先に触れた『徒然草』に、「浄金剛院」の鐘について述べられ、それが「黄鐘調」の音階であることが述べられています。
「再掲」(『徒然草』第二百二十段)
「何事も邊土は賤しく,かたくなゝれども,天王寺の舞樂のみ,都に恥ずといへば,天王寺の伶人の申侍りしは,當寺の樂はよく圖をしらべあはせて, ものゝ音のめでたくとゝのほり侍る事,外よりもすぐれたり。故は,太子の御時の圖今に侍るをはかせとす。いはゆる六時堂の前の鐘なり。其聲黄鐘調のもなかなり。寒暑に随ひてあがりさがり有べき故に,二月涅槃會より聖靈會までの中間を指南とす。秘蔵の事也。此一調子をもちていつれの聲をもとゝのへ侍るなりと申き。
凡鐘の聲は黄鐘調なるべし。是無常の調子,祇園精舎の無常院の聲なり。西園寺の鐘黄鐘調にいらるべしとて,あまたゝびいかへられけれどもかなはざりけるを、遠國よりたつねだされけり。『浄金剛院の鐘の聲,又黄鐘調也。』」
ここでいう「浄金剛院」の「鐘」とは現在「京都」の「妙心寺」に納められている鐘をいい、この鐘は「観世音寺」の兄弟鐘として知られています。この二つの鐘は同じ鋳型から鋳造されたとされていますが、(当然大きさも形も同じ)「妙心寺鐘」には(観世音寺鐘とは違い)「銘」が入っています。
「戊戌年四月十三日 壬寅収糟屋評造春米連広国鋳鐘」
この銘によれば「戊戌年」つまり「六九八年」という年次に「糟屋評」の「評造」である「春米(つきよね)連広国」が「鐘」を鋳造したとされています。
実際に「妙心寺鐘」の音の高さを測定した記録を解析すると,基音成分として125.2Hz と130.1Hz が計測されたとされ、聴感上の基音は「204msec」を周期とする「うなり」(ビート)を伴う周波数127.7Hz の音となlり、これは間違いなく「黄鐘」に相当するものです。(※)
つまりこの「鐘」は「天王寺」の鐘が鋳造された時点からかなり後代のものであるわけですが、その「基準音」は共に同じであるというわけです。これが「天王寺」と同時代の製作ならば不自然ではありませんが、はるか後代の「文武朝」であるというところが問題となるかもしれません。
「天王寺」の「鐘」が鋳造された時代以降、「唐」とは何度も交流があったわけであり、この鐘が鋳造された時期に「唐楽」についての情報が入ってこなかったはずはないと思われるわけですが、にも関わらず「呂才」により改正された「音律」を音階として使用していないことに注目です。
この「糟屋評」には「踏鞴鉄」の工房があったという報告があり、ここで「冶鉄」が行われていたと見られるわけであり、またこれらの「鐘」もその工房で作製されたものとみられるわけですが、この時点で依然として「唐」以前の古音階を発するように鋳造されているのは不思議といえますが、それは「寺院」における「鐘」の存在の示す意味につながるものであったと思われるのです。
そもそも「鐘」の音の高さは「鐘」の開口部の断面積に反比例し、円周部の厚みに比例するとされています。「妙心寺鐘」と「観世音寺鐘」は同一の鋳型から作られたわけですから、同じ高さの音が出るのは当然ですが、「四天王寺」の鐘もその意味で同様の構造とサイズであったという可能性が高いと思われます。
これについては当時のわが国では(兼好法師もいうように)「寺院」の鐘というものは「黄鐘」の音律に適うべきと言う思想があったと見るべきとも考えられます。それは「鐘」の「音」が「無常」を示す意義があったからです。
有名な「平家物語」の「序」にある「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という文章は単なる「無常観」を表現したものではなく、実際に「鐘の声」は「黄鐘」という「調律」でなければならなかったことを示すものです。それは「黄鐘」という音高が「四季」を表すものであり、またその意味で移り変わりを表すことから仏教的には「無常」観につながっているのです。
上の「徒然草」においても「凡そ鐘の聲は黄鐘調なるべし。是無常の調子,祇園精舎の無常院の聲なり」とあり、「寺院」の「鐘」というものはすべからく「黄鐘調」でなければ「無常の調子」とならず、そうでなければ「祇園精舎の無常院の鐘と同じにならない」というわけです。
そう考えると、「鐘」の構造は「規格化」されていたとも考えられます。「黄鐘」の音高を発するためにはあえて構造や厚さを変える必要がないからです。その意味で「糟屋」の工房では同じ鋳型から「鐘」の製造を一手に引き受けていたという可能性もあるでしょう。
このことは少なくとも「天王寺」「観世音寺」の二つの「鐘」は同一王朝に属する工房で作られたとみることもできるでしょう。ただし後に「妙心寺」に入る「鐘」が納まる寺院についてはそれが「不明」であること、その後この「鐘」が転々とするさまを考えると、この「鐘」の当初納まった寺院は(それは製作年次として銘文に書かれた内容から七世紀末の王朝であると考えられますが)、六世紀末から七世紀半ばへと続く王朝とは異なるものであったという可能性が示唆されるところであり、その工房が「筑紫」にあったことを考えると「九州」にその中心を持った王権であったことが推察されます。
(※)明土真也「音高の記号性と『徒然草』第220 段の解釈」(『音楽学』58号二〇一二年十月)