『隋書』の成立過程には疑問があるということをすでに述べました。そこで問題となったのは「大業年間」の「皇帝」の言動を記した「起居注」が「初唐」段階で「宮中」の「書庫」になかったことです。
そのような中で「高祖」そして「太宗」と二代にわたり『隋書』編纂命令が出ていたわけであり、この指示は当然のこととして「絶対」であり、必ず完成させ上程する必要があったものです。このような状況の中では利用できるものは全て利用するという姿勢であったことと推察されますが、その段階で最も利用されたであろう史料が「王劭」が私的にまとめていた「開皇」「仁寿」両年間の「文帝」に関する「史料」です。
(「隋書/宋天聖二年隋書刊本原跋」 より)
「隋書自開皇、仁壽時,王劭為書八十卷,以類相從,定為篇目。至於編年紀傳,並闕其體。…」
つまり彼の撰した「隋書」は「開皇」「仁寿」年間に限定されたものであったものの、利用できる史料の中ではトップクラスに正確性が高かったものと思われ、これを相当程度取り込んで『隋書』は書かれたものと推定されるわけです。
このことは「王劭」が書いていたという「開皇」「仁寿」年間についての「隋史」がこの「日出処の天子」と書かれた国書持参記事に利用された可能性が考えられるものですが、それを傍証するのが「帝紀」には「倭」とありながら「列伝」の方では「俀」国伝になっているという違いです。この差は明らかに「原資料」の素性(出所や性格)の違いに起因するものであり、「倭国」に関する資料に複数の出典が想定されることを意味するものです。
これに関しては「倭」と「俀」が別の国を指すという「古田氏」を初めとする「多元史観論者」の主張がありますが、『隋書』に記事の転用・移動があるとする立場からは即座には同意しかねます。もしそうなら「帝紀」と「列伝」というそれぞれに「倭」と「俀」の双方について偏って存在することの意味を説明する必要があるでしょう。(ただしそれは(「倭」と「俀」は単純に互換の語であるとする旧来の立場についても同様にいえることですが)
「古田氏」はこれについてその書「失われた九州王朝」において「列伝」と「帝紀」の記事の時間差に注目し、その二つが接近していることからこれらを同一の国と見る事はできないとされました。つまり「帝紀」によれば「大業四年三月」に倭国からの「朝貢記事」があるのに対して「列伝」(俀国伝)ではその前年に遣隋使が送られており、それに応えて「裴世清」が派遣されたのがその翌年のこととなるとされますから、非常に短期間(数ヶ月か)のうちに別に「使者」を派遣したこととなり、そのような想定は無理があるとされるわけです。
しかしこれは「帝紀」と「列伝」の年次が実際に接近していたという想定の下の判断であり、すでに述べたように「列伝」記事(少なくとも「俀国伝」記事)は実際にはもっと遡上した時期のものであり、「帝紀」の記事とは年次がかなり離れているとみた場合それらは「矛盾」ともいえなくなるわけであり、その意味で「倭」と「俀」が同一の国ではないと考える必要もなくなるわけです。
そう考えると「俀」と「倭」は同じ国を指すという可能性が高くなるわけですが、その場合「王劭」が書いていた「隋史」が「列伝」の資料として参考にされたと見ると、彼はわざわざ「歴史的」な地域名である「倭」を敢えて「俀」に変えて「隋史」を書いていたこととなります。その意図はどこにあったのでしょうか。それは彼が熱烈な「文帝」の崇拝者であったらしいことが関係していると思われます。
彼は「文帝」が即位した後「文帝」を「聖皇帝」であると賞賛し、各地で見られた現象を全て「文帝」に関わる「瑞祥」であるというように幾度も「上表」したものです。さらに「舍利感應記」を書き、その中では「文帝」を「仏教」を再興した聖天子であるとするなど賞賛の言辞で埋め尽くされています。
その彼にとって見ると「文帝」に対して「身の程知らず」の言辞を弄し、その結果「宣諭」されることに至った「倭国」を、「漢」や「魏晋」から正統な王朝と認められていた伝統と名誉のある「倭国」と同一の扱いをすることはできないと考えたとしておかしくはなく、「俀国」という一見互換性のある語を使用しつつもそこに「弱い」という意を含んだものをあたかも「レッテル」の如くに貼り付ける行為に及んだものと考えることができるでしょう(元々「倭」にも「従順」という意があったものであり、また「弱い」という意味もその中に含んでいたものと思われますが、それをことさらに強調するための選字と思われます)。
しかし「帝紀」(得に「煬帝紀」)はその元となった情報がすでに公になっていた情報の方が多かったと思われるため「王劭」の関与したものに多くは依存していないという可能性があり、そのため「大義名分」を「王劭」ほど重視しなかったということが考えられ、通常通り「倭」という表記で資料が書かれていたものと推量されます。このような事情により「不統一」な状況が発生したものと推量されるわけです。