雍和宮打鬼
第七節 風俗習慣と日常生活
上述の経済、政治、文化の発展と互いに関連するのは、風俗習慣と日常生活の変化である。風俗習慣は一般に古い伝統を備えており、清初の北京地区の風俗習慣は基本的に明代のものを踏襲していた。しかし北京地区の経済発展は、満州族の風俗が浸透し、またその他の面での影響もあり、これらの風俗習慣は、若干の事情によって多少の変化が発生せざるを得ず、且ついくらか新たな内容をも加えた。日常生活は経済生活と密接に関係し、この時代の日常生活は、各階級の経済生活情況を具体的に反映していた。
風俗習慣
清代、北京の風俗習慣の中で、節句(祭日)の内容が最も多彩であった。陰暦1月1日から、12月の最終日(30日、或いは29日)まで、1年間に数十の節句があった。その中で、いくつかの節句は明初の情況とほぼ同じだった。例えば元旦、大晦日、端午、中秋などである。いくつかの節句の賑やかな場面や活き活きした様子は明代を上回っていた。例えば、廟会(寺社の縁日)、逛廠(琉璃廠一帯の市(集市)見物に行くこと)などがそうで、またいくつかの節句は明代には無かった。例えば1月8日、雍和宮の鬼やらい(打鬼)などがそうである。この他、古代にたいへん重視された社日(土地神の祭祀日)は、清代にはもはや完全に消失してしまった。これらの節句は一部分は生産と密接に関連し、大部分が労働者階級の人々が自然や生活に対する熱愛を表し、また宗教的な迷信の類に属するものであった。
これらの節句は最初はその大多数が労働者階級の人々のところから出たものであったが、それらが決まった節句になって以後、封建統治階級の残酷な搾取により、労働者階級の生活はたいへん貧しく苦しいものとなり、節句を楽しく過ごせる者はごくわずかだった。いくつかの節句は、彼らは根本的に体験したこともなかった。これに反して、統治階級はできるだけ節句を利用し、自分たちの奢侈の楽しみを満足しようとし、とりわけ乾隆以降、統治階級は節句に極めてでたらめで堕落した生活をおくろうとした。
次に、当時の北京の重要な節句を、以下順を追って述べてゆく。
元旦 元旦(1月1日)は新年の始まりで、中国の節句の中で最も重視される節句である。この日は、一般の農民や都市の労働者、貧民は、なんとかかんとか家で静かに一日、普段より良い生活をして過ごすことができ、ひょっとすると少々小麦粉を使った食品の類を食べることができたが、人によっては、この日はどこも仕事が無く、却って飯も食うことができなかった。地主や商人の生活は全く異なり、早朝、家々では線香を焚いて爆竹を放ち、祖先を祭り、年長者に向け跪いて礼をし、家人が互いに縁起の良い話をした。朝食の時には椒柏酒(椒酒と柏酒。山椒や側柏葉(コノテガシワの葉を乾燥させた漢方薬)を漬けた薬酒)を大いに飲んだり、各種の点心を食べたりした。北京の各役所の文武の官僚たちは皇帝に媚びを売るため、五更には朝廷に上り皇帝に年賀の礼を行った。それに続くのが「拝年」で、一般の農民や都市の貧民、雇われ工などは、この機会を利用して熱心に誠意を込めて親類や友達の家を訪問し、官僚や地主、大商人の多くは「拝年」を利用して互いに贈り物や賄賂を贈った。夜になると、街中に灯がともされ、貴族、官僚、地主、大商人は楼閣に竿を挿して灯火を吊り下げ、灯の周りは松や柏(コノテガシワ)の枝で囲み、「点天灯」と呼んだ。
雍和宮打鬼 1月8日は雍和宮で鬼やらい(打鬼)という芝居気に富んだ行事が行われた。鬼やらいの時、廟内で主教の大ラマは身に黄色の錦衣を羽織り、車に乗り托鉢用の鉢を持つ。傍らには多くの儀仗の法器を持った小ラマが護衛した。前方には名を「班第」(バンディ)と言う小ラマが進むが、色とりどりの衣装を身に着け、頭には黒や白の兜を被り、手で色とりどりの棒を振り回し、且つ歩く先々に白い粉をまき散らした。これら一群の大小のラマが賑やかな銅鑼の音や人の声の中で寺の周りを廻り、口では絶えずお経を唱え、吉祥を迎え邪気を追い払った。観衆は鬼やらいの儀式が完全に終わるのを待って、徐々に帰って行った。
