新嫂子,
有点嘴皮碎,
碰到三嬸二大娘,
澇澇叨叨不住嘴,
“俺家那口子,
好像不知累,
白天去忙隊里活,
夜間又尽開啥会。
要他辧点家里事儿,
不知要等到哪一輩子!
哪天跟他坐下来,
定要評個是和非!”
(19)也許
你們心上的世界
如藍天那様
明而単純,
就連夢
都像百花盛開的曠野
那般清新……
然而迎接你們的
都不尽是
小鳥的
悦耳的歌声,
在前進的道路上
還常有
凄的風雨
和雷的轟鳴……
前者の詩は農民の口ぶりで書かれており、口語を用い、読んでみると親しみやすく、感動させる。後者の詩は広く青年向けに書かれ、書面語が多く使われている。これら書面語は文藝語体で常用され、例えば、“心上的世界”、“明而単純”、“百花盛開的曠野”、“那般清新”、“ 悦耳的歌声”、“凄的風雨”等、イメージが生き生きとして、叙情的な香りが濃厚である。以上から、異なった語体的色彩のことばの運用により、生み出される雰囲気や格調が異なることがわかる。
語体により、その語体の色彩を帯びたことばを使用する、そうでないと、使っていることばが語体と調和せず、どっちつかず(中国語で“不倫不類”bu4lun2bu4lei)になってしまう。もし上の例の詩句を公告や中間報告といった事務語体の文章に使ったり、口語のことばを科技語体や政治語体の文章に使うと、読んでみた時に思想内容と表現形式が調和しない。
ある種の語体的色彩のことばは一般に相応の語体にのみ適用するが、語体的色彩を帯びたことばの中には、時には一定の融通性を持ったものがある。ある種の語体の中に、故意に少量の別の語体的色彩のことばを使うことで、たいへんよい表現効果を得ることができる。趙樹理は少量の政治用語を自分の小説の中で用い、それによりユーモラスでふざけた感じや、辛辣で味わいがある感じにするのが巧みであった。例えば:
(20)他們談到以后該怎麼様辧,燕燕仍然幇着艾艾和小晩想辧法,他們両個也願意幇着燕燕,叫她重跟小進好起来。用外交上的字眼説,也可以叫做“定下了互助条約”。
(21)霊芝和有翼開玩笑説:“你爹的外号不簡単,有形成階段,還有鞏固和発展階段。”
(22)她既然只把張信当成她過度時期的丈夫,自然就不能完全按“自己人”来対待他,因此她安排了一套対待張信的政策。
【原文】胡裕樹主編《現代漢語》重訂本 上海教育出版社1995年より翻訳
異なった語体はことばの配合の面でそれぞれ異なった特徴を有する。あることばは通常ある種の語体で使用され、その他の語体では使用されず、これらのことばもある種の語体の特殊な色彩を帯びている。例えば、“快活”、“哆嗦”(duo1suo ぶるぶる震える)、“生気”は口語体の色彩を帯びている。一方、意味のよく似た“愉快”、“顫慄”(zhan4li4、“戦慄”とも書く)、“憤懣”は書面語体の色彩を帯びている。また同様に“書信”の意味では、“函”は事務語体の色彩を帯び、“書簡”は文藝語体の色彩を帯びている。
ことばの語体的色彩と感情的色彩はしばしば関連している。ある種の語体的色彩を帯びたことばは、しばしば一定の感情的色彩を帯びている。例えば書面語体的色彩を含んだことばで、“瞻仰”(zhan1yang3 仰ぎ見る)“視察”“莅臨”は褒義(ほめる意)を帯び、“囂張”(xiao1zhang1 悪い勢力や悪人がはびこる)“伎倆”(ji4liang3 やりくち)“卑劣”は貶義(けなす意)を帯びる。口語体的色彩を含んだことばでは、“勤快”“厚道”(hou4dao 温厚である)“本事”は褒義を帯び、“鬼混”“胡扯”(hu2che3 でたらめを言う)“無頼”は貶義を帯びる。私たちがあることばにある種の感情的色彩や語体的色彩を込めてものを言う時は、これはある角度から言っているのであって、このことばはひとつの色彩しか含んでいないと言っているのではない。
ことばの語体的色彩と、ことばの成分と出所は一定の関連がある。一般的に言って、方言は口語体的色彩を帯びるが、これは方言が人々の日常のことばの中で使われているからである。外来語や古語は書面語体的色彩を帯びている。これは古語や外来語は書面語の力を借りて流入し使われているからである。書面語体の中で、文藝語体は一定の方言を使用している。事務語体にはしばしば古語が出現する。外来語は科技語体や政治語体の中でよく出てくる。
正確に語体的色彩を帯びたことばを使用するのはたいへん重要である。なぜなら、それによって思想感情を適切に表現できるだけでなく、内容の表現に適応したことばの雰囲気を形作り、ことばの影響力を増すことができるからである。
例えば、葉聖陶は《相濡以沫》の中で言う:
(16)各界的人不経邀約,不凭通知,各自跑来瞻仰魯迅先生的遺容,表示欽敬和志願追随的心情。
