古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

白雉五年の遣唐使について(三)

2015年05月09日 | 古代史

 ところで、「隋書俀国伝」にいう「内官十二等」は一見して「儒教」の「五常」と深い関係があると見られますが、その「儒教」が倭国に伝わったのは『書紀』によれば「応神天皇」の頃とされており、そこでは「論語」と「千字文」が伝来したとされています。しかし「千字文」は「南朝」の「梁」の時代の編纂とされていますからその点ですでに矛盾しています。
 これについては「梁書」によればいきさつとして以下の通り書かれています。

(梁書/列傳 凡五十卷/卷四十九 列傳第四十三/文學上/周興嗣)「高祖革命,興嗣奏休平賦,其文甚美,高祖嘉之。拜安成王國侍郎,直華林省。其年,河南獻?馬,詔興嗣與待詔到、張率為賦,高祖以興嗣為工。擢員外散騎侍郎,進直文、壽光省。是時,高祖以三橋舊宅為光宅寺,敕興嗣與陸?各製寺碑,及成?奏,高祖用興嗣所製者。自是銅表銘、柵塘碣、北伐檄、次韻王羲之書千字,並使興嗣為文,?奏,高祖輒稱善,加賜金帛。」

 この記事からは「千字文」の成立は「梁」が「斉(南斉)」から禅譲された「五〇二年」のことであったらしいことが読み取れます。つまり「千字文」は「六世紀初頭」の成立であり、「四世紀」に伝わるはずがないこととなります。これは「応神天皇」の頃という時代のくくり方をしている『書紀』の記載に問題があると思われ、実際には「千字文」についてはその成立後程なくして伝来したと見るべきでしょう。しかし「論語」について言うと同じ『書紀』に継体天皇の時代のころ(五一三年)、百済より 五経博士が来倭したという記録があり、これであればこの時点で「論語」など「五経」が伝えられると共に「千字文」が伝来したとしてそれほど不審ではなさそうに見えます。

「(継体)七年夏六月。百濟遣姐彌文貴將軍。洲利即爾將軍。副穗積臣押山。百濟本記云。委意斯移麻岐彌。貢五經博士段楊爾。…」

 しかし、すでに見たように「継体紀」が本来の年次から「六十年」下った位置に置かれているとすると、「千字文」を除き「五経」に関しては「五世紀」半ばには伝来したとみることもできます。(その意味ではこの「継体紀」記事に「千字文」に関することが書かれていないことが注目されます。)
 そうであれば「内官十二等」についても同様に「五世紀半ば」付近に上限を考えるべきであり、この年次にかなり近い時代の創設ではないかと考えるべきでしょう。つまり「倭の五王」のうち「済」の時代付近で整えられた「等級制」ではなかったかと考えられることとなります。
 そう考えると、この「任那」をめぐる戦いへの派遣記事に「大徳」「小徳」が現れることを考えると、他の「推古紀記事」と同様「干支二巡」、つまり百二十年遡上した「六世紀初頭」がこの記事の真の年次として考えられるものです。(当然「千字文」は「五経」とは別個に伝来したものであり、それは「六世紀初め」以降のこととなるでしょう。)

