万斯同
第五節 清前期の北京の学術と文芸活動
北京の学者や文士
北京は清朝の首都になり、全国各地の学者、文士がこの地に集まった。彼らはある者は科挙の試験に合格し、翰林院に入った。ある者は或いは招聘を受け、或いは遊学のため、北京に来た。こうした学者たちは互いに親しくなり、議論を戦わせ、北京の文化的繁栄や学術の発展に重要な影響をもたらせた。
康熙帝は三藩の平定(1681年。清朝の建国を助け、各地に独立政権となって藩王と称された漢人武将、雲南の呉三桂(平西王)、広東の尚可喜(平南王)、福建の耿継茂(靖南王)を滅ぼした)後、学問を重んじ、学識のある名士が争って都、北京に集まってきた。平民階級で、徐元文の招聘に応じて北京で主に『明史』を編纂した万斯同(ばんしどう)は、毎回講義の度に、翰林、部郎、処士が4、50人を率いて、車座になって聴講した。宮闕(宮殿)、地理、倉庫、河渠、水利、選挙、賦役、朝儀、兵刑など諸項目で、どの講義も、瓶から水が注がれるようにすらすらと語られた。(『李恕谷年譜』巻3)著名な学者で、「顔李学派」の創立者、李塨(りきょう)が講義に参加した時、万斯同は彼を講義参加者に紹介し、また彼を招聘して講義に登壇してもらった。こうした学術活動は、北京の文化に対し推進作用を起こした。
『四庫全書』を編纂する過程で、清の統治者はたくさんの学者を北京に集めたが、その中には載震、庄存与、翁方綱、朱珪、任大椿、邵晋涵、周永年、姚鼐、王念孫、紀盷等の人が含まれていた。彼らは『四庫全書』の各巻の出典(淵源)、テキスト(版本)、内容について、細かく考訂(考証と訂正)を行い、『四庫全書総目提要』を作成したが、これは重要な目録学の著作である。載震、 王念孫と著名な学者の銭大昕は更に北京で多くの経史、音韻、地理、歴算考証の学術著作を作成した。
北京でも有名な学者を輩出した。例えば満州正黄旗人、阿什坦は、満州語で『大学』、『中庸』、『孝経』を翻訳し、漢軍鑲白旗人、劉淇の著作に『助字辨略』、漢軍旗人、傅澤洪の著作に『行水金鑑』、大興県人、劉献廷の著作に『広陽雑記』、 翁方綱の著作に『両漢金石記』、王源撰『明史・兵志』、礼親王代善后昭槤の著作に『嘯亭雑録』があった。著名な学者、徐松も大興人であった。
文士の中で、大詩人王士禛は長期で北京に居留し、各地から北京に来て彼を尋ね教えを求める者が頗る多かった。清朝宗室(皇室、皇帝の一族)の著名な詩人、文昭はそこで「爵を辞して読書し、王士禛から遊」んだ。(『清史稿・文昭伝』)王士禛は北京で文社を組織し、兄の士禄、弟の士祐、及び宋琬、施閏章、厳沆、丁澎らと互いに詩文のやりとりをし(酬唱)、「燕台七子」と呼ばれた。
北京の満州族貴族、八旗の子弟の中にも文士が出現した。その中で最も有名なのは性徳と曹雪芹である。性徳、姓は納喇氏で、隷満州正黄旗、康熙帝の寵臣、明珠の子であった。1675年(康熙14年)進士に合格し、康熙帝の侍衛に任じられた。彼は詩を善くし、とりわけ詞に長じ、「著すところの『飲水』、『側帽』二集、清新にして秀隽(抜きん出て優れ)、垢ぬけて」いた。(『清史稿・文苑伝』)性徳と朱彝尊、陳維崧は清代の「詞家三絶」と称せられた。
曹雪芹、名は霑(てん)、祖先は漢人で、捕虜にされ旗に編入され、満州正白旗に入り 包衣になった。正白旗は上三旗で、このため、代々皇帝の家奴(下僕)をしていた。曹璽、曹寅、曹顒、曹頫父祖(祖父と父)兄弟は続けて江寧の織造官に任ぜられ、曹璽の妻、孫氏はまた康熙帝、玄燁(げんよう)の乳母(保母)をしており、皇室との関係は密接で、それゆえ栄華富貴の家柄になった。康熙末年の皇子の間の皇位争奪に巻き込まれたため、雍正即位後に曹家は取り調べを受け財産を没収され(査抄)、これ以降、家は没落した。乾隆帝の時に少し暮らし向きが好転したが、雪芹の成長とともに、家の境遇はまた少しずつ落ちぶれ困窮するようになってしまった。
曹雪芹
曹雪芹は長期間北京に居留していた。北京は当時の清朝統治の中心で、満州貴族と大官僚の傲慢、奢侈、腐敗と小作人、庄丁に対する残酷な搾取は、北京が最も際立っており、曹雪芹自身が封建貴族階級の出身で、しかも家庭の災難を経験していた。こうした客観的な環境と彼自身の体験は、彼の思想や感情の変化に決定的な影響を与え、このため彼の現実主義的な大作、『紅楼夢』の中で、当時の封建社会のありさまを反映しただけでなく、同時に北京の社会のありさま、とりわけ八旗貴族と京城の市民の貧富の差が極めて大きい生活や階級関係を反映した。
『紅楼夢』は当初は写本しかなく、北京の廟会で販売された。その後、木版刷りのものが刊行され、浙広地域で流通し、芝居で演じられるようになり、代々伝わり広く知られるようになった。
