古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「馬具」の法量等の変遷と「倭王権」

2018年03月18日 | 古代史

 有名な「倭の五王」の一人である「武」の上表文では「駆率」という言葉が使われています。

「…臣雖下愚、忝胤先緒、驅率所統、歸崇天極、道遥百濟、裝治船舫。…」

 「駆率」する、とは馬に乗って(軍を)率いることが本来の語義です。馬については「四世紀」に百済から持ち込まれたのが最初とされています。
 それは「応神天皇の頃とされ、『書紀』にも以下のように記事があります。

「(応神)十五年秋八月壬戌朔丁卯条」「百濟王遣阿直岐。貢良馬二匹。即養於輕坂上厩。因以以阿直岐令掌飼。故號其養馬之處曰厩坂也。…」

 この「応神天皇」の頃というのは「倭の五王」の最初の王である「讃」の頃を指すものと思料され、「四世紀末」に「百済」と友好を結んだ時の前後に列島に導入されたもののようです。これは「百済王」からもたらされた「親善」のための贈呈品であったものでしょう。そしてこれ以降「馬」は「王」の乗り物となったと考えられます。「武」もこれに乗って陣頭指揮していたものでしょう。つまり、「駆率」する、と言うのは「慣用表現」でも「誇張表現」でもなく、実態にあった用語と考えられます。

  「馬」については、従来は少数ながら以前(弥生)から国内にもいたという考え方もありましたが、現在は遺跡から出た「骨」を「フッ素分析法」などの科学的方法などにより検証した結果、別の動物の骨らしいことが判明し、それ以外についても「後代」の混入と言う可能性が否定できないものばかりであり、「古墳時代」まで国内には存在していなかったというのが正しい考え方のようです。
 その最古の遺跡(骨)は「宮崎」県の遺跡から出土しており、その後「肥後」からもかなりの数が出土するようになります。
 また「馬具」についても最古のものはやはり「九州」であり(福岡県甘木市の池の上墳墓6号墳など)、遅くても「五世紀初頭」のものであると言われています。
 このように、古代の「馬」と「馬具」分布中心は「九州」にあったことが判明しています。

 そして重要なことは古墳時代(つまり「倭の五王」の時代)を通じて全国の古墳から出土する「馬具」はほぼ同じ形式であったことです。その理由として以前は「文化」が伝搬されたということを考えていたものです。つまり、「国」から「国」へ「地域」から「地域」へと「文化」(つまり、馬とその馬具や乗馬法など)が「人から人へ」間接的に伝わっていったものとして考えていましたが、そう考えるには困難がありました。それは「伝搬」に時間が掛かっていないように見えることです。
 「統一政権」がまだ出来ていない、あるいはその過程にある、という段階では、「文化」あるいは「情報」の伝搬というものは現代の私たちの想像以上に時間が掛かるものですが、遺跡などから判断して、この「馬具」の形式というものは「一世代」ないし「二世代」のうちに各地に伝搬している事が推測され、このことから現在では「馬を操る集団」そのものが移動した、という考え方の方が主流を成しているようです。
 この事と「倭の五王」による国内統一と云うものが重なっているのは間違いないところであり、「軍事力」の中心に「騎馬集団」(「騎馬民族」ではない)がいたものと考えられます。
 ギリシャ神話の「ケンタウロス」は「馬に乗った種族」を「半人半馬」という風に表現されたものと思われ、これは「騎馬」勢力を初めて見たような人たちの「驚異」を表す伝説であるとも言えるわけですが、このような「圧倒的」とも言える「武力」の差を背景として、「倭国王権」は列島各地に「武装植民」を果たし、その勢力を広げていったものと考えられます。
 
