古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「倭国」と「俀国」

2015年05月24日 | 古代史

 『隋書』の成立過程には疑問があるということをすでに述べました。そこで問題となったのは「大業年間」の「皇帝」の言動を記した「起居注」が「初唐」段階で「宮中」の「書庫」になかったことです。
 そのような中で「高祖」そして「太宗」と二代にわたり『隋書』編纂命令が出ていたわけであり、この指示は当然のこととして「絶対」であり、必ず完成させ上程する必要があったものです。このような状況の中では利用できるものは全て利用するという姿勢であったことと推察されますが、その段階で最も利用されたであろう史料が「王劭」が私的にまとめていた「開皇」「仁寿」両年間の「文帝」に関する「史料」です。

(「隋書/宋天聖二年隋書刊本原跋」 より)
「隋書自開皇、仁壽時,王劭為書八十卷,以類相從,定為篇目。至於編年紀傳,並闕其體。…」

 つまり彼の撰した「隋書」は「開皇」「仁寿」年間に限定されたものであったものの、利用できる史料の中ではトップクラスに正確性が高かったものと思われ、これを相当程度取り込んで『隋書』は書かれたものと推定されるわけです。
 このことは「王劭」が書いていたという「開皇」「仁寿」年間についての「隋史」がこの「日出処の天子」と書かれた国書持参記事に利用された可能性が考えられるものですが、それを傍証するのが「帝紀」には「倭」とありながら「列伝」の方では「俀」国伝になっているという違いです。この差は明らかに「原資料」の素性(出所や性格)の違いに起因するものであり、「倭国」に関する資料に複数の出典が想定されることを意味するものです。
 これに関しては「倭」と「俀」が別の国を指すという「古田氏」を初めとする「多元史観論者」の主張がありますが、『隋書』に記事の転用・移動があるとする立場からは即座には同意しかねます。もしそうなら「帝紀」と「列伝」というそれぞれに「倭」と「俀」の双方について偏って存在することの意味を説明する必要があるでしょう。(ただしそれは(「倭」と「俀」は単純に互換の語であるとする旧来の立場についても同様にいえることですが)
 「古田氏」はこれについてその書「失われた九州王朝」において「列伝」と「帝紀」の記事の時間差に注目し、その二つが接近していることからこれらを同一の国と見る事はできないとされました。つまり「帝紀」によれば「大業四年三月」に倭国からの「朝貢記事」があるのに対して「列伝」(俀国伝)ではその前年に遣隋使が送られており、それに応えて「裴世清」が派遣されたのがその翌年のこととなるとされますから、非常に短期間(数ヶ月か)のうちに別に「使者」を派遣したこととなり、そのような想定は無理があるとされるわけです。
 しかしこれは「帝紀」と「列伝」の年次が実際に接近していたという想定の下の判断であり、すでに述べたように「列伝」記事(少なくとも「俀国伝」記事)は実際にはもっと遡上した時期のものであり、「帝紀」の記事とは年次がかなり離れているとみた場合それらは「矛盾」ともいえなくなるわけであり、その意味で「倭」と「俀」が同一の国ではないと考える必要もなくなるわけです。
 そう考えると「俀」と「倭」は同じ国を指すという可能性が高くなるわけですが、その場合「王劭」が書いていた「隋史」が「列伝」の資料として参考にされたと見ると、彼はわざわざ「歴史的」な地域名である「倭」を敢えて「俀」に変えて「隋史」を書いていたこととなります。その意図はどこにあったのでしょうか。それは彼が熱烈な「文帝」の崇拝者であったらしいことが関係していると思われます。
 彼は「文帝」が即位した後「文帝」を「聖皇帝」であると賞賛し、各地で見られた現象を全て「文帝」に関わる「瑞祥」であるというように幾度も「上表」したものです。さらに「舍利感應記」を書き、その中では「文帝」を「仏教」を再興した聖天子であるとするなど賞賛の言辞で埋め尽くされています。
 その彼にとって見ると「文帝」に対して「身の程知らず」の言辞を弄し、その結果「宣諭」されることに至った「倭国」を、「漢」や「魏晋」から正統な王朝と認められていた伝統と名誉のある「倭国」と同一の扱いをすることはできないと考えたとしておかしくはなく、「俀国」という一見互換性のある語を使用しつつもそこに「弱い」という意を含んだものをあたかも「レッテル」の如くに貼り付ける行為に及んだものと考えることができるでしょう(元々「倭」にも「従順」という意があったものであり、また「弱い」という意味もその中に含んでいたものと思われますが、それをことさらに強調するための選字と思われます)。
 しかし「帝紀」(得に「煬帝紀」)はその元となった情報がすでに公になっていた情報の方が多かったと思われるため「王劭」の関与したものに多くは依存していないという可能性があり、そのため「大義名分」を「王劭」ほど重視しなかったということが考えられ、通常通り「倭」という表記で資料が書かれていたものと推量されます。このような事情により「不統一」な状況が発生したものと推量されるわけです。

