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北京史(四十一)清代(1644-1840年)の北京(3)

2024年02月04日 | 中国史

清乾隆景泰藍塔(乾隆時代の七宝焼の塔)

官営手工業の衰退と民営工房の発達

 農業の回復と同時に、手工業も康熙中期以降に次第に盛んになり、乾隆初期にはこの時期のピークを迎えた。この時、手工業は相変わらず官営と民営のふたつに分かれていた。官営手工業は日増しに衰退し、皇室や王公貴族が必要とする手工業品、日用品は、より多くが民営の工房や店舗に行って購入する必要があった、或いはこれらの民営工房に代理で責任を持って制作させた。民営の手工業は明代よりも数量が増加した。

 官営手工業は康熙以降、内務府、工部などの役所に属していた。これらの衰退は、この時代の生産規模が明代に及ばないことを表していた。清の内務府には、明の内監が擁していたほど雑多で多くの官営の手工業部門は無かった。内務府は北京で主に内織染局(皇室、宮廷御用の絹織物の染色を管轄)、広儲司七作(宮廷御用の銀、銅、染物、衣類、刺繍、花卉、皮革の保管、出納を管轄)、営造司三作(鉄、漆、炮の各工場を含む)を設けた。これらの局で作られるものは、何れも皇帝と王公貴族の使用に供した。工部が掌握する官工業は、砲兵廠、火薬廠の他、一般の生産規模もいずれも明代より小規模であった。その中で、琉璃窯で生産する琉璃瓦は主に宮殿と王府の建設に用いられた。黒窯、木廠、鉄廠、焼灰廠の製品の半分は皇室、王府の使用に供され、半分は城壁の修築やその他の土木建築の建造を進めるのに用いられた。軍器廠、火薬廠、盔甲廠の製品は、国防、国内の反乱鎮圧関連で用いられた。砲兵廠は 軍器廠に属し、清代には紅衣砲、神威無敵大将軍など多くの種類の銅鉄砲を製造していた。工部は清代長期間に亘り、門頭溝の官営の石炭鉱山を管理していた。

 官営手工業と鉱業の衰退と商業経済の発展、私営手工業の拡大には一定の関連があった。官営の手工業工房(手工業工場)の職人は、この時代、住み込み(住坐)とパートタイム(雇覓)の二種類があった。『大清会典』の記載によれば、「内外の造営で使う職人は、住み込みとパートがあった。住み込みは、決められた食糧の俸禄に基づき働き、パートは仕事に基づき給与が決められた。」清朝廷は明代の交代制(輪班)を完全に廃止し、また職人の世襲制度も廃止したが、これは重要な改革であった。しかし、職人たちの官府(役所)に対する従属性(封建依附性)はまだたいへん強固だった。住み込みの職人は一年中工房、工場を離れることができず、その身分は満州族の奴僕とほぼ同じであった。多くの内務府の住み込み職人は、満州貴族が関外や関内から捕虜にして連れて来たものだった。パートの職人は主に清朝廷が各地で召集してきたものだったので、必ずしも自由な労働力ではなかった。彼らは長期工と短期工の二種類あった。こうしたパートの職人は給料がたいへん低かっただけでなく、給料を受け取る時には更に官吏の中間のピンハネ(尅扣)を受けた。職人たちは常にサボタージュと逃亡でこうした残酷な封建搾取に反抗した。こうした情況下で、官営工業は衰退するばかりで、発展することができなかった。

 一部の私営手工業は、官営手工業が衰退する中で一層発展した。康熙中期から乾隆中期まで、私営手工業の各産業の中で、最も目覚ましく発展したのは銅鋳物、製薬、酒造、蝋燭、菓子食品等の産業であった。それに次ぐのが、紡織、漆器、鉄やすり、鋼針等の産業であった。鉄、木、皮革の工房も一定の発展をした。銅鋳物は直接に官府のコントロール下で生産を行い、乾隆年間、北京城内の銅鋳物の舗戸(商店)は全部で34百軒あった。その他の工場、工房は仲買業者の管理や制約を受け、封建国家は常に公定価格でこれらの製品を買い付けた。こうした工房の主人は一般にその他の商品の店を兼業していて、しばしば店舗の前方は小売店で、後方が工房であった。

 乾隆年間の北京の私営手工業について、『帝京歳時紀勝』は以下のような活き活きとした描写をしている。

 制薬:「毓成号、天匯号は四川、広東、雲南、貴州の精英を聚(あつ)める。鄒誠一、楽同仁は丸薬、散薬、膏薬、丹薬の秘密を制する。史敬斎の鵞翎眼薬は空青(鉱物から作った眼薬の名称)に譲らず。益元堂の官揀(公式に選ばれた)人参は、また瑞草を欺く。劉絃丹の山楂(サンザシ)丸子は、滋養になり消化を助ける。段頤寿の白鯽魚膏は、化膿や肥大を軽減する。」

