古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「此後遂絶」以降(三)

2015年05月22日 | 古代史

 『新唐書』の「蝦夷」記事については、「天智」の時代というこの『新唐書』の記事を『書紀』とそのまま直結して考え「六六八年」の「遣唐使」記事がこの時の「蝦夷」同伴記事であるという考え方もあるようですが、この「高句麗」が「唐」により討伐されたことを祝するという趣旨の「遣唐使」であることを考えると、この時「蝦夷」を同伴する意味が良く理解できません。
 「蝦夷」の同伴についてはその意味が、「日本国天皇」が夷蛮の地域から朝貢を受ける程高貴で且つ強い権力を持ち広い範囲を統治できる存在であることを強調するイメージ戦略という見方が多くあるようですが、この「六六八年」という時期は、その直前ともいえる時期に「唐・新羅」の連合軍に敗れたばかりであり、「倭国」としてはその軍事的能力など「国力」の実態を既に「唐」に知られてしまっているといえるものですから、そのような中で「蝦夷」を引率して引見したとしても、「虚勢」としか見られないと思われます。つまりそれは非常に考えにくいものといえるものです。
 そうであれば「新唐書」に書かれた記事は「高宗」の時代より後ではなく、もっと前であったという可能性も考えるべきこととなり、「太宗」の時代のことであったということもあり得ると思われることとなります。その意味で『仏祖統紀』の記事に正当性があるということもできそうです。
 また「六五九年」の遣唐使が一旦「長安」に向かったのも「前回」の「冬至之會」が「長安」で行われたからということが理由としてあったという可能性もあるでしょう。単に「首都」に向かったというよりは前回の経験を踏まえて「長安」に目的地を定めたものではないでしょうか。しかし「顕慶二年」には「洛陽宮」そのものが「東都」とされ、格段に扱いが高くなったものであり、しきりに「高宗」と「武后」は「洛陽」へ行幸するようになります。さらに「顕慶三年」には「禮制」が改定され、推測によればその中で「冬至」の「祭天」は「東都」である「洛陽」の南郊で行うこととなったものと見られます。(ただし「顕慶礼」はその後逸失しているため不明です。)

「(顕慶)三年春正月戊子,太尉趙國公無忌等脩新禮成,凡一百三十卷,二百五十九篇,詔頒於天下。」(『旧唐書』帝紀/高宗(上)より)

 これは「洛陽」の郊外で「祭天」を行っていた「周」の時代に戻る意義があったと見られ、「武后」がその後「唐」を改め「周」と国名を変更する素地ともなったと見られます。

「…若夫情尚分流,隄防之仁是棄;澆訛異術,洙泗之風斯泯。是以漢文罷再朞之喪,中興為一郊之祭,隨時之義,不其然歟!而西京元鼎之辰,中興永平之日,疏璧流而延冠帶,啟儒門而引諸生,兩京之盛,於斯為美。及山魚登俎,澤豕睽經,禮樂恆委,浮華相尚,而郊禋之制,綱紀或存。魏氏光宅,憲章斯美。王肅、高堂隆之徒,博通前載,三千條之禮,十七篇之學,各以舊文損當世,豈所謂致君於堯舜之道焉。世屬雕牆,時逢秕政,周因之典,務多違俗,而遺編殘冊猶有可觀者也。景初元年,營洛陽南委粟山以為圓丘,祀之日以始祖帝舜配,房俎生魚,陶樽玄酒,非搢紳為之綱紀,其孰能與於此者哉!」(『晉書』卷十九/志第九/禮上)

 ここでは「魏晋朝」において「堯舜」の禮制に戻り、「洛陽」の南郊の「粟山」を「圓丘」として「日」を祀るとされ、「冬至」などの儀式がここで行われたことを示しています。これを視野に入れて「顕慶礼」では「洛陽」で「冬至之會」を行うこととなったものではないでしょうか。
 このような事情により「高宗」は「閏十月」の末には「洛陽」に移動していたものであり、それを知った「伊吉博徳等」は慌てて「長安」から「洛陽」へ馬に乗って急行してやっと間に合ったというわけです。(「伊吉博徳書」には「…馳到東京。天子在東京。」と書かれています。)
 このように「六五九年」の遣唐使の十九年前に「蝦夷」を伴った「遣唐使」があったと推定するものです。
 
 このように「十九年」を隔てて「遣唐使」が赴いたというわけですが、それはそもそも「太宗」から「遠距離」であるため「毎年朝貢」の必要がないとされたという記事が関係しているでしょう。

「貞觀五年、遣使獻方物。大宗矜其道遠、勅所司無令歳貢。」(旧唐書/倭国伝)

 さらに後の時代に日本からの留学僧「円載」からの質問への回答として天台山国清寺の僧侶「維躅」が作成した『唐決集』(開成五年(八四〇年))の中には「日本」からの朝貢は「約二十年に一度」とされていたことが書かれています。

