林清
天理教の蜂起、林清の紫禁城攻撃
1813年(嘉慶18年)、林清の率いる天理教徒が紫禁城を攻撃したのは、歴史上前例のない反乱活動であった。それは黄巣や李自成のように数十万の農民蜂起軍を率いて京城を攻撃したのではなく、百人、二百人の教徒が紫禁城に乱入し、宮殿の守備兵らと死闘を展開した。
天理教は白蓮教の一派で、その組織は八卦に基づき編成され、それゆえ八卦教とも呼ばれる。天理教の派別は様々で、北京で組織されたものの多くは「龍華会」に属し、その中には更に紅陽派と白陽派の区分があった。この秘密の宗教教団は、北京、直隷、河南、山東、山西一帯で活動していた。彼らは「無生老母」を信奉し、「真空家郷、無生父母」の八字の口訣(信者に覚えやすいように口調よくまとめた語句)を伝授した。天理教のこの組織は、最初から清朝の政治権力を奪おうと意図していた。それゆえ入信時に、教徒は分相応に資金を出し、これを「種福銭」、または「根基銭」と呼んだ。毎年清明と中秋の節句には、教徒たちは更にその資金力に応じて献金をし、これを「跟賑銭」と称した。彼らの中では、百銭を納めた者は、事が成就した暁には1ヘクタールの土地を得ることができるとした。事が成就するとは、政権を奪うことである。
北京の天理教徒には様々な労働階層が含まれていた。郊外の貧困農民や手工業者が基本構成員であった。城内には奴僕、雇用人、厨役、行商人、職人、店員、更に下層の宦官、貧困旗人がいた。明らかに、天理教は当時の北京の労働階層の重要な政治組織であった。
北京天理教の首領は林清であった。林清(1770ー1813年)は、宛平県黄村宋家庄の人で、暮らし向きは困窮し、北京西単牌楼南側の一軒の薬屋で丁稚をしていたことがあり、また順承門(宣武門)の街路で夜回りをし、後に役所で使い走りをし、また運河で船の牽引夫をしていたなど、困難に満ちた生活の中で鍛えられた人であった。
1806年(嘉慶11年) 林清は天理教に入信した。後に逮捕され、「棒打ちの刑」に処せられた。釈放後、引き続き活動し、教徒の人数を増やし、組織を拡大した。 林清は勇敢で、弁舌が巧みで、気前が良く義理堅く、心から教徒たちを擁護した。彼は教徒たちにより「坎卦」(『易经』六十四卦の一)首領に推挙された。当時、宛平、大興一帯では「若要白面賎、除非林清坐了殿」(白顔が卑しいと言うなら、林清を帝位に就けねばならない)という歌謡が広まっていた。天理教の教徒たちは皆「林清は聖人だ」と称した。このことは、林清が清政権を打ち倒そうと考えていることを表していた。
北京天理教蜂起は林清が「坎卦」教徒たちを指導して発動したものだ。林清は河南の「震卦」教首李文成と時期を約して蜂起し、互いに支え合い、互いに声援し合った。李文成は河南滑県謝家庄の人で、木工出身で、人々は「李四木匠」と呼んだ。彼は算学に少しだけ通じ、人々を大いに心服させ、数万の教徒たちは彼を極めて敬愛し、彼を「李自成の生まれ変わり」と言った。北京と滑県の二大勢力は、滑県の教徒が人数が多く、蜂起の中心勢力であった。