 蝋燭:「花漢衝は、蘭の佳き珍香で制する。陳(ふる)きを集成、柏油を澆(そそ)げば之(これ)大蝋。」

 紡織:「靛青(藍染)の梭布(ひふ。機織りの布)、陳慶長の細密で寛き机(はた)。羽緞(毛織物)やフェルトは、伍少西の大洋青水。」

 鉄の銼(やすり)鋼(はがね)の針:「王麻子は西(西洋の)鉄の銼(やすり)三代の鋼(はがね)の針。

 酒:「佳き醅(にごり酒)は美(おい)しく醸され、中山雪に居り冬淶(淶河の水)で煮る。」

 糖果食品:「聚蘭斎の糖点、糕(ケーキ)に蒸した桂(もくせい)の蕊(しべ)。」「蜜餞(づけ)の糖櫻桃、杏(あんず)の脯(砂糖漬け)は京江の和裕が行家(専門店)。」「内制(自家製)の査(サンザシ餡)の糕 (ケーキ)は賈集珍が西直門まで売り場を拡げている。」

 これらの店や工房は、多くが封建地主や官僚階層が資金を出して開いたものであった。工房の内部組織や雇用関係は、封建的な性格を持っていた。いくつかは商店主が出資し、商店主自身は番頭に商務や工房の事務を委託し、店員、工員、丁稚を雇っていた。工員は普通、丁稚から育成した。西鶴年堂製薬の工房がそうであった。いくつかは商店主や番頭が店の営業、工房の運営を行ったが、小売部門は店員や丁稚が管理し、工房は別に職人の親方が管理した。職人の親方が工員を募集し、資本家が工員を解雇するには、必ず親方を通じなければならなかった。工員は商店主と親方の度重なる搾取の下、給料がとても少なく、全く自由が無かった。例えば合香楼の蝋燭工場、六必居の酒の醸造所は基本的にこの類に属していた。これ以外にも、商店主や番頭が店の営業、工房の運営を行い、店員だけ雇って、丁稚は取らない店もあった。番頭は小売部と工房両方に通じていて、一部の工員は工房に配属して働かせ、別の工員は小売部に配属して働かせ、一定期間働かせたら、このふたつの部門の工員の配属を互いに調整する。例えば同仁堂がこのように運営していた。ここの工員は商店主と番頭の管理を受け、給料はたいへん低かったが、商店主が毎年の利益の中から歩合を出して、彼らに分配してくれた。売り上げが上がれば上がるほど、彼らの収入もそれにつれて増加した。彼らは「自由に」店を離れることができたが、店を離れたことによる結果は、聞かずとも理解することができた。これら三種の工房の中で、最後の形の経営方式が優れていたが、それでも完全な自由雇用労働ではなかった。同業組合の束縛や制限がこれらの店舗や工房に長期に存在し、ごく少ない私営手工業の工房だけが資本主義的な生産関係を備えていた。

 工房の商店主は残酷に工員を搾取したので、工員は時に給料の増額を要求し、立ち上がって闘争を行った。例えば乾隆年間、合香楼の工員は給料が低すぎて生活がたいへん困難で、彼らはいつも服が着れず、裸の背中で空き地で線香を日光に晒して乾かした。彼らは本当に我慢ができず、集団で商店主に加工賃の支払いを要求し、商店主に約束するよう迫った。しかしほとぼりがさめると、商店主は多くの工員の首を切ったので、工員たちも解雇に反対する闘争を行った。

 北京の私営手工業の中で、鉱業は主要な部門であった。当時、私営の石炭炭鉱がたいへん発達していた。乾隆年間、門頭溝の炭鉱は百ヶ所前後に達した。西城、宛平、房山には全部で690ヶ所余りあった。封建国家は炭鉱から一定の税金を徴収した他、また鉱夫が封建官府に反抗する活動をするのを厳しく防いだ。鉱山主はいつも「鉱夫を虐待し、工賃を少なく」しようとした。西山の悪辣な鉱主、斉二は鉱夫たちの多くの生命を奪った。鉱夫たちは鉱山主の酷使と迫害を受ける立場にいた。鉱山主の虐待に反抗するため、鉱夫たちは絶えず「大勢が集まって騒ぎを引き起こ(聚衆滋事)」し、鉱山主に対して闘争を行った。鉱山主たちは、当初は「分散出資共同経営(分股合伙)」の経営方式を採っており、資金が比較的分散していたが、その後一部の資金が次第に少数の鉱山主の手に集中するようになった。例えば、閻という姓の鉱山主は雍正、乾隆年間に続けざまに十ヶ所以上の他家の炭鉱を購入し、相当の資金を集中させ、門頭溝一帯の大手の鉱山主になった。清代の炭鉱は、明代より一層進化していた。