 また、この諸国への「騎馬集団」の展開と配置ということに関連して、「轡(くつわ)」と「引き手」の長さなど、馬具の寸法の変遷の研究が注目されます。(※)
 「古墳」などから確認される「轡」及び「引き手」の長さについて各地のものを相互に比較してみると、「当初」(五世紀初め)かなりばらついていた「馬具寸法」はその後「六世紀後半」になると(「筑紫」を除き)全国でほぼ一定の長さに規格化されたこととが確認されています。これは各地域でバラバラに作っていたものが生産地域が集約され、そこで一括して生産しそれを各地に分配するようになっていたらしいことを示すと考えられます。これは「筑紫」を除いてと云うことからもは当然「筑紫」ではない地域で生産されるようになったものであり、それは「難波」ではなかったかと考えられますが、それはこの時点付近で「難波」に前進拠点ができたらしいと推定されることと符合します。 また、それと同時に、使用する「尺」がこの時点で「規格化」され統一されたことを示すとも考えられるものです。
 このことは「馬具全体」の傾向とも一致するものであり、上に述べた「騎馬集団」の全国展開というものが短期間に行なわれたことの裏返しであり、その間は「後方支援」が行き届かずその間の「馬具生産」や「補修」は現地で全て賄っていたと云うことを示すと思われます。これはひとつには、地方においても「鉄」を「鍛造」したり「精錬」するなどのことができるようになったからであり、それを示すように近畿など各地から「鉄」材や「剣」の出土が大量に増加することが確認されています。(これは「屯倉」の成立と関係していると思われます。)

 その後「支配」が安定すると「後方支援」の体制が整ったものと思われ、「馬具」などについても「集約」して生産が行なわれるようになったものであり、その結果サイズ等がほぼ同一となっていったことを示すと思われます。
 他方、その「六世紀後半」という時点で、「筑紫」地域と他の地域とで「寸法」の差が大きくなっているという事実はどのように考えるべきでしょうか。これはこの時点以降「筑紫」とそれ以外の地域というように国内がほぼある基準で「二分」されたと見て取れます。
 これは明らかに「筑紫」とそれ以外の地域(これは集約された場所である「近畿」と思われる)とで別々に生産を始めた結果、違う寸法が採用されるようになったと言うことを示すと考えられますが、「引き手」の長短は「馬」の操縦の自在性と関係しており、「早足」や「左右」への速い動きなどを馬に指示する場合基本は引き手が短い方がより細かく制御できるとされます。(競馬の騎手などが典型的です)
 「筑紫」など「西日本」でそれが長いのは、「戦闘行動」というより既に「馬」が「儀式用」あるいはせいぜい「示威行動」のためのものとなっていたことを示すものであり、またそれが「東国」では短いのは、実際に「戦闘」に馬が使用され、野山を駆け巡っていたことを示すと考えられます。
 これらの違い(変化)は「倭国王」の「権威」を諸国に拡大する過程をそのまま写したものと考えられ、「西日本」がまず制圧され、戦闘行動が停止された後、東国への統治が実際化していったことを示すと考えると整合すると思えます。

 この「法量」の違いを「異なる政治圏」の徴証と考えると、この「六世紀後半」という時点では「近畿王権」は「九州をその支配下においてはいなかった」と言うことになってしまいかねません。(前方後円墳についても同様です)
 他方、「九州王朝説」で言えば、この「六世紀後半」という時期は一旦「筑紫周辺」に押し込められていた「倭王権」が「筑紫」に新たな「都城」を造ると共に、「難波」に「前方拠点」を造った時期に相当すると考えられ、列島全体に対する再統治を開始したことを示すと思われます。そして、その時点で「筑紫」という「倭国中央」と、「諸国」としての「他地域」という様に「政治的」にも「大別」されるようになったものと考えられるわけです。さらに、それは「皇帝」(天子)自称という政治的動きにつながっているものと考えられ、「倭国王」直轄領域と「諸国」という「区別」が明確となった時期でもあったと思われます

(※)田中由理「日本・韓国出土轡の法量比較検討 -轡と引き手の長さに注目して-」大阪大学リポジトリ二〇〇七年十二月


(この項の作成日 2011/10/31、最終更新 2018/01/27)(ホームページより転載)

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「倭王権」と「肥」の国

2018年03月18日 | 古代史

 「倭の五王」の一人である「武」はその上表文の中で、以下のように言っています。

「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国。王道融泰にして、土を廓(ひら)き畿を遐(はるか)にす。」

