1959年、反乱後、ダライラマと共にインドに逃れるチベット貴族
《17条協議》により、チベットの平和解放は実現するものの、結局、ダライラマ14世はチベット独立を目指し、反乱を起こし、チベットを追われることになります。
しかし、これはある意味、毛沢東の作戦勝ちかもしれません。1951年の人民解放軍進駐で外堀を埋めておき、チベット政府の取り込みでは、アペイ・アワンジンメイを手懐かせ、ダライラマが辛抱し切れなくなって反乱を起こすと、それを制圧してダライラマとそれを支持する一派をインドに追放し、その後は一気にチベットの中国化を進めたのですから。このあたり、毛沢東のすごさと言えるかもしれません。
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■[1]
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・幇辧 bang1ban4 補佐。代理。
□ 1951年9月から1952年6月まで、18の軍団を主力とする各方面のチベット進駐部隊が相前後してラサに到着し、太昭、江孜、日喀則、山南隆子宗、亜東、察隅、改則等の国防の重点地区に進駐し、チベット進駐の任務を完成させ、チベットの4000キロ余りの国境線上が長年無防備であった歴史を終結させた。
1952年9月6日、中央人民政府駐チベット代表外事代理事務所が設立され、中央人民政府外交部の指導の下、チベット地区の一切の渉外事務を具体的に行った。1954年4月29日、中国・インド双方は北京で《中国チベット地区とインド間の通商と交通に関する協定》を締結、同時に互いに口上書を取り交わし、インドが継承した、イギリスがチベットを侵略した時に残された特権を取り消した。1955年中国とネパールは正式に外交関係を結び、更に1956年に《中華人民共和国とネパール王国の友好関係の保持、及び中国チベット地方とネパールの間の通商と交通に関する協定》を締結し、ネパールのチベットでの特権を取り消し、中国・ネパールの関係は新たな基礎の上に強固となり、発展した。ここに至り、中央人民政府が統一してチベット地区を処理した一切の渉外事項は完全に実現した。
■[2]
・精打細算 jing1da3 xi4suan4 (人や物を使う場合)綿密に計画する。
・囤積居奇 tun2ji1 ju1qi2 値上がりを見込んで買い占める。投機する。“囤積”は買いだめすること。“居奇”は値上がりを待つために、物を売り惜しみすること。
・挑撥 tiao3bo1 仲違いするよう、双方をけしかける。そそのかす。
・図謀 tu2mou2 たくらむ。悪巧みをする。・靠攏 kao4long3 近寄る。接近する。
□ 中央政府は「チベットに進駐しても、この地方のものは食べない」及び「綿密に計画し、生産し自給自足する」等の指示を出し、「軍需を保障し、併せて民間利用にも配慮する」、「一括調達し、支払いを切り詰める」等の一連の財政・経済政策を出した。人民解放軍はラサ進駐後、先ず羊毛の輸出貿易から着手し、軍需と民用の問題を解決した。中央政府は400億元(旧貨幣)を拠出し、インド市場への輸出より高い価格で、チベットの売れずに在庫になっていた羊毛を買取り、チベット上層の反動集団が値上がりを見込んで買い占めをし、争いが起こるようけしかけ、チベットと中国の関係を破壊しようとするたくらみや、上層部がここから獲得する多額の利益に打撃を与え、中央政府が的確にチベット族人民の利益を守っており、経済面で帝国主義勢力に対する依頼や連携が次第に減少し、中央政府に積極的に接近していることが肌で感じられるようにした。
■[3]
・行轅 xing2yuan2 = 行営 xing2ying2 最高統帥者の野戦司令部。或いは、高級官吏の臨時の居所、執務場所を指す。
・会晤 hui4wu4 首脳の会見、会談。
