中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

中国の泥人形(1)その歴史

2021年06月05日 | 中国文化

 中国へ旅行に行くと、お土産屋さんに粘土を焼いて着色した、かわいらしい人形が並んでいるのを目にします。中国語で「泥人」、「泥玩具」などと言います。産地や作者の名前を付けて、「恵山泥人」、「泥人張」などという商品名が付いています。今回は、こうした泥人形について、その歴史や各産地の商品の特徴について、ご紹介したいと思います。

 

ちょうど手元に、王連海著、『中国民間玩具簡史』と言う本があり、この中で、泥玩具について、約20ページにわたり記述があり、この内容から抜粋したいと思います。王連海氏は現在61歳、北京出身、北京清華大学美術学院で中国民間美術の研究をされています。

 

1.泥人形の歴史

 

 泥人形の起源は、墓の副葬品として、死者が死後の世界で寂しい思いをしないよう作られた、いわゆる明器です。これは、その当時、一定の身分や勢力があった人が特別に作らせたものですから、一般の人々には縁のなかったものです。それが、市場で売買され、庶民にも手の届くもの、商品として、また子供のおもちゃとして販売されるのは、宋代になってからと言われています。

 

北宋(960-1127)の時代、泥玩具の製作を生業とする民間の手工芸職人が出現し、泥玩具が商品となり、都市の市場では専ら泥玩具を売る露店や、行商人が出現しました。この時代の主要な泥玩具は「磨喝楽」、「黄胖」と呼ばれていました。

 

「磨喝楽」は「摩喉羅」、「摩侯羅」、「魔合羅」とも書き、宋代に流行した一種の泥塑の子供の人形で、農暦七月七日の前に大量に市場に出回った、季節商品でした。

 

北宋の都、汴梁(今の河南省開封)城内の「南渡」一帯はたいへん賑やかで、毎年「七夕」には「后市」(都城で市は宮廷の北側、後方に置かれたので「后市」という)の衆安橋、潘楼街東門外「瓦子」(娯楽兼商業区域)、州西梁門外「瓦子」、北門外、南朱雀門外街、及び馬行街等で磨喝楽が売られていました。

宋代泥人商舗

 

現在はもう当時の磨喝楽の実物を見ることはできず、ただ古文書の記載の中で「磨喝楽」のだいたいの形式を知ることができるだけです。このような小さな土の人形は作りが精緻で、姿かたちが端整で、色彩を施した木彫りの小さな台座の上に置かれ、赤い薄絹か青い薄絹で作ったカバーで覆われていました。小さな泥人形は深紅のチョッキを着、青い薄絹のスカートをはき、小さな帽子をかぶったものもあり、種類が豊富で、様々な大きさのものがありました。

 

古文書に、七夕に子供が手にはすの葉を持ち「磨喝楽」のまねをするとありますから、泥人形は必ず手にはすの葉を持っていたことがわかります。現在の泥玩具の人形は多くは絵で描いて衣服装飾を表現していますが、「磨喝楽」は別に衣服やアクセサリーを加える必要があり、織物、絹織物を使って小さな衣服やスカート、帽子を作って小さな泥人形の体に着せていたようです。

 

磨喝楽は北宋の都、汴梁の特産であるだけでなく、外地の製品も汴梁に運ばれ販売されました。その中で最も有名なのは蘇州の製品でした。

 

蘇州市の虎丘山の下で一種の磁土を産し、泥玩具を作るのに適し、明代には「塑真」(土で本物そっくりの塑像を作ること)工芸が盛んで、蘇州で作られたものが最も著名でした。

 

磨喝楽の用途は、一に「七夕」の「乞巧」(七夕の日に女性が織女星を祭って手芸、裁縫が上手になるよう願った風習)に使うため。二に男の子が生まれるよう祈るためでした。

 

唐代の「磨喝楽」は蝋で作られ、それを水に浮かべて、婦女が男の子を生むよう祈りました。宋代の「磨喝楽」は同様に女性が男子を多く生むことを祈る意味が込められていました。

 

磨喝楽を売る時は普通の販売方法だけでなく、「撲売」――これは宋、元の時代に流行した販売方法で、物売りが客と賭けの形で商いを行いました。多くの場合、銅銭を投げて、銅銭の表と裏の出た数の多い少ないで勝ち負けを決め、勝つと物がもらえ、負けると銭を失いました。

 

