前回からの行きがかり上、江戸時代の公方(くぼう)様(幕府・将軍家)の釣りについて概略記しておきましょう。江戸から遠く離れた阿波藩にあって釣りの専門職ともいうべき「御釣り御用」が活躍したのは、公方様も釣りに親しんだという既成事実があったからこそかもわかりません。
紀州雑賀崎の一本釣り
技術は阿波堂浦が発祥
江戸市民を恐怖に慄かせた「生類憐みの令」が徳川五代将軍綱吉の死去とともに解除され、六代将軍家宣は率先して釣りや遊猟に親しんだ。その後、享保元年(一七一六)紀州藩主・徳川吉宗が第八代将軍になるや、御浜御殿や隅田川に将軍家の専用釣り場を作ったのです。
さすがは一本釣りのプロ漁師集団、紀州「雑賀衆」ゆかりの公方様とあってその後も代々釣りを楽しんだと伝えられます。そして最後の公方徳川十五代将軍慶喜は主に浜名湖でカイズ釣りに親しんだが、釣りのお供をした人物は「自分は泥揉みばかりさせられた」と不足を言ったと伝えられています。泥揉みとは竹笊に入れた泥土を船べりから水中に漬け、揉んでかき回して下流を濁すこと。つまり、濁りを好むクロダイを寄せるわけですね。
ところで、阿波徳島の「御釣り御用」が始ったのは何時ごろか、定かではありませんが堂浦に残る文献に「御蔵加子 小家藤三郎 歳四拾九 此物天明五巳年御釣り用に採用云々…脇差御免として相勤めさせる云々」とあり、今からおよそ230年前には存在していたことが判ります。「御蔵加子」と言うのは藩所有地に住む楫子(かじこ=船頭)で、多くは堂浦出身の漁師だったことが判ります。
さて、蜂須賀藩主の釣りは吉野川のボラ、スズキ釣りが代表。
主な釣りは「ウキコ釣り」と「ボラ掛け」。とりわけ「ウキコ釣り」は毎年晩秋川尻に沸くウキコ(バチともいう)というゴカイの一種をエサ、マキエとしてボラ、スズキを釣るのですが、釣りの前夜このウキコが湧くと松明を照らして「御釣り御用」の加子は夜を徹して、一斗、二斗とこれを掬って帰り翌日、捨石の上や深みの落ち込みに船を掛けウキコを撒いて藩主にボラを釣らせるのです。
ウキコの出現は加子の長年の研鑽によって、月齢周期によって正確に出現することが判明、阿波における第一回目は旧暦十月の新月大潮時を過ぎる数日間、日没後の夕刻満潮を過ぎた頃の二、三時間に湧然として興奮した群泳が下げ潮に乗ってみられる、と。第二回目は一か月後の旧暦十一月の新月大潮時、その年のサナダ(イトメの阿波なまり)の栄養の具合で第一回目が大浮き(豊産)であったり、第二回目がそうであったり、第三、第四回目(旧暦正月の新月)まで、「御釣り御用」は藩主に釣らせるための「ウキコ」の行方を見守らねばなりません。
ともかくウキコは体の中一杯に栄養分に富んだ生殖物を充満しているので魚にとっては何よりの好餌、貪り食うので、藩主の竿もぐいぐいと豪快に引き込まれるわけです。
スマルで行うボラ掛けの豪快さも阿波の藩主の釣りに欠かせない釣りの極致でした。
このように「御釣り御用」の仕事は、釣りエサの確保、天文気象の研究など多岐にわたり、一つ間違うと切腹を覚悟した真剣勝負だったのです。こうした堂浦出身の加子達の高度の釣り技術はいち早いテグスの採用に繋がり、卓抜の一本釣り技術は紀州の雑賀崎に伝えられたわけです。(八木禧昌 イラストも=からくさ文庫主宰)
佐藤記
長くいただいてる、八木さんの「だぼ鯊のたわごと」も終わりになりましたが、締めくくりに書いてもらいました。