・聯袂 lian2mei4 手を携えて。いっしょに(行く)。
・観礼 guan1li3 招かれて式典に参列する。
□ 中央人民政府の促しにより、1952年4月、バンチェンアルダニ10世と彼の執務場所と関係人員は青海からラサに戻り、バンチェンラマとダライラマの友好会見が実現した。チベット工作委員会は絶えず活動を行い、ダライラマとバンチェンラマ相互の間に歴史的に残っていた問題と現実の問題を解決した。1953年、ダライラマ14世とバンチェンラマ10世は全国仏教協会名誉会長に選出され、功徳林活佛は副会長に選出された。1956年9月、中国仏教協会チベット分会が成立した。1954年9月、ダライラマ14世、バンチェンラマ10世は手を携えて北京に行き、中華人民共和国第1期全国人民代表大会第1次会議に参加し、チベット各民族人民が国家の大事に平等に参与、管理する権利を実現した。これと同時に、考察団、或いは参列団を組織し、中国内地を見学、訪問し、1952年から1957年までの間に13回、延べ1000人余りが中国内地を見学、訪問し、そのメンバーは絶えず拡大し、その中にはラサからチベット各地に至る上層の僧籍、及び一般の官吏、チベット仏教寺院のラマ(高僧)、青年、婦人を含み、チベットと中国内地の連携と各民族の団結を強めることとなった。
(1954年第1期全人代で投票するダライラマ(右)、バンチェンラマ(右から2番目)
■[4]
・中世紀 zhong1shi4ji4 中世。・賦税 fu4shui4 租税。
・烏拉差役 wu1la1 chai1yi4 租税、賦役(労役)、地租などの総称。“烏拉”とは、無償労役の意味。その内容は様々であったという。
・掙扎 zheng1zha2 なんとかしようと必死になる。懸命にもがく。
・蓄意 xu4yi4 以前からそのつもりでいる。下心がある。たくらむ。(よくない意味で使う)
□ 民主改革前の旧チベットは、欧州の中世よりも更に遅れた、暗黒の政治と宗教が結びついた、封建農奴性社会であった。人口の5%の役人、貴族、寺院の上層の僧侶という三大領主及びその代理人が全ての耕地、牧場、森林、山や川と大部分の家畜を支配し、人口の95%の農奴と奴隷は生産の資産と人身の自由を持っていなかった。幅広い農奴や奴隷が重い租税、労役や高利貸しの搾取を受けただけでなく、稀に見る残酷な政治圧迫や刑罰を受け、生死の境でもがき苦しんでいた。チベットの社会制度の改革はチベットの社会発展の必然の要求であり、チベット人民の根本的な願望であった。チベットの特殊な情況を考慮し、《17条協議》はこう規定した。「チベットの現行の政治制度に対し、中央は変更は行わない。」「チベットの改革事項それぞれについて、中央は強制はしない。チベット地方政府は自主的に改革を進めるべきであり、人民が改革を要求した時、チベットの指導者と協議するという方法でこれを解決しなければならない。」平和解放後、中央人民政府はチベットの社会制度改革に対し十分に慎重な態度と、極力寛容な政策を取り、チベット地方の上層の統治集団が自主的に改革を進めるのを我慢強く待ち、また説得し、且つ充分な時間を与えた。けれども、チベットの反動的な上層部は農奴主階級の既得利益と特権を維持する為、根本的に改革に反対し、永遠に封建農奴制を保持しようとし、このため、わざと《17条協議》に違反し、一連の祖国分裂活動を画策し、遂には1959年に全面的な武装反乱を発動した。
■[5]
・依附 yi1fu4 従属する。付き従う。
・克 ke4 チベット地方で用いる容積単位、或いは土地面積の単位。青稞(qing1ke1 ハダカムギ)1克は約25斤で、1克の種子が播ける土地を“一克地”という。1克は約1市畝shi4mu3(通常は“畝”といい、1ヘクタールの1/15)。
