中国語学習者のブログ

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北京史(十五) 第五章 元代の大都(3)

2023年06月06日 | 中国史

色目人 阿合馬

第二節 大都の政治経済情況

 

民族矛盾と政治闘争

 阿合馬刺殺の暴動 フビライは漢人の儒士と軍将に頼ってハーンの位を取得し、新王朝を建設したが、間もなく李璮(りたん)の反乱(1262年)の後、漢人の脅威を感じたので、それゆえ民族差別と民族圧迫政策を積極的に推進し、且つ色目人を使って自分の手下にし、漢人を牽制し、警備した。色目人の阿合馬(アフマッド。アハマ)は皇后の媵臣(ようしん。嫁付きの下僕)として次第に親任を得て、政府の財政を主管し、更に権力を専横した。阿合馬はまた苛斂誅求し、人々の広範な憤怒を引き起こした。朝廷の中で漢人官僚と色目人官僚の間の陰に陽に繰り広げられた闘争がずっとたいへん激烈であった。

 

 東平人王著、字は子明は、小役人をしていたが、人柄が沈着で胆力があり、道義を重んじ金銭財物を軽んじ、細かい事に拘らなかった。彼は銅製の槌を私鋳し、民間の宗教団体の首領、高和尚と親交を結び、阿合馬を殺すことを自ら誓った。1280年(至元十七年)、枢密副使に任じられた張易が高和尚を、彼には秘術があり、鬼を兵にし、敵を遠くから抑えることができると、朝廷に自薦した。フビライは、和孔雀孫に兵を率い、高和尚と同行して北に行くよう命じ、王著も千戸を同行させた。高和尚は秘術の効果が無かったので戻り、偽って死んだと称し、以て欺き、急いで秘密の画策を進めた。

 

 1282年(至元十九年)二月、フビライは毎年一度恒例の通り上都に避暑に行き、阿合馬は大都に残り都を守った。王著らはこの機に乗じ発動をかけ、三月十七日、彼らは一方では兵を派遣し居庸関を抑え、一方では兵を集め儀仗を擁して大都に向け前進させ、且つ先行して吐蕃(チベット)の僧二人を中書省に派遣し、当日の夜、皇太子の真金(チンキム)と国師が京師に戻り、仏事を行うと通知した。王著本人も当日は阿合馬に会いに行き、太子がまもなく着くと通知し、すべての中書省の官吏に、東宮の前で出迎えさせた。省の中では、二人の僧が言葉を濁し、東宮の下役も彼らを知らなかったので、騙されているのではないかと疑った。宮中当直の高觿(こうせん) と尚書の忙兀兒(ぼうこつじ)、張九思が兵を集めて防衛した。この時、枢密副使の張易も王著が偽って伝えた皇帝の命令を受け取り、兵を率いて宮殿の外に駐屯した。高觿は彼に何事が起こったのか尋ねた。張易は言った。「夜になれば分かります。」高觿が何度も尋ねたので、張易はようやく耳打ちして言った。「皇太子が阿合馬を殺しに来るでしょう。」阿合馬は平素はたいへん真金を恐れていて、通知を聞くや、直ちに郎中の脱歓察儿を派遣し、城を出て出迎えた。脱歓察儿らは北に十里余り行くと、ちょうど取り囲んで入城した偽太子の一行の人馬と出会い、悉く殺害された。この隊伍は夜に乗じて健徳門を入り、東宮の西門に来て門を閉めさせた。高觿は皇太子が平素は往来にこの門を使わないので、門を開けるのを拒絶した。彼らはそれで南門に回った。東宮の前に着くと、蝋燭の光が朦朧とした儀仗の中で、偽太子が騎乗して指揮を執り、中書省の官吏を呼んで訓示を聞かせた。本当に阿合馬がおとなしく前に出てくると信じて、偽太子は厳しい声で叱責したので、王著は阿合馬を引っ張って行き、袖の中に隠した銅の金槌で彼を叩き殺した。続いてまた阿合馬の仲間の左丞の禎を殺し、右丞の張恵を拘禁した。全ての出迎えに来た官吏は口をつぐんで遠くに立ち、どうしたらよいか分からなかった。張九思はこれはペテンであると見破り、宮中で大声で警報を発した。宿衛軍の弓矢が大いに放たれ、偽太子一行の隊伍は敗走し、大多数はその場で捕らえられた。王著は立ち上がって捕らえられた。高和尚は騒ぎに乗じて逃亡したが、二日後高梁河で捕らえられた。大都の市民は阿合馬が殺害されたことで、この上なく喜んだ。聞くところによれば、「貧人も亦た衣を質入れし。歌い飲み相慶び、燕市の酒三日倶く空なり。」(鄭所南『心史・大義略叙』)