清代北京に生まれた有名な作家には、他に大興県人の李汝珍がおり、嘉慶、道光年間に流行した長編小説『鏡花縁』は、彼の作品である。
戯曲
清代、北京の芝居はたいへん発展した。それは明代のものを継承してさらに発展させ、宮廷から民間に広まり、その脚本、俳優、上演する劇場、何れも明代よりも優れていた。
皇宮と円明園には大型の壮観な劇場(戯楼)があり、「同楽楼」と名付けられ、皇帝や后妃、及び大臣たちの歓楽に供ぜられた。ここでの演目は多くが正月や節句のお祝いや長寿のお祝いで、このため内容の多くは神話の物語、例えば『群仙慶賀』、『羅漢渡海』などの劇であった。清の統治者は関外にいた時代に既に小説『三国演義』を熟知していて、芝居に書かれ、その名を『鼎峙春秋』といい、昆曲の節回し(昆腔)で演じられた。『水滸伝』も『忠義璇図』に改編され、宮廷で上演された。宮廷演劇の規模は大きく、舞台衣装は新しく、脚色が多く、民間の劇団とは比べものにならなかった。
しかし民間の芝居は規模も大小様々、節回しは自由で、制約を受けなかったので、そのためより多彩になり、強い生命力を備えていた。清朝前期に北京で流行した芝居は、先ず昆曲、その少し後に梆子腔(ほうしこう。陝西省から流行した拍子木で拍子をとり歌う芝居)、乱弾腔、弋陽腔(よくようこう。江西省弋陽(よくよう)県から始まった節回しの芝居)が増え、その後、皮黄調が現れた。皮黄は各種の節回しを最も良く吸収でき、また改善するのに都合がよく、例えば初め、これは昆曲と同様、楽器は笛を主にしていたが、後に胡弓(胡琴)を用いるように改められた。これが以後北京で流行した京劇である。
北京の民間の芝居の組織には、乾隆時代には宜慶、萃慶、集慶、歓慶などの部、道光時代には四喜、三慶、春台、和春の四部があった。戯班の俳優は多くが各地の農家から契約して(立券)買われて来た。最初は年齢がたいへん若かったが、その後経験を積んで「出師」(一人前の役者)になり、親方(師匠)に贖金(礼金)をたくさん支払わねばならなかった。親方と役者の父母が契約を交わす時、契約書の上に墨で一本の線を引き、これを「一道河」と呼び、十年内の役者の生死存亡は、父母が口出しするのは許されなかった。芝居を演じる過程では、常に権勢を持った人の侮辱を受けた。役者の生活や境遇は、皆極めて悲惨であった。
劇団が上演する地方劇場には、初期には査楼、月明楼があり、その後は三慶園、慶楽園、広徳楼、広和楼(すなわち元の査楼)があった。劇団は内城、外城何れにもあったが、外城にあるものが多かった。乾隆、嘉慶時代は外城に十数ヶ所あり、そのうち正陽門(前門)外の大柵欄には5ヶ所あった。芝居の演目は大多数が明代の昆曲の演目で、『浣紗記』、『牡丹亭』、『義侠記』、『西厢記』などの伝奇小説の中から一幕の芝居にできるものを選んで上演し、また新たに創作したものもあった。上演の時には一二幕の立ち回りのある芝居も必要だった。王侯や地位の高い人は、屋敷の中に自分の劇団を持っていて、大臣官僚を会館に呼び寄せて上演し、劇場に行くことなく芝居を見ることができた。
広和楼(すなわち査楼)
北京の雑曲は種類がたいへん多く、「八角鼓」、「什不閑」、「蓮花落」などの名称があり、八旗の子弟が作ったと言われる。その曲や歌詞を見ると、北京地区に元々あった民間の歌曲や民謡を混ぜ合わせて作ったものであるに違いない。その曲目には上品なものも大衆的なものもあり、『帰去来詞』、『長坂坡』、『游寺』などがあった。
琉璃廠
北京の文化生活の中で、無くてはならない場所として、「琉璃廠」が挙げられる。 琉璃廠は明、清の両時代、北京で書店の集まった場所で、その所在地は外城の西寄りで、元々明代に琉璃瓦の窯があったことからそう名付けられた。李文藻、繆荃孫の記述によれば、乾隆時代、四庫館を開いて史書全書を編纂するため、全国各地から文士が集まり、書籍が北京に集められ、琉璃廠の書店は数十店を数えた。(『琉璃廠書肆記』、『 琉璃廠書肆后記 』)当時、書店や出版業を営む者は、その多くが書籍の版本の良し悪し、国内の蔵書家の蔵書情況、著述家の原稿の保存状況などに通暁していた。書商の中には書籍の内容に精通している者もいた。四庫館の編纂官、周書昌は、以前、呉才老の『韻補』を他人が買って行くのを見たことがあったが、鑑古堂の書商、老韋は彼に、邵子湘の『韻補』は既に尽く買われてしまったと言った。周書昌は、なるほど、その通りだと見做した。こうした書商はまたしばしば各地の書籍を保有する家に行って書籍を購入し、書籍の伝播の上で発揮した効果はたいへん大きかった。慈仁寺(南城)、隆福寺(東城)などの場所では、また本を売る屋台が出て、小説、戯曲、唱本を販売した。当時、学者や文士はしばしばこうした本屋や本を売る屋台に出入りしていた。
琉璃廠