『新唐書』の「蝦夷」記事については、「天智」の時代というこの『新唐書』の記事を『書紀』とそのまま直結して考え「六六八年」の「遣唐使」記事がこの時の「蝦夷」同伴記事であるという考え方もあるようですが、この「高句麗」が「唐」により討伐されたことを祝するという趣旨の「遣唐使」であることを考えると、この時「蝦夷」を同伴する意味が良く理解できません。
「蝦夷」の同伴についてはその意味が、「日本国天皇」が夷蛮の地域から朝貢を受ける程高貴で且つ強い権力を持ち広い範囲を統治できる存在であることを強調するイメージ戦略という見方が多くあるようですが、この「六六八年」という時期は、その直前ともいえる時期に「唐・新羅」の連合軍に敗れたばかりであり、「倭国」としてはその軍事的能力など「国力」の実態を既に「唐」に知られてしまっているといえるものですから、そのような中で「蝦夷」を引率して引見したとしても、「虚勢」としか見られないと思われます。つまりそれは非常に考えにくいものといえるものです。
そうであれば「新唐書」に書かれた記事は「高宗」の時代より後ではなく、もっと前であったという可能性も考えるべきこととなり、「太宗」の時代のことであったということもあり得ると思われることとなります。その意味で『仏祖統紀』の記事に正当性があるということもできそうです。
また「六五九年」の遣唐使が一旦「長安」に向かったのも「前回」の「冬至之會」が「長安」で行われたからということが理由としてあったという可能性もあるでしょう。単に「首都」に向かったというよりは前回の経験を踏まえて「長安」に目的地を定めたものではないでしょうか。しかし「顕慶二年」には「洛陽宮」そのものが「東都」とされ、格段に扱いが高くなったものであり、しきりに「高宗」と「武后」は「洛陽」へ行幸するようになります。さらに「顕慶三年」には「禮制」が改定され、推測によればその中で「冬至」の「祭天」は「東都」である「洛陽」の南郊で行うこととなったものと見られます。(ただし「顕慶礼」はその後逸失しているため不明です。)
「(顕慶)三年春正月戊子,太尉趙國公無忌等脩新禮成,凡一百三十卷,二百五十九篇,詔頒於天下。」(『旧唐書』帝紀/高宗(上)より)
これは「洛陽」の郊外で「祭天」を行っていた「周」の時代に戻る意義があったと見られ、「武后」がその後「唐」を改め「周」と国名を変更する素地ともなったと見られます。
「…若夫情尚分流,隄防之仁是棄;澆訛異術,洙泗之風斯泯。是以漢文罷再朞之喪,中興為一郊之祭,隨時之義,不其然歟!而西京元鼎之辰,中興永平之日,疏璧流而延冠帶,啟儒門而引諸生,兩京之盛,於斯為美。及山魚登俎,澤豕睽經,禮樂恆委,浮華相尚,而郊禋之制,綱紀或存。魏氏光宅,憲章斯美。王肅、高堂隆之徒,博通前載,三千條之禮,十七篇之學,各以舊文損當世,豈所謂致君於堯舜之道焉。世屬雕牆,時逢秕政,周因之典,務多違俗,而遺編殘冊猶有可觀者也。景初元年,營洛陽南委粟山以為圓丘,祀之日以始祖帝舜配,房俎生魚,陶樽玄酒,非搢紳為之綱紀,其孰能與於此者哉!」(『晉書』卷十九/志第九/禮上)
ここでは「魏晋朝」において「堯舜」の禮制に戻り、「洛陽」の南郊の「粟山」を「圓丘」として「日」を祀るとされ、「冬至」などの儀式がここで行われたことを示しています。これを視野に入れて「顕慶礼」では「洛陽」で「冬至之會」を行うこととなったものではないでしょうか。
このような事情により「高宗」は「閏十月」の末には「洛陽」に移動していたものであり、それを知った「伊吉博徳等」は慌てて「長安」から「洛陽」へ馬に乗って急行してやっと間に合ったというわけです。(「伊吉博徳書」には「…馳到東京。天子在東京。」と書かれています。)
このように「六五九年」の遣唐使の十九年前に「蝦夷」を伴った「遣唐使」があったと推定するものです。
このように「十九年」を隔てて「遣唐使」が赴いたというわけですが、それはそもそも「太宗」から「遠距離」であるため「毎年朝貢」の必要がないとされたという記事が関係しているでしょう。
「貞觀五年、遣使獻方物。大宗矜其道遠、勅所司無令歳貢。」(旧唐書/倭国伝)
さらに後の時代に日本からの留学僧「円載」からの質問への回答として天台山国清寺の僧侶「維躅」が作成した『唐決集』(開成五年(八四〇年))の中には「日本」からの朝貢は「約二十年に一度」とされていたことが書かれています。
「「六月一日天台山僧維蠲謹献書於/郎中使君〈閣下〉維蠲言去歳不稔人無聊生皇帝謹擇賢救疾朝端選於衆得郎中以恤之伏惟/郎中天仁神智澤潤台野新張千里之俦再活百靈/之命風雨應祈稼穡鮮茂几在品物罔不恱服南嶽高僧思大師生日本為王天台教法大行彼国是以/内外経籍一法於唐『約二十年一来朝貢』貞元中僧/㝡澄来會僧道邃為講義陸使君給判印帰国…」(唐決集)
通常はこの「二十年に一度」という頻度については「八世紀」に入って以降派遣された遣唐使について適用されるものと考えられているようですが、私見ではこの「約二十年に一度」というのが「太宗」からの「勅」の中にあったものであり、少なくとも「朔旦冬至」の際に行われる「冬至之會」への参加だけはするようにと言う趣旨ではなかったかと考えられます。
(ただし、上のように推定した場合「永徽の始め以降咸享元年」までのどこかの年次をその「蝦夷」来唐の時期とする「新唐書」の記事配列に反することとなりますが、「新唐書」の編纂にあたって参考とした資料にあった「高宗」時代の遣唐使と混乱したという可能性はあると思われ、つまり一般に想定しているものと逆の混乱があったと見ることも可能と思われます。)