 この中の「東」と「西」については説が各種あるようですが、明らかに「南朝皇帝」の目から見てのものではありません。この中で「南朝皇帝」の視点からの記述(用語)として使用されているのは「衆夷」と「毛人」という用語だけです。
 「衆夷」というのは「南朝」から見て「列島」の西側のことを指し、ここは「南朝」から見て「近い方」に当たります。そしてその遠方に「毛人」がいてそこはこの国の「東側にある」と言っているのです。この主張を踏まえたのが後の『旧唐書倭国伝』です。ここでは倭国の領域を示した後その領域の外(東側)に「毛人」の国がある、といっています。
 また、倭王「武」の上表文の中には「廓土遐畿」(土地を開拓し、畿(都)の範囲を広げた)という文章があります。これは「自分たちのいる場所」(衆夷)は元々南朝の皇帝の「都」の範囲でしたが、「毛人」の領域もその勢力範囲に入りました、ということを言っていると考えられます。
 つまり、南朝の皇帝から見て近いところにいる人々(自分たちを含めた領域にいる人々)が「衆夷」であり、それより遠方に「毛人」がいる、といっているのです。
 ここでいう「衆夷」とは主に「西海道」の領域を指すと考えられ、「毛人」は近畿以東(関東までを含む)の地域を指すと考えられます。この「衆夷」とか「毛人」というのは中国史書には既出であり、「南朝皇帝」にとっては見慣れた用語であったと思われます。このような用語を使用することで、どのあたりを征服したのかイメージさせるために使用していると思われます。

 この時の「倭の五王」は「倭国本国」の領域拡大と「附庸国」の拡大増加を目指していました。「倭国本国」の領域を拡大する、ということは基本的に「隣接」領域を「編入する」ことを基本としており、一部遠隔地でもそこを直轄地として本国に編入する、という形で「本国」領域の拡大を行ってきたものです。
 これとは別に隣接地以外の一般的な遠隔地を「附庸国」として、「倭国王権」の「大義」を認めさせ、貢納を要求し、「臣下」の立場を強制させました。そしてこの「直轄領域」と「附庸国」の差は「墓制」で分けられていたと思われます。
「直轄地」の場合「王」の一族の中からその国を支配する人物を充てるのが基本であったと思われ、その墓制は「王族」にだけ認められたような形態となったものと思われるのに対して、「諸国」を「附養国」とする場合はその地の有力者を「支配者」として認める政策がとられたものと思われ、「王族」に認められたような形態は許されなかったという可能性があります。(これは「墓制」だけではなく「葬送の儀式」などにも反映していたものと思われます。)これは通常の「肥後型古墳」(形と材料の統一)と「装飾古墳」の差となると考えられます。
 「直轄領域」には「装飾古墳」を認め、それ以外の一般附庸国には、一般的な「肥後型古墳」を許可あるいは強制したものではないかと推察されます。

 「装飾古墳」の分布は「九州」(薩摩を除く)及び「出雲」「東海」「常陸」が主要なものです。「肥後型古墳」はそれ以外の全国にありますが、周密なのは「近畿」です。
 また「附庸国」には、「主権」(自治権)を認めたものと考えられます。ちょうど「南朝」から「倭国」が「倭国王」の統治する領域、として「自治」を認められたものと同じ事を国内の「附庸国」に対して行ったわけです。その代わり「倭国王」の「権威」(大義名分)を認めること、これを強制しました。これを認めさせることで、例え「諸国」のうちに「強大な」ものが出現しても、「倭国王」に取って代わることはできないことを知らしめる意味があったと考えられます。

 熊本県玉名市(肥後)に「江田船山古墳」というものがあります。この古墳は五世紀末頃の古墳と考えられていますが、「百済」の「武寧王」とほぼ同じ「金王冠」や「装飾沓」など豪華な副葬品が出土したことで有名です。また岩戸山古墳等のように「武人」の姿をした「石人」に囲まれており、このような「石人」を伴う古墳としては「最古」のものと考えられています。これは「武寧王」が「百済王」であったのと同じ質と強さの王権がここにあったことを示唆するものであり、この「江田船山古墳」が「倭王権」の中心的権力者の墓である可能性が高いことを示します。
 つまり、「石人古墳」は「肥後」に始まり「筑後」に移り、消滅するのです。(ただし当時としてはいずれも「肥の国」の領域です)これは歴代の倭国王の首都が「肥後」であり(玉名付近か)、「磐井」に至って「筑後」に移ったと言うことを示していると考えられます。また、そのことが「筑紫」をその支配領域としていた「物部」と衝突する原因となったのではないかと思われます。

