中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

北京史(十六) 第五章 元代の大都(4)

2023年06月09日 | 中国史

マルコ・ポーロの目に映った元・大都

第二節 大都の政治経済情況

 

 

経済概況と住民の生活

 商業 大都は元朝最大の商業の中心地で、天歴年間の統計によれば、大都の宣課提挙司に入る商業税は毎年113千錠(塊状のものを数える)余りで、全土の商業税総額の9分の1弱を占めた。元朝の規定では、商業税は3%であった。フビライの時、大都の商業の発展を促すため、旧城の商店が新城に引っ越すなら商業税を2.5%に減額すると命令した。そして、牛馬や果樹の諸市と酒、酢を除き、「魚やエビ、薬果の類の如き、及び書画、藁席、草鞋、篠箒(竹製の箒)、磚や瓦、木炭諸色、灯銅、鉄線、麻糸、苧(ちょま)、藁縄、曲貨は、皆課税すべきでない物(『日下旧聞考』巻63『官署』から『稼堂雑抄』を引用)であり、明代の崇文門税課条目に比べ、より少なくなっていた。

 

 大都城内に各種の専門の市場が30余りあった。最も賑やかな場所が町全体の中心の鐘楼鼓楼と、西城の羊角市一帯であった。鐘楼、鼓楼の西は海子(積水潭)に隣接していた。海子は中原を南北に貫く大運河の終点で、南から来た商船はここに集まって停泊した。沿岸中に歌の舞台、酒楼が配され、貴族や金持ちの商人が喜びを求め楽しみを追求する場所であった。鐘楼の付近には米市、麺市、緞子市、毛皮市、帽子市、ガチョウ、アヒル市、真珠市、鉄市、「沙刺」などの市があった。「沙刺」はサンゴの意味である。羊角市一帯には羊市、馬牛市、駱駝市があった。付近にはまた奴隷を販売する人市もあった。フビライの後期、人市は廃止を迫られたが、人市の坊楼は依然保存されていた。鐘楼の最も北の所と、南城の文明門、麗正門と順承門外に、またいわゆる「窮漢(生活困窮者)市」があった。1273年(至元10年)、中書省の報告によれば、「大都等の地域では人口、家畜、不動産の売買など、一切の貨物の交易は、その官と私の間の仲介者が僥倖にも利益をむさぼり、買主と売主が相まみえないようにし、先ず売主の所で価値を定めるが、買主の所では価格をつり上げ、多くが上前をはね、たいへん具合が悪い。」このため、「今後およそ人口、家畜、不動産や、一切の物品を売買する時、仲介人などは売主、買主と書面で本籍、住まいを明確にしなければならず、いつでも売主や仲介人、保証人などが保証し署名したことが分かれば、取引が成立したと見做す。」(『通制条挌』巻18『関市』)坊市(街市)の区分と売買双方は各々顔を合わさず、単に仲介人が間に立って活動するのに頼り、商業の発展を大いに拘束し、同時に当時の大都と北方地区の商業の遅れを反映していた。1286年(至元23年)になると、政府はこう決定した。「先ず「蓋里赤」(モンゴル語で仲介人)が一般民衆を混乱させる行動は、既に禁止されている。ましてや商人の売買は、決まり通り税金を納め、もし更に仲介の業者が入り、手数料を取り、市場の利益を削ぐのであれば、掠奪になり都合が悪い。大都の羊の仲介人、及び人口、家畜、不動産の売買で仲介人が従来から存在して、価格に基づいて手数料を取り、十両につき二銭に過ぎないものを除き、それ以外の様々な仲介人は、統合するかやめるべきだ。」(『通制条挌』巻18『関市』)一部の仲介人の廃止は、商業の発展を間違いなく促進した。

 