雍和宮打鬼
逛廠 北京城近郊に住む士大夫や文人墨客は、1月の3日から17日までの期間、しばしば琉璃廠に見物に行った。琉璃廠は前門の西にあり、清代の北京では書画や貴金属、骨董を売る場所であった。毎年 「逛廠」の時期(1月3日から17日)になると、店舗や露店にはこれらの商品が満載され、遊覧客は自分が欲しいものを自由に選んで買うことができた。火神廟の前は遊覧客がとりわけ込み合っていた。
元宵と灯市 1月15日は上元節で、元宵節とも呼ばれる。元宵節の前後には、城内の正陽門外、花市、菜市、琉璃廠、猪市口などの場所では皆、灯市を開いていた。灯市では商人が灯花(ランタン)、百貨、珠玉(真珠や玉)、羅綺(らき。絹織物)などを販売した。城内は到るところ、ランタンを点けて楽しみ、市民は太平鼓を叩き、お面を被って大頭和尚の格好で戯れ遊んだ。カップルはこの日の晩は連れだって街に繰り出し、なぞなぞを解いたり(猜灯謎)し、これを「看灯」をすると言った。夜が更けると、各々の家では灯をともして井戸や竈(かまど)、戸口に置き、これを「散灯」をすると呼んだ。
燕九 燕九節は1月19日で、この日は白雲観の廟会(縁日)であった。白雲観は広安門外にあり、北方のたいへん大きな道教寺院であった。この日、方々の全真道人で偶然に出会う(不期而会)者がしばしば万人にも達し、それぞれが奇装異服を身につけていた。見物の王公貴族、官僚士大夫の中の多くの者が弓を射て馬を走らせ、これを「耍燕九」と言った。一般の市民は銀貨を観内の橋のアーチの中に投げ入れて遊び、入ると「順眼」と言った。
燕九節
龍抬頭 2月2日は俗に 「龍抬頭」と言った。この時、気候は徐々に暖かくなる頃で、虫害が発生し出すので、農民は石灰を地面に撒き(消毒になる)、門外からくねくねとずっと厨房まで撒き、水甕の周りを一周撒くので、これを「引龍迴」と呼ぶ。中等以上の家では植物油で餅を揚げ、これを「燻虫儿」と呼び、意味は龍を引っ張り出して百虫を降伏させることである。城内に住む人は、この日グループで盧師山(北京石景山区の八大処にある山)へ行楽に行った。
上巳 3月3日は 上巳節である。農民は土谷祠みお参りに行き、この年の五穀豊穣を祈った。翌日、農民は去年保管庫にしまった花や木を取り出し、植え替えたり販売したりした。野菜畑に瓜や野菜を植えた。
春場 立春の前日、順天府尹から東直門内まで5里の地の 春場に行き、迎春の行事を行う。随行するのは州、県の官吏や地主、郷紳の他、付近の老農民である。春場では、府尹らが仗で耕牛を三度鞭打ち、耕作を勧め、政府が農業を重視していることを表す。翌日は立春で、北京近郊の住民は貧富の別なく皆生のダイコンを齧り、これを「咬春」と言う。
清明 清明節は3月にあり、この日、北京近郊の人々は家々でお墓参りに出かけ、祖先の墓の前で紙の銭を焼き、長い串刺しの紙銭を墓の傍らの小さな樹木の枝に掛ける。家によっては墓参りの後、雑草を除き墓の土を補充する作業をする。墓に参らない北京城の人や外地の人は、この日連れだって高梁橋一帯に行楽に行き、これを「踏青」と言った。
東岳廟会 3月28日は「東岳帝君誕辰」で、北京城近郊の人々は次々と東岳廟に行き、線香を備えた。線香を備える人は香会を作り、音楽を奏で鼓を撃ち、神を迎え街を練り歩いた。その中で跪いて拝むことを「拝香」と言った。
