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映画『東京家族』について

個人的メモ(99)

2023年02月28日 | 映画『東京家族』
“弥生《やよひ》の朔日《ついたち》に出で来たる巳《み》の日、「今日なむ、かく思すことある人は、禊《みそぎ》したまふべき」と、なまさかしき人の聞こゆれば、海づらもゆかしうて出でたまふ。いとおろそかに、軟障《ぜじやう》ばかりを引きめぐらして、この国に通ひける陰陽師《おむみやうじ》召して、祓《はらへ》せさせたまふ。舟にことごとしき人形《ひとがた》のせて流すを見たまふに、よそへられて、

知らざりし大海《おほうみ》の原に流れきてひとかたにやはものは悲しき

とて、ゐたまへる御さま、さる晴《はれ》に出でて、言ふよしなく見えたまふ。海の面《おもて》うらうらとなぎわたりて、行く方もしらぬに、来し方行く先思しつづけられて、

八百《やほ》よろづ神もあはれと思ふらむ犯せる罪のそれとなければ

とのたまふに、にはかに風吹き出でて、空もかきくれぬ。御祓《はらへ》もしはてず、立ち騒ぎたり。肘笠《ひぢかさ》雨とか降りきて、いとあわたたしければ、みな帰りたまはむとするに、笠も取りあへず。さる心もなきに、よろづ吹き散らし、またなき風なり。浪いといかめしう立ちきて、人々の足をそらなり。海の面は、衾《ふすま》を張りたらむやうに光り満ちて、雷《かみ》鳴りひらめく。落ちかかる心地して、からうじてたどりきて、「かかる目は、見ずもあるかな」「風などは、吹くも、気色《けしき》づきてこそあれ。あさましうめづらかなり」とまどふに、なほやまず鳴りみちて、雨の脚あたる所|徹《とほ》りぬべく、はらめき落つ。かくて世は尽きぬるにやと、心細く思ひまどふに、君はのどやかに経うち誦《ず》じておはす。暮れぬれば、雷《かみ》すこし鳴りやみて、風ぞ夜《よる》も吹く。「多く立てつる願《ぐわん》の力なるべし」「いましばしかくあらば、浪に引かれて入りぬべかりけり」「高潮《たかしほ》といふものになむ、とりあへず人損はるるとは聞けど、いとかかることは、まだ知らず」と言ひあへり。暁方みなうち休みたり。君もいささか寝入りたまへれば、そのさまとも見えぬ人来て、「など、宮より召しあるには参りたまはぬ」とて、たどり歩《あり》くと見るに、おどろきて、さは海の中の龍王の、いといたうものめでするものにて、見入れたるなりけりと思すに、いとものむつかしう、この住まひたへがたく思しなりぬ。”


『源氏物語』 https://roudokus.com/Genji/12-22.html (左大臣どっとこむ)




















 テレビを持っていない私は、この番組を見ることができなかった。残念なことである。






































































































































































“世ゆすりて惜しみ きこえ、 下に朝廷をそしり、恨みたてまつれど、「 身を捨ててとぶらひ参らむにも、何のかひかは」と思ふにや、かかる折は人悪ろく、恨めしき人多く、「 世の中はあぢきなきものかな」とのみ、よろづにつけて思す。”

『源氏物語』 http://www.genji-monogatari.net/html/Genji/combined12.1.html



“社会全体が源氏を惜しみ、陰では政府をそしる者、恨む者はあっても、自己を犠牲にしてまで、源氏に同情しても、それが源氏のために何ほどのことにもならぬと思うのであろうが、恨んだりすることは紳士らしくないことであると思いながらも、源氏の心にはつい恨めしくなる人たちもさすがに多くて、人生はいやなものであると何につけても思われた。”

『同上』 (現代語訳 与謝野晶子)

























































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