 この「六世紀末」の「倭国王」は中央集権的な「統一王権」を造ろうとしていたものと推定され「王」の権威を「諸国」の隅々まで行き渡らせようとしていたと推察されます。そのため「隋」から各種の制度、文物を導入しようとしていたと思われますが、それが「冠」をかぶるという制度の導入と関係していると思われるわけです。
 「六〇〇年」に派遣されたという「遣隋使」が述べた「冠」をかぶる制度の紹介では「至隋其王始制冠」とされており、文脈上「其王」とは「阿毎多利思北孤」を指すものと考えられますから、彼により「隋」が成立して以降の「六世紀後半」に「冠」を「官位」に応じてかぶることを制度として決めたというわけです。
 また「内官」として「十二等」があるとするわけですが、これはすでに述べたように「内官」という表現は「王権内部」(というより「京域」ともいうべき「倭国中央」)における人事階級制であると思われるわけですが、それはこの時点付近で「京師」(あるいは「畿内」)が制定されたと考えるべきことをしめすものであり、それまでは「畿内」「畿外」の別なく一律の「制度」としての「階級制」が(以前から)あったと見るべきでしょう。
 それ以前に「倭国」という政府組織そのものは(それほど中央集権的ではなかったにせよ)あったと見られるわけですから、そこに属する者達の「差別化」は指揮命令系統の構築という意味でも絶対に必要だったはずだからです。つまり、「京師」以外の地域、別の言い方でいうと「畿外諸国」においては、それ以前の「階級制」をそのまま継続する事となったものと思われ、「諸国」の王など倭国とつながる権力者達は「倭国王」支配下の「官人」として階級が定められていたものと思われます。
 このことからこの「任那」を巡る戦いというものが「七世紀初め」のものと考えるには著しく不審があるものであり、この記事には「年次移動」という「潤色」が施されていると見るべきこととなるでしょう。つまり「小徳中臣國」という人物は(他の人物達と同様)ずっと以前の時代に生きていたものであり、干支一巡の遡上が最も年次と記事内容に齟齬がないものと思われ、「五〇三年」がその真の年次として想定されるものです。
 そう考えると「高向玄理」の官位についても実際に「大錦中小徳」という並列称号ではなかったかと考えられることとなり、これを「六世紀末」から「七世紀初め」として考えて矛盾はなくなると思われます。

 以上「惠日」に関わることや「中臣国」に関わること、経過行路の選択などからこの時の「高向玄理」達は「遣唐使」ではなく「遣隋使」であったことと推定できるものです。
 彼等が「遣隋使」であったとすると、彼等全員に対して「東宮監門郭丈挙」から「日本國之地里及國初之神名」を聞かれたとあることには合理的理由があることとなります。これが「推古紀」のことであって干支一巡遡上するとした場合、真の年次としては「五九四年」が考えられ、これは「倭国」の最初の遣隋使である「開皇の始め」に派遣された「小野妹子」達に引き続く使者であったこととなるものと思われます。

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白雉五年の遣唐使について(二)

2015年05月09日 | 古代史

 「白雉五年」の「遣唐使団」の肩書き(冠位)については「六六四年」に「天智」が定めた官位制(以下のもの)の中にあるものであり、時系列として矛盾していると見られます。

「天皇命大皇弟宣増換冠倍位階名及氏上民部家部等事。其冠有廿六階。大織。小織。大縫。小縫。大紫。小紫。大錦上。大錦中。大錦下。小錦上。小錦中。小錦下。大山上。大山中。大山下。小山上。小山中。小山下。大乙上。大乙中。大乙下。小乙上。小乙中。小乙下。大建。小建。是爲廿六階焉。改前華曰錦。從錦至乙加六階。又加換前初位一階。爲大建。小建二階。以此爲異。餘並依前。」「(天智)三年(六六四年)春二月己卯朔丁亥条」

 このうち「高向玄理」については「新羅」に派遣された際の肩書きが「小徳」と書かれており、これは「推古紀」に定められたという「冠位十二階」の上から二番目です。また、彼は「国博士」という地位にあって「僧旻」と共に「八省百官」を定めたとも書かれています。

「以沙門旻法師 高向史玄理爲國博士。」(天豐財重日足姫天皇四年(六四五年)六月庚戌条)

「遣小徳高向博士黒麻呂於新羅而使貢質。遂罷任那之調。黒麻呂更名玄理。」(大化二年(六四六年)九月条)

「詔博士高向玄理與釋僧旻。八省百官。」(大化五年(六四九年)二月 是月条)

 同じように「小徳」という冠位であったことが記されている「巨勢臣徳太」「大伴連馬飼」はその後「左大臣」「右大臣」となっており、彼らとはこの頃まではほぼ同格の扱いであったものと考えられます。

