中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

昔の北京の社寺の縁日の話(2)

2024年06月01日 | 中国文化
白塔寺白塔

白塔寺廟会

 昔、阜成門を入り、東北の方向を見ると、巨大な白塔が人々の目に入って来る。白塔のある寺院なので、人々は俗に白塔寺と呼ぶ。曾て遼代、ここには仏塔が建てられていたが、後に戦火で壊された。元の世祖の時、遼塔の遺跡の場所に大聖寿万安寺が建立され、ネパールの建築家アニカが中心となりこの巨大な白色のラマ塔を建築した。元末の戦乱で、寺は破壊されてしまったが、塔は残った。明の英宗の時、仏寺が再建され、「妙応寺」の名を賜った。寺内の庭園は広々としていて、山門から塔院の間に、仏殿が分布していた。塔院のちょうど真ん中に白塔がそびえ立ち、塀で囲まれた四隅には一亭が建てられた。

 白塔寺の廟会は東西両廟の廟会と形式がよく似ていた。いつも廟会の日になると、廟の内外はたいへん賑やかであった。廟内の屋台は東西の両路と塔院の中に分けて設けられていた。廟外は山門の外の街路上と廟の東側西側に屋台が設けられていた。白塔寺と護国寺はその間の距離が遠くなかったので、多くの屋台業者は、よく白塔寺の廟会が終わると、また護国寺の廟会にも駆けつけた。廟見物の人は山門の内外と天王殿前で、「年糕張」の色々の年糕(もち菓子)や、「回回李」の茶湯(炒ったキビ粉やコウリャンの粉に熱湯をさして食べる、麦焦がしのような食品)と油茶(「油茶麺儿」(小麦粉を炒って少量のヘットやバター、ごま油などと、ゴマ、クルミなどを混ぜたもの)に熱湯をかけて糊状にした、葛湯に似た飲み物)、格別な風味の棗巻果(ナツメと山芋、小麦粉を混ぜて蒸して作った、回族のお菓子)を味わうことができた。天王殿前の東側を北に行くのが東路、西側を北に行くのが西路であった。東路の屋台は荒物を売るものが中心で、屋台で売る木碗は北京で最も有名であった。というのも、これは丈夫で落としても壊れにくく、多くの父兄が廟見物の際にいくつか買って帰り、子供用に使った。西路では寄席演芸や大道芸の出し物があり、その中で拉洋片(のぞきめがね)や拉大弓(射的)、打弾儿(ビー玉当て)が最も人気があった。塔院はあまり広くなかったが、多くの子供たちがおもちゃ屋台に群がり、価格の安い泥餑餑(粘土を型押しし焼いて色付けした人形)や木陀螺(木製のこま)を買った。1945年日本降伏後、しばらくの間、北京の通りや路地では、子供たちの間でこま遊びのブームが巻き起こり、子供たちはこまを「漢奸」(売国奴)と呼び、こまをひっぱたく時にこう口ずさんだ。「漢奸を引っ張り出せ、漢奸をひっぱたけ、棒子麺儿(トウモロコシ粉)一毛三(0.13元)。引っ張り出せない、叩けないなら、棒子麺儿を二毛(0.2元)で売るよ。」この時のこまはいつも売り切れて買えなかった。

 寺の外の廟市では、時には四方の農村の農民が家禽や家畜を売る屋台を見ることができた。その他、鮮花、菱の実を売る季節の屋台、鳥やハトを売るもの、コオロギを飼う壺、鳥籠、キリギリスを飼う瓢箪売りもここの廟会に駆けつけた。精緻な鳥籠、キリギリスの瓢箪は、ここでは売れ行きの良い商品であった。寺廟の西側の宮門の傍らでは小さな茶館や飯屋が店を開き、多くの廟見物の人がいつもここの客になった。