後世に行われた「転糖得彩」(あめを買って賭けに参加し、勝つと景品で人形がもらえる)、「昇官図売糖」(「昇官図」は一種のボードゲーム。四面に文字の書かれたコマを回して、平民から高官に昇格する順序を競う。あめを買って参加し、勝つと人形がもらえる)等も「撲売」の一種でした。「撲売」は賭博性を帯びていますが、また遊びの色彩もあり、泥玩具の販売にも合ったものでした。北宋の汴梁にはあちこちに磨喝楽を「撲売」するところがありました。

 

1980年代初頭に、江蘇省鎮江市で一組の子供が戯れている泥人形が出土しました。全部で5人の子供が、それぞれ相撲をし、足で踏んだりけったり、あたりを見回したりしています。

宋代の子供が戯れている泥人形

 

造形は生き生きとしていて、人形の地は土の色のままで、彩色は施されていません。これらの泥人形こそ「磨喝楽」だと考える人がいますが、証拠が十分でありません。というのも、「磨喝楽」は単体の泥人形であり、多くとも一対であり、一団のグループとなった「磨喝楽」の記録はまだ発見されていません。「磨喝楽」の衣装や装飾は別に作ったものを取り付けたはずですが、鎮江出土の泥人形の衣服は土で形作られ、またどれも中国服の上前衽(おくみ)と長ズボンを着ており、このことと「磨喝楽」が赤いチョッキ、青い薄絹のスカートを身に着けていたという記述と一致しません。このため、これらの泥塑の子供の群像は宋代の子供が遊び戯れる本当の姿の描写であり、古代の彫刻を研究する上での貴重な史料ではありますが、「磨喝楽」ではないと考えられます。

 

河南省博物館の陶磁器収蔵品の中にも宋代の「白釉加彩童子」があり、河南省禹県扒村窯跡から出土しました。童子(男の子)は陶器でできた太鼓型の腰掛けに座っていて、上半身はチョッキを着ていて、衣服の前をはだけて腹を出し、腰に帯を巻き付け、帯が二本の足の間に垂れています。男の子は手に蓮の葉を持ち、姿態はきちんとしています。全体の高さは21センチあり、白釉がかけられ、赤と黒の線で目、眉、頭髪、服装が描かれています。その形態から見て、今のところ最も「磨喝楽」に近い作品と言えます。

河南省博物院蔵宋白釉加彩童子

 

これも「磨喝楽」とは認められませんが、「磨喝楽」の風貌はここからそのおおよその見当がつくと思われます。というのも、これらの作品は間違いなく宋代の代表的な泥人形の影響を受けており、「磨喝楽」の本来の姿を理解するうえで重要な参考資料だからです。

 

名称からすると、「磨喝楽」と泥人形の間にはっきりした関連性はありません。これまで、多くの研究者が「磨喝楽」について考証を行ってきました。現在では二つの解釈が存在します。

 

第一の解釈は、「磨喝楽」はすなわち梵語(サンスクリット)の「摩喉羅」が訛ったもので、元の意味は仏教の神の名で、「摩喉羅迦」、または「莫呼勒迦」とも書き、梵語のMahoragoの訳語です。『大毗盧遮那仏神変加持経』及び唐代の慧琳の『一切経音義』の中に書かれているところでは、「摩喉羅迦」は「天龍八部の一つ」と称しています。仏教の経義によれば、諸天、龍、鬼神は八部に分かれています。晋代に、中国では既に、「天龍八部」は世尊(仏の尊称。釈迦牟尼のこと)を取り巻くという記述が出現しました。いわゆる八部は、一天、二龍、三夜叉、四ゲンダツバ、五阿修羅、六カルラ、七キンナラ、八マゴラガ(摩喉羅迦)。「天」と「龍」が八部の首位にいるので、名を「天龍八部」と言います。「摩喉羅迦」は大蟒神(「蟒」はニシキヘビやウワバミのこと)で、人首蛇身、つまり首から上は人間で体は蛇であり、「胸行神」とも言います。『東京夢華録』で「磨喝楽」を取り上げる時、作者は「元々仏教経典の「摩喉羅」は、今は通俗としてこう書く」と注釈しており、当時はこのような小さな泥人形と神仏を同列に論じていたのです。「摩喉羅迦」は大蟒神であるのに、どうして子供のおもちゃになってしまったのでしょうか。この点はたいへん分かりにくい問題です。

 