1811年(嘉慶16年)秋、林清と李文成は河南道口鎮で会見し、併せて八卦教教首会議を開催した。道口鎮会議では反清蜂起の策略と準備等の問題を討議した。会議では清朝を打ち倒し、「大明天順」政権を打ち建て、蜂起成功後、林清を天王とし、馮克善を地王とし、李文成を人王とすることを決定した。以後、林清はまた河南に二度行き、李文成も北京に一度やって来た。彼らは「八月中秋、中秋八月、黄色い菊の花が至る所に咲き誇る」と宣伝し、「酉の年、戌の月、寅の日、午の時」、すなわち嘉慶18年(1813年)9月15日午(うま)の時刻に共に大事を起こした。彼らはまた林清の指導する坎字卦教徒による紫禁城攻撃を議定し、また河南から教徒を北京に派遣し支援させた。
李文成が指導する教徒たちは河南で蜂起の準備活動を行った。この教団の重要な幹部である牛亮臣は大坯山で兵器を製造したが、うっかりと滑県の知県強克捷に発見されてしまった。9月3日、李文成は逮捕され投獄され、罰としてその脛を切断された。教徒たちは蜂起の前倒しを迫られ、滑県を攻撃し、強克捷を殺害し、李文成を救出した。山東で相次いで呼応したが、遂には滑県を死守するも、大量の清軍の包囲攻撃に遭い、城は敗れ、李文成は敗走し死亡した。
林清は教徒の中の宦官に手引きさせ、少数の人数で先ず皇宮を占拠し、その後北京城を占領し、且つ嘉慶帝顒琰(ぎょうえん)が熱河から北京に戻る機会に乗じて、その途中に兵を伏して攻撃する計画を立てた。
林清は河南が期日前に蜂起したものの失敗したことを知らず、依然予定日時に紫禁城攻撃を発動した。彼は2百人を派遣して正面作戦の任務を担当させた。これを二隊に分け、一隊は東華門を攻撃、一隊は西華門を攻撃させ、各隊二人を首領とした。十人を一組とし、各組に頭目を一人置いた。蜂起に参加する教徒は白布で頭を覆い、白帯を腰に絞め、「得勝」の二字を連絡の合言葉とした。
15日早朝、彼らは密かに武器を帯び、城外の指定場所に集合した。東華門を攻撃する者は董村から出発し、西華門を攻撃する者は黄村から出発した。彼らは柿を担いだ行商人の扮装をして城内に紛れ込み、午の刻以前に紫禁城付近に到着した。地安門付近にも伏兵を投入し、呼応する準備をした。隊伍を率いる大首領の陳爽、祝顕などは前日に既に城内に入り、正陽門外に教徒が開設した慶隆戯園内で戦闘準備作業を行った。
正午に、蜂起者は「大明天順、開天行道」と書いた白い旗を振り、紫禁城攻撃の戦闘を開始した。東路は陳爽を先鋒とし、劉呈祥を殿(しんがり)とし、宦官の劉得財、劉金が道案内をし、東華門を攻撃した。彼ら30数人は南河沿の酒舗に集合後、北に向け進んだ。東華門前に到ると、何人かの教徒が不注意にも隠し持った武器をさらけ出したので、門の守備兵に発見され、急いで城門を閉ざした。蜂起軍は小人数が門内に駆け込み、残りは門外に足止めされた。門内に駆けこんだ人数は少なかったが、戦いぶりはたいへん勇敢であった。彼らは歩きながら攻撃し、協和門と蒼震門を過ぎ、そのまま内廷東門の景運門まで攻め込んだが、何人かの清朝廷の護衛軍により殺され、護衛軍の統領楊述曽により次々敗退した。
天理教蜂起軍紫禁城攻撃
西路の蜂起軍は陳文魁を先鋒とし、劉永泰を殿(しんがり)とし、宦官の張太、高広福が道案内をし、西華門を攻撃した。彼ら70人余りは菜市口に集合後、西華門外に到り、柿の籠を蹴り倒すと、武器を取り出し、西華門に攻め込むと、すぐさま城門を閉ざし、外から官兵が来るのを拒んだ。西路の戦闘は最も激烈であった。蜂起軍は続けざまに文頴館、造辧処、内膳房を攻撃し、そのまま養心殿、中正殿に到った。蜂起軍の一部は慈寧宮に攻め込んだ。大部分の蜂起軍兵士は内廷の西門の隆宗門外で宮門争奪の戦闘を展開し、たくさんの清兵を殺害し、その中には頭等侍衛の那倫らが含まれていた。