白雲観廟会


白雲観遠望

 西便門の西2里(1キロ)のところに、道教の宮観があり、ここは平素「天下第一観」と呼ばれた白雲観であった。その前身は唐の開元年間に建立された天長観で、元の太祖の時に長春宮と名を改め、道人の丘処机がここで北方道教を主宰し、丘処机がこの世を去ったのを待って、その弟子がまた宮の東側に道観を建て、名を白雲と言い、観の中に丘氏の遺骨をお供えした。後に長春宮は廃墟となり、この観だけが残った。白雲観は占める土地の面積がたいへん広く、宮観が高く聳え、観の前に牌楼があり、山門を入ると左に鐘楼、右に鼓楼、境内の殿宇は五層になっている。

 毎年農暦正月1日から19日までは、白雲観で最も賑やかな廟会の日であった。白雲観を見物する人は、多くが宣武門を出て護城河(北京城城壁の外堀)に従い西に向け西便門に到り、ここで毛驢(背の低いロバ)を雇うことができ、ロバに乗って進むと格別な情趣があった。人々は1月8日にここで星神を拝み、灯節(元宵節)の時、殿外の壁に古代の物語を描いた紗灯(紗(しゃ)を張った灯籠)を高く掲げた。1月18日の夜、多くの男女が観の中で寝泊まりし、この日は「神仙に会える」日と言われているので、敬虔(けいけん)でご縁のある人が神仙に出会うことができた。19日は丘処机の誕生日で、この日を「宴丘」、或いは「宴九」と呼んだ。観内で線香をあげる人々は千里を遠しとせずやって来た。曾ては何人かの権勢を持った高官がここで銭を散じて布施し、長生不老を求めた。観内の屋台の商人は食品やおもちゃを売る者が多かった。観の北門の外には車や馬を走らせる場所があった。1日から18日まで、ここでは毎日午後に車や馬を走らせる活動が行われた。この他、廟会の期間中は「捨大饅頭」、「打金銭眼」(銅銭を大型の銅銭の形の的の中央の四角の口に向けて投げ、入ったらその年の運勢が良くなる)、扭秧歌(ヤンコ踊り)などといった催しが行われた。廟会の賑やかな情景は真に「重々しい真っ黒な鬢髪は香霧を凝らし,馬を駐める郊西の人は鶩(アヒル)に似たり。画鼓(色とりどりの鼓)秧歌の声は絶えず,金釵(金の簪)を落とし帰路に迷う」様な状態であった。

蟠桃宮廟会


蟠桃宮正門

 毎年農暦3月初めの蟠桃宮廟会は一層情趣に富んでいた。蟠桃宮廟会と白雲観正月廟会は何れも仏の名を借りた新春の行楽の形に属していた。北京人もこれを娘娘宮廟会と呼んだ。これは宮の中が主にふたりの娘娘(女神)を祀っているからである。毎年農暦3月1日から3日を廟会の期間で、3日が最も賑やかであった。この日は王母娘娘が蟠桃会を設けた日と言われ、また「上巳」の日でもある。この日は東便門の南にある蟠桃宮は黒山の人だかりで、お参りが極めて盛んであった。清代、宮女たちは多くが東便門内の堤の柳の木陰で、馬を走らせ弓を射た。民国初年には更に廟会に競馬場を建設した。廟会の時期がちょうど晩春の時期に当っていて、気候が心地よいので、ここでは各種の寄席演芸を見ることができ、季節の各種の小吃(軽食)を味わうことができた。

財神廟廟会


財神廟内の香炉

 広安門外の財神廟廟会は、農暦で毎月2日と16日に行われた。廟会は線香をあげて神様にお祈りする形式に属していた。1月2日の廟会はとりわけ賑やかであった。多くの人々がやって来て線香を燃やしてお金が儲かるようお祈りをし、「集まる者蟻の如し」と言うことができた。人々は皆先を争って最初に線香を燃やそうとし、先を制した者には吉星が高く照らし、その年はいち早く金儲けをすることができると言われた。