 

 事変の発生後、フビライは急いで枢密副使の孛羅(ボロト)、司徒の和礼霍孫らを大都に戻らせ乱を平定させた。王著、高和尚らは殺された。 王著は処刑前に大いに呼びかけた。「王著は天下の為に害を除き、今死なんとす!日を改め必ず私がその事を記さん。」享年二十九歳であった。張易も「変に応じて審査せず、賊に授けるに兵を以てす」により連座し誅せられた。この時の事件の計画が周密であったことにより、事件の規模と前後で関係した人物から分析すると、その背景は深刻なものであった。当時、大都に滞在していたマルコポーロは、こう記載している。 王著が阿合馬殺害の計画を決めてから、「遂にその謀が国中の契丹人の要人に通知され、諸人は皆その謀に賛成し、他の多くの都市の友人に伝え、期日を定め事を行うは、狼煙を合図とし、狼煙を見れば、およそ髭のある者は悉くこれを屠殺する。蓋し契丹人(漢人を指す)は当然髭が無く、ただ韃靼人、回教徒、キリスト教徒は髭がある。契丹人の大汗(ハーン)政府を嫌悪する者は、蓋しその任じられる所の長官が韃靼人で、多くが回教徒で、契丹人への待遇が奴隷と同じようであった。また、ハーンは契丹の地を得て、世襲権益を許さず、また兵力により、先住者を猜疑し、そして本朝に忠実な韃靼人、回教徒、キリスト教徒を任命して統治させ、契丹国以外の者であっても、こだわらなかった。」(『マルコポーロ行紀』中巻P342)これらの記載はおおよそ真実を反映しているに違いなかった。

 阿合馬の死後、彼が生前の悪だくみが暴露された。聞くところによると、ある日、フビライは一個の巨大なダイヤモンドを求め、それで皇冠を飾ろうと思った。二人の商人の報告で、彼らは以前一つの巨大なダイヤを皇帝に献上し、とっくに阿合馬に渡して取り次いでもらっていた。フビライはそのことを聞くと、直ちに人を派遣し、阿合馬の妻を調べたところ、果たして彼の家からダイヤが出てきた。フビライはかんかんに怒り、阿合馬に対して疑いを持ち始めた。真金が煽り立てる中で、阿合馬の大量の悪事が暴かれ出した。漢人の官僚を落ち着かせ、人々の怒りを鎮めるため、フビライは代わりに阿合馬を有罪にし、言った。「王著が之を殺すは、誠にもっとも也。」そして墓を暴き棺桶を開き、死体を通玄門外に晒した。その子の忽辛、抹速忽、散、都らも、各地で死刑に処せられた。(『元史・世祖紀』阿合馬、張九思、高觿諸伝及び『史集』(ロシア語訳本)第二巻、P187‐190

 文天祥、正義のために死す 阿合馬を刺殺した事件は、明らかに当時の民族の矛盾の緊張した状況を反映しており、このため蒙古統治者の猜疑心は更に深くなった。同年(1282年)十二月、また一人、名を薛保住という人が、匿名の手紙を上げて異変を告げた。それによると、宋王を称する者が、群衆千人余りを集め、二手に分かれ大都城を攻め、獄中に拘禁された南宋の丞相文天祥の奪還をたくらんでいるとのことであった。元の朝廷はこの知らせを聞いてたいへん驚き恐れ、直ちに元南宋の小皇帝、瀛国公趙㬎(ちょうけん)及び宋宗室を大都から上都に移し、並びに文天祥処刑を決めた。

 

