和泉の日記。

気が向いたときに、ちょっとだけ。

【SS】I can't fly.

2010-06-23 10:34:25 | 小説。
「一応言っておくけれど、止めても無駄よ?」
高層ビルの屋上、フェンスの向こう側。
揃えた靴を脇に置き、彼女はそう言った。
「うん、止めないよ」
僕は正直にそう答える。
「そ。よかった」
もしかして止めて欲しかったのだろうか、と思ったが、どうもそういう風でもない。
「飛び降りる気?」
「ええ、そうよ」
やはり自殺志願者だった。もっとも、この状況ではそれ以外考えつかないけれども。
しかし、困った。
ここは、彼女を止めるなり説得するなりすべきなのだろうか。
そんな気はさらさらないのだけれど。
――などと考えていると。
「貴方、変なヒトね」
一歩踏み出せば死ねる状態にある女にそんなことを言われる筋合いはない。
それでも、まぁ、変なヒトであることは間違いないか。
「ちょっと、興味が出てきたわ」
「・・・僕に?」
「ええ」
無表情のまま、抑揚なくそんなことを言う。
「貴方、こんなところに何しに来たの?」
「お昼ご飯を食べに」
右手に持った愛妻弁当を掲げて答える。
「ここ、立ち入り禁止じゃなかったかしら」
「だから、誰もいないだろうと思ってさ」
「・・・私が鍵を開けちゃったから、か」
「ああ、そういえば屋上のドアは開いていたね。君が開けたのか」
特に疑問を感じたりはしなかったのだが、なるほどそういうことか。
どうやら立ち入り禁止だけあって普段は施錠されているらしい。
鍵をかけておかないと――彼女のような危ない人間が立ち入ってしまうから。
もっとも、当の彼女にはそんなものは無意味だったようだけれど。
そこで会話が途切れた。
それもそうだ。僕の方からは、特に話すことなんてないのだから。
「・・・何も聞かないのね?」
痺れを切らしたのか、彼女の方からそう問いかけてくる。
「聞いて欲しいの?」
「まさか」
自嘲するように言う。これも本心のように聞こえる。
「じゃあ、やっぱり聞かないよ」
「そ。ありがとう」
お礼を言われるようなことなんてしたつもりはない。
「じゃ、私の方から」
「・・・どうぞ」
妙なことに巻き込まれた。
そう思ったが、昼休みはまだ長い。少しなら付き合ってもいいだろう。
「結婚してるの?」
「うん、去年ね」
「あら、まだ新婚さんなのね。――ああ、だからお弁当」
「新婚だから、ってわけでもないけれど」
どちらかというと食費の節約という意味合いが強い。
平凡なサラリーマンの給与は、決して満足の行く額ではないのだ。
「年齢、聞いてもいいかしら?」
「28」
「あら、意外。もう少し若いと思っていたわ」
「褒め言葉、と受け取っておくよ」
「ええ、褒めたのだもの」
そうなのか。
あんまりストレートにそんなことを言われるのは慣れていない。
「このビルの会社のヒト?」
「うん、5階に入ってる会社の一般的な会社員」
「一般的、ではないと思うわ。貴方の場合」
余計なお世話だ。
僕自身はあくまでも普通のサラリーマンだと思っている。
「男のヒトの割には小さなお弁当みたいだけど?」
「ああ、僕はどっちかというと少食な方なんだ」
「だめよ、男のヒトはたくさん食べないと」
そんなこと言われてもな。
取り立てて食に執着のあるタイプではないから、困ってしまう。
そして、再びの沈黙。
どうやら、質問攻めもネタ切れらしい。
「こんなところかしらね」
面白そうでもつまらなそうでもなく、ただ事務的にそう言う。
「ありがとう、最期に誰かと話せて嬉しかった」
「そうか」
「じゃ、私は逝くから」
「うん」
僕はどうしたらいいか分からず、取り敢えずバイバイと手を振った。
彼女は、少し困ったような顔をして、小さく手を振り返した。
初めて、彼女と意志の疎通ができた気がした。
そして。
「さようなら」
彼女は短くそう言って、細い足を宙に投げ出し、ソラを舞った。
歩み寄り、フェンス越しに彼女が飛び降りた先を見下ろす。
はるか下、小さくなった彼女が寝そべっているのが見えた。
さて、彼女は、彼女の人生は幸せだったのか。
不幸せだったから飛び降りたのだろうけれど、本当のところなんて分からない。
僕にできることは何もないし、僕が思うべきことも何もない。
しかし――嬉しかった、と彼女は言った。
だから、最期に彼女と話せたことは悪いことではなかったのだろう。
僕に分かるのは、そこまでだ。
取り敢えず。
昼休みも半分近く終わった。さっさと弁当を食べてしまおう。
丁寧に揃えられた靴のそばに腰をおろし、僕は予定通り愛妻弁当を広げるのだった。
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