伝統的な沙燕風筝
中国のおもちゃについて、今回は凧を取り上げたいと思います。今回も、王連海著『中国民間玩具簡史』(北京工芸美術出版社1991年)の内容を元にしています。
凧は日本でも平安時代頃までに中国から伝わったようですが、中国では凧はいつ頃生まれたのでしょうか。
古書の記述によれば、春秋戦国時代の紀元前5世紀ごろ、墨子(BC470頃~BC390頃)、公輸子(魯班のこと。BC507~BC444大工の始祖とされる)が「木鳶」mùyuān(木製のトンビのような鳥型飛行器具)を制作したという記述があります。
『韓非子・外儲説左上』に、「墨子は木鳶を作るに三年にして成り、一日飛びて落ちる」とあり、『墨子』には、「公輸子は竹木を削りて鵲と為し、之を飛ばすに、三日下らず」とあります。
これらの書物で、中国の最も古い飛行器具を「木鳶」と記録しています。「木鳶」は「紙鳶」zhǐyuān(紙で作った鳥型の飛行器具)の前身だと見做され、「紙鳶」は凧の前身、或いは古称です。したがって、「木鳶」がすなわち凧の起源であり、凧は墨子や公輸子が活躍した時代、春秋戦国時代に起源を発するとされました。
二つめに、凧は紀元前3世紀、秦末漢初に始まるとする説があり、その根拠は、劉備とともに漢を建国した将軍、韓信が凧を作ったとするものです。宋代の高承は『事物紀原』第八巻の凧の項目に、次のように書いています。
「俗に言う凧は、古今相伝して云うに韓信が作ると。高祖の陳豨を征する也、信は謀りて中より起ち、故に紙鳶を作り之を放つ。以て未央宮の遠近を量り、俗に地を穿ちて宮中に隧入する也。蓋し昔は此の如く伝え、理或いは然る矣。」
ただ、これらの説はどちらかというと伝説の域を出ず、何れの話も正史には出てきません。
今のところ、凧の起源についての最も有力な説は、6世紀の南北朝時代を起源とするものです。『南史・侯景伝』に、こうあります。
「掃討平定のこと、援軍を望む。既に中外が断絶するに、羊車で献策する者あり、「紙鴉」を作り、長き縄を以て縛り、勅を中に蔵す。簡文は太極殿前に出づ。西北の風に因りて放ち、書の達するを願う。賊どもは之に驚き、是は呪いの術だと謂い、また之を射落とさんとし、其の危急なること此の如し。」
「紙鴉」は「紙鳶」のことで、簡文とは南朝梁の簡文帝蕭綱のことです。梁の武帝の太清三年(西暦549年)、侯景が叛乱を起こし、梁王朝の南京台城を攻撃した時の記述です。
司馬光『資治通鑑』巻162にも、これとほぼ同じ内容が記述されています。
「武帝の太清三年、羊車で紙鴟を作るを献策する者あり。胡三省の注では、紙鴟は即ち紙鳶也。今は俗に之を紙鷂と謂う。」
1930年代に金鉄庵が『風筝譜』という本を著し、その中でこう言っています。
「凧の最も古い名前は紙鴟で、それが創出されたのは遠く梁武帝の時代である。」
また、葉又新は『風筝』と題した文の中で『資治通鑑』と『北史』を引用し、これらを根拠に次のように断言している。
「これらから、今から1500年前には既に凧が存在し、且つ人を載せる実験が行われたことが分かる。」
これらの凧の起源説の根拠は、限られた古書の記述に基づいているのですが、残念ながら今なお当時の凧の実物は発見されていません。しかし絵画や陶器の装飾紋の中には、当時の凧の形を見ることができます。
古代の凧の呼び方は様々で、時代が違えば、用いられる名前も異なっていました。歴代の名称を集めてみると、紙鳶、風鳶、鷂子、風鷂、紙鷂、紙鴟、紙鴉などがありました。これらの名前は何れも鳥の名前を借りたものであり、ここから、最初に凧を発明した人は、おそらく空を飛ぶ鳥から啓発を受けたのだろうと推察できます。