「初發息長足曰廣額天皇喪。是日。小徳巨勢臣徳太代大派皇子而誄。次小徳粟田臣細目代輕皇子而誄。次小徳大伴連馬飼代大臣而誄。」(六四二年)元年…十二月壬午朔。…甲午。

「於小紫巨勢徳陀古臣授大紫爲左大臣。於小紫大伴長徳連。字馬飼。授大紫爲右大臣。」「六四九年」大化五年夏四月乙卯朔甲午。

 ところが、この「六五四年」の遣唐使の際の「冠位」は「大錦上」(大華下)となっており、これは上から「八番目」です。しかも上に述べたように時系列として矛盾しているというわけですが、「或曰く」として書かれている「大華下」が正しかったとしても「巨勢臣徳太」「大伴連馬飼」が「左右大臣」に任命される前が「小紫」であったのに比べ二段階低くなっており、さらに彼らは「大紫」に昇格したわけですから、いっそう差がついていることとなります。
 また、「六五〇年」の「白雉」が献上され、「改元」される際に、「倭国王」から「故事」に類似の瑞祥の出現があったか問いただされているメンバーの中には「高向玄理」の名前はありません。「国博士」という地位にあったものであれば、当然この場にいなければならないものと思えますが、その名が見えていません。これらは何を意味するものでしょうか。
 これについては以前は「降格」という可能性を念頭に考えていましたが、そうではないらしいことに最近気がつきました。つまり、ここに見える「小徳」と「大錦上」については一概に「矛盾」とはいえないという可能性もあると考えるようになったものです。それは「平安時代」に「大江匡房」が著したという『江談抄』の中に「物部守屋と聖徳太子合戦のこと」という段があり、その中で「中臣國子」という人物について書かれた部分に以下のことが書かれていることに気がついたためです。

「…太子勝於被戦畢于時以大錦上小徳官前事奏官兼祭主中臣国子大連公奉勅使今祈申於天照坐伊勢皇太神宮始リト云フ。」(『江談抄』巻三より)

 これをみると「対物部守屋」の戦い時点以前に「大錦上」という肩書きと「小徳」という階級とが併存している様子が窺えます。このうち「小徳」については『隋書俀国伝』では「内官」に十二等あるとされている中にあり、それらは「遣隋使」が語った内容に基づくと見られますが、ここに書かれた「内官」とは「隋」「唐」においては「在京」の官人を指すものでした。そう考えると、「隋使」が「内官」という用語を使用した裏にはこれらの「隋」における体制が念頭にあったと見られ、これらの十二階の冠位が「隋」においてもそうであったように「京内」の「諸省」の官人に対するものであることが推定できるでしょう。では「京」の外部の人たちには「階級制」はなかったのかと云うこととなるとそれは考えられません。「内官」という表現自体が「外官」の存在を前提にしていると思われ、「外官」に対しても何らかの階級制度があったものと見るべきこととなるでしょう。つまり「大錦上」のような「冠位」が本来「内官」「外官」の別に関わらず付与されていたことを推定されます。 

 ところで、 『隋書俀国伝』の「開皇二十年記事」には「故時衣幅、結束相連而無縫。頭亦無冠、但垂髮於兩耳上。至隋、其王始制冠、以錦綵為之、以金銀鏤花為飾。」とあります。ここでは「故時」つまり古くは衣服は縫わないで「結んで」つなげただけであったとされており、さらに「冠」も以前はなく、ただ「髪」を左右に垂らしていた(「みずら」を指すか)だけであったとされています。そして、それが「至隋」、つまり「隋」に至って「冠」をかぶることが制度として決められたというわけです。
 ここに書かれた「至隋」の意味がやや不明確ではあるものの、これは「隋」と交渉が始まって以降「伝搬」あるいは「導入」したということを示すものと考えられるものであり、「冠」をかぶるということ、それについて階級によって差を設けたことが制度として決められたのが「隋」の建国の年である「五八一年」以降の「開皇年間」のことと想定されるわけです。
 ところで同じ『隋書俀国伝』に書かれた「十二等」あるという「内官」の制度と、この「冠」をかぶることを制度として定めたと言う事は一見同じことを指しているように受け取られていますが、その『隋書』の中の現れ方は全く別(の文脈)であり、実はこの二つは全く別のことではないかと思われます。これは「大越氏」の議論(※)に既に触れられていますが、少なくとも『隋書』の中では「隋に至って」から「内官」の制度が始められたというようなことは書かれていないのです。つまり、「内官」の制度はそれを遡るかなり以前からあったのではないかと考えられるわけであり、それを反映していると思われるのが上に述べた「中臣國子」の「小徳」という「官位」であり、また「大錦上」という「位階」です。