 また、この「江田船山古墳」からは「銘文」(不明確部分がかなり多数ありますが)を施した「鉄剣」が出土しています。また、この古墳は複数の人間が埋葬されていることが確認されており、主たる人物とそれに「陪葬」された人物であると思われます。この鉄剣が、どちらから出土したものかはまだはっきりしませんが、「陪葬」された副郭からである可能性が高いものと思われます。それは銘文によれば彼には「主人」がいるからです。その人物は「大王」と呼ばれ、かれはその人物に「曹典」(何らかの文官と思われます)として「奉事」していたもののようです。この「剣」はその事を自らの生前の業績として書いたものです。(「金王冠」と「装飾沓」は「主槨」からの出土と思われます。)
 
 彼は「埼玉稲荷山古墳」に葬られている人物と同様、「副郭」に「陪葬」されていたものと考えられ、「鉄剣銘文」に書かれた「大王」なる人物が「近畿王権」の人物であるとすると、「至近」の「主郭」に葬られている人物についての表記がないこととなってしまいます。これは「稲荷山古墳」の場合と同様明らかな「矛盾」と言えるでしょう。
 つまり「主郭」に眠っている人物が当然「大王」足るべき存在であったと考えるべきでしょう。つまり、この地域にかなり強い王権が存在していたことを示唆するものと思われます。それは彼の「職掌」を示すと思われる「曹典」という用語からも分かります。
 「武」やその前の「済」や「興」は「安東(大)将軍」という称号を南朝から授与されていましたが、そのような場合、その配下の人物にやはり南朝の制度に決められた官職(称号)を与えることを許可されていました。たとえば「宋書」には「(讃が)司馬曹達を遣わして表を奉り方物を献ず」とあり、讃はその配下に「司馬」の官職を持つ人物を従えていたようです。
 もちろん、南朝にない官職を与えることはいっこうに構わないわけであり、いずれの国でもその土地に以前からあった官職も存在しているものと考えられ、そのような官職に「典曹」というものがあったのではないかと考えられます。
 (この「典曹」は三国時代の「蜀」にあった官職名であり、それが「肥後」の王権で「官職名」として使われているのも非常に興味深いところです。)
 また、この場所の緯度が「北緯33度」であるのも重要であり、『延喜式』に書かれた「日の出」・「日の入り時刻」の舞台がこの付近であった可能性が考えられ、それが「王権」に関連したことと見れば、この「墓」の主が関与していると見ることもできるでしょう。


最終更新 2015/07/12(ホームページより転載)

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「関東王権」と「日本武尊」

2018年03月18日 | 古代史

 『書紀』の「日本武尊」説話をよく見ると、同じ関東の中でも「常陸」はもちろん「上総」「武蔵」「甲斐」でも全く戦闘シーンが出てきません。つまりこれらの地域はすでに安定支配領域であったこととなります。そして「未服」地域として「蝦夷」「越」「信濃」が登場しそこへの征服路は「碓氷峠」を越えていくルートが選定されています。この状況は明らかに「日本武尊」の本拠として「関東」が想定され、「関東」からその周囲に対して武力或は恫喝により支配地域を拡大させようとしているかに思えます。このようなことはここでいう「日本武尊」という人物が「倭国王権」から発せられた将軍などではなく(もちろん「近畿」の「王権」から発せられたものでもなく)、「関東」の王権に属する人物であることが推察されるものです。

 その「日本武尊」の出生時のエピソードとして次のような話が『書紀』に載っています。それによると皇后の出産時「景行天皇」が「臼」を背負って家の周りを回っていたところ一人目が生まれたのに続いて二人目が生まれ始めたので、(双子であった)歩き続けなければならなかったため怒りのあまり臼に向かって罵りの言葉を発した、ということからこの二人の皇子を「大碓の尊」及び「小碓の尊」と命名されたと伝えられています。(碓=臼)
 このように出産の際に亭主が石や臼を背負って家の周りを回る、というような風習は「栃木」や「茨城」に最近まで残っていてとされ、「北関東」の風習と考えられます。つまりこれは「関東」の権力者であった人物である「関東の大王」の生誕説話、伝承を反映していると考えられます。