 文天祥1278年(至元十五年)潮陽で破れて捕虜となり、翌年十月、大都に連行された。途中、絶食すること八日に及ぶも死ななかった。大都到着後、元の宮廷は厚くもてなし、上客として遇したが、文天祥は断固拒絶し、寝るのを拒み、座して徹夜した。五日後、文天祥は兵馬司に移され、手かせ足かせを嵌められ空き部屋に監禁された。十二月になって、病気のため刑具を外されたが、尚首かせは付けられ、このようにして四年の囚人生活を過ごした。丞相の孛羅(ボロト)は彼を尋問したが、彼は孛羅の前ではひざまずくのを拒み、落ち着き払って弁論した。孛羅が、彼が徳祐嗣君(すなわち趙㬎)を捨て、後継ぎに福、広の二王を立てたのは不忠ではないかと指摘すると、文天祥は激高して申し述べた。「社稷は重く、君は軽い。私が別に君を立てたのは、宗廟社稷を考えてのことである。」そして「死あるのみ。何ぞ必ずしも多く言わん」と意志を示した。フビライはしばしば人を遣って投降を勧めたが、文天祥は終始節操を固く守り、屈服しなかった。彼は獄中で宋滅亡以来の自分の詩を編集し、題を『指南録』とし、磁石の針が南を指し示すように、誓って宋を忘れないことを表した。彼が獄中で書いた『正気歌』は、「富貴は淫(惑)わす能わず、威武は屈する能わず」という高尚な品格と固い節操を述べ表した。至元十九年十二月九日(西暦128319日)文天祥は落ち着き払い、柴市口(現在の北京菜市口)にて処刑された。享年47歳であった。

文丞相祠

 元朝が全国を統一し、辺境を開拓し、祖国の多民族の大家庭を発展させる面で、積極的な役割を果たしたが、彼らの立ち遅れた統治と民族圧迫政策は、各民族の反抗の激化を避けることはできなかった。中国の各民族は、平等な連合には賛成したが、外来勢力からの圧迫には反対した。あらゆる歴史上の各民族の圧迫反対に貢献した民族英雄と同様、文天祥の、節操を固く守り、喜んで我が身を犠牲にした奮闘精神は、永遠に人々の記憶に留める価値があるものだ。

 

 両部の激戦 元朝はフビライ以降、皇位の継承はずっと朝廷の政局が動揺する重要な原因であった。蒙古の旧俗によれば、大汗は生前、後継者指定の権利を持っていたが、新たな汗が即位する前には必ず同族の親族、皇帝の姓を同じくする親族、大臣の参加する「忽里台」(クリルタイ。モンゴル語。「聚会」(集まり)の意味)での推戴が必要であった。元になって以後、漢制に倣い、立太子の制度を確立したが、クリルタイの制度は依然保持された。このことは、権臣や野心家が操縦、利用するのに都合が良かった。それに加え、元朝の皇帝は多くが短命であった。このため、皇位争奪のどたばた劇が頻発し、ひいては臣下に殺されてから公開の内戦に発展する場合もあった。

元朝皇室系図

 1323年(英宗の至治三年)、御史大夫の鉄失らが英宗を上都の南で殺した。この時、也孫鉄木耳(イェスン・テムル)は晋王の大軍を率いて漠北にいたが、皇帝に擁立された。これが泰定帝である。1328年(泰定五年)7月、泰定帝は上都での避暑の期間中に病死した。丞相の倒刺沙と梁王の王禅らは九歳の皇太子、阿刺吉八(アリギバ)を立て、位を継がせた。しかし大都に留まっていた籤枢密院事、欽察人燕帖木(エル・テムル)はこの機に乗じて政変を起こした。彼は彼の家が長年掌握していた北京の宿営軍の精鋭の欽察軍団を主力に、府庫を封鎖し、百官の印信を拘禁し、兵を派遣し居庸関など要害の地を守り、使者を派遣し速やかに江陵に居た武宗の次子、図帖睦尔(トク・テムル)を迎えて北京に来させようとした。図帖睦尔は途中、汴梁を経由し、河南行省平章の伯顔が大いに兵を徴発し、府庫を開き、従軍して北に進んだ。9月、図帖睦尔は大都で帝位に就いた。これが文宗である。この時、彼の兄の和世㻋(コシラ)はまだ遠くアルタイ山以西の地にいた。文宗は、自分が皇帝の位に就くのは、暫定的な臨時の措置であり、「謹んで大兄の至るを待ち、以て遂に朕は固より譲るの心なり」と公に意志を示した。従軍して上都に入った軍将の家族は皆大都に留まり、事変発生後、彼らは相次いで脱出して南に逃れた。阿速(アス)衛(アスト部の軍隊組織)の指揮使脱脱木、貴赤衛の指揮使脱迭も軍を率いて戻って来た。こうして大都の軍勢は大いに増強された。