・牲畜存欄頭数 sheng1chu4 cun2lan2 tou2shu4 家畜の飼育頭数。“存欄”とは、統計用語で、家畜が小屋の中で飼育されていること。
□ 国家の統一とチベット人民の根本的な利益を維持する為、中央人民政府は断固とした措置を採り、チベット人民といっしょに断固として反乱を終息させ、チベット地方政府を解散し、且つチベットで封建農奴制度を徹底的に破壊する民主改革運動を行った。民主改革は「政教一致」制度を廃止し、政教分離を実現した。生産資源の封建領主所有制を廃止し、農牧民個人所有制を確立した。「三大領主」による人身従属を廃止し、農奴や奴隷は人身の自由を獲得した。民主改革はチベット社会の進歩と人権発展史上、エポックメイキングな重大な変革であり、チベットの百万の農奴と奴隷を政治、経済、社会生活といった多くの面で解放し立ちあがらせ、チベットの社会生産力の発展を効果的に促し、チベットの現代化発展の為の道筋を切り開いた。統計によれば、民主改革中、農奴と奴隷が分け与えられた土地は280万“克”余り(15克が1ヘクタールに相当)で、1960年にチベット民主改革が完了した時、チベットの食糧生産量は1959年比で12.6%増加、民主改革前の1958年と比べ17.7%増加した。家畜飼育頭数は1960年、1959年比で9.9%増加した。
■[6]
・当家作主 dang1jia1 zuo4zhu3 主人公となる。“当家”は一家の主となる、家事の切り盛りをする、という意味。
□ チベットの民主改革の過程は同時に民主的な政権を打ち立てる過程でもあった。1959年3月にチベットで反乱が発生後、国務院は命令を発し、チベットのガシヤ地方政府を解散し、チベット自治区準備委員会がチベット地方政府の職権を行使することに決定した。その後、相次いで昌都地区人民解放委員会とバンチェン堪布会議庁委員会を廃止し、いくつかの異なる性質の政権が並存する局面は終了し、統一の人民民主政権が打ち立てられた。1961年、チベット各地で普通選挙の実施が開始され、昔の農奴、奴隷が初めて主人公となる民主的権利を獲得し、選挙でチベットの各クラスの権力機関と政権が生み出され、多くの解放された農奴と奴隷が各クラスの指導的職務を担当した。1965年9月、チベット自治区の第1期人民代表大会第1回会議がラサで開幕し、チベット自治区及びその人民政府の成立が宣言された。その後、チベットは農牧業の社会主義改造を経て、社会主義の発展路線へ足を踏み出した。チベット自治区の成立と社会主義制度の実施は、制度上で各民族の平等、団結、相互支援、共存共栄政策がチベットで実現することを保障し、チベットの各民族人民が平等に国家事務管理に参与し、自主的に当地区当民族の事務を管理する権利を保障し、チベットが国家の特殊な支援と資金的援助の下、当地区の特徴に基づき全国と共同で発展、進歩するため、制度的な保証を提供した。
■[7]
□ 1980年と1984年、中央は相前後して第1次と第2次のチベット工作座談会を開催し、チベットを経済建設を中心とし、閉鎖式経済から開放指揮経済に転換し、供給型経済から経営的経済に転換させる指導方針を確定した。中央政府は「土地は世帯に帰して使用させ、自主的に経営し、長期間変更しない」、「家畜は私有で、個人で飼育し、自主的に経営し、長期間変更しない」等の一連のチベット経済発展に有利な特別な優遇政策を制定し、チベットの経済体制改革と対外開放を推進し、更に1984年からは、国が投資し、全国9つの省(直轄市)がチベットの43項目のプロジェクト等の一連の項目の建設を支援した。改革開放政策の実施と国の支援は、チベット経済を強大にし繁栄させ、チベット産業の全体レベルと経済活動の商品化レベルを向上させ、チベット経済と社会の発展を新たなステップに踏み出させた。
■[8]
・流亡 liu2wang2 災害や政治上の理由に迫られ、故郷を逃れること。亡命する。