商業

 北京は巨大な消費都市で、毎日全国各地から大量の農産品、手工業品が運び込まれ、専ら貴族や地主が享受する奢侈品として消費された。運び込まれたものは主に江南と長城以北(口外)の食糧、西口(殺虎口。山西省朔州市右玉县境内)と東北の毛皮、蘇州、松江、海寧、嘉興、通州、河間(瀛州。河北省中南部。滄州市西北部)の綿布、江寧、蘇州、杭州、広州、潞安(山西長治)の繻子(しゅす)や緞子(どんす)(綢緞)、ちりめんや薄絹(縐羅)、南海の真珠や宝石、長芦(長芦塩場で産する海塩で、中国最大の生産量を誇った。河北省、天津市渤海湾沿岸にあった)の塩、及び各地の薬材、木材、生漆、銅、鉄、紙、南糖(南方の砂糖菓子)などであった。ロシア商人が大量の毛皮や西洋の奢侈品、例えば琺瑯などを持ち込んだ。朝鮮商人はしばしば大量の毛蘭布(フロッキング。修道服や仕事着に適した粗布。木綿の布を藍で染めたもの)や馬を持ち込んだ。これらの商品は、大部分が封建統治階級が使用するためのもので、一般の城外に住む貧民や農民は貴重な物品を購入する力が無く、彼らが必要とするものの大半は、食塩、鉄器の農具、若干の地元で作られた北京梭布(機織りの布)などであった。

 当時、北京城内には至るところ行商の足跡があり、彼らはある者は会館(同業組合の集会所)の中に住み、ある者は舗戸(商店)の家に住んだ。舗戸は北京城全域に分散し、そのうち、前門外が主な集中地区であった。ここの大店舗は、同仁堂、合香楼、六必居以外にも、多くの珠宝店、綢布店、雑貨店、糧食店などがあり、その他にも、例えば江米街の貂裘(テンのコート)狐腋(キツネの毛皮)、瑠璃廠の書画骨董、振武坊の遼陽口貨(長城外で産出した商品)、瞻雲坊の糧食雑庄、花市大街の絨花(絹で作った造花)、紙花など、一時期極めて盛んであった。

前門大街

 行商と舗戸(商店)は統治者の厳しい管理と制約を受けた。清政府は彼らを136行に分け、各行に官牙(官府が指定し派遣する仲買人)を設け、徴税を担当させ、物価、貨物の販売と処理する商人の間の紛争等について評議を行った。こうした官牙の多くは順天府の胥吏(小役人)から充当され、彼らはしばしば舗戸と結託して行商の貨物を横領した。いくつかの材木商は更にしばしば統治者により長城外に派遣されて木材を伐採、運送し、宮殿や庭園を修築するのに供給した。次に、各行の商人の中にはまた同業公会(同業組合)的性格の行会組織があり、こうした組織は強制的に商人が丁稚や店員を雇う章程(業務規定)を定め、偽物を売ることを禁止した。大商人は店舗内で丁稚や店員に対し、完全に封建家長制の統治を行った。丁稚は三年間給料が無く、一日中商店主や番頭のために各種の労役に服した。商店主や番頭はいつも任意に彼らを叱りつけ、何人かの丁稚はこうした虐待に反抗して夜中に逃亡した。これは一種の残酷な封建搾取であった。店員は一定の給与があり、丁稚に比べると生活は多少は良かったが、彼らも商店主や番頭の威圧と侮辱を受けていた。

 大店舗の中のいくつかは封建官僚が自ら経営、或いは経営に関与し、多くが官府と結託した山西、徽州(安徽省南部、今の黄山市)、浙江の大商人が開いたものだった。大商人は常に投機をして利ざやを稼ぎ、物価をつり上げた。例えば綢布(絹織物)店や雑貨店は、八旗の旗丁(旗兵)に馬甲銭糧(給料)を払う時になると、突然各種の貨物の価格を引き上げ、ほしいままに旗丁を搾取した。糧食店は秋の収穫の時にできるだけ農産品の価格を低く抑え、郊外の多くの農民が農産品で自分用の日用品や農具などに交換する時に、多額の損失を受けることとなった。