 さらにそれを示唆するのが「任那」を救うためと称して軍を派遣したという以下の記事です。

「新羅伐任那。任那附新羅。於是天皇將討新羅。謀及大臣。詢于群卿。田中臣對曰。不可急討。先察状以知逆。後撃之不晩也。請試遣使覩其消息。『中臣連國』曰。任那是元我内官家。今新羅人伐而有之。請戒戎旅。征伐新羅。以取任那附百濟。寧非益有于新羅乎。田中臣曰。不然。百濟是多反覆之國。道路之間尚詐之。凡彼所請皆非之。故不可附百濟。則不果征焉。爰遣吉士磐金於新羅。遣吉士倉下於任那。令問任那之事。時新羅國主遣八大夫。啓新羅國事於磐金。且啓任那國於倉下。因以約曰。任那小國。天皇附庸。何新羅輙有之。随常定内官家。願無煩矣。則遣奈末智洗遲。副於吉士磐金。復以任那人達率奈末遲。副於吉士倉下。仍貢兩國之調。然磐金等末及于還。即年以大徳境部臣雄摩侶。『小徳中臣連國』爲大將軍。以小徳河邊臣禰受。小徳物部依網連乙等。小徳波多臣廣庭。小徳近江脚身臣飯葢。小徳平群臣宇志。小徳大伴連。闕名。小徳大宅臣軍爲副將軍。率數萬衆以征討新羅。…」「(推古)卅一年(六二三年)是歳条」

 この記事は「六二三年」と推定されていますが、それを「事実」と考える人はいないでしょう。なぜならそこには「任那」が存在しているからであり、この時点であたかも「任那」が存在しているように書かれているのは一見して不審です。
 「任那」は『書紀』による限り「欽明紀」には「新羅」によって滅ぼされたとされていますから、この時点では「国」の体を成しているはずがないこととなります。しかもそれだけではなく、この時点で「百済」「新羅」と「倭国」を加えて「任那」の争奪戦をしていることとなっており、そのような戦いがこの時点付近の大陸や半島をめぐる国際情勢とは全く位相を異にするものです。
 この年次がもし正しければ、それは「隋」が「高句麗」と戦った影響もあって疲弊し衰亡して「唐」に取って代わられた直後であり、「半島」においてはその「隋」に拮抗し得た「高句麗」の影響力が強くなっていた時期です。当然「高句麗」は五世紀のように軍事力を背景として南下政策をとるという可能性もあり、「百済」も「新羅」も「高句麗」の脅威をいかに和らげるかを考えていたと思われます。
 他方「倭国」は「隋」から「宣諭」された一件以降「隋」からの脅威を感じていたわけですが、「唐」に代わって以降そのような関係を一旦清算して新たな友好関係を「唐」との間に築こうとしていたと見られるのに対して、この「新羅出兵」記事はそのようなことが全く想定されていないように見えます。このことからこの戦いは「七世紀初め」のものと考えるには著しく不審があるものであり、この記事には「年次移動」という「潤色」が施されていると見るべきこととなります。(続く)

(※)大越邦生「多元的「冠位十二階」考」(『新・古代学』古田武彦とともに 第四集一九九九年新泉社)

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白雉五年の遣唐使について(一)

