鉄砲商人に成りすました勘助、景虎にも宇佐美にもすっかり
素性がばれていましたね
そもそも、一度見たら忘れない風貌の勘助が、越後に潜入す
るのが大間違なのだ
勘助の失敗であり、それを許した晴信のミスジャッジでしたね。
武田が越後をも狙っている事を逆手にとって、今、越後は争
っている場合ではないと宇佐美に知らしめる為、勘助は単に
利用されただけなのです
勘助も晴信も影虎と宇佐美にかかったら蛇に睨まれた蛙状態ですね
今のところは
一方、景虎の器にすっかり惚れ込んだ宇佐美、越後にとっては
最強のコンビ誕生です
武田にとってはこんな厄介な事はありませんよね
最後まで抵抗を続けていた長尾政景まで、宇佐美の知略によって
景虎の軍門に下ってしまうとは…
話は少しそれますが、長尾政景と景虎の姉の子供が上杉景勝
なのです
結局、景勝が上杉の家督を継ぐ訳ですから、景虎の軍門に
下ったとはいえ、政景が最終的な勝利者とも言えますね
長いスパンで考えると、勝ったほうが負けたり、負けた方が
勝ったりと訳が分からなくなるのです
(あまり深く考えない方が良いのかも)
ところで
甲陽軍艦」はいったい誰が書いた書物なのでしょうか?
一般的に信玄の重臣、「高坂弾正昌信」が記録したもの
が元になつていると言われてきました
この記録に、高坂昌信の甥の「春日惣次郎」と能役者の
「大蔵彦十郎」が書き足したものを江戸時代の軍学者、
小幡景憲が集大成した事になっています
高坂昌信は、言わずと知れた信玄の寵童「春日源助」だし
小幡景憲の父は「小幡昌盛」なのです。
二人共、信玄の重臣であり武田24将の一人ですよね
元々、甲陽軍艦は信憑性の低い書物と見られていたの
ですが、実際には小幡景憲が高坂弾正の名前を使って江戸
時代に創作したものではないかと言う甲陽軍艦捏造説が
あるのです
何故か?
関が原の後に徳川の旗本として仕え「甲州流軍学」を起こし、
多くの門弟を抱えるまでになった景憲にとって、信玄が
偉大な武将である必要があったのです
「甲州流軍学」の経典とも言える「甲陽軍艦」は、その偉大な
武将に仕えた名将「高坂弾正」が書いたからこそ価値が有る
訳です
新田次郎が書いた、『武田三代』「まぼろしの軍師」にある
のですが、天正10年暮れ、山城国・妙心寺の僧・鉄以は
彼を訪ねてきた老武士に、自分の父が信玄の軍師・山本勘助
であると告げられるのです
山本勘助のことを語り尽くすと老武士はほっとしたように息
を引き取り、話を聞いた鉄似は、自分の父が武田の軍師だった
と確信するのです。
これをきっかけに天正18年、鉄以は父のことを調べるために
諸国行脚の旅に出るのですが、この老武士こそ山本勘助だった
と僕は思っています
鉄以の記した武田家の歴史は「甲陽軍談」と呼ばれ、「甲陽軍艦」
の元になったと言う説が有るのですが、僕はこちらの説の方に
魅力を感じるのです
さて、真意の程は…
素性がばれていましたね
そもそも、一度見たら忘れない風貌の勘助が、越後に潜入す
るのが大間違なのだ
勘助の失敗であり、それを許した晴信のミスジャッジでしたね。
武田が越後をも狙っている事を逆手にとって、今、越後は争
っている場合ではないと宇佐美に知らしめる為、勘助は単に
利用されただけなのです
勘助も晴信も影虎と宇佐美にかかったら蛇に睨まれた蛙状態ですね
今のところは
一方、景虎の器にすっかり惚れ込んだ宇佐美、越後にとっては
最強のコンビ誕生です
武田にとってはこんな厄介な事はありませんよね
最後まで抵抗を続けていた長尾政景まで、宇佐美の知略によって
景虎の軍門に下ってしまうとは…
話は少しそれますが、長尾政景と景虎の姉の子供が上杉景勝
なのです
結局、景勝が上杉の家督を継ぐ訳ですから、景虎の軍門に
下ったとはいえ、政景が最終的な勝利者とも言えますね
長いスパンで考えると、勝ったほうが負けたり、負けた方が
勝ったりと訳が分からなくなるのです
(あまり深く考えない方が良いのかも)
ところで
甲陽軍艦」はいったい誰が書いた書物なのでしょうか?
一般的に信玄の重臣、「高坂弾正昌信」が記録したもの
が元になつていると言われてきました
この記録に、高坂昌信の甥の「春日惣次郎」と能役者の
「大蔵彦十郎」が書き足したものを江戸時代の軍学者、
小幡景憲が集大成した事になっています
高坂昌信は、言わずと知れた信玄の寵童「春日源助」だし
小幡景憲の父は「小幡昌盛」なのです。
二人共、信玄の重臣であり武田24将の一人ですよね
元々、甲陽軍艦は信憑性の低い書物と見られていたの
ですが、実際には小幡景憲が高坂弾正の名前を使って江戸
時代に創作したものではないかと言う甲陽軍艦捏造説が
あるのです
何故か?
関が原の後に徳川の旗本として仕え「甲州流軍学」を起こし、
多くの門弟を抱えるまでになった景憲にとって、信玄が
偉大な武将である必要があったのです
「甲州流軍学」の経典とも言える「甲陽軍艦」は、その偉大な
武将に仕えた名将「高坂弾正」が書いたからこそ価値が有る
訳です
新田次郎が書いた、『武田三代』「まぼろしの軍師」にある
のですが、天正10年暮れ、山城国・妙心寺の僧・鉄以は
彼を訪ねてきた老武士に、自分の父が信玄の軍師・山本勘助
であると告げられるのです
山本勘助のことを語り尽くすと老武士はほっとしたように息
を引き取り、話を聞いた鉄似は、自分の父が武田の軍師だった
と確信するのです。
これをきっかけに天正18年、鉄以は父のことを調べるために
諸国行脚の旅に出るのですが、この老武士こそ山本勘助だった
と僕は思っています
鉄以の記した武田家の歴史は「甲陽軍談」と呼ばれ、「甲陽軍艦」
の元になったと言う説が有るのですが、僕はこちらの説の方に
魅力を感じるのです
さて、真意の程は…