「「六月一日天台山僧維蠲謹献書於/郎中使君〈閣下〉維蠲言去歳不稔人無聊生皇帝謹擇賢救疾朝端選於衆得郎中以恤之伏惟/郎中天仁神智澤潤台野新張千里之俦再活百靈/之命風雨應祈稼穡鮮茂几在品物罔不恱服南嶽高僧思大師生日本為王天台教法大行彼国是以/内外経籍一法於唐『約二十年一来朝貢』貞元中僧/㝡澄来會僧道邃為講義陸使君給判印帰国…」(唐決集)

 通常はこの「二十年に一度」という頻度については「八世紀」に入って以降派遣された遣唐使について適用されるものと考えられているようですが、私見ではこの「約二十年に一度」というのが「太宗」からの「勅」の中にあったものであり、少なくとも「朔旦冬至」の際に行われる「冬至之會」への参加だけはするようにと言う趣旨ではなかったかと考えられます。
(ただし、上のように推定した場合「永徽の始め以降咸享元年」までのどこかの年次をその「蝦夷」来唐の時期とする「新唐書」の記事配列に反することとなりますが、「新唐書」の編纂にあたって参考とした資料にあった「高宗」時代の遣唐使と混乱したという可能性はあると思われ、つまり一般に想定しているものと逆の混乱があったと見ることも可能と思われます。)

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「此後遂絶」以降(二)

2015年05月22日 | 古代史

 「佛祖統紀」という書の中に収められている「世界名體志」の中の「蝦夷」の部分には「唐」の「太宗」の時に「倭国」が遣使してきてその際「蝦夷人」も来朝したと記されています。

(『大正新脩大藏經』/第四十九卷 史傳部一/二〇三五 佛祖統紀五十四卷/卷三十二/世界名體志第十五之二/東土震旦地里圖」より)
「…東夷。初周武王封箕子於朝鮮。漢滅之置玄菟郡…蝦夷。唐太宗時倭國遣使。偕蝦夷人來朝。高宗平高麗。倭國遣使來賀。始改日本。言其國在東近日所出也…」

 この記事に従えば「太宗」の時に「倭国」からの使者に「蝦夷」が同行したというわけであり、これは「六三一年」の「犬上氏」などの遣唐使を指すと理解するのが通例でしょうが、そうとしても『書紀』ではその際には「蝦夷人」は引率しておらず、食い違いがあります。そうであればこの「蝦夷」記事については「高宗」時点のことを「仏祖統紀」の編纂者が誤認したと考えるのが穏当かもしれませんが、そうではないという可能性もあります。なぜなら「伊吉博徳書」に書かれた「蝦夷」記事と「新唐書」記事とが同じ事実を記したものとは思われないからです。
 すでにみたように「新唐書」では「天智」即位と記された後に「明年使者と蝦夷人が偕に朝でる」とされています。

「…其子天豐財立。死,子天智立。明年,使者與蝦蛦人偕朝。蝦蛦亦居海島中,其使者鬚長四尺許,珥箭於首,令人戴瓠立數十歩,射無不中…」(新唐書

 この記事によれば「蝦夷」の居住する地域について「海島」と記され、また「ロビンフッド」のように瓠を載せて(多分頭に)数十歩離れたところから矢を放って外すことがなかったとされています。この記事と「伊吉博徳書」に書かれた記事を見比べると実は全く異なる事が解ります。
 「新唐書」の記事では「蝦夷」は「海島」にいるとされますが、「伊吉博徳書」では三種いるとされる「蝦夷」のうちこれは「熟蝦夷」であるとされ、最も近いところの人達であるように書かれており、食い違っています。

「(斉明)五年(六五九年)秋十月卅日。」「天子問曰。此等蝦夷國有何方。使人謹答。國有東北。天子問曰。蝦夷幾種。使人謹答。類有三種。遠者名都加留。次者麁蝦夷。近者名熟蝦夷。『今此熟蝦夷。毎歳入貢本國之朝。』天子問曰。其國有五穀。使人謹答。無之。食肉存活。天子問曰。國有屋舎。使人謹答。無之。深山之中止住樹本。天子重曰。脱見蝦夷身面之異。極理喜恠。…」(「斉明紀」「伊吉博徳書」より)