2015年05月09日 | 古代史

ここでは「白雉年間」の連年の遣唐使について考察します。

『書紀』によれば「白雉四年」と「白雉五年」に連続して「遣唐使」が派遣されています。

「發遣大唐大使小山上吉士長丹・副使小乙上吉士駒〈駒更名 絲〉・學問僧道嚴・道通・道光・惠施・覺勝・弁正・惠照・僧忍・知聡・道昭・定惠〈定惠 内大臣之長子也〉・安達〈安達中臣渠毎連之子〉・道觀〈道觀春日粟田臣百濟之子〉・學生巨?臣藥〈藥豐足臣之子〉・氷連老人〈老人眞玉之子。或本以學問僧知辨・義・學生坂合部連磐積而増焉〉并一百二十一人倶乘 一舩。以室原首御田爲送使。又大使大山下高田首根麻呂〈更名八掬脛〉・副使小乙上掃守連小麻呂・學問僧道福・義向并一百二十人倶乘一舩。以土師連八手爲送使。」「白雉四年(六五三)五月壬戌条」

「遣大唐押使大錦上高向史玄理〈或本云 夏五月 遣大唐押使大華下高向玄理〉・大使小錦下河邊臣麻呂・副使大山下藥師惠日・判官大乙上書直麻呂・宮首阿彌陀〈或本云 判官小山下書直麻呂〉・小乙上崗君宜・置始連大伯・小乙下中臣間人連老〈老 此云 於唹(おゆ)〉・田邊史鳥等分乘二舩。留連數月取新羅道、泊于莱州。遂到于京、奉覲天子。於是東宮監門郭丈擧悉問日本國之地里及國初之神名。皆随問而答。押使高向玄理卒於大唐」「白雉五年(六五四)二月条」

 この連続「遣唐使」のうち「六五三年」(白雉四年)五月の遣唐使船のうち一隻は途中難船し、残りの一隻も到着がかなり遅れ、唐皇帝に拝謁したのは「六五四年」になってからのようです。彼らはその年の七月に筑紫に帰って来た、と『書紀』の同じ部分に書かれています。

「被遣大唐使人高田根麻呂等。於薩麻之曲。竹嶋之間合船没死。唯有五人。繋胸一板流遇竹嶋。不知所計。五人之中。門部金採竹爲筏。泊于神嶋。凡此五人經六日六夜。而全不食飯。於是。褒美金進位給祿。」「白雉四年(六五三年)秋七月条」

「甲戌朔丁酉条 西海使吉士長丹等。共百濟。新羅送使泊于筑紫。
是月。褒美西海使等奉對唐國天子。多得文書寶物。授小山上大使吉士長丹以小華下。賜封二百戸。賜姓爲呉氏。授小乙上副使吉士駒以小山上。」「白雉五年(六五四年)秋七月条」

 通常「白雉五年」の遣唐使団は、その前の「白雉四年」の遣唐使船が東シナ海を直接横断しようとして「遭難」したこともあり、より安全と考えられる「新羅道」という「新羅」経由でのルート(北路か)を経由しようとしたため、団の構成をより「親新羅」的にするために必要な人材を選抜したものと考えられていました。そのため「押使」という「高向玄理」を始め、かなりの数の「親新羅系」の人物が遣唐使中にいたとして、当初より「親新羅」的人物が選抜されていると考えられていたわけです。(当方もそのように考えていた時期がありました。)
 
 実際問題としてこの時の遣唐使団とその前年の遣唐使団については『書紀』の表現と内容が著しく異なります。以下に相違を示します。

1.「白雉四年」の遣唐使を派遣した記録には「日付」が書かれているのに対して、「白雉五年」の記録では「月」しか書かれていません。

2.「白雉四年」の遣唐使は、参加した人数が「百二十一人」「百二十人」と明確に記載されているのに対し、「白雉五年」の方には「概数」さえ記載されていません。

3.共に「二船」に分乗しているわけですが、「白雉四年」の方は各々の乗船者がかなり細かく書いてあるのに対し、「白雉五年」の方はまったく触れておらず、「誰」が「どちら」に乗っていたか、不明となっています。