 

 上都の兵はそれぞれ別のルートから大都に侵攻した。王禅らは軍を率いて南の楡林に迫り、燕帖木(エル・テムル)はその布陣が間に合わないのに乗じて、直ちに攻撃命令を出し、北軍は敗走した。この時、別の上都軍が諸王の也先帖木と遼東平章禿満帖に率いられ、既に遼東から進軍し、遷民鎮に到達していた。文宗は急いで燕帖木に命じて東に薊州に出て防ぎ止めさせた。燕帖木が正に軍を指揮して東に向かっている時、王禅の兵がまた新たに反撃してきて、居庸関を襲って破った。前軍は既に楡河以北に到達していた。燕帖木は兵を分け、脱脱木に命じて遼東兵を薊州檀子山で防御させ、自分は北軍と紅橋で大いに戦い、さらに白浮で戦い、双方の勝負は決着がつかず、互いに三日間持ちこたえた。夜に入り、燕帖木は奇兵を敵の後ろに回り込ませ、軍隊の中に入り混じって銅角(角笛)を吹かせておとりの兵とした。北軍は驚き恐れて大いに攪乱され、同士討ちを始め、軍営を捨てて我先に逃げた。燕帖木は勢いに乗じて昌平以北まで追撃し、王禅は単騎で逃走した。燕帖木は更に居庸関を回復し、兵三万を分け、防備を強化した。この時、また古北口が防御できないとの知らせが入った。また別の上都軍知枢密院事竹温台が既に石漕を侵略したのだった。燕帖木は急いで二倍の速度でそちらに直行し、その戦いの準備が整っていない隙に乗じ、40里余り転戦し、牛頭山に至り、大いに竹温台軍を破り、古北口を回復した。燕帖木が全力を傾け古北口方面の敵軍に対応している時に、遼東軍は既に通州を陥落させ、北京を攻撃しようとしていた。燕帖木は急いで軍の先陣を動かし、101日の夕刻、通州に迫り、敵軍がここが初めてで不慣れなのに乗じ、足場が不安定なところを急襲し、遼東軍は狼狽して潞河(北運河)を渡り敗走した。5日、両軍はまた檀子山の棗林で大いに戦い、遼東軍は大敗した。上都軍の三方からの北京攻略は、何れも撃退された。

 

 北からの圧力がようやく軽減されたが、諸王の忽刺台が率いる四番目の上都兵が紫金関を出て、良郷を侵犯し、騎兵が北京都城の南郊に迫った。7日、燕帖木はまた旋風のような速度で諸軍を率いて北山に沿って西に行き、馬の轡(くつわ)をはずし、口の下に袋を結び草や豆を盛って馬に食べさせ、昼夜兼行で馬を走らせ、突然盧溝橋に現われた。忽刺台は一目見ると大いに驚き、気勢に押されて西に走った。翌日、燕帖木は凱旋して帰還し、粛清門から入城した。同じ日、禿満迭(帖)がまた古北口を入ったが、燕帖木が再度出征し、檀州の南で大いに敵軍を破り、禿満帖は遼東に逃げ帰った。

 

 北京郊外で激戦が正にたけなわであった時、同時に湘寧王八刺失里、趙王馬扎儿罕が上都軍の冀寧侵略に呼応し、陝西行台御史大夫也先帖木も軍を分け三つのルートから東を侵し、河南からは既に虎牢に到達していた。四川行省囊家台、雲南行省也吉尼も、兵は遠いと称して呼応した。全体の形勢は文宗と燕帖木側に不利であった。ちょうどこの時、東北に駐軍していた燕帖木の叔父、東路蒙古元帥不花帖木と斉王月魯不花は偽って上都を包囲し、倒刺沙らは絶えられず投降した。上都集団の支持者たちは敗戦を聞くと相次いで解体し、文宗燕帖木は意外にも間もなく勝利することができた。双方の混戦の中で、北京郊外はひどく破壊され、北京東方の地は、「野に居民無し」という状況だった。加えてこの年、天災が危害を与え、中国全土で飢えた民が何百万何十万に達し、流民が相次ぎ、折り重なって死亡した。



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