この文で、葉聖陶は“邀約”“瞻仰”“遺容”“欽敬”“追随”等の書面語を用いて、魯迅が逝去した厳粛で重々しい雰囲気を表現し、各界人士の魯迅に対する敬慕、敬愛の感情を表現している。
上の例では、書面語体の色彩を帯びたことばを使うことは、適当である。しかし、もし農民や労働者に宣伝するのであれば、農民や労働者がよく知ったことばを選ばなければならない。つまり、大量の口語体的色彩を帯びたことばを運用してこそ、道理をわかりやすく、生き生きと話すことができ、内容は奥深いが表現はわかりやすく(中国語で“深入浅出”)してこそ、あるべき宣伝効果を上げることができる。
毛沢東は《湖南農民運動考察報告》の中で次のように農民に迷信を打破するよう宣伝している:
(17)信八字望走好運,信風水望墳山貫気。今年几个月光景,土豪劣紳貪官汚吏一斉倒台了。難道這几个月以前土豪劣紳貪官汚吏還大家走好運,大家墳山貫気,這几个月忽然大家走壊運,墳山也一斉不貫気了嗎?土豪劣紳形容你們農会的話是:巧得很羅,如今是委員世界呀,你看,啊尿都碰了委員。的確不錯,城里、郷里、工会、農会、国民党、共産党無一不有執行委員,確実是委員世界。但這也是八字墳山出的嗎?巧得很!郷下窮光蛋八字忽然都好了!墳山也忽然都貫気了!神明嗎?那是很可敬的。但是不要農民会,只要関聖帝君、観音大師,能够達倒土豪劣紳嗎?那些帝君、大士們也可怜,敬了几百年,一個土豪劣紳不曾替你們打倒!現在你們想減租,我請回你們有什麼法子,信神呀,還是信農民会?
ここで農民のよく知っていることば、例えば“八字”、“走運”、“風水”、“貫気”、“光景”、“倒台”、“啊尿”等々で革命の道理を宣伝している。これらのことばは口語的色彩を帯びており、農民と腹を割って話し(中国語で“談心”という)といるかのようで、農民にはたいへん親しみ深く感じられ、したがってこの話は、“説得農民都笑起来”(話すと農民は皆笑い出し)、たいへん良い修辞効果を上げることができたのである。
文藝作品の中で、口語を使うことが多いのは、小説、話劇、民間文学である。一方、書面語が比較的多いのは、散文、雑文、詩歌である。文藝作品で使用される書面語には特徴があり、文藝語体の色彩が濃厚で、科技、事務、政治等の語体の中に現れることは稀である。例えば:
(18)我家的新嫂子,
有点嘴皮碎,
碰到三嬸二大娘,
澇澇叨叨不住嘴,
“俺家那口子,
好像不知累,
白天去忙隊里活,
夜間又尽開啥会。
要他辧点家里事儿,
不知要等到哪一輩子!
哪天跟他坐下来,
定要評個是和非!”
(19)也許
你們心上的世界
如藍天那様
明而単純,
就連夢
都像百花盛開的曠野
那般清新……
然而迎接你們的
都不尽是
小鳥的
悦耳的歌声,
在前進的道路上
還常有
凄的風雨
和雷的轟鳴……
前者の詩は農民の口ぶりで書かれており、口語を用い、読んでみると親しみやすく、感動させる。後者の詩は広く青年向けに書かれ、書面語が多く使われている。これら書面語は文藝語体で常用され、例えば、“心上的世界”、“明而単純”、“百花盛開的曠野”、“那般清新”、“ 悦耳的歌声”、“凄的風雨”等、イメージが生き生きとして、叙情的な香りが濃厚である。以上から、異なった語体的色彩のことばの運用により、生み出される雰囲気や格調が異なることがわかる。
語体により、その語体の色彩を帯びたことばを使用する、そうでないと、使っていることばが語体と調和せず、どっちつかず(中国語で“不倫不類”bu4lun2bu4lei)になってしまう。もし上の例の詩句を公告や中間報告といった事務語体の文章に使ったり、口語のことばを科技語体や政治語体の文章に使うと、読んでみた時に思想内容と表現形式が調和しない。
ある種の語体的色彩のことばは一般に相応の語体にのみ適用するが、語体的色彩を帯びたことばの中には、時には一定の融通性を持ったものがある。ある種の語体の中に、故意に少量の別の語体的色彩のことばを使うことで、たいへんよい表現効果を得ることができる。趙樹理は少量の政治用語を自分の小説の中で用い、それによりユーモラスでふざけた感じや、辛辣で味わいがある感じにするのが巧みであった。例えば:
(20)他們談到以后該怎麼様辧,燕燕仍然幇着艾艾和小晩想辧法,他們両個也願意幇着燕燕,叫她重跟小進好起来。用外交上的字眼説,也可以叫做“定下了互助条約”。
(21)霊芝和有翼開玩笑説:“你爹的外号不簡単,有形成階段,還有鞏固和発展階段。”
(22)她既然只把張信当成她過度時期的丈夫,自然就不能完全按“自己人”来対待他,因此她安排了一套対待張信的政策。
【原文】胡裕樹主編《現代漢語》重訂本 上海教育出版社1995年より翻訳