 『書紀』編者かその材料提供者は、彼についての伝説的記憶を「日本武尊」の行動として記述することにより、「近畿」の権力者が「九州」や「関東」を征服したというイデオロギーを『書紀』に盛り込もうとしたと推測されるわけです。
 このように「関東」一円にはこの地域を制圧していた「大王」が存在していたようであり、「倭の五王」の存在が希薄です。この地域が独立性の高いことを推定させるものですが、しかし「常陸」の領域は別格です。ここには「装飾古墳」が存在しています。ここで見られる「文様」は九州で見られるものと「酷似」しており、関係性が高いのは明白です。
 この「類似」が「偶然」である、という「根拠」のない主張をする学者もいまだにいるようですが、もしそうなら、全国にかなりの数の「装飾古墳」が「満遍なく」あってしかるべきと考えられますが、「偏在」、つまり、大きく偏って存在しているわけであり、これは「筑紫」からの「伝搬」とか「系統発生」というようなとらえ方の他には有力な考え方はないものと思われ、それ以外の理解の仕方をする場合は「根拠」を示す必要があるのは当然と考えられます。単なる「偶然」で済ますわけにはいきません。
 さらに、「遺跡」から出土する「琴」についても「五弦琴」しか出土せず、「四弦琴」が存在していません。明らかに「関東の王権」の領域には属していないことがわかります。また、『常陸国風土記』も『筑紫風土記』の体裁や語句使用法などと非常によく似ており、明らかに「倭国王権」の影響が強く「直轄地」と言ってもいい状況であったと考えられます。
 その『常陸国風土記』というのは他の「郡風土記」と同様「元明天皇」の「風土記撰進の詔」により選定されたもののようですが、その中では「倭武天皇」という人物が登場し、「常陸」国内を巡行したとされています。
 従来はこの人物については「日本武尊」のこと、ないしはその投影であると考えられているようですが、当然上に見た「関東」の王である可能性をまず考える必要があるでしょう。
 『書紀』に見られる「日本武尊」は常陸からは陸路で蝦夷つまり福島以北の領域と思われる地域に遠征しているように書かれています。帰途も「常陸」からのものであり、「陸奥」と「常陸」の間の通行路について何も語りません。明らかにまだ安定した陸上路が開発されていなかったことを示しますが、他方「白川関」や「勿来関」が設置されたのは「五世紀初め」らしいことが「太政官符」から窺えます。

 承和二年(八三五年)の太政官符に、「白河」と「菊田」(これは別名「勿来」)の両関がその時点で既に四〇〇余年が経過していることが書かれていて、これを信憑すると「五世紀」の前半の創建が推定できるわけです。

「応ニ長門国ノ関に准ジ、白河・菊田両■(せき)ヲ勘過スベキ事。右、陸奥国ノ解ヲ得ルニイワク。旧記ヲ検スルニ、■(せき)ヲオキテ以来、今ニ四百余歳。」(太政官符「類聚三代格」)

 この記事と『書紀』の「日本武尊」の遠征説話は明らかに時代の位相が違うものです。「多賀城」でさえもその位置はほぼ海岸であり(今回の東日本大震災でも津波の被害を受けており、海の近くにあることによる弊害が出ています)、これは連絡ルートとして海上が想定できます。それに対し『古事記』における「倭建命」の行動はそれとやや異なります。
 『古事記』では「吾妻はや」と詠嘆した場所は「足柄」の「坂」であり、これは「東海道」の存在が前提です。

「自其入幸 悉言向荒夫琉蝦夷等 亦平和山河荒神等而 還上幸時 到足柄之坂本 於食御粮處 其坂神化白鹿而來立 爾即以其咋遺之蒜片端 待打者 中其目乃打殺也 故登立其坂 三歎 詔云阿豆麻波夜【自阿下五字以音】 故號其國謂阿豆麻也」(古事記中巻)