・自絶于 zi4jue2 yu2 自ら進んで関係を断つ。(後に必ず“于”を伴う)
・死心塌地 si3xin1 ta1di4 [成語]決心したらどんなことがあっても変えようとしない。悔い改めようとしない。
・対口支援 dui4kou3 zhi1yuan2 経済の発達した、或いは力の強い一方が、経済力の弱い、或いは力の無い一方に面対面で援助を行う政策的な支援形態で、主に災害支援、経済支援、医療支援、教育支援に分類される。現在は、主に中央政府が主導し、地方政府が主体的に対象地域の個々の市や地区に面対面で支援活動を行うという形態が取られている。
・格局 ge2ju2 組み立て。構成。構え。
□ ダライラマ集団は国外に逃亡してからも、終始「チベット独立」の主張と国家を分裂させる活動を放棄せず、アメリカのCIAの支援で、インドで「チベット独立国」の成立を宣言し、インド、ネパールで反乱武装基地を打ち立て、長期間中国国境に対し武装襲撃と攪乱を実施した。1964年、国務院第151次会議で《ダライラマの職務の取り消しに関する決定》が通過し、次のように指摘した。「ダライラマは1959年に国に背き反革命武装反乱を発動し、国外に逃亡して以降、亡命偽政府を組織し、偽憲法を公布し、インドの反動勢力が我が国に侵略することを支持し、更に国外に逃亡した残党を積極的に組織、訓練し、反乱、武装し、祖国の国境を騒がせた。これら一切のことは次の事を証明している:彼はとっくに祖国や人民との関係を自ら断ち、決して悔い改めようとせず、帝国主義、外国反動勢力の手先となった反逆分子であると。」チベットの改革開放実施後、ダライラマ集団は内部に入り込んだ破壊活動を強化し、1980年代末にラサで騒乱を組織し企てた。中央政府は効果的な措置を取り、直ぐに騒乱を終息させ、また1989年にはチベット工作を指導する10条の意見書を提出し、思想の統一、安定の促進に重要な機能をし、新時代のチベット工作の転換点となった。1994年、中央政府は第3次チベット工作座談会を開催し、経済建設を中心とし、経済発展と情勢の安定の二つの重要事項をきっちり把握し、チベット経済の発展の加速を確保し、社会全体の全面的な進歩と治安の長期的安定を確保し、人民の生活レベルの継続的発展を確保するという新時代のチベットの活動指導方針を確定し、中央がチベットに関心を寄せ、全国がチベットを支援するという重大な方策を出し、一連のチベットの発展を加速する特別な優遇政策と措置を決定し、国家が直接チベットの建設項目に投資し、中央が財政補助を実施し、全国の省や市が面対面で支援を行うという、全方位からチベットの現代化建設を支援するという構成が形成された。2001年、中央は第4次チベット工作座談会を開催し、より有効な措置を採り、より一層チベットへの支援への重点を強化し、全面的にチベットの発展を推進し、チベットの安定を促すことを決定した。1994年以来、中央政府は相前後して60の国家機関、全国18の省、直轄市と17社の中央企業を手配し、人事、財務、技術、管理等の面から面対面でチベットを支援し、面対面のチベット支援の範囲はチベットの全ての地域の市と73の県(市、区)をカバーした。とりわけ1994年に確定した62項目のチベット支援プロジェクトと2001年に確定した117項目のチベット支援プロジェクトの全面完成により、チベットの生産活動条件は極めて大きく改善し、チベットの経済、社会発展に強力な原動力を注入した。これと同時に、ダライラマ集団の妨害や破壊活動を排除し、バンチェンラマ10世が転世する霊童の捜査、認定を円満に完了し、堅賛諾布がバンチェンアルダニ11世を継承するのを承認し、ダライラマ分裂集団との闘争を断固として展開し、チベットの情勢の安定を維持した。
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