中国語学習者のブログ

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四合院の魅力、垂花門と屏門

2020年03月16日 | 中国文化

垂花門は、四合院の中の一番外の外院から、母屋のある内院に通じる門であり、屏門は、庭と庭をつなぐ門です。垂花門と屏門が担うのは、風水的には、影壁と同様、気を収斂(しゅうれん)させ、屋敷内で、気をゆっくりした速度で流れるようにし、気を拡散させないようにするのが目的です。屏門は、通常は閉められていて、気の流れが勝手に出ていかないよう、遮る役割を果たしています。それともうひとつは、表門は、その家の主人の身分に合わせ、大きさや装飾などに様々な制約を受けますので、屋敷内の母屋のある内院につながる垂花門については、豪華な装飾を施したものが多く見られます。

■垂花門

四合院を入ると、表門の次にくぐる門で、「二門」(二の門)です。表門を入ると、一番目の四合院、「外院」に入りますが、次いで、「主房」、母屋のある「内院」に入るための門が「垂花門」です。「二門」の形式はたいへん多く、垂花門一種に止まりません。例えば護国寺の梅蘭芳故居では、その二門は比較的簡単で、二門の内側には、木製の、磚を模した影壁があります。垂花門は、二門の一つの種類に過ぎませんが、二門の建築様式として、垂花門は最も凝って作られています。そのため、垂花門が二門の代名詞となっています。

垂花門は、「屋宇」(家屋)式と「随墻」(壁付)式の二種類に大別されます。「屋宇」式垂花門は更に二種類に分かれます。簡単な垂花門は、一つの屋根でできており、大型のものは、二つの屋根から成り、「勾连搭(棟続き)」式、或いは「一殿一卷」式と呼ばれ、後者は、外側の屋根には棟が上がっていますが、後ろの屋根は棟が無く、弧を描いています。

「一殿一卷」式垂花門

垂花門は、その巧みな工程、美しい造形、精巧な設計で、四合院の中の重要な装飾部分となっています。それは屋敷の主人の地位や趣味を示すだけでなく、表門の内側にあるので、自分を外にひけらかすことなく、極めて穏便であることを示しています。前面の軒下に垂れて地面につかない短い木の柱(「垂蓮柱」)についていえば、柱の頭は蓮の花の形の垂珠や風に揺られる柳の形に刻まれ、方形のものもあり、上面には吉祥図案のレリーフが刻まれています。

垂蓮柱(赤で印をつけた柱)

垂蓮柱の先端部分

「垂蓮柱」の歴史は古く、宋の天府3年(1100年)に出版された、宋代の土木建築様式についての本の中で、何か所か「虚柱」という言葉が取り上げられており、「虚柱蓮花篷(苫。とま。日よけ、雨風よけ)五層」との記述があります。これは仏像の上にかざす帳(とばり。天蓋)の制作様式です。つまり、仏様の上を飾る天蓋のような豪華な装飾が、垂花門に施してあるということです。

垂花門には、たいへん華麗な磚や木の門楼のようなものがあり、四合院の内側から見ると、あずまやのような小さくて凝った造りの建物です。内側にある、四枚の戸板がいつも閉じられた屏門は、一枚の壁のように、垂花門の立体感を増してくれます。

垂花門。奥が屏門。左右から内院に入ることができる

更に屋根、階(きざはし。階段)、梁(はり)の方形の木材(「梁枋」)、桁の垂木の支柱(「檩椽戗」)、門の台座石(「門枕石」)、梅花釘、抱鼓石、華板、「望板」(屋根の裏に張る板や磚)、磚の壁の基本的なパーツを加えると、中国の伝統建築で用いる土木構成部品、装飾手法、建築スタイルのほとんど全てが集中していて、そこから四合院を構成する各種の建物の中で、最も精緻で美しい部分ができあがっています。

垂花門の建物の大きさそのものは小さいですが、建物としての位置づけは高く、垂花門の石段の上は、肉親や友人を見送ったり、出迎えて挨拶をしたりする場所であり、その家の女主人が、女性の友人や親せきと、別れる前の語らいをするのに、たいへん都合の良い場所でした。女性はもともと世間話をするのが好きですから、別れる時にも、まだ話が全部は終わっていないことがままあります。地面に着いていない垂蓮柱を用いることで、足元の地面は広くなっています。上には、日差しや雨を遮る屋根があり、更には豪華で美しい垂花門に引き立てられ、気分までも、それに似つかわしいものになってきます。これこそ、昔よく言われたように、婦女子は「大門不出,二門不邁」(表門を出ることはなく、二の門を跨ぐことはない)ということで、大奥様や娘さんは、垂花門より外に出ることは無かったのです。また、屋敷内で、パーティーなど、大事な行事が行われる時は、垂花門がその舞台となりました。

垂花門から内院に入る時、まっすぐ向かうことはできません。人々の視線が、内院の中を直接見ることができなくなっています。これは、外から入って来た人が、内院の様子をあからさまに見るのを防ぐためです。また、内院にいる婦女子が、外部の人とあまり多く接触しないようにするためです。内院は、このため幾分神秘的でさえありました。河北省張家口一帯では、垂花門を管理する人を「閃門」と言いました。「閃門」の呼称は、或いは「閃」の字体に着眼しているのかもしれません。「門」が外の人々の視線を遮るのと同じ意味であったのでしょう。

