2度死に掛けた関係でか、いまだに長生きしています、僕を生かせて女房を先に別世界に
送った神さんに、ナゼ?といいたい。
女房がガンにかかるなんて思いもよらなかった、9年の長患いをしていてもいつも笑顔が
たえなかった、苦しいなんて言ったのは長い間に1度だけ聞いたが絶対に直るんだと
自分に言い聞かせていたのだろう、病は気からというからそれを払いのけていたから9年
もの間がんばれたのだろう、本当に代われるなら代わりたかったというのは本心でした。
結婚生活49年付き合いを入れたら53年にはなるだろう、よくしてくれました。
子供がいない分たぶん「好きにさせてあげたのよ」といってるだろうあの世で・・・
働き者で仕事に関しては絶対に人に負けたくないと云う信念を持っていたから、どこに
呼ばれていっても1年もしないうちにすべてを任されていた。
私が始めて勤めた設計事務所、千里の大きなレストラン、北の新地のクラブ、本町の大きな
マージャンクラブといろいろな仕事をこなしたがいつもトップにたって仕事をしていた。
その上、僕の事務所の会計から事務までやってくれたので何とかなっていたのだと思うが、
当時は彼女に刺激されて僕も24時間営業だなんていって、若い所員とがんばっていた。
そのころの事務所のメンバーは時間の制約はなく自由に出勤していた、ただ2班に分けて
それぞれが仕事を持って締め切りに間に合うようには決めていたので、休むのもその班長に
任せていたが、みんながやる気であったので締め切りにはいつもぎりぎりであるが、間に
あっていたのでした。(大分処理場)(
(1番弟子2番弟子ともよくやってくれました、今は奈良と和歌山で独立してやってますが)
広島の仕事をしているときなどは、出来上がったのを車に積んで、夜中の2時から翌朝の
9時に間にあうようによく走りました、7時間かけて、当時はまだ広島まで高速道路が
できてなかったので、大変でした。
でも出張は楽しいこともありました、広島から飛行機で東京に移動するときに当時の
巨人軍の長島さんと隣同士になり楽しい話を聞かせてもらいサインもいただきました
今も私の宝物です。
(神戸新多聞処理場)