4.また、この乗船者については、「白雉四年」側には「父親」の名前などの補足の記録があるのに対し、「白雉五年」には皆無です。

5.さらに、「白雉四年」の方は各々の船に「送使」がいるのに対し、「白雉五年」の方は「送使」がいないのか、書かれていません。

6.「白雉五年」の遣使の使者の冠位は「後の時代」の冠位が書かれており、この時代のものではありません。これを補足・修正するように「或本伝」という形で別の情報が記載されていますが、「白雉四年」の方の冠位は当時の冠位そのままが書かれているようです。

7.また、帰国した使者に対する対応も違います。「白雉四年」の使者が帰国した際には「唐皇帝」から贈り物をもらい、それを「倭国王」に進上し、「倭国王」から労をいたわられ、「褒美」を下賜されていますが、「白雉五年」の使者が帰国した際には、ただ「帰国した」という記事だけであり、功績が顕彰されていません。

8.「白雉五年」の遣唐使は「新羅道」を経由して唐に入国していますが、「白雉四年」の航路は「東シナ海」を直接横断するルートを採用しています。

9.「伊吉博徳」の「言葉」として書かれた「注」についても、「白雉四年」の遣唐使達の消息についてであり、「白雉五年」の遣唐使団についての情報が全く盛り込まれていないように考えられます。

 以上のように「白雉四年」遣使が緻密な記録であるのに対し、「白雉五年」遣使は非常に「大まか」な記録になっており、これは『書紀』編纂時の参考資料の「多寡」の差があったものと考えられます。
 この二つの「遣唐使」が同じ「機関」により同じ時期に派遣されたとすると、資料の「不均衡」の説明が付きません。つまり「遣使」の機関ないしは時期が異なる事を示すものであり、それは「白雉五年」の遣唐使派遣が本当に「倭国」からなのか、それが「白雉五年」の事実であったのかを含めて問われるものと思われます。
 その意味で注目される点が二つあります。一つはこの「白雉五年」の遣唐使の中に「薬師惠日」という人物がいることです。この人物は「推古紀」に帰国記事だけがあり、派遣記事がないことで知られます。しかも彼は「派遣されていた国」について「法式完備の国」という表現をしており、これは「唐」というより「隋」にこそ妥当する表現であると思われます。

「新羅遣大使奈末智洗爾。任那遣達率奈末智。並來朝。…是時。大唐學問者僧惠齊。惠光。及『醫惠日』。福因等並從智洗爾等來之。於是。惠日等共奏聞曰。留于唐國學者。皆學以成業。應喚。且其大唐國者法式備定之珍國也。常須達。」「推古卅一年(六二三年)秋七月条」
 
 ここには「新羅」の使者に同行して帰国したという「大唐學問僧」四名の名前が書かれています。しかし、これらの人名は「福因」を除いて「派遣された」という記録がありません。その「福因」については「隋」の「大業年間」に発遣記事があります。つまり彼は「遣隋使」であったわけです。このことは、「惠日」を含めた彼等は『書紀』に書かれていない「遣隋使」の一員であったこととなると思われますが、ここで「惠日」が報告した内容である「其大唐國者法式備定之珍國也。常須達。」という言葉の中に出てくる「大唐」についても、既に考察したように実際には「隋」のことを指すという可能性が高いでしょう。