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「東都」と「東京」

2015年05月24日 | 古代史

 「遣隋使」の真の派遣時期について、以前考察しました。その中では『隋書』の編纂過程に疑問があり、『隋書』(特に「大業年間」記事)について、「開皇」「仁寿」年間の記事を転用しているという可能性を指摘しました。それを示唆する「論理」を「伊吉博徳書」の中に見いだしたのでご紹介します。

 『書紀』の「斉明紀」に「伊吉博徳」という人物の「遣唐使」として派遣された際の「日記風」の記録が引用されています。そこに「東京」という表現が出てきます。

「(斉明)五年(六五九年)…秋七月丙子朔戊寅。遣小錦下坂合部連石布。大仙下津守連吉祥。使於唐國。仍以陸道奥蝦夷男女二人示唐天子。伊吉連博徳書曰。同天皇之世。小錦下坂合部石布連。大山下津守吉祥連等二船。奉使呉唐之路。以己未年七月三日發自難波三津之浦。八月十一日。發自筑紫六津之浦。九月十三日。行到百濟南畔之嶋。々名毋分明。以十四日寅時。二船相從放出大海。十五日日入之時。石布連船横遭逆風。漂到南海之嶋。々名爾加委。仍爲嶋人所滅。便東漢長直阿利麻。坂合部連稻積等五人。盜乘嶋人之船。逃到括州。々縣官人送到洛陽之京。十六日夜半之時。吉祥連船行到越州會稽縣須岸山。東北風。々太急。廿二日行到餘姚縣。所乘大船及諸調度之物留着彼處。潤十月一日。行到越州之底。十月十五日乘騨入京。廿九日。馳到『東京』。天子在『東京』。…」(斉明紀)

 この「東京」とは「洛陽」を指す表現ですが、この表現は「後漢」が「洛陽」を都として以来連綿として続いていたものです。しかし「隋代」に「煬帝」によって「東都」と改称されました。

「(大業)五年春正月丙子,改東京為東都。…」(『隋書』/帝紀第三/煬帝 楊廣 上)

 これによれば「洛陽」は「煬帝」によって「東都」と改称されたものであり、それは「大業五年」のことであったこととなります。更にこの「東都」はその後も継続して使用され、「唐代」(七四二年)に「玄宗皇帝」によって「東京」と旧名に戻されるまで一三〇年余りに亘って使用されていました。

「(天寶元年)二月…丙申,合祭天地于南郊。制天下囚徒,罪無輕重並釋放。流人移近處,左降官依資敍用,身死貶處者量加追贈。枉法贓十五疋當絞,今加至二十疋。莊子號為南華真人,文子號為通玄真人,列子號為沖虛真人,庚桑子號為洞虛真人。其四子所著書改為真經。崇玄學置博士、助教各一員,學生一百人。桃林縣改為靈寶縣。改侍中為左相,中書令為右相,左右丞相依舊為僕射,又黃門侍郎為門下侍郎。東都為『東京』,北都為北京,天下諸州改為郡,刺史改為太守。…」「『舊唐書』/本紀第九/玄宗 李隆基 下」

 このような中で「高宗」の代の「唐」に派遣された「伊吉博徳」は「洛陽」に対して「東京」という呼称を使用しているのです。つまり「伊吉博徳」の常識として「洛陽」は「東京」であったものであり、「東都」という名称に対する認識がなかったこととなります。
 彼の「中国」に対する知識と教養はそれまでの「隋」「唐」との交流の中で形成されたと見るべきですから、「煬帝」が「東都」と改称した「大業五年」以降の「洛陽」に対する知識が彼にはなかったこととなってしまいます。しかし『隋書』では「大業六年」に「倭国」からの使者が朝貢に訪れたことが書かれています。