 後世に伝えられた黄仲文の『大都賦』は、大都の賑やかな情景の文学的描写であった。その中でこう書かれていた。「その街(都市)の商店(市廛 )について言えば、四方八方に通じた大通りが交錯し、何列も路地があってごちゃごちゃしていた。大きな店は馬を百頭も収容でき、小さな店でも四方が車百輌分の大きさがあった。街の東にいる者が街の西を望めば、あたかも外地の者が見聞しているかのようだった。城南の者が城北に行くと、早朝に出ても、帰りは黄昏時になった。繁華街のきらびやかな市場では、万国の珍しい物が集められていた。歌舞を演じる小屋や高殿には、世界中の艶やかな香りが集められた。寺院は帝王の住居のようで、商店は役人の家のようであった。酒を売る店は何と堂々としていることか、ひしゃげた升の形の大きな金の文字。金持ちは何と贅沢なことか、衣服のとぐろを巻いた龍の刺繍の模様。奴隷は雑居して見分けがつかず、王侯が同時に入って来ても区別しない。千頭分の肉料理を一日で作り、酒一万石を十日で醸した。」「もし城門の外であれば、文明は多くの船が連なる港(渡し場)であり、麗正(門)は衣冠の海で、順則(門)は南洋商人の藪であり、平則(門)は西域商人の集団である。天が生み地に産し、神の愛する珍奇な宝物、人間が作り出した物、山海の珍しい物が、求めずとも自ずと到来し、集めずとも自ずと集まる。我が都の人を以て、家には無駄な男子はおらず、横丁には好き勝手をする輩はいない。毫毛(わずかばかり)の儲けを得ようと、今までの五倍いろいろ考える。一日の間、一つの横丁の中で、たくさんの車が重なり合い、街路を行きかい、初めは人の肩やロバの背に触れようと気にしなかった。川の流れが合流する時、太鼓を鳴らして知らせなくても、勝手に合流し勝手に分かれ、杳(よう)としてその所在を知らない。商売人の家では、王家であろうが孔家であろうが、宴席を設け、親戚や友人を招待し、都の住人であることをひけらかし、数千万貫というお金を浪費するこうした金持ちの様子を見るに、本当に卑賎の者にも及ばない。歌舞の小屋の演奏は、侯園でも相苑でも、長い袖に軽いスカートを身に着け、管弦の音が急展開してクライマックスを迎える。春の柳の枝を折って丸く結び、以て憂いを引き起こし、秋の月を凝視したら視線を変え、翠の池に臨んで暑さを解消し、裾をからげた帳(とばり)で雪も暖かい。一笑千金、一食万銭。相手は巨大商人、遠土の濁官であり、憂いを取り除くのを楽しみ、憂いを洗い流して帰るのを忘れる。我々都人はしばしば顔ではおもねっても、背後ではこれをあざけり笑うのである。(『宛署雑記・民風一』)長期間大都に滞在した旅行家のマルコ・ポーロは、汗八里(元代、モンゴル人の北京の呼び方)城の交易が発達し、人口が盛んに増加した情況を見て言った。「汗八里城(大都城)の内外の人戸が非常に多いのには、若干の城門、すなわち若干の附郭(外城)があることを知らねばならない。この12の大きな城郭の中に、人戸はこれと比べると、城内が更に多い。城郭の中に居住しているのは、各地を行き来する外国人か、地方の特産品の貢ぎ物を朝廷に捧げに来たか、或いは宮中に物を売りに来た者で、それゆえ城の内外には豪華な屋敷や巨大な建物があり、しかも数多くの高官や身分の高い人々の邸宅は、この数の中に入っていない。」「なお知るべきは、およそ歌舞で生計を立てている婦女子は、城内には居住せず、皆附郭(外城)に居住している。附郭の中は外国人が甚だ多く、それゆえこうした輩や娼妓は人数も夥しく、合計で2万人以上もおり、皆客から贈られた財物で暮らしており、居住民の多さが想像できる。外国のたいへん高価な珍しい物や様々な商品をこの都に輸入する者の数は、世界のどの都市もここに及ばない。蓋し皆それぞれ各地から品物を携えてこの都に至り、或いは君主に献上し、或いは宮廷に献上し、或いは以てこの広大な都市に供給し、或いは以て数多くの男爵騎尉に献上し、或いは以て付近に駐屯する大軍に供給する。様々な商品を輸入する人々は、川の流れが休まないように、次々入って来る。ただ絹糸だけ見ても、毎日入城する者は合わせて千車にもなる。この絹糸を用いて、多くの金の錦や絹織物、その他いくつもの物が作られる。この付近には亜麻の絹糸より良質なものが無い。もとよりいくらかの地域では綿や麻を産するが、量が足りず、その価格も絹糸が豊富で価格も安いのに及ばない。しかも亜麻や綿の質も絹に及ばないのだ。」「この汗八里大城の周囲には、およそ都市が二百あり、その位置は遠近様々である。どの町にも商人がここまで来て商品を売買し、蓋しこの都市は商業が盛んな町である。」(『マルコポーロ行紀』中冊P379‐380

 