隆宗門扁額に残る弓矢
この時ちょうど内廷で勉強していた皇次子の旻寧(みんねい。すなわち後の道光帝)が、内宮の宮門を固く閉ざすよう命令を発し、援兵が来て救助してくれるのを待った。
清廷は火器を調達し1千名余りの官兵を使って蜂起軍を鎮圧した。双方の力量には大きな差があったけれども、蜂起軍はこのために少しも弱気になること無く、猛烈な火力と数多くの敵兵に対して、依然頑強に戦闘を堅持した。宦官の高広福は蜂起軍を手引きして馬道より登城し、彼は「順天保民」の旗を高く掲げ、士気を激励したが、不幸にも弓矢に当り犠牲となった。
その日の晩、護衛軍は紫禁城の城門を隙無く守備し、蜂起軍は紫禁城内に閉じ込められた。彼らは五鳳楼に火をかけ、混乱に乗じて包囲を突破するつもりであったが、突然大雨が降り、包囲突破計画は実施できなかった。16日、蜂起軍の戦士は空腹で疲労困憊していたが、尚頑強に戦った。夜になり、皇宮内での戦闘はようやく終息を告げた。
9月15日から17日まで、北京城は完全に戦争状態にあった。17日、曹福昌が組織した蜂起支援兵力が、依然城内で継続して活動しており、統治者を恐怖で不安にさせ、甚だしきは午門を守る軍官は異変を聞くや、「門を開け真っ先に逃げ出した」。
この時、嘉慶帝顒琰(ぎょうえん)はちょうど北京に戻る途中で、天理教蜂起軍が皇宮を攻撃しているとの奏上を聞き、すぐに燕郊外に停留して敢えて前進せず、19日になってようやく宮殿に帰った。
黄村宋家庄で戦闘を指揮していた林清は戦闘が不利な情勢にあるとの知らせを聞くと、教徒たちに命じて村落を固く守らせ、河南の援兵の到着を待った。17日早朝、清軍は宋家庄を包囲し、林清は逮捕された。嘉慶帝は自ら林清を尋問してから、彼の殺害を命じた。大部分の教徒たちはこっそり隠れ、祝顕、劉第五らは他郷へ逃げ、時を見計らって再挙を図った。
嘉慶帝時代、清の統治はまだ相当に強固で、清朝廷は依然相当大きな鎮圧力を保有し、これが林清の蜂起が失敗した客観的な原因である。林清は広範に深く群衆を発動し、力を蓄えることができず、紫禁城攻撃の戦闘を発動し、清宮廷を打ち負かしさえすれば、北京を掌握することができ、全国を制御できると考えていた。こうした敵を軽んじるというリスクを冒したことが、おそらく蜂起が失敗した主観的な原因である。同時に、河南の李文成の蜂起が失敗し、兵を派遣し北京を支援することができなくなった。北京の蜂起もあまり周到に組織することができず、蜂起部隊と部隊の間の連携が欠乏し、城内では統一した指揮を執ることができなかった。地安門外に埋伏した兵力は未だ動きが見られないだけでなく、支援部隊も時間通りに機能を発揮することができず、遅れて17日になって、曹福昌の支援要員はようやく行動を開始した。こうして、各路の部隊は孤軍奮闘したが、瞬く間に敵軍にそれぞれ分割して包囲され、あっという間に失敗に終わった。
この度の蜂起が、清の統治者に与えた打撃は極めて深刻なもので、嘉慶帝は、これは「漢、唐、宋、明も未だ為し得なかった事である」と言った。そしてより意義深かったのは、この度の蜂起により、全国各民族の間で、圧迫された人々が皇宮であっても攻撃ができると考えれるようになった。これにより人々の反清への闘志が大いに増すようになった。