 また「法式が備わっている」という「恵日」の評価も特に「唐」に特定されるものではなく、「法式」が完備されたのは「隋」において画期的であったものですから、この「大唐」が「隋」を指すという考えるほうがより正しいと思われます。
 そもそも「礼制」や「法制度」「官僚制度」などが整ったのは「隋」(文帝の時代)においてであり、「唐」においてであるとはいいにくいものです。「隋」の制度等については「遣隋使」や「隋使」(裴世清)などとの交流があったわけですから、「法式が完備されている」ということは既知の事柄であったはずですが、あたかもそれが始めて判ったというように口吻は不審といえるでしょう。
 つまり、彼らは「隋代」に派遣されたと見る事ができると思われるわけですが、その彼らがその後「隋」から「唐」に代わった後に帰国したとすると、「隋」滅亡という重大事件について何も報告が為されていないこととなり大変不自然であると思われます。またこの報告の中では「唐」に対する「賛美」のようなニュアンスしか感じられず、「唐」の軍事力に対する「危険性」なども報告されて然るべき事と思われるのに対してそれがないように見えるのもまた不自然であると思われます。この帰国時点ではまだ「唐」国内には反対勢力がかなり強い勢力を持っていたものであり、一概に「唐」が「法式が整った」といえるほど安定していなかったこともいえることを考えると、彼の報告は「唐」に関するもの断定できないこととなるでしょう。

 さらに彼(惠日)の子孫が上奏した文章が『続日本紀』にありますがその内容も気になります。

「天平寳字二年(七五七年)夏四月…己巳。内藥司佑兼出雲國員外掾正六位上難波藥師奈良等一十一人言。奈良等遠祖徳來。本高麗人。歸百濟國。昔泊瀬朝倉朝廷詔百濟國。訪求才人。爰以徳來貢進聖朝。徳來五世孫惠日。小治田朝廷御世。被遣大唐。學得醫術。因号藥師。遂以爲姓。今愚闇子孫。不論男女。共蒙藥師之姓。竊恐名實錯乱。伏願。改藥師字。蒙難波連。許之。」(『続日本紀』巻二十「孝謙天皇紀」)

 これを見ると「惠日」については「小治田朝廷御世。被遣大唐。學得醫術。」とされていて確かに「推古」の時代に派遣され「醫術」を学んだと書かれていますが、「孝徳朝」(白雉五年)に「遣唐使」として派遣されたことについては何も触れられていません。
 この時は「高向玄理」に次ぐ「副使」という高い地位での「派遣」でしたから大変名誉なはずであり、その功績に触れない上表はあり得ないものです。またそこには「薬師」とありますから、彼が「医薬」に関連したことを学業の目的として派遣されたことは間違いないことと思われますから、ますますそれに触れない上奏文はあり得ないこととなるでしょう。
 これらのことは『続日本紀』の記事が示すように「惠日」の派遣は一回だけであり、それは「推古紀」のものであったと考えざるを得ないことを示すものです。それだけ年次としては「古い」こととなればこの「白雉五年」という年次に書かれた「遣唐使」記事について、詳細な記録がなかったというのは不自然とは言えず、納得できるものです。実際『書紀』には「小野妹子」が派遣された際の記録にも、副使などの記載が一切ないことなど詳細は全く明らかではありませんから、それと似たような事情と考えることができるでしょう。

 そもそも「新羅道」というルートそのものが「遣唐使」の経路としては初期のものですから、その意味でも「時代」の位相が違うと思われるわけです。
 「白雉四年」の「遣唐使」がとった「南シナ海」を横断するルートは後発のものであり、元々は「半島」沿いに進む行路が一般的でした。それは「新羅」から水行で「百済」の沿岸を経由し「遼東半島」などを経て揚子江河口まで南下するルートでした。このルートは「倭の五王」の頃から「中国」へ使者を派遣する際には必ず使用されていたものです。このルートを選定していることから考えても「高向玄理」や「惠日」達の派遣時期としては相当遡上すると見るべきであったものです。
 その後「新羅」との関係が悪化した後はこの「ルート」を使用することが適わなくなったものであり、「難波朝」の存在する「難波」は「百済系氏族」が多数を占めている地域ですから彼等の支持が絶対必要であったわけであり、そのため「唐」へのルートには「新羅道」(「北路」)を取ることを避けざるを得ず「南路」を選定したものでしょう。その結果「白雉四年」の遣唐使団は「遭難」することとなったものと推察されます。

 さらに注目される点は「高向玄理」等の「肩書き」にある「大錦上」や「小錦下」などの表記です。(続く)

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