 当時、この町の商業は主に官府、貴族、富商の手の中で操作された。例えば酒であれば、大都の酒課提挙司に所属する糟房(醸造所)は百か所余りに達した他、富豪の家では多くが酒を醸造して販売し、価格は高いが味は薄く、しかも税金をしばしば徴収された。順帝の時の丞相脱脱の父馬扎兒台は、通州に倉庫を置き、酒館、糟房を開設し、一日の取引が万石に達した。塩は国の専売品で、商人は購入できた塩を輸送し、決められた地域で販売した。大徳年間、大都の商人が塩の相場を一手に握り、民は高い塩を買わされたので、政府はこのため役所を設けて官で塩を売るようにしたが、役所が侵犯、掠奪をし、上前をはねたので、同様に人々の恨みを買った。政府はそれで役所を廃止し、商人の意見を聞いて販売したが、塩一斤の価格が一貫に達し、更に人々を苦しめた。宝石や香辛料は、大部分が回族の豪商の手中で商われた。こうした回族の豪商と朝廷の高官との間で「斡脱」wò tuō(モンゴル語「ortoq」の音訳で、「仲間」のこと)、資力のある貴族と商人の共同経営の商業組織を結成し、特権を利用し、至る所で横行した。彼らは皇帝に宝物を献上するとの名目で、しばしば実際の価値の十倍もの返礼を獲得した。泰定帝の時、丞相で色目人の倒刺沙は皇帝に上奏して歴代で未曾有の宝物の価格が支払われ、一回で銀40万錠余りに達した。

 

 運河と海運 『元史・食貨志』によれば、「元都は燕に在り、江南を去ること極めて遠く、百司庶府の繁、衛士編民(戸籍に編入された平民)の衆、江南の供給に仰がざるは無い。」運河と海運は江南の豊富な物資を輸送し、大都の繁栄と多くの人口、豊富な物資を育んだ二つの大動脈であった。1289年(至元26年)会通河の掘削が完成し、南北を貫く大運河が完成したが、その終点は通州で、大都からは依然として一定の距離があり、物流はたいへん不便であった。この時、金代の漕渠(運河)は久しく塞がれていた。元初にも多少の修復、浚渫を行ったが、水量が限られ、最後にはまた廃棄された。有名な水利学者、郭守敬が再び大都から通州に到る運河の計画を策定した。彼は新たに北の昌平白浮村の神山泉の水を引き、一畝泉、玉泉の諸水を合流させ、運河の水量を増加させ、また大都から通州までの間に二十ヶ所の水門を増設し、時間を決めて排水し、それによって地形の起伏による水位の落差の問題を解決した。全ての工事は1293年(至元30年)完成し、通恵河の名を賜った。城南の麗正門と文明門の間の南水門から城内に入り、宮城の東壁に沿って再び西に折れ海子に入った。

通恵河

こうして「四川、陝西の豪商、呉、楚の大商人は、軽船の帆を飛ばし、一路皇帝のおひざ元に到った。」(『日下旧聞考』巻6李洧孫『大都賦』)この年の秋、フビライが上都より戻り、積水潭を経て、海子でたくさんの船が川を埋め尽くしているのを見て、たいへん喜んだ。郭守敬はさらに澄清牐(「閘」と同じ。水門)のやや東で、水を引いて北壩河とつなげ、また麗正門の西に水門を作り、船が大都城の城壁をめぐって行き来できるようにする計画を立てたが、この計画は遂に実現しなかった。

 

 これと同時に、元朝政府は長江口の劉家港から海を越えて直接直沽(北運河)と(南運河)が合流する所で、今の天津市内狮子林橋西端旧三汊口一帯)に航行する海運を強力に発展させ、都漕運万戸府二を設け、「歳運」、南米)の毎年の北京への輸送を監督した。南北の大運河が開通して後、運河の川幅が狭く水深が浅いため、輸送量が限られ、海運はずっと南方の 「糧」輸送の重要な方法で、最高で1年で350万石余りに達した。推定では、運河での輸送は陸上輸送に比べ34割労力が省け、海運は運河輸送より78割労力を省くことができた。海運船は毎年二回、季節風に乗って長江口から海を渡り、順調であれば半月で直沽に到達することができ、倉庫に納め備蓄した。

劉家港から直沽への輸送ルート(海運、及び運河)

 

海運の実行は、「民に輸送の労無く、国に備蓄の富有り」。風や波は予測できないが、糧船が沈没するのはよくあることで、運河の輸送量では京師の糧食需要の半分しか解決できない情況の下、海運は大都の膨大な官俸(朝廷の官僚の給与)や軍需を保証する上で、意義はたいへん大きかった。元末の農民の大蜂起の中で、海運が停止に追い込まれて後、大都が直ちに飢餓の脅威に追い込まれたのも無理はなかった。

 