唐代末期、ある人が紙鳶に琴弦を取り付け、風に当たると音が出るようにしました。音は楽器の「筝」、日本語の琴が鳴るようであったので、ここではじめて、現代中国語で凧の意味である「風筝」の名称が現れました。高駢は「風筝」の詩を詠みました。「夜静かに弦声は碧空に響く、宮商は信任し往きて風来る、かすかに曲に似たり、初めて聴くに堪え、また風吹くにより別の調べに中らしむ。」この詩の意味を察するに、作者が詠んだ「風筝」は琴の弦を取り付けたものであったに違いありません。後に、またある人は凧に竹笛を取り付けました。明代、作者不詳『詢蒭録』にこう書かれています。「初めて五代漢の李業が宮中で紙鳶を作り、糸を引きて風に乗るを戯れとなし、後に鳶首に竹を以て笛と為し、風を入れて声を作すこと筝鳴の如し、俗に風筝と呼ぶ。」これは五代十国時代に竹笛付きの「風筝」が始まることを言っています。
凧が普及し娯楽用品になるのは、五代十国時代以降のことです。宋代、凧はようやく広くの間に普及しました。南宋の『西湖老人繁勝録』の「諸行市」の項目によると、「京都に四百十四行有り」、その中に「風筝」が含まれています。このことから、凧の制作は既に職業化され、その販売業者も確立していることがわかります。宋代の風俗の記述によれば、清明節に凧を揚げることは次第に風習として根付いていました。
明、清時代、凧の制作、揚げて飛ばす技術は何れも高いレベルに達し、凧は既に成熟段階に入りました。明代の凧の実物はもはや見つけるのが難しいですが、古い絵画、陶磁器、彫刻などの装飾図案の中に、明代の凧のイメージを見ることができます。台湾の故宮博物院収蔵の明代の斗彩酒杯には、盃の外側に子供が凧を揚げる図案が描かれています。凧の形は現在の「瓦片」、つまり屋根瓦(平瓦)の形に似ていて、長方形で、帯状の紙のしっぽが三本付いていて、極めてシンプルです。明代の青色絵付けの陶磁器「嬰戯碗」、「嬰戯罐」(子供が遊ぶ絵が描かれた碗や壺)には子供が凧を揚げる図案が描かれていて、凧の形は「屋根瓦」の形の角凧です。
宋・元磁州窯紅緑彩児童放風筝紋梅瓶
「瓦片」(屋根瓦の形)の形の凧(角凧)は民間で作られた凧のうちで最も広く普及したもので、俗に「屁股簾」と呼ばれます。三本の竹の棒で骨組みを作り、うち二本は方形の紙の上で交差させ、もう一本は上辺に横向きに置いて弓状に反らせ、下端には三本の帯状の紙のしっぽを付けます。凧のお尻に簾のようなしっぽが付いているので、「屁股簾」と呼ばれたのでしょう。角凧の出現は凧の発展の上で重要な意義を持ち、凧の成熟と普及を示すだけでなく、人々が凧が飛ぶ原理を十分に理解したことを証明しています。凧の飛ぶ科学的なしくみを十分に理解してはじめて、このような簡単な構造が採用されるようになったのです。今日でも角凧は変わることなく中国の子供たちの愛するおもちゃであり続けています。
凧はおもちゃとして幅広く普及し、中国社会の各階層で用いられ、一般庶民だけでなく、高官貴人や宮廷の貴族の間でも凧を揚げる風習が根付きました。文人達は凧揚げを気晴らしの行為とし、凧揚げを詠んだ詩や文章を数多く残されました。
明代の画家、徐渭の『青滕書屋文集』の中に、作者創作の『風鳶図詩』25首が掲載され、詩の中ではこのように書かれています。
「竹を縛り凧に糊付け鳥を作り飛ばすも、天気が崩れ雨でびしょ濡れになった。明日の朝は清明節なので、飴(麦芽糖)を柳市の西に買いに行こう。」
「揚子江の北も南も凧揚げをする人でいっぱいだ。高く揚がった凧、低い凧、それぞれ天空を旋回している。春風は古来気まぐれで、風任せに飛ばしたら笛を失った。」
清代、凧の数、品質、種類は史上最高のレベルに達し、凧はひとつの専門の手工芸技術になりました。凧の設計、制作には見栄えがたいへん重視され、様々な物に形を似せた凧が出現しました。