浴佛会 4月1日から8日まで、北京郊外の戒壇、潭柘、香山、卧佛、碧雲、玉泉、天寧などの寺院の僧侶が4月8日の釈迦牟尼の誕生を記念し、龍華会を打ち立て、これをまた 浴佛会と称した。北京住民で仏教を信仰する者はこれらの寺院を参拝し、喜捨し幸福を求めた。
端午 5月5日は端午節である。家々では道教の五雷符を掛け、門のあたりにヨモギを挿し、病気を除き邪気を追い払おうとした。皇宮では更に天師か仙子仙女が剣を執り五毒を降(くだ)す絵の屏風を高く掲げた。5月はちょうど病毒が蔓延する時期であるので、こうした話が生まれた。朝食で、人々は粽を食べ、中国古代の愛国詩人の屈原を悼んだ。屈原はこの日、汨羅江(べきらこう)に入水自殺し、粽を包むのは屈原を祭るためであった。これは既に中国全土で行われている古い風俗であり、南方の川沿いの都市や町村では更に龍船を漕ぐレースを行い、その意味は屈原を川底から救い出すということである。
六月六 陰暦の6月は北京で最も暑い月である。この時は新麦が既に出回り、郊外の農民は6月6日に一斉に麦干しを行い、婦女は衣服の虫干しをし、水を汲んで伏醤(醤油の醪)を作った。城内の士大夫は家で本の虫干しをし、皇宮の中では鑾駕(らんが。皇帝の車)や宮廷内、及び皇史宬(こうしせい)の蔵書の虫干しを行った。
七夕 七夕(7月7日)節は中国神話の牛郎が七夕に織女に会う物語から始まった。皇宮の中では宮女たちがこの日、鵲橋を渡らなければならなかった。民間の婦女は楼上で、月に向け針糸を通して手芸の上達を祈り、これを「乞巧」(きっこう)と呼んだ。或いは針を水中に投げ入れ、針仕事の巧拙を占った。
穿針 乞巧
中元 7月中に、穀物や麻は大部分収穫が終了する。農民たちは7月15日の中元節の日に麻や穀物を持って神廟に行って神様を祭り、神の恩恵に感謝し、同時に祖先の墓地に行ってお祭りをし、祖先への崇敬と哀悼を表し、仏教寺院では盂蘭盆会を行い、積水潭、泡子河(通恵河の北京城外区間の故道)では水灯を流し餓鬼が黄泉に渡れるようにした。
中秋 中秋、8月15日は団圓節である。この時穀物糧食は既に穀倉に入っている。外地の人は次々帰郷し、婦女で実家に戻っていた者は皆夫の家に帰った。中秋の夜、家中が一緒に月見をした。卓上に月餅、果物などを置いて食べ物を食べ、果物や月餅は皆花弁状に切られ、これにより月を祭ると言われていた。清初にはまた月光菩薩を神棚にお供えするのが流行っていた。月光紙を燃やし、お供えする者は月が出る方向に向け続けざまに頭を地面につけて礼拝した。月光紙には頭を満月で覆われ、蓮の花の上にお尻を着いて座った月光遍照菩薩が描かれ、一方でキンモクセイの木、月(玉兎)、ニンニクをつき砕く人が併せて描かれた。詩人や文士は、皓皓(こうこう。白く光って明るい)とした名月に向かって詩を吟じ、酒を飲み、しばしばいつまでも遊びふけり、帰るのを忘れた。皇宮の内院では、ほしいままに飲み食いし、ずっと夜通し騒いで、明け方になりようやく散会した。
月光紙
重陽 9月9日は重陽節を過ごした。この時期、郊外の草木は枯れて黄色くなり始める。郊外で人々はこの日、茶や食物、酒具を持って付近の山の斜面や庭園の高殿に行って行楽をし、これを「辞青」、または「登高」と称した。物売りは街角で車を押して花糕(蒸し菓子)を売って歩いた。父母は必ず自分の娘を迎えて家に帰り、一緒に花糕を食べたので、重陽はまた女児節と呼ばれた。
臘八 臘八節は12月8日である。この日は農民が冬に穀物を貯蔵してから、神様に収穫を報告する節句であった。朝、家々では臘八粥を煮て、それを食べる前に先ず一人前の粥を仏殿、神堂に行ってお供えした。北京地区の臘八粥は一般に棗、うるち米(粳米)、銀杏(白果)、クルミ、粟、菱の実、小豆など様々な穀物や木の実を併せて一緒に煮て作られた。