 手工業、鉱業と職人の生活 大都の手工業はたいへん発達していた。モンゴル統治の初期、至る所で職人を捕虜にし、それに続いて各民族の手工業職人を大量に拘留した。フビライは大都建都の後、漠北等の地に職人を移住させた。工部、将作院、徽政院、武備寺、儲政院と大都留守司などの役所の下に、各色匠局と提挙司をそれぞれ設置し、職人が生産活動を行うのを監督、統率し、宮廷の生活と軍事需要のためにサービスを行った。例えば大都留守司に所属する修内司は、その下に大木局、小木局、泥厦局、車局、粧釘局、銅局、竹作局、縄局をそれぞれ率い、全部で職人1272戸を管轄した。また、器物局の下には鉄局、減鉄局、盒鉢局、成鞍局、羊山鞍局、網局、刀子局、旋局、銀局、轎子局、採石局、山場等が設けられ、「内府宮殿、京城(北京)の門戸、寺(仏教寺院)観(道教寺院)公廨(官庁)の営繕 (修繕)を管轄、及び鞍轡くつわ、手綱、フビライの嫡子の駕籠、帳場の車輛、金宝器物の御用、およそ精巧な技術、各種の技巧を持つ技術者の家で、従属しないものはなかった。それぞれの部局には指図をする役職の者がおり、その下には工長が置かれ、階層を分けて監督をした。例えば 小木局であれば、小型の木製器具を作る職人が数百人おり、十人か五人毎に一組に分け、組毎に工長が置かれた。 採石局の職人は2千戸余りに達し、犀象牙局にも150戸余りいて、大都の四つの窯場(瑠璃瓦を専門に焼いた)は3百戸余りを率いていた。そこから、当時の大都の官営の手工業団体はたいへん数が多く、細かく分業がなされており、職人の数も膨大であった。

 

 モンゴルが中原に侵入した初期に捕虜になった職人は、奴隷にされた。モンゴルの封建化に従い、これらの職人は人と人との依存関係の強い封建制下の匠戸(職人の家系)に変化した。職人には「匠籍」があり、職は世襲であった。彼らの子女は、「男は家業の仕事を学び、女は針仕事(黹)や刺繍を学び」、籍を抜けることは許されなかった。当時の人の記載によれば、京城(都、北京)の匠戸(職人の一家)は、地方で徴用された匠戸に比べると、条件は多少良かった。職人の家庭では、彼らの専門の仕事での工役を除いて、絹や銀の徴収や徭役を免除し、畑が4頃(1頃は6.667ヘクタール)以内の者は食糧の納税を免除された。各戸4人まで、1人毎月米3斗、塩半斤を与えられた。これは家族と奴隷にも与えられた。この他、彼らはさらに自分で店を開いて売買することができた。工役、徭役の合間に、家で作業することもできた。これらは外地で働いている者は比較することができなかった。しかし、一般の下層の職人の家について言えば、監官が食糧の上前を撥ねたり、無理やり私利私欲のため権勢をかさにゆすりたかりをするのは、ありふれたことだった。このため、職人達の中の階層分化が著しく、彼らのうち貧しい下層の家は、しばしば迫られて妻を質入れし、子供を売らざるを得なくなった。政府の規定では、「部局に属する職人は、妄りに真相を隠して、官吏を脅し、他の職人を扇動し、口実を設けて部局に所属するのを拒み、仕事を遅らせることはできない。また公法を畏れず無関係の人間が勝手に局院に入り、不安を煽る者は、厳しく処罰する。各部署の職人を管理する官吏、頭目、堂長などは、「毎日早朝に部局に入り、職人の行動を監督し、暮れになってようやく帰宅し」、職人に対し厳格な管理と弾圧を行った。(『通制条挌』巻30『営繕』)重い封建制の束縛と搾取は手工業の発展を大きく阻害し、役所の中ではいつも浪費が極めて大きく、コストは高くなり、製品の品質は低く、商品経済の発展に大きな打撃をもたらした。

 

 京畿(都北京とその周辺地域)の鉱業冶金業はたいへん盛んであった。檀州奉先などの洞窟、薊州豊山、宛平の顔老山などでは銀の冶金を行い、清水村には鉄鉱山があった。檀、景地方には双峰、暗峪、銀崖、大峪、五峪、利貞、錐山など鉄の冶金場が7か所あった。元初には燕南、燕北一帯に鉄の冶金場17か所を設け、毎年鉄16百万斤余りに課税し、鉄の冶金を行う職人は3万戸余りに達した。彼らのうち、ある者は政府が選抜した民戸で、ある者は罪人や孛蘭奚(意味は遺失。逃亡した流民)の人戸であった。西山の石炭採掘も盛んであった。宛平西部の大谷山には石炭鉱山が30坑道余り、西南の桃花溝には無煙炭鉱山が10坑道余りあり、大都の燃料の主要な来源であった。鉱山労働者達は「ハンマーや鑿を操り、坑道にはかがり火を焚き、裸で中に入り、蛇行鼠伏し、深さ数十里まで入ってようやく鉱石を得ることができ」、その後、鉱石を背負って出て来た。それゆえ、「身体が汚れ憔悴し、もはや人としての形無し。(残本『順天府志』巻11『宛平』。北京大学出版社)加えて炭鉱はしょっちゅう落盤事故があり、炭鉱夫は常に死の脅威にさらされていた。

 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