「古田史学の会」のホームページ(http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jfuruta.html#wa840)で「関西例会」において「服部さん」(古田史学の会役員)から「天王寺」と「四天王寺」についての報告があったようです。これについては以前から「古賀さん」から「四天王寺」は元々「天王寺」だったのではないかという考えが示されていました。それについての追論考のようです。そこでは「天王寺」と「四天王寺」の「語義」からの検討が行われているようですが(詳細は不明)、当方も以前調べてみてその後(怠慢のため)フォローせずにいたものがあり、改めて以下にまとめてみました。
「一一四〇年」に「大江親通」が著した『七大寺巡礼私記』には、「法隆寺の四天王像は四天王寺の像を写したものである」と書かれています。また「一二三八年」頃に僧顕真が著した『古今目録抄』(『聖徳太子伝私記』)でも、「四天王寺」の「四天王」と「法隆寺」の「四天王」は同じである、と伝えています。
ところで、平安時代に書かれた『別尊雑記』(当時の寺院などの本尊などを写した「図象集」)に描かれた「難波四天王寺」の「四天王像」を見ると、「邪鬼」の上に「直立」して立ち(踏みつけているというわけではなく)、中国南北朝自体の様式と思われる武人の姿を表しているらしい服装やその表現方法など、基本的に「法隆寺」の「四天王」像と確かに非常によく似ています。
法隆寺の「四天王」像は美術史的には「推古仏」と同時代のものと考えられており、「百済観音像」、「夢殿観音像」などと同様に古いものと考えられますが、「法隆寺」の資材帳には記載がなく、当初から「法隆寺」に存在したものかは不明とされています。
『別尊雑記』を見ると当時「難波四天王寺」にあったといわれる「四天王」像が描かれており、そこでは踏みつけられた邪鬼が「四天王」の武器である「戟」とその「鞘」を両手に握っているのが分かります。
「法隆寺」における「四天王」像に踏みつけられている「邪鬼」も、本来その上の「四天王」の持つ「戟」と「鞘」を握っているはずなのですが、実際には何も握っておらず(空間の配置が違っていて握ることができない)、不自然な状況となっています。このことから、「法隆寺」の「邪鬼」と「四天王」像は統一的に(同時に同一人物の手により)製作されたものではないと判断できるでしょう。
この「四天王寺」の「四天王像」(それは「法隆寺」の「四天王像」も同様となるわけですが)は、その「意匠」から考えると、「南北朝」時代の「士大夫」(というより「武人」)の服装を模しているとされ、「百済」的ではないとされます。このような「意匠」は「南朝」の「漢文化」の影響を「北朝」が受けた中で作られたものとされれますから、「北朝」からの伝来を考慮する必要があると思われます。
しかし「四天王寺」はその建築様式がいわゆる「四天王寺式」というものの代表であるわけですが、この様式は「南朝」から「百済」へとつながる形式であり、「飛鳥寺」などと同様に「百済」の強い影響に建てられていることは明らかですが、「四天王像」に関しては「北朝的」であるとされているわけですから、一種「矛盾」であるわけです。
これに関してはこの寺が当初は「天王寺」と呼ばれていたらしいこととつながります。
そもそも「天王寺」という寺院は中国南朝に実在していた寺院名でした。
(以下の記事)
(南朝寺考/宋/天王寺 奉先寺 寶光塔院 普光寺 寶光寺)
「天王寺 在梅嶺岡《陳云・今之雨花山也》。劉宋時置。梁為昭明太子果園・梅聖?詩所謂宋日天王寺 梁時太子園也。 唐改奉先禪院・内起寶光塔。趙宋為普光寺。明為寶光寺云。
考證 至正金陵新志引乾道志・宋置天王寺 ・梁為昭明太子果園・呉為徐景通園・南唐保大四年更置 奉先禪院・葬曇禪師・起塔・因名寶光塔院・今為普光寺。○宋梅堯臣集有送峙師移居普光寺詩云・宋日天王寺 ・梁時太子園。○明金陵梵刹志・寶光寺・在都門外南城梅岡・劉宋時為天王寺。」
これによれば「天王寺」という寺院名は「南朝」の首都である「健康」都城の至近にあった「梅岡」の地に建てられていた寺院であり、当初は「宝光寺」という名称であったものが、「南朝劉宋」の時代に「天王寺」と改名されたものです。