古典の名著『紅楼夢』の第七十回では、大観園の人々が凧を揚げる情景が詳細に描かれていますが、これについてはまた別の章で紹介します。『紅楼夢』の作者の曹雪芹は、彼自身が凧の設計や制作をしていたようで、関連する著作も発見されています。
凧を揚げる時期については、わりと強い季節性があり、その理由は自然や気候が凧揚げに強い影響力を持つからでした。宋代以降、春に凧を揚げるのが恒例になりました。清明節の前後に、都市に住む人々の多くが、郊外の広い空き地で凧を揚げました。宋の高承は『事物記原』の中で紙鳶を「季節の風俗」のひとつとして取り上げましたが、それは凧が季節性を持っていたからです。清代には、春に凧揚げが盛んに行われましたが、『紅楼夢』で、大観園で暮らす人々が凧揚げをした時期は「仲春」(陰暦の二月)でした。清の李声振が『百戯竹枝詞』(「竹枝詞」は七言絶句に似た漢詩の一種)の中で、「百丈に糸を遊び紙鳶を揚げる、芳郊の三女、禁煙の前」と詠んでいます。「禁煙」とは即ち清明節の前の寒食節(この日から3日は火を使わず、冷たいものを食べた)のことです。一方、これら北方の習慣とは異なり、南方各地には秋に凧を揚げる習慣があり、福建省では多く九月九日の「重陽節」に凧揚げをし、清末の風俗画家、呉友如の『紙鳶遣興』図の題詞に、「閩中の風俗に、重陽の日に人々は鳥石山の山上や崖で凧揚げを競うを楽しみとする」とあります。
呉友如『紙鳶遣興』
清の人々の凧揚げの情景は多く絵画作品の中に見られ、『呉友如画宝』の中にも子供が凧揚げを競うのを描いた絵が見られます。絵の中で、五人の子供が郊外の古墓の付近で一緒に遊び戯れていて、ひとりは地面にしゃがんで凧糸を結んでおり、別の二人の凧は既に上空に揚がっています。一方の凧は硬い翼(上下2本の竹を細く裂いた棒で翼の周囲を固定し支えている)の蝶々で、もう一方の凧は円形の(竹を裂いた棒を曲げて、円形の周囲を固定し支えた)平面形の凧。傍らでは二人の子供がそれを見物していて、その情景が生き生きとし真に迫っています。
『呉友如画宝』放風筝図
『北京民間風俗百図』の中にも凧揚げの絵があり、絵の端の題字にこう書かれています。「これ中国の凧揚げの図也。春季になる毎に、無事の人、竹ひごで胡蝶や様々な飛禽を作り、上に糸を一条結び、戸外の空に放ち、人は仰面して之を視るに以て空気を吸い、所謂衛生也。」
『北京民間風俗百図』
明清の両時代の文人や読書人、一般庶民は皆、凧をたいへん愛好しましたが、皇帝は人々が城内で凧を揚げるのを禁じました。その理由は、古代の伝説で韓信が凧を使って未央宮(漢王朝の宮殿)の寸法を測量し、地下にトンネルを掘って宮廷に侵入し反乱を起こそうとたくらんだことに起因していると思われます。このような伝説は、一般には伏せられていましたが、宋代に至ってようやく高承の『事物紀原』に記載されました。明清の両時代、皇帝は先例により似たようなことがまた起こるのを恐れ、明文をもって城内で凧を揚げるのを禁じました。明朝の人、劉侗、于奕は『帝京景物略』の中でこう言っています。「燕では昔、風鳶戯があり、俗に亳儿と言ったが、今は既に禁じている。」ここで指しているのは、城域内で凧揚げを禁じていることでした。反乱防止から始まり、明文をもって凧揚げを禁止した事情は、おそらく今日凧揚げをする人には思いもかけないことでしょう。
以上が、中国の凧の起源と、その発展の歴史です。それでは次回、中国の凧の種類や特徴について、紹介していきたいと思います。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます