中国清王朝の時代、北京の北方250Kmの河北省承徳市に造営された避暑山荘。海抜1千メートルの燕山山脈山中に作られ、都北京から近く、避暑に最適な離宮であるが、その造営目的は、帝政ロシアの中国領侵略を防ぎ、モンゴルやチベット地区の少数民族との融和を強化することにあった。避暑山荘を主に造営したのは、清朝第4代皇帝、康熙帝であった。尚、避暑山荘は1994年にユネスコの世界文化遺産に登録されている。
今回ご紹介する避暑山荘に関する歴史背景のお話は、中華書局出版から1984年に出版された『名勝古跡史話』に掲載された、郭秋良、劉建華『避暑山荘史話』の内容に基づきます。
一、康熙北巡と避暑山荘創建
康熙帝の意志に基づき、清朝宮廷は避暑山荘の造営工事を始めた。山荘は1703年(康熙42年)に正式に着工し、1708年(康熙47年)に初歩的に供用され、1792年(康熙57年)に最終的に完成し、前後90年近くの時間を要した。どうして北京北東の燕山山脈の中に規模の十分巨大な行宮を修築したのか。実は、これは康熙帝の北巡と密接な関係がある。
17世紀後半、帝政ロシアは中国東北の黒竜江流域で侵略活動を強めた。1685年(康熙24年)正月の康熙帝の詔(みことのり)でこう指摘した。「曾てロシアは故無く国境を犯し、我が逃亡者を収め、その後次第に国境を越えて来て、索倫(鄂温克)、赫哲、費雅喀、奇勒尔などの地(黒竜江流域、大興安嶺一帯の少数民族居住地)をかき乱し、人口を強奪し、村落を掠奪し、テンの毛皮を奪うなど、さんざん悪事を働いた。」西北の辺境地帯のオイラト・ジュンガル部(厄魯特蒙古准格尔部)の首領のひとり、ガルダンツェリン(噶尔丹)も、帝政ロシアの支援の下民族の分裂活動を行い、兵を興して南下した。このような形勢下、康熙帝は北方の辺境の管理を強めるため、モンゴル族各部との関係を密接にし、国家の統一を維持し、帝政ロシアの侵入を防ぎ止めるため、北巡制度を実行した。
1677年(康熙16年)、康熙帝、愛新覚羅・玄燁(げんよう)は初めて塞外の北巡を行い、1681年(康熙20年)、木蘭圍場(今の河北省承徳市圍場県)を設置した。(「木蘭」は、満州語で、「哨鹿」の意味。狩猟の時、兵士が鹿の毛皮を身に纏い、口で鹿の鳴き声を真似て、鹿を誘い出して捕まえる。これを「哨鹿」と言う。「圍場」は皇帝や貴族の狩猟地。)1820年(嘉慶25年)までの130年余りの長い期間中、清朝皇帝は木蘭で軍事演習を行うことが百回以上に及んだ。こうした軍事活動を、当時は「秋狝qiū xiǎn」と称し、ほぼ毎年秋に一度実施された。毎年「木蘭秋狝」の度に、皇帝は宗室の親王、内閣六部、各少数民族の王公貴族、八旗の兵士を率い、威風堂々と木蘭圍場に向かった。この周囲千里余りの広々とした狩猟地区で、皇帝は彼の従者たちと馬を駆って弓を引き、獲物を射た。金鼓が鳴り響き、何度も歓声が上がり、権勢が雄壮であると称するに堪えるものであった。狩猟が終わると、皇帝は猟で仕留めた熊、虎、鹿、ノロジカ、キツネ、ウサギなどを随行した王公大臣や各少数民族の首領に分け与えた。清朝皇帝のこうした狩猟活動は、決して単に野生動物を狩猟するためだけではなく、その主要な目的は軍事演習と同時に各少数民族間の団結を強化するためだった。
ここで提起すべきなのは、ガルダンツェリンに対する烏蘭布通(ウラーン・ブトン。内蒙古自治区赤峰市)の戦いであった。1690年(康熙29年)7、8月、康熙帝は圍場南側の波羅河屯(今の河北省承徳市隆化県)に布陣し、自ら作戦を手配し、圍場北側の烏蘭布通(今の内蒙古自治区克什克騰旗の南)でガルダンツェリンの反乱軍を徹底的に殲滅した。当時満州、モンゴル、漢族、回族の人々は労役で日夜軍需物資を時間通り運搬し、清軍は奮闘して作戦を推敲し、ガルダンツェリンの反乱軍に致命的な打撃を与えた。その後ガルダンツェリンの反乱軍は捲土重来を図ったが、康熙帝の再度の親征の下再び失敗に帰し、最後は1697年(康熙36年)人心を得ることができず孤立し、服毒自殺した。
康熙帝のジュンガル部親征、烏蘭布通の戦い
しかし木蘭圍場は北京から7百里余り離れており、一度の「秋狝」活動はしばしば3、4ヶ月続き、このような遠距離で長期間の行軍には、事前に途中に大量の物資を準備する必要があり、しかも皇帝は巡行し狩りを行う途中で政務を処理し、官吏を接見し、上奏文を見て批准し、食事や宿舎を手配する必要もあった。こうした需要のため、古北口から木蘭圍場に至る途中に16ヶ所の行宮が建設された。その中で現在の承徳市に最も近いのが、承徳南西、灤河(らんが)南岸の喀喇河屯(からがとん。今の承徳市灤河鎮)行宮で、その位置はたいへん重要で、規模もかなり大きかった。承徳は当時はまだ人煙稀な荒野であり、十数戸の人家のある小村落がひとつしかなかった。康熙帝が「村の長を訪ねて石碣を尋ね」、熱河のこの場所を発見し、喀喇河屯よりも自然条件がもっと優れていて、しかも「京師(都、北京)に行くに至近で、上奏を朝に発せば夕方に至り、万机を総理するに宮中と異ならない」と思い、ここに熱河行宮、つまり避暑山荘を建設することを決定した。これより、避暑山荘が清代の皇帝が木蘭での 秋狝期間の活動の中心となった。
二、塞外の真珠、避暑山荘
避暑山荘はまたの名を熱河行宮と言い、承徳離宮は、武烈河、すなわち熱河の西岸に位置し、北京から250キロの距離にある河北省承徳市に立地している。
避暑山荘は武烈河の西岸に位置する
承徳は殷や周の時代、中国の北方少数民族、山戎、東胡の居住地だった。戦国時代、承徳、及びその付近は燕国の漁陽、右北平、遼西の三郡に属していた。秦、西漢初期は依然この三郡に属したが、漢の武帝の時に新たに設けられた幽州に属した。西漢から東漢を経て魏晋南北朝時代まで、匈奴、烏桓(うがん)、鮮卑等の民族が居住した。隋、唐の時代、奚(けい)、契丹の居住地であった。遼王朝の時、ここは中京道澤州滦河県及び北安州の地であった。金王朝に至り、北京路興州興化県、宜興県の地となった。元朝の時代は上都路に属した。明朝の時代は興州衛に属し、その後諾音衛に併合された。
清の康熙帝の時に避暑山荘が建設されて後、外地から熱河に引っ越す人が引きも切らず、人口が増加し、市場が興隆し、熱河は次第に新興都市として発展し、そして行政機構の設立が必要になった。1723年(雍正元年)先ず熱河庁が設置され、1733年(雍正11年)承徳州に改称され、承徳の名称がこれより始まった。1742年(乾隆7年)熱河庁が復活し、1778年(乾隆43年)承徳府に昇格した。当地が軍事上重要な拠点であったので、1738年(乾隆3年)熱河副都統が設けられ、1810年(嘉慶15年)熱河都統に昇格、都統署は依然として承徳府の管轄であった。承徳府は直隷省に隷属した。辛亥革命後、直隷省の長城以北の地域は熱河、察哈爾の両特別区に区分された。熱河特別区の治所は承徳にあった。1928年熱河特別区は熱河省に改められ、省府は引き続き承徳にあった。1948年承徳解放後、市が設定された。1955年熱河省が廃止され、承徳市は河北省に帰属することとなった。
承徳は景勝都市である。全市のほぼ半分を避暑山荘が占め、山が連なり木々が青々とし、谷や川の静けさ、古松が青々と茂り、湖水は澄み渡り、宮殿が林立し、楼閣が見え隠れしている。この我が国で著名な古代の園林は、その格別な北国の景観により益々多くの国の内外からの観光客を惹きつけ、「塞外の真珠」と褒め称えられている。
避暑山荘の所在地は燕山山脈の中、武烈河河畔の狭く長い谷の中にあり、周囲には気勢が雄大な、石を積み重ねて築いた虎皮石宮墻(虎皮石は花崗岩の一種)があり、宮墻(宮壁)の長さは20華里(10キロメートル)、幅は1.3メートルある。宮壁の上には雉堞(ちちょう。城壁の上に付けられた凹凸状の突起。ひめがき)があり、哨兵を布陣させることができた。
虎皮石宮墻
山の地形に沿ってうねうね起伏のある宮壁の内側には、564万㎡の湖や山が広がり、総面積は北京の頤和園の二倍である。避暑山荘の正面は麗正門で、門の前には赤色の照壁(目隠しの塀)があり、門の傍らには石の獅子が雄々しく盤踞(ばんきょ)している。麗正門の西側には碧峰門、東側には徳匯門、小南門がある。この他、北東には恵迪吉門、北西には西北門があり、更に専用の流杯亭門や倉門などがある。東側の宮壁の外側には谷間をうねうね流れる武烈河の流れで、山荘の中の熱河泉水は宮苑から流れ出し、武烈河に合流し、南へ向かい滦河に注入する。山荘の地勢は海抜1千メートル以上で、西側は山地、東南部は平原と湖で、全体の地形は西側が高く東南部が低い。ここの夏季の平均気温は摂氏35、6度くらいだが、生い茂った古樹が天高くそびえて日差しを遮り、広々とした湖面の水や空気は清々しく、そのためたとえ盛夏でも、山荘の気候は涼しく過ごしやすく、避暑に絶好の場所である。
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