四合院俯瞰図(赤丸が垂花門)

垂花門から内院に入るルートは二つあります。比較的多いのは、外院を通って、曲がって右手の垂花門から内院に入るルート。もう一つは、垂花門の奥の通路の左右いずれかから入り、回廊(「抄手游廊」、これは、雨の日に内院を訪ねる時、傘をささずとも、両手をそれぞれ中華服の反対側の袖口に入れて、腕組み(「抄手」)をしたままで通れる回廊という意味です)を通って「正房」(母屋)に入るルートでした。

抄手游廊(頤和園益寿堂)

専門家によれば、東城区の后圓恩寺胡同7号(旧称「恩園」。元蒋介石の野戦司令部。今の友好賓館)内の西側の四合院の垂花門が最も典型的で、美しいそうです。ここの垂花門は「一殿一卷」式で、内側に屏門があり、その色彩はみやびやかで、バランスも適当で、且つ保存状態も良いとのことです。

また東城区の帽児胡同8号の四合院内の垂花門は、彫刻が美しく、ゆったりとして華麗であり、東城区板廠胡同27号の四合院(北京市東城区保護文物)は、その垂花門の透かし彫りされた花卉が精緻で美しいとのことです。

■屏門(庭と庭を仕切る門)

赤丸が屏門

「影壁」両側の「屏門」

屏門(仕切り門)と門内の影壁は一体で敷地内の視線を遮る役割を果たしています。しかし影壁と異なり、屏門は開閉して動くもので、締め切って動かないものではありません。前者は壁で、後者は門であり、ゆえに「屏門」と名付けられました。屏門は四枚の戸板、或いは何枚かの戸板から成り、開けることができます。表門と影壁の間に形成される中庭の両側に屏門が設置される他、外院では、東側と相対する西側にも設置され、そこには通常、便所が置かれます。この他、二の門である垂花門の内側、内院側の正面にも四枚戸の屏門が設けられ、更には中庭と中庭の間の横向きの接続にも屏門を用いることがありました。

垂花門内側の屏門

屏門は、木の枠の中に取り付けられたものもありますが、より多くは、短い軒や頂(いただき)に瓦を積み重ねて模様にした壁に取り付けられ、敷居の枠は黒色で、また軒先に覆いがあります。戸板一枚一枚の上下の角には鉄の部品が取り付けられ、それにより敷居の枠と地面のくぼみ内に扉を固定し、戸板を動かして開けることができ、必要な時は戸板をはずして、よそへ移すことができます。緑色の屏門の上には、赤い四角の紙で、普通は黒字で「吉祥如意」、「四季平安」などと書き、また円形の「瓦頭」(軒瓦)に「寿」の字を刻むこともあり、赤色の地には金がちりばめてありました。

垂花門内側の屏門に貼られた吉祥文字

屏門ははるか周代には出現し、当時は「扆」或いは依と呼ばれましたが、元々の意味は門と窓の間に設けられた屏風のことで、しかし屏門とは違い、固定した場所に置かれたのではありません。屏門は屏風の変化したもので、風をさえぎり視線をさえぎる点では、屏風と共通のところがあります。

内院の北側の回廊が耳房に通じる前の小さな中庭のところにも、通常は壁を築き、その上に屏門を設けます。

垂花門の内側にある屏門は、最も魅力的です。垂花門の外観の華やかな装飾とは反対に、緑色の屏門は、見た感じが上品で清楚です。それに加え、赤色の紙の中の黒色のめでたい文字が、一層のあでやかさを添えています。東城の鼓楼南帽児胡同35、37号の婉容(えんよう。清朝のラストエンペラー、愛新覚羅溥儀の正妃)故居では、曾て婉容が冊封された後、「後邸」となり、屋敷は建て増しされました。完成後、前院は拡張され、東西の二間の壁には、それぞれ菱の花を刻んだ四連の戸板の窓があり、門内には一字形の影壁があり、その左右は各々四連の屏門でした。西の屏門を入ると西院で、北は互いに連なった垂花門で、東西はそれぞれ屏門で両側の跨院に通じていました。三重目の四合院は上房院(母屋のある四合院)で、敷地の南壁は緑のペンキに金色の板を貼った壁で、下に須弥壇を築き、中間は切妻屋根の木の屏門でした。ここからも、大きなお屋敷であっても、屏門のある場所がたくさんあったことが分かります。

その他、什錦花園19号の、戴笠(1897-1946。中華民国の政治家・軍人)が曾て住んだ四重の大四合院では、母屋の四合院の西側に、月亮形の屏門があり、その中は小さな跨院(母屋の横の四合院)で、山の石が積まれていました。美術館東街25号は、曾ては西太后のめいの住まいで、ここも母屋の四合院の西側に、月亮形の屏門が設けられていました。しかし、ここは跨院に通じているのではなく、北側の三重目の四合院に通じていました。

月亮形の屏門



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