「(大業五年)十一月丙子,車駕幸東都。」
「六年春正月癸亥朔,旦,有盜數十人,皆素冠練衣,焚香持華,自稱彌勒佛,入自建國門。監門者皆稽首。既而奪衞士仗,將為亂。齊王暕遇而斬之。於是都下大索,與相連坐者千餘家。丁丑,角抵大戲於端門街,天下奇伎異藝畢集,終月而罷。帝數微服往觀之。 己丑,倭國遣使貢方物。
」(いずれも『隋書』/帝紀第三/煬帝 楊廣 上)

 このように「大業六年正月」に「倭国」から使者が訪れたように書かれていますが、この記事の流れからはこの時「煬帝」は確かに「東都」にいたものであり、「倭国」からの使者も「東都」であるところの「洛陽」を訪れたものと推察できます。そうであるならその後の「遣唐使」である「伊吉博徳」が「東都」といわず「東京」と称していることは矛盾といえるでしょう。

 『書紀』の信憑性とは別の次元のこととして「伊吉博徳書」は考える必要があり、この「伊吉博徳書」は伝聞ではなく彼自身が見聞した実体験に基づいている点などを考えると信憑性としては高いものと推量されますから、ここで「東京」と書かれている意味はかなり重大であると思われます。そのことからの帰結として、「遣隋使」及び「遣唐使」はまだ「東京」と称していた時代以外には「洛陽」を訪れていないという可能性が考えられることとなるでしょう。
 確かに「遣唐使」はこの「伊吉博徳」達の場合を除き基本的には「長安」を目的地としていたと見られ、「洛陽」には行っていないと見られます。しかし上に見るように「遣隋使」は「東都」と改称して以降の「洛陽」を訪れているようですから、ここで「洛陽」が「東京」から「東都」と改称されたという情報を入手できた可能性が高いと思われます。そう考えると、「伊吉博徳書」と矛盾することとなるわけですが、当然それはどちらか(「伊吉博徳書」と『隋書』のいずれか)に問題があることを示唆するものであり、上に縷々述べた推論から行くとそれは『隋書』側であるという可能性が高いことを示します。
 つまり「大業六年」の「倭国記事」は信頼できないこととなるわけです。その意味ではこれを含め「帝紀」における「倭国」記事も「俀国伝」同様「年次移動」されているという可能性があることとなります。
 「俀国伝」については「応劭」によって書かれた「隋史」がそこに大きく反映していると考えたわけですが、「帝紀」についても「大業年間」の記録はやはり不審があるわけであり、特に外国関係資料について情報が少なかった可能性が高いと推量します。その意味では「大業三年」のこととして書かれている「遣隋使」記事についてもその真偽(特に年次)については疑うべきものがあると思われるわけです。

 そもそも「倭国」からの使者は「北朝」のである「長安」には行ったことがなく、過去に経験があるのはずっと以前の「魏晋朝」時代の「卑弥呼」や「壹與」の頃に「洛陽」を訪れたものでした。後代の「五世紀」の「倭の五王」は「南朝」の「建康」へ行ったものであり、「洛陽」についての知識は「漢魏晋」以降新たに形成されることがなかったと思われるわけです。
 「遣隋使」も「呉唐の路」と称する「南朝」へ行くルートをさらに北方へ延伸したものを行路としていた模様であり、その行く先としては「洛陽」でしかなかったはずです。つまり「隋」に訪れた「倭国」からの使者は「洛陽」に(当然のように)赴いたものであり、その時点で「洛陽」は「東京」と称されていたものですから、それを「知識」として「遣隋使」は帰国したものと思われ、それを教養として共有していた「伊吉博徳」は「洛陽」を指して「東京」と称したと見られるわけです。
 ただし、「洛陽」がまだ「東京」と呼称されていた時点で「遣隋使」は「文帝」に対面したと推定されるわけですが、『隋書』によれば「文帝」は自ら築造を命じた「大興城」に多く滞在しており、「洛陽」にはあまり行っていないように見えます。その意味ではどの時点で「遣隋使」と会見を行ったかは現時点では不明です。推定では「洛陽」に来た「遣隋使」は「文帝」が「大興城」にいると聞いてそちらへ移動してその後「文帝」と接見できたという経緯があったものと思われるわけですが、少なくともこの時点で「洛陽」がまだ「東京」という呼称のままであったことを知識として習得して帰国したとみられるわけです。そしてそれが「伊吉博徳」の教養として身についていたと推定できることとなるでしょう。

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