 『風土記』でも「足柄」の坂の向こう側を「吾妻」というとされています。つまり『風土記』と『古事記』は共通の地理的描写をしており、道路その他の交通インフラの整備段階として同時代的性質を感じます。それに対し『書紀』の時代的位相はそれ以前であることを示しており、古い時代の関東王朝の説話の流用が考えられるものです。そのことは古田氏が指摘したように『書紀』の「蝦夷」記事が実際には「関東王権」の説話の流用と考えられる以下の記事が存在している事からも明らかです。

『景行紀』には「日本武尊」が連れ帰った蝦夷達についての記事があります。

「(景行)五十一年…秋八月己酉朔壬子、立稚足彦尊、爲皇太子。是日、命武内宿禰、爲棟梁之臣。初日本武尊所佩草薙横刀、是今在尾張國年魚市郡熱田?也。於是、所獻神宮蝦夷等、晝夜喧譁、出入無禮。時倭健命曰「是蝦夷等、不可近於神宮。」則進上於朝庭、仍令安置御諸山傍。未經幾時、悉伐神山樹、叫呼隣里而脅人民。天皇聞之、詔群卿曰「其置神山傍之蝦夷、是本有獸心、難住中國。故、隨其情願、令班邦畿之外。」是今播磨・讚岐・伊豫・安藝・阿波、凡五國佐伯部之祖也。」

 この記事については「神宮」とは「鹿島・香取」を指すものであり、「伊勢」ではないこと、「神山」「御諸山」は「香久山」ではなく「関東」の別の山であり、「中国」とは「常陸」の「那賀郡」のことであるという古田氏の説(※)があり(文中の「是」以下を付会のための挿入句と見る)、それに従えば「関東王権」と「蝦夷」との関係を「近畿王権」との関係に置き換えたものと思われることとなりますが、ただし「琴」の「絃」の数などから考えて「近畿王権」が「関東王権」の末裔とすればそれを自家のものとして書くのはあながち間違いとも言えないとも思われます。いずれにしてもこれらのエピソードは「関東王権」のものであり、その時代的位相として「四世紀」が最も妥当すると思われます。

 また『古事記』における「倭建命」の東征は「倭の五王」(特に「武」)のものという可能性もあるでしょう。「倭の五王」の征服領域には「関東」も含まれるはずであり、「関東」全体はともかく「常陸」については「九州」と関連する文化もあり、当然「征服」された領域の中にあるものと考えられるからです。
 「五世紀」当時「東山道」は「信濃」付近までしか整備がされていなかったと見られ、「東国」へは「東海道」と「海路」を利用していたと推定されます。「静岡」付近までは「陸路」を使用し、そこからは「海路」を利用して「房総半島」へ上陸するというのが当時の「東海道」ルートであったと思われます。このため、「千葉」「茨城」付近に「倭国中央」(筑紫)との関係を物語るものが存在している(いた)と考えられます。
 『常陸国風土記』には、「倭王権の命」により、「物部氏」が筑波山の山麓を拠点に国造りをしたと書かれてもいます。また「普都大神」が「降臨」したとも書かれていますが、「筑紫」には「普都大神」を祭る神社もあり、そのような「神話」の世界のこともまた共通性があるものです。


(※)「『日本書紀』の史料批判」(『古代の霧の中から』所収 徳間書店)


(この項の作成日 2010/12/25、最終更新 2017/02/06)(ホームページより転載)

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「関東王朝について

2018年03月18日 | 古代史

 「稲荷山古墳」の「鉄剣」の銘文の中には「獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時」という表現がされており、この「斯鬼宮」は雄略天皇の「長谷朝倉宮」のことと比定するのが通常のようですが、「宮の名前」が異なります。その様な比定が行われる理由というのが「長谷朝倉宮」が「磯城郡」に属しているからと言うことらしいのですが、明らかに論理的ではありません。
 しかし、この古墳から至近の場所に「磯城宮」という場所が存在しているという事実があります。近畿を想定するより至近の「磯城宮」を彼の主人である「王」の宮と考える方が現実的です。(ただし「寺」という表現は「寺院」の意にとってみても「役所」の意にとってみてもしっくり来ません。「古田氏」によれば「王の名前」という可能性が指摘されていますが、しばらく検討を要するものと思われます。)