除夕(大晦日) 12月の最後の日が大晦日である。大晦日前の数日、家々では部屋の内外を掃除してきれいにする。言い伝えでは、23日にかまどの神(竈君)が天に上り、25日に玉皇を迎えて下界の人間界を調べると言われた。親しい友達の間では互いに贈り物を贈った。街角や路地の奥では羯鼓(かっこ。腰部の細い鼓で、2本のばちで両面を叩く。羯族から伝わったと言われる)の音が響き、これを「迎年鼓」と言った。大晦日、どの家も門の上に門神の絵や春聯の類を貼り、門の脇にゴマがらを挿し、屋内では松の枝を燃やした。これらは邪鬼を追い出すためだった。母屋には祖先の像を掲げ、花や果物をお供えした。夜になると、門外では爆竹の音が響き、年下の者が年長者を拝み、これを「辞歳」と言った。大晦日の夕食は「年飯」と呼ばれた。夕食後、家々では線香を焚いて玉皇が天に上るのを送り、新たなかまどの神が下界に来るのを出迎え、商人は更に財神爺(商売の神様)を拝んだ。大晦日の晩は、多くの人が家の中で麻雀などをして遊び、徹夜で眠らず、これを「守歳」と呼んだ。
以上が主要な漢族の節句であり、満州族は北京に来てからこの中の大部分の節句を取り入れ、併せて天や神を祭る節句を入れ混じらせた。回族は一般に自分たちの宗教の節句を過ごしたが、いくつかの漢族の節句にも加わった。
満州族が北京で保った独特の風習は「祭堂子」である。満州貴族、官吏、旗人のうちの金持ちの家には神堂が設けてあった。堂外の中庭には神杆が一本立てられ、高さは1丈3尺(約4m)、天を祭るのに用いられ、堂内には関帝(関羽)と菩薩神像が供えられた。 祭堂子の時間は元旦から、ほぼ毎月行われたが、一般に主に春秋、或いは春冬の2回の祭礼が行われた。天を祭る時、家人が一緒に中庭に集まり、中庭に祭卓と豚を煮た鉄鍋竈が置かれた。主祭人と薩莫(巫師)は天に向け米を撒き、経文を読み跪いて拝んで後、豚肉を裂き始め、捌いた肉がよく煮えたら切って細切りにし、皿に盛ってテーブルの上に供え、更に大きな碗ふたつの米飯を添えた。豚の苦肝とよく煮えた肉と飯を神杆の錫の碗の中に入れ、豚の鎖骨を杆の頂上に掲げ、その後家人や親戚で豚肉を分けて食べた。満州族の神話や伝説に依れば、上述の天を祭る方法は、以下の話に由来する。満州族は長白山から発祥し、初代の祖先の布庫里雍順は仙女が、朱雀がくわえて来た仙果を吞み込んだことで生まれた。神杆上の肉や飯は朱雀が食べるもので、天を祭ることは「本を忘れない」ことを表していた。関羽と菩薩を祭るのは、次のような伝説に基づいている。満州族は入関(居雍関を越えて北京に入る)の前、伝染病が流行り、関帝と菩薩に救いを求めた。このため、以後満州族は代々これらふたりの神様を祭るようになった。
満州族家庭の家祭
日常生活
衣服の面で、明代はずっと漢族伝統のボタン留めの長袖の衣装を着ていたが、満州族が北京に入って以後、清朝廷は漢族に大襟に左衽(おくみ)の満州族の服装の着用を強制し、北京と中国内地の服装史に一大変革をもたらし、以後各種の服装は基本的にこの様式を離れることがなかった。清初、一般市民は青色のひとえの丈の長い中国服(長袍大褂)を身につけた。貴族官僚は自分の富や地位をひけらすため、各種の様式を採用した。康熙時代、彼らの縁起の良い服装は、いわゆる「富貴不断」、「江山万代」、「歴元五福」などの名目であった。蟒袍(金色のウワバミの模様の刺繍の官服)上に鮮やかな刺繍を加え、平時に着る上着は、乾隆時代に流行した様式は、傅垣が金川から持ち帰った「得勝褂」で、上着はコバルトブルー、後に玫瑰紫や深紅色に改められた。貴族官僚が被る官帽は、両側に翼が無く、てっぺんには品質や価格の異なる真珠玉が付けられ、背後に長縵(細長い無地の絹布)が垂らされ、明代の圓頂烏紗とは明らかに異なっていた。平時に被った便帽は、暖帽に似ていたが、帽子のへりが狭く、てっぺんは赤色の結び目があり、赤の布が垂らされていた。こうした便帽は、一般の金持ちも被ることができた。農民、行商人、手仕事職人は通常は毯帽を被り、明代の様式を保っていた。貴族や官僚地主の家庭の婦女は、季節により各種の紗や苧麻(ちょま)、毛皮の服を身につけた。満州族の婦女は上着とスカートは相連なり分かれていなかった。男性の服は上着とズボンが分かれていた。