それゆえ、第二の解釈をする者が現れました。それは、「磨喝楽」は梵語の「羅喉羅」の音訳が間違って伝わったとするものです。羅喉羅は釈迦牟尼仏の実の子供であり、母親のお腹の中に七年いて、釈迦牟尼が悟りを開いた日に生まれました。仏が戻って来て後、羅喉羅の母親、釈迦牟尼の妻は清らかな気持で、羅喉羅に「歓喜丸」(歓喜団とも言う。バター、小麦、ハチミツ、ショウガなどを混ぜて作った古代インドの菓子)を掲げ、父に贈らせました。仏はその意味を会得し、遂にその従者たちも悉く仏になりました。羅喉羅が手に持って贈ったものは間違いなく、彼の聡明な資質を示しました。彼は15歳で出家し、仏の十大弟子中で密行(みつぎょう。戒律を綿密にきちんと守り修行すること)第一でした。羅喉羅の意味は、「覆障」(覆い隠すこと)です。彼が母の腹の中に七年いたことから、そう名付けられました。仏教経典の記述では、羅喉羅の身の上と磨喝楽の泥人形の生活上の用途は関係無くは無いように思われます。彼は生まれつき聡明で、密行第一であり、七夕の時、これを使って「乞巧」(きっこう。旧暦7月7日の七夕に女性が織女星を祭って手芸、裁縫が上手になるよう願う風習)を行うのは適しています。唐代に流行した蝋で作った「磨喝楽」(「化生」。婦人が男の子を生むよう祈ること)と結び付けて考えると、その大意は理解できます。「化生」は元々婦人が元気な男の子を生むことを祈るためのものですから、「羅喉羅」から来たものと解釈することは、道理に合っています。

 

宋代に流行したもうひとつの泥玩具は「黄胖」です。

 

「黄胖」は迎春の季節の土人形であり、通常は宴会の席で使われ、人形の手足を動かすことができました。したがって、「黄胖」はおそらく酒を勧める道具、「酒胡子」と似たものだったと思われます。「酒胡子」は、紅毛碧眼、髭を生やした西域人の姿に似せて作った人形で、上は軽く下は重くして、倒してもまた起き上がるよう作られていて、酒席の遊びで、この人形を揺らしてくるくる回し、最後に留まった時に人形の手の方向に座った客が罰として酒を飲むというものです。これは、後世の起き上がりこぼしの原型です。「黄胖」はこうしたおもちゃの一種で、南宋の時流行し、多くは権勢を誇った一族や王族の宴席で用いられました。民間では迎春の時に客に贈る土産品となりました。

 

宋王室は南渡以降、北方の領土を失った代わりに束の間の平和を手にし、それに加えて大量の北方人が南方に移り、南方の手工業は迅速に発展しました。南宋の都、臨安(今の浙江省杭州市)は至る所、酒楼、茶店、店舗、市が作られました。西湖一帯の民間手工芸品は独特の風格を持つようになり、北宋の汴梁の「門外の土産」に匹敵する「湖上の土産」となり、その中には泥人形が含まれていました。

 

明代の田汝成は『西湖遊覧志余』にこう記しています。

「臨安の風習では互いに往来交遊し、湖上を遊覧する者は競って土でできた子供の人形、小鳥、花湖船を買い求めて家に持ち帰り、隣近所に配り、湖上の土産品と言った。」

 

これらの子供の人形などの泥玩具は全て杭州市内で作られたもので、泥玩具の職人が住んだ地域はこれにより「孩儿巷」(「巷」は路地や横丁の意味で、北京の「故同」に相当)と名付けられました。「孩儿巷」の名は、今日の杭州市に今尚存続し、民間工芸の繁栄、栄枯盛衰を記録しています。

 

 明、清時代になると、政治の安定、商業、物流の発展から、中国内を行き来する人も増えました。江蘇省蘇州市虎丘山は、観光名所として発展し、また全国的に有名な工芸品市場になりました。民間玩具は虎丘市場の多くの商品の中で重要な地位を占め、「虎丘耍货」(虎丘のおもちゃ)と呼ばれました。

 

中でも、一級品の泥人形は、作りはよく吟味され、形態は精緻で美しく、価格は高価で、おおよそ無錫恵山の泥人形の「細貨」に似ていました。虎丘の一級品の泥人形中、「泥美人」(美人像)が最も代表的なもので、形態は真に迫り、楚々として人を感動させました。

虎丘泥人

 