 行商と舗戸(商店)を除き、当時の北京城内には多くの小商人がいた。彼らは平時は街角や横丁に屋台を設(しつら)えた。例えば前門外がそうであった。大小の商人はテントを張った屋台に商品を満載し、各種の日用品を売り出した。廟会(社寺の縁日)や市集(市が立つ日)の日になると、彼らは廟会や市集に駆けつけた。毎年農暦正月元旦から16日まで、瑠璃廠には「百貨が雲集」し、「図書が満載」された。廟会の場所は薬王廟、都土地廟、護国寺、隆福寺、花市などで、場所によっては、1日、15日に廟会が開かれ、別の場所では毎月3日、4日、7日、或いは9日、10日に行われた。その時になると、商人たちはこれらの場所で各種の高級や低級の日用品の販売を行った。

隆福寺廟会

典当(質屋)、銀号(両替商)、塩店

 当時の北京の大商業には、他に典当(質屋)、銀号(両替商)、塩店があった。乾隆9年には、北京城の内外の大小の質屋は全部で67百ヶ所あった。質屋と官府の関係はたいへん緊密で、いくつかは完全に官府が運営していた。これは高利貸しにより一般の人々や城内の下層住民から搾取を行うもので、質草を請け出す利息は月3分以上に達した。両替商は銀票(一種の紙幣)の兌換業務を行う以外に、高利貸しによる搾取にも従事した。両替商は高利で金を貸し、抵当は取らないが、商店名義の保証(舗保)を必要とした。小商人や小さな手工業者は主に両替商から銭を借りたが、両替商の重い利息に苦しめられた。高利貸の搾取は生産の発展をひどく阻害した。

 北京の大商人の中の一部は塩商で、有名なのは例えば宛平の査氏である。塩商はまた官商とも呼ばれ、彼らは直接封建統治者のため服務し、そのため性質は一般の商人とは異なっていた。北京地区で販売されたのは長芦塩(長芦塩場で産する海塩で、中国最大の生産量を誇った。河北省、天津市渤海湾沿岸にあった)で、清朝廷の1703年(康熙42年)の規定によれば、大興、宛平両県で合わせて塩14万引(塩引は塩包のことで、1引が400斤、700斤など一定ではなかった)余り販売した。塩商は塩を通州張家湾に運んでから、それぞれ清朝廷により指示された地区で販売した。彼らは専売権を使って人々に高値で塩を販売し、財産を蓄えた。

乾隆中期以後の北京の経済情況

 乾隆中期以後、封建貴族や地主、大商人の搾取により、農民や小手工業者を更なる困窮状態に陥れた。農業では、北京城郊外の八旗旗丁はより一層貧困化し、多くの漢軍で旗を出て民となるのを迫られ、外地に行き活路を捜さざるを得なくなった。漢族の小自作農は大地主による土地の併合で次々破産し、自分の土地を売り払った。昭槤『嘯亭続録』の記載によれば、直隷懐柔の郝姓の大地主は「膏腴万顷」(肥沃な土地を何万ヘクタールも所有し)、北京城の「米商人祝氏」は「富が王侯を逾(こ)え」、「宛平の査氏、盛氏は富がまた相倣った」。農民、旗丁の破産、逃亡により、近畿(首都北京近郊)一帯の大量の耕作可能地が荒地に変わった。1771年(乾隆36年)大学士劉統勲の清朝廷への上奏によれば、宛平路では打ち捨てられ荒地になった土地が頗る広大で、沙漠化やアルカリ浸食のあまり、遂にやむなく廃棄された。1785年(乾隆50年)直隷各路で荒地と報告された旗民の土地は全部で12千ヘクタール以上で、これらの荒地の一部は北京近郊であった。破産した農民は流亡し居場所を亡くし、絶えず蜂起を企て、天理教の勢力がこの時近畿一帯で瞬く間に拡大した

 手工業はこの時期、古いしきたりに固執(墨守成规)するばかりで、生産規模の拡大はほとんど行われなかった。北京城内には山西の大商人が開設した票庄(票号とも。一種の銀行、両替商)が現れた。というのも、商人たちは各地で交易を行う中で、現銀や銭でなく、為替(匯兌)を利用するようになったためだ。北京に設立された最初の票庄は嘉慶(17961820)、道18211850間(嘉道之際)、山西平遥人の雷履泰が開いた日升昌票庄であった。票庄の商店主は、主に為替で高額の利潤を得た。やがて、票庄は各地で役所と結託し、官僚たちに金を貸し付け、これに高額の利潤を上乗せした(官僚たちは、票庄からの借款を返済する時に、高い利息を払わなければならなかった)。票庄は次第に官僚への貸付に依存するようになり、アヘン戦争以後、票庄はまるで封建官僚の帳場のようになった。

 社会生産の進化は緩慢になり、封建的生産関係は生産力の発展を阻害するようになった。このことはアヘン戦争前夜の北京地区の基本情況である。