 また、ここで「大王」の名として「獲加多支鹵」と書かれていますが、これは「雄略」を指すものとは思われません。なぜなら、「幼武」(ワカタケないしワカタケル)という名は「雄略」の「諱」(いみな)であるからです。
 『雄略紀』に「雄略」が「葛城山」の「一言主大神」から「諱」を問われる場面が出てきます。

「(雄略)四年春二月。天皇射獵於葛城山。忽見長人。來望丹谷。面貌容儀相似天皇。天皇知是神、猶故問曰。何處公也。長人對曰。現人之神。『先稱王諱。』然後應■。天皇答曰。朕是幼武尊也。」

 つまり、葛城山で神(一言主神)と対面した際に「諱」を聞かれ、それに応えて「朕是幼武尊也」というわけですが、本来「諱」は他人に知られてならない性格の「名」であり、ここでは相手が「神」なので包み隠さず名告ったものですが、一般に知られる事は避けられ、また「臣下」が易々と口にすることなどできる性質のものではなかったと思われます。

 後にも触れますが「諱」は『書紀』でもあるいは『日本帝皇年代記』でも「雄略」「顯宗」「継体」という「時代」に初めてその使用例が出て来ます。それらの時代は「倭の五王」(の後半時期)と重なると考えられるわけですが、その「倭の五王」の時代には「道教」が王権内で信仰されていたことが「武」の上表文から窺えます。
 そこには「帰崇天極」という表現が見られると共に「白刃」が前に交わってもひるまないとされますが、これは道教特に北辰信仰と関係があると見られます。そしてこの当時「南朝」で隆盛していた「道教」は「五斗米道」の流れをくむ「天師道」であり、そこでは「鬼神信仰」が行われていました。その「鬼神信仰」と「諱」とは深く結びついていたものと考えられるものです。
 つまり「名前」を「鬼神」に知られると「良くないこと」が起きるというのは新しい信仰であり、それまでなかったものと思われるわけです。この事は新しい「道教」の伝来と「諱」の登場はリンクしているものと考えるべき事を示します。そう考えると、「雄略」の時代と一般に思われている「五世紀末」はもちろん、「六十年遡上」した「五世紀初め」という時点においても「鬼神」と結びついた形の「諱」信仰はすでにあったことが推定されます。しかるにここに刻された「獲加多支鹵」が「ワカタケル」を意味するとした場合、「雄略」の「諱」が書かれている事となります。しかし、そのような「タブー」を敢えて犯す理由が不明となるでしょう。
 これが「下賜」された刀剣であったとすると、そこに「大王」の諱が書かれていることは「あり得ない」といって差し支えないでしょう。まして「自家製造」のものであったとしたらなおさらそこに主君の「諱」が刻されているとは考えられないこととなります。このことは「獲加多支鹵」というのは「雄略」の「諱」を表すものではないと考えざるをえないものとなります。
 この刀剣に呪術的要素があって「神」に祈願する様な性格のものであれば「諱」が書かれることはありうるかも知れませんが、この刀剣はあくまでも文章にもあるように「奉事の根源を記す」という以上のものではなく、「呪術的要素」はそこには見られません。こう考えると「獲加多支鹵」というものは「諱」ではなくこのような刀剣類に書かれても問題とならないようないわば「字(あざな)」のようなものと思われ、ある「大王」の「通称」のようなものが書かれていると見ることができるでしょう。そうであれば「雄略」に比定する必然性を失う事となります。 

 また「佐治天下」という用語が歴史上「主君」が「幼帝」であるとか「女帝」であるというような場合に限定して使用されて来たことも重要と思われ、当然この場合も同様であったと見るべきこととなります。その場合「鉄剣」に書かれた「獲加多支鹵大王」という文字列の訓読が「ワカタケル」として、もし正しいとしてもそれは「雄略」ではないと同時に、この人物が「幼い」という意を含んでいることを示唆することとなります。そして「佐治天下」すべき「幼帝」の存在は、その「先代」の王の死去から時間が経っていないという可能性が示唆されるものであり、さらに「幼帝」の名のまま「鉄剣」に刻まれているとすると、先代の王とこの「幼帝」とがほぼ相次いで死去したという事態が想定されます。そう考えれば「乎獲居」が「佐治天下」することも不可能であったとは言えない事となるでしょう。

 さらに同じ古墳内から「琴」が出