 廟会当日、廟から遠く離れた道の傍らには、線香や蝋燭、黄表紙(祭祀の時に燃やす紙銭)の屋台がところ狭しと並んでいた。廟の門を潜る以前に、抑揚のある低く沈んだ鐘の音がもう耳に届き、廟の中に入ることができると、殿内殿外は参拝客で溢れ、まとわりつく線香の煙は霧のようで、廟は小さいが人が多く、ひどく混み合い、殿内に入って線香をあげようと思うと、たいへん力を使わないといけなかった。線香をあげ神様にお祈りをして後、敬虔な参拝客は必ず金箔や銀箔を糊付けした元宝や聚宝盆、金馬駒、赤いシルクで作った蝙蝠形の造花、赤い紙で作った金の鱗の鯉などを買い、こうしたもので、この一年、金銭財物を求める上での精神的な慰めとした。これ以外に、他の廟会と同じく風車、糖葫芦(サンザシ飴)、空竹(中国伝統のコマの一種で、回すと独特の音がする)、琉璃喇叭(ビードロ)、噗噗噔儿(ぽっぺん)など正月や節句のおもちゃと屋台もあった。

 財神廟廟会は昔の北京の神頼み、迷信の色彩の濃い廟会であった。

東岳廟廟会


東岳廟牌楼

 朝暘門外に位置する道教の廟宇、東岳廟は、通常は朔望(陰暦の1日と15日)に廟会が開かれ、廟会の形式は財神廟廟会とよく似ていた。ただ正月の廟会は1月1日から15日まで半月連続で行われた。

 東岳廟は元代に建立された。廟の中にお祭りされた東岳大帝像は高さ1.2丈(約4メートル)、伝説によれば、これは泰山の神で、人の世の生死、善悪、富貴、貧賤、病苦を司り、全部で七十二の「司」(部門)を管理する。廟内に建てられた七十二司は頗る有名である。各司には皆神像があり、善悪の二種類に分けられ、その中の多くの塑像は、見る者をぞっとさせた。

 東岳廟の廟会にも物売りの屋台があったが、1937年の七・七事変(盧溝橋事件)前の統計によれば、東岳廟廟会の屋台の数は白塔寺と護国寺の廟会での屋台の数の六分の一に過ぎず、隆福寺廟会での屋台と比べると、もっと少なかった。

雍和宮廟会


雍和宮の銅獅子

 「跳布札」tiào bù zhá(俗に打鬼(鬼やらい)と呼ばれる)で有名な雍和宮廟会は、神様を楽しませる形の廟会である。雍和宮は、元々雍親王胤禛yìn zhēnの府邸であった。乾隆9年(1744年)正式にラマ廟に改められた。雍和宮は極めて大きな廟宇が鎮座し、万福閣の中には、ビャクダンの木を彫った弥勒像が立ち、その全身の高さは26メートル、世にも稀な仏像である。「跳布札」は黄教特有の宗教行事である。その意味するところは、「悪魔を追い払い、祟りを散じる」ことである。雍和宮の1月30日の廟会の主な内容は「跳布札」である。この時は見に来る参拝者が頗る多く、物を売る屋台もこの期に合わせて物を売るが、商業活動は決して主要な内容ではない。「跳布札」は「跳白鬼」、「跳黒鬼」、「跳螺神」、「跳蝶仙」、「跳金剛」、「跳星神」、「跳天王」、「跳護法神」、「跳白救度」、「跳緑度母」、「跳弥勒」、「斬鬼」、「送祟」の全13幕に分かれて進行した。最後にラマ(ラマ教の僧侶)が雍和宮を踊りながら一周廻り、これが「跳布札」終了の合図になった。

終わりに

 昔の北京の廟会は、一年、或いはひと月の中でも、実際には少なからず行われた。これらの廟会は、善男信女が線香をあげ仏を崇拝し、宗教活動に行く場所であるだけでなく、昔の北京の民間の商業活動を行うマーケットであり、大衆の娯楽の場所でもあり、北京の重要な民間活動の場となっていた。その後、いくつかの寺院は既に壊され現存せず、線香の火は途絶えてしまっているが、商人たちは古い習慣に従い、依然として廟会の時期になるとやって来て、廟の無い廟会を行い、商業活動と文化的、娯楽的性格の民俗活動を兼ねた活動に変化したのである。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