それに対し「四天王寺」は「長安旧城」にあったという寺院であり、「北魏」の時代から存在していたとみられます。
(以下の記事)
(大正新脩大藏經/第四十九冊 史傳部一/二○三四 歴代三寶紀十五卷/卷十一)
「定意天子所問經五卷出大集。天和六年譯。沙門圓明筆受
大乘同性經四卷亦云佛十地經。亦云一切佛行入智毘盧遮那藏經。天和五年譯。上儀同城陽公蕭吉筆受
入如來智不思議經三卷天和三年譯。沙門圓明筆受
寶積經三卷天和六年譯。沙門道辯筆受
佛頂呪經并功能一卷保定四年譯。學士鮑永筆受
大雲輪經請雨品第一百一卷天和五年譯。沙門圓明筆受。初出
右六經一十七卷。武帝世。摩伽陀國三藏禪師闍那耶舍。周言藏稱。共二弟子耶舍崛多 闍那崛多等。為大冢宰晉蕩公宇文護。於『長安舊城四天王寺譯』。柱國平高公侯伏侯壽 為總監檢校.」
当時「倭国」においては「寺院名」を付ける際に「中国」の古寺院名からとる例も多かったものと見られ、それを考えると、当初「南朝」から「百済」を通じて得た技術で建てられた寺院であったということから、「北朝系」と思われる「四天王寺」ではなく、「南朝系」の「天王寺」という寺名であったとみるべきこととなるでしょう。
また「古賀氏」も指摘されるように「出土」した「瓦」から判断して「天王寺」から「四天王寺」という寺院名にどこかの時点で変えられたこともまた確かと思われますが、それは「四天王像」との関係が考えられ、これは当初からあったものではなく、「四天王寺」という寺院名に改名された時期に作られた(あるいは持ち込まれた)と考えられることとなるでしょう。それは「北朝」系の王朝である「隋」との関係が構築された以降のことではなかったかと推量されることとなります。
「三国遺事」という朝鮮の史書にも「文武王」の時「新羅」の首都である「慶州」に、「唐」の攻撃から国を守るために「四天王寺」が建てられたとされており、「四天王寺」という寺名および「四天王」による護国思想というものが「北朝」との関係の中で受容されたものであることが強く示唆されています。そうであれば「南朝」の影響下創建された「天王寺」には「四天王像」はまだなかったという可能性が考えられるでしょう。
さらに「四天王寺」へという寺名の改定の裏に「新羅」の四天王寺と同様の事情が存在していた可能性が看取され、「隋」から「宣諭」され、その後「琉球」が実際に侵攻されるという事変を経験した後に、「隋」に対する軍事的脅威を強く感じたことから、それに備える精神的支柱として「金光明経」により「四天王像」が作られ、「四天王寺」と改名されたと言うことではなかったでしょうか。
そもそも「四天王」とは「金光明経四天王品」にあるように「釈迦」を守護する「持国天」「広目天」「多聞天」「増長天」の四天をいい、「邪鬼」を踏みつけ、武器などをかまえた武将の姿で表わされるものです。
この「金光明経」は早くに「北涼」の「曇無籤」によって訳されていましたが、「倭国」へは伝来したかどうかさえ不明であり、明確な時点は「五九七年」に「隋」の「宝貴」がまとめたものが「遣隋使」によってもたらされたということが考えられます。
この時点以降の伝来と考えると、やはり当初創建された時点では「四天王像」がなかったという可能性が高く、「天王寺」として創建された時点では「忍坂日子人太子」に擬された「皇祖」と称される「前倭国王」の死を追悼するための寺院であったと思われます。その後「隋」との関係が構築されて以降「北朝」の仏教が伝来し「金光明経」に改めて接し、「四天王像」を配置して「四天王寺」となった(改名された)ものと見られます。(ただし「動機」としては上にみたように「隋」との関係が極端に悪化することを恐れたためと思われますが)
こう考えると「建築様式」などと「四天王像」の食い違いには説明がつくでしょう。
『二中歴』によれば「倭京」の項に「二年天王寺聖徳造」とあり、これは他の伝承よりもかなり遅いものですが、「移築」という伝承もあることや、発掘の成果としてその年代については「七世紀第一四半期」という想定がされていることなどから、この「六一八年」という年代の記述は「四天王寺」として「移築」したという事実の反映ではないかと考えられます。それが「天王寺」と記されまた「聖徳」と造立者が書かれているのは、「当初」の創建と混乱しているためではないかと思われます。