 この「蝦夷」については上の記事の直前に「仍以陸道奥蝦夷男女二人示唐天子」とあり、「陸奥」の蝦夷であることが記されていますが、それがまた「熟蝦夷」でもあるということとなります。しかし「新唐書」では「蝦蛦亦居海島中」とあり「倭国」がそうであったように「蝦蛦」もまた「海島」に居住しているとされているわけです。そうすると「陸奥」に「海島」があったこととなってしまいますが、それは不審といえるでしょう。(この海島を日本列島のことと理解する考え方もあるようですが、この文章の「亦」とは「日本」と同様彼らも「海中」の島に住んでいる、という意味で書かれていると理解すべきでしょう。)
 たとえばこの「海島」が「佐渡」であるとするような解釈をしない限りは この「海島」が「北海道」を指すという可能性は高いものと思料します。
 『書紀』の神代巻を見ても国生み神話の中に「佐渡」が登場しており、このことから「佐渡」は早くから「倭人」の居住する地域であったか、あるいはここに「蝦夷」がいたとしても相当早期に帰順した地域であると思われ、この「七世紀」と云う時代にまだ「蝦夷」の範疇に入れられていたとは考えられません(そもそも「佐渡」は「陸奥」ではありませんし)。そうであれば他に「島」に住む「蝦夷」という形容の可能性があるものは「北海道」しかないのではないでしょうか。しかし「北海道」であるとすると「陸奥」のさらに向こう側であり、「新唐書」の「蝦夷」は最も遠い場所の種である「都加留」と呼ばれる種族であった可能性が高いと思われることとなり、少なくとも「熟蝦夷」ではないと思われるわけです。
 またこの「伊吉博徳書」や同じ時に派遣された「難波吉士男人」の「書」にも「向大唐大使觸嶋覆。副使親覲天子。奉示蝦夷。於是蝦夷以白鹿皮一。弓三。箭八十。獻于天子。」とあり、「蝦夷」が同行したことは確かであると思われるものの、「弓矢」で「瓠」を射るようなデモンストレーションについての記事が全くありません。これはかなり衆目を集める記事ですからもし行われたなら両者ともそれを記録しなかったはずがないと思われます。
 このように考えると「新唐書」の記事と「伊吉博徳書」とは全く別の時点の記事である可能性が高いと思われ、「蝦夷」が唐へ赴いた時期にはやはり前後二つの時期があったこととなるでしょう。

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「此後遂絶」以降(一)

2015年05月22日 | 古代史

  「朔旦冬至」という現象は旧暦十一月一日の日の出の時刻に冬至となるというものであり、このような「天体の運動」に関する事も「皇帝」の支配下にあるという中国の伝統的考え方によって「皇帝」の権威を示すものとされていました。加えて、その「章」の期間である「十九年」という年数が「皇帝」の治世と絡めて考えられていたものであり、新しい「章」の始まりはその皇帝の「治世」がまた改めて始まるということを示すものとされ重要視されていたものです。
 『書紀』の「六五九年」の年次に「伊吉博徳」が参加した「遣唐使」記事があり、そこに彼が書いた「記録」からの引用と思われる文章には「唐」の「宮中」(洛陽)で「冬至之會」が行われていたことが書かれています。この年は確かに「朔旦冬至」の年であったことから、この「冬至之會」もかなり大々的に行われたものと見られ、「伊吉博徳」等の「遣唐使」もこの「冬至之會」への参加を目的として派遣されたものと見られます。(前述)
 「伊吉博徳書」からの引用では「所朝諸蕃之中。倭客最勝。」とありますから、この時宮中にかなりの遠方からの客が集まっていたことを推定させるものであり、「唐王権」からそのような化外諸国に招請があったことが推定出来ます。遠方の夷蛮の国々が参列していることは王権にとって支配・統治の有効性をアピールするまたとない機会ですから、このようなビッグイベントには必ず参加するべしと言う号令がかかったものと推量します。
 そう考えると、当時の「倭国」においても同様に「朔旦冬至」に政治的意義を与えていたとして不思議とはいえないこととなるでしょう。

 ところで 伊勢神宮の「式年遷宮」は二〇一三年に行われており、それまで二十年に一度遷宮が行われ続けてきたと理解されています。確かに『皇太神宮雑記帳』などを見ると「二十年に一度」という文言が確認できますが、実体は少々異なります。記録(『太神宮諸雑事記』)を見ると鎌倉時代までは実は「十九年に一度」の遷宮であったのです。この「十九年」という年数は明らかに「太陰暦」における「朔旦冬至」から次の「朔旦冬至」までの期間である「章」の期間を示すものです。
 「式年遷宮」の当初においては「章」の期間が意識されていたことは確実であると思われますが、そうであれば単に「十九年」という年数だけではなく、「朔旦冬至」の年次が意識され盛り込まれていなければならないはずです。なぜなら「章」は「朔旦冬至」で始まるものであり、「章」の期間を意識して「朔旦冬至」を意識しなかったとは考えにくいからです。しかし「式年遷宮」の確実な最初の年次は「持統四年」とされており、これは「六九〇年」と考えられていますから、どのような暦を考えても「朔旦冬至」の年ではありません。またそれ以降の「遷宮」も同様に「朔旦冬至」とは異なる年次に行われているように見えます。これは不審といえるものです。
(以下『神道史大辞典』(吉川弘文館)による「式年遷宮」の記録)

