ところで、「隋書俀国伝」にいう「内官十二等」は一見して「儒教」の「五常」と深い関係があると見られますが、その「儒教」が倭国に伝わったのは『書紀』によれば「応神天皇」の頃とされており、そこでは「論語」と「千字文」が伝来したとされています。しかし「千字文」は「南朝」の「梁」の時代の編纂とされていますからその点ですでに矛盾しています。
これについては「梁書」によればいきさつとして以下の通り書かれています。
(梁書/列傳 凡五十卷/卷四十九 列傳第四十三/文學上/周興嗣)「高祖革命,興嗣奏休平賦,其文甚美,高祖嘉之。拜安成王國侍郎,直華林省。其年,河南獻?馬,詔興嗣與待詔到、張率為賦,高祖以興嗣為工。擢員外散騎侍郎,進直文、壽光省。是時,高祖以三橋舊宅為光宅寺,敕興嗣與陸?各製寺碑,及成?奏,高祖用興嗣所製者。自是銅表銘、柵塘碣、北伐檄、次韻王羲之書千字,並使興嗣為文,?奏,高祖輒稱善,加賜金帛。」
この記事からは「千字文」の成立は「梁」が「斉(南斉)」から禅譲された「五〇二年」のことであったらしいことが読み取れます。つまり「千字文」は「六世紀初頭」の成立であり、「四世紀」に伝わるはずがないこととなります。これは「応神天皇」の頃という時代のくくり方をしている『書紀』の記載に問題があると思われ、実際には「千字文」についてはその成立後程なくして伝来したと見るべきでしょう。しかし「論語」について言うと同じ『書紀』に継体天皇の時代のころ(五一三年)、百済より 五経博士が来倭したという記録があり、これであればこの時点で「論語」など「五経」が伝えられると共に「千字文」が伝来したとしてそれほど不審ではなさそうに見えます。
「(継体)七年夏六月。百濟遣姐彌文貴將軍。洲利即爾將軍。副穗積臣押山。百濟本記云。委意斯移麻岐彌。貢五經博士段楊爾。…」
しかし、すでに見たように「継体紀」が本来の年次から「六十年」下った位置に置かれているとすると、「千字文」を除き「五経」に関しては「五世紀」半ばには伝来したとみることもできます。(その意味ではこの「継体紀」記事に「千字文」に関することが書かれていないことが注目されます。)
そうであれば「内官十二等」についても同様に「五世紀半ば」付近に上限を考えるべきであり、この年次にかなり近い時代の創設ではないかと考えるべきでしょう。つまり「倭の五王」のうち「済」の時代付近で整えられた「等級制」ではなかったかと考えられることとなります。
そう考えると、この「任那」をめぐる戦いへの派遣記事に「大徳」「小徳」が現れることを考えると、他の「推古紀記事」と同様「干支二巡」、つまり百二十年遡上した「六世紀初頭」がこの記事の真の年次として考えられるものです。(当然「千字文」は「五経」とは別個に伝来したものであり、それは「六世紀初め」以降のこととなるでしょう。)
この「六世紀末」の「倭国王」は中央集権的な「統一王権」を造ろうとしていたものと推定され「王」の権威を「諸国」の隅々まで行き渡らせようとしていたと推察されます。そのため「隋」から各種の制度、文物を導入しようとしていたと思われますが、それが「冠」をかぶるという制度の導入と関係していると思われるわけです。
「六〇〇年」に派遣されたという「遣隋使」が述べた「冠」をかぶる制度の紹介では「至隋其王始制冠」とされており、文脈上「其王」とは「阿毎多利思北孤」を指すものと考えられますから、彼により「隋」が成立して以降の「六世紀後半」に「冠」を「官位」に応じてかぶることを制度として決めたというわけです。
また「内官」として「十二等」があるとするわけですが、これはすでに述べたように「内官」という表現は「王権内部」(というより「京域」ともいうべき「倭国中央」)における人事階級制であると思われるわけですが、それはこの時点付近で「京師」(あるいは「畿内」)が制定されたと考えるべきことをしめすものであり、それまでは「畿内」「畿外」の別なく一律の「制度」としての「階級制」が(以前から)あったと見るべきでしょう。
それ以前に「倭国」という政府組織そのものは(それほど中央集権的ではなかったにせよ)あったと見られるわけですから、そこに属する者達の「差別化」は指揮命令系統の構築という意味でも絶対に必要だったはずだからです。つまり、「京師」以外の地域、別の言い方でいうと「畿外諸国」においては、それ以前の「階級制」をそのまま継続する事となったものと思われ、「諸国」の王など倭国とつながる権力者達は「倭国王」支配下の「官人」として階級が定められていたものと思われます。
このことからこの「任那」を巡る戦いというものが「七世紀初め」のものと考えるには著しく不審があるものであり、この記事には「年次移動」という「潤色」が施されていると見るべきこととなるでしょう。つまり「小徳中臣國」という人物は(他の人物達と同様)ずっと以前の時代に生きていたものであり、干支一巡の遡上が最も年次と記事内容に齟齬がないものと思われ、「五〇三年」がその真の年次として想定されるものです。
そう考えると「高向玄理」の官位についても実際に「大錦中小徳」という並列称号ではなかったかと考えられることとなり、これを「六世紀末」から「七世紀初め」として考えて矛盾はなくなると思われます。
以上「惠日」に関わることや「中臣国」に関わること、経過行路の選択などからこの時の「高向玄理」達は「遣唐使」ではなく「遣隋使」であったことと推定できるものです。
彼等が「遣隋使」であったとすると、彼等全員に対して「東宮監門郭丈挙」から「日本國之地里及國初之神名」を聞かれたとあることには合理的理由があることとなります。これが「推古紀」のことであって干支一巡遡上するとした場合、真の年次としては「五九四年」が考えられ、これは「倭国」の最初の遣隋使である「開皇の始め」に派遣された「小野妹子」達に引き続く使者であったこととなるものと思われます。