漢族の婦女は多くが纏足しており、貧しい婦女だけが重い体力労働に従事する必要があり、纏足をしなかった。八旗の婦女は皆纏足をせず、木の底の靴を履いた。
北京の食べ物の中で、地方の風味を備えたものには、豌豆黄、切糕、涼糕、豆汁などがあった。酸梅湯も北京に先ず出現した。北京の涮羊肉、烤羊肉、烤鴨はたいへん有名である。満州族はまた水炊きした豚肉を食べる風習をもたらした。
北京郊外の果物は、甜棗、白櫻桃、新疆から移植した馬乳葡萄が最も優れていた。付近の州県では更に良郷産の栗、密雲産の小棗、大谷の梨、粛寧の桃などがあった。
茶館に座る風習は清代の北京がたいへん盛んだった。茶館は方々にあり、その主要な客層は旗人で、漢族でそこに足を踏み入れる者は、清初はまだあまり多くなかった。
住まいの面で、北京の住居の特徴は、一般にぴったり隙間がないことを求め、風砂を防止した。例えば貴族や大官僚地主の住宅は、内部は回廊が曲折し、広い庭園があり、主人が住むところが別にあった。傍らには更に若干の続き部屋や耳房があり、召使が住んだり物を貯蔵するのに用いられた。中くらいの商人や工房主、小役人、中小地主の住宅は、四合院や三合院の形式を採用した。四合院は正方形に配列された四軒の家屋で、そのうち南向きのものが母屋、その他は付属の建屋であった。家屋の中間は中庭で、一般に棗の木やエンジュの木などが植えられていた。いくつかの家の中庭では甕を置いて金魚を飼っていた。三合院は四合院より付帯の家屋が少なかった。都市の貧民、行商人、職人、雇われ工はしばしば多くの家庭が一緒に暮らす大雑院の中で、互いの家の門が向かい合い、互いに往来することができた。それとは別に、専ら乞食が住むための家屋があり、「火房」と言った。家屋の中にベッドが無く、地面の上に一層2尺余り(約60センチ)の厚さの鶏の毛が敷かれていて、四方の壁は泥と紙でびっしりと隙間を塗り固め、冷たい風が侵入して来ないようにしてあり、冬に彼らがここで一晩過ごすことができた。
北京の郊外の住居内は大多数土のオンドル(土炕)が設けてあった。オンドルは冬に火を焚いて暖を取るためのもので、全体が土とレンガを積んで作られ、中間が空洞になっていた。オンドルの前は地面を掘り下げた石炭コンロ(煤炉)で火を焚くことができ、火がオンドルの中に入り、オンドルのベッドが暖まり始め、人がその上で眠った。貧しい家では石炭の使用を節約するため、オンドルの手前のコンロの火を使って飯を焚いたり料理の煮炊きをし、別にかまどの火を燃やすことはなかった。
移動の面では、清代の北京城内の道路は石板敷きの道と土の道があったが、土の道が多数を占めた。清朝政府の規定では、満州貴族(王、貝勒以下)で年齢が60未満の者は馬に乗って行き来することになっていた。漢族の官吏は駕籠に乗ることが許可された。最初、漢族の官吏は身分の大小に関わらず、皆駕籠に乗ったが、後に一に尊卑を区分するため、二に駕籠かきを雇う費用が重すぎるため、一、二、三品の高官と四品の順天府尹が依然駕籠に乗った以外は、その他の官吏は皆ラバの牽く車や馬車に乗るよう改めた。北京城内の大商人や工房主もラバ車や馬車に乗ることができた。
冬季、北京城の外堀の水が氷ると、東便門から西便門まで、そりに乗って行き来することができた。(『燕京雑記』参照)