① 持統四年(六九〇)/② 和銅二年(七〇九) 十九年/③ 天平元年(七二九) 二十年/④ 天平十九年(七四七) 十八年/⑤ 天平神護二年(七六六) 十九年/⑥ 延暦四年(七八五) 十九年/⑦ 弘仁元年(八一〇) 二十五年/⑧ 天長六年(八二九) 十九年/⑨ 嘉祥二年(八四九) 二十年/⑩ 貞観十年(八六八) 十九年/⑪ 仁和二年(八八六) 十八年/⑫ 延喜五年(九〇五) 十九年

 この「式年遷宮」が「朔旦冬至」と関係しているというのは諸氏によって指摘されており、「十九年」という「エネルギーサイクル」の起点が「朔旦冬至」であり、この「朔旦冬至」から次の「朔旦冬至」までを「霊的エネルギー」の有効期間と見ている見解が多数です。その意味からも最初の「遷宮」とされる「持統」以降「朔旦冬至」ではない年に「式年遷宮」を行っているのは「不合理」であり、そのような理論とは整合しない事態となっているのです。

 「唐」では「武徳二年」(六一九年)に「戊寅元暦」が「唐」の正式な暦となりました。この時点以降「倭国」は「遣唐使」を派遣しており、この「戊寅元暦」を学んでいたものと思われます。
 「倭国王」の権威を示す意味からも(「章」の持つ意義から考えて)この「朔旦冬至」となる年次を選んで何らかのイベントが行われたと見るべきであり、それが「式年遷宮」であったものと推定され、本来的にいえばどこかの「朔旦冬至」の年に「式年遷宮」の第一回が行われたと見るべきこととなります。
 その意味では「朔旦冬至」の年次群の中では特に「六四〇年」という年次が注目されます。なぜならこの年次はその「冬至」の日の干支が「甲子」であるという「甲子朔旦冬至」という非常に稀なものでした。
 「甲子」は「暦」の(六十個ある干支の組み合わせの順列においての)「始まり」であり、そのことから「皇帝」の「治世」の始まりと関連して考えられ、特別な意味合いを持たされていたのです。そう考えれば(少なくとも「唐」においては)この年次において「冬至之會」を(六五九年と同様)行っていたものと考えるべきでしょう。これについては「旧唐書」「新唐書」とも「有事於南郊」、「有事于圓丘」という表現で「冬至」の「祭天」そのものの実施は書かれているものの、国家的イベントとして諸国から使者を招請したとは書かれていません。

「(貞観)十四年十一月甲子,有事于南郊。」(新唐書)

「(貞観)十四年十一月甲子朔,日南至,有事于圓丘。」(旧唐書)

 一見「冬至之會」に関する大きな催しがあったとは見られないわけですが、それは「六五九年」の「冬至之會」についても同様であり、「東都」への移動については記事があるもののその目的や諸国からの招請などはやはり記事がありません。
 しかし「伊吉博徳」の記録からこの時「冬至之會」がかなり大々的イベントとして行われていたことが明らかとなっているわけですから、「太宗」時代の「朔旦冬至」についても同様にビッグイベントとして行われたと見るのは不自然ではありません。(ただし「洛陽」ではなく「長安」で行われたと見られます。)
 ただし「資治通鑑」によればこの時の「十一月朔」の干支は実際には「甲子」ではなくその一つ前の「癸亥」であったとされており、それを「人為的」に「冬至」の干支である「甲子」に合わせたとされています。

(『資治通鑑』貞観十四年(庚子、六四〇))「十一月,甲子朔,冬至,上祀南郊。時戊寅暦以癸亥爲朔,宣義郎李淳風表稱:「古暦分日起於子半,今歳甲子朔冬至,而故太史令傅仁均減餘稍多,子初爲朔,遂差三刻,用乖天正,請更加考定。」衆議以仁均定朔微差,淳風推校精密,請如淳風議,從之。」

 この文章からは元々の「戊寅元暦」では朔が「癸亥」であったが、「冬至」が「甲子」であったので、これに合わせたという趣旨と思われます。現在残っている「戊寅元暦」のデータで計算すると「十一月朔」は「甲子」となりますが、これは後に「データ」を修正したためらしく、この「六四〇年」段階では「甲子」ではなかったらしいことが読み取れます。このような人為的な「朔干支」の改変(暦の修正)を行った理由としては「甲子朔旦冬至」という希有な日を創出する意義があったものと思われ、「冬至」の儀式をより重要なものとして意味づける意識が見受けられるものです。これはこのときにも「冬至之會」が(しかも大々的に)行われた可能性を示唆するものです。

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