虎丘のおもちゃにはこの他に絹人形があり、姿かたちは生き生きとして真に迫り、頭や顔は粘土で作られ、絹織物やガラス玉など多くの材料で服装や飾りが作られました。粘土の頭の製作も、泥玩具の職人が担当しました。彼らが作った粘土の頭が絹人形に用いられました。こうした人形の頭の部分が蘇州以外の地に販売され、「虎丘頭」と呼ばれました。

蘇州泥塑、絹人形

 

虎丘の泥玩具は明清時代に始まるのでなく、北宋時代には既に東京(都、汴梁)の「磨喝楽」市場に蘇州の製品が並び、しかも「天下第一」の特別な栄誉を有していました。虎丘の民間泥人形が宋から清に至るまで長きに亘って伝わり衰えることの無かった重要な理由の一つは、「虎丘には最もしっとりした泥土を産するところがあり、俗に「磁泥」と呼ばれていた」ことによります。こうした磁土は上等なおもちゃを制作するのに必要な原料であり、おおよそ北宋時代には発見されていました。

 

理想的な原料、強力な職人集団、広大な販売市場が、虎丘の泥玩具が幅広く発展することを可能にする前提条件となり、更に一群の新たな民間工芸品が日増しに成熟し、清代初めには国中で有名な民間工芸品目である「塑真芸術」となりました。

 

「塑真」とは「捏塑」或いは「捏相」とも呼ばれ、つまり実際の人物に基づき土を捏ねて形作った小像です。明代晩期に著名な作家、王竹林が制作を始め、清代初期にはこの特殊な工芸は継承、発展され、康煕、乾隆期には一時最盛期を迎え、ピークに達し、「塑真」の作品は天下に鳴り響き、古い書籍の中に多くの作家により描写されました。古典の名著、『紅楼夢』の中にも虎丘の「塑真」の話が描写され、この話は第67回の「見土儀顰卿思故里,聞秘事鳳姐訊家童」に見られます。

 

薛蟠は江南より商売をして戻り、母親と妹に二箱の贈り物を携えて来ました。「二人が箱の中を見ると、筆、墨、紙、硯、様々な色の箋紙、香袋、香珠扇子、扇子に下げる飾り、天花粉、口紅などが入っていた他、虎丘で買ってきた、道行く人、酒席遊び、水銀を注ぐとでんぐり返りをする子供、飾り灯籠といった、泥人形の芝居の場面がいくつか、青い紗の箱の中に納めてあった。また、虎丘の山上で土をこねて作った薛蟠の小像があり、薛蟠と瓜二つであった。宝釵はこれらを見て、他のものは別に気に留めなかったが、薛蟠の小像は仔細にながめ、また兄の方もじっと見て、思わず笑ってしまった。」

 

「塑真」の造形について、清の乾隆年間に常輝が『蘭舫筆記』の中でこう説明しています。

「蘇州の「塑真」の作家は、虎丘の山塘に住み、私は曾て観光に行きこれを見たことがある。土は細かく小麦粉のようで、色は濃淡様々である。像を作ってほしいと依頼があると、顔の皮膚の色を見て土を少量取り、手でこれを弄ぶと、普段通りに談笑して、意に介さないようだが、しばらくすると像は完成している。これを見ると、その人そのものである。「皺、痣とほくろ、喉」皆少しも違いが無く、ただ髭と髪の毛は別に付ける。」

 

「塑真」の作品は、多くが文人墨客、官僚富豪のおもちゃでした。泥人形は乾かして後、更に「衣服、冠、靴、靴下を身につけさせる。衣装が一重か二重か、棉か皮か、どんな様式でも悉く準備でき、綸子(りんず)、紗(しゃ)、薄絹、苧麻(ちょま)に至るまで、依頼者の意のままである。」更に甚だしきは、衣服や冠をきちんと身に着けた土の像を小さな楠の木の箱の中に納め、また小さな腰掛け、テーブル、方形の小テーブル、上に物を飾る細長い机といった家具のミニチュアを並べ、またその上に香炉、お香入れ、道具入れの壺や骨董、筆、硯、文具を置き、壁には小さな字を書いた掛け軸を掛け、ミニチュアの室内のしつらえを構成し、これを「相堂」(書斎)としました。更に書斎には家人や婦人、子供、下女や侍童を配置しました。

清末の蘇州出身の官僚、顧文彬の「塑真」

 

 以上が、泥人形の歴史です。次回は、恵山泥人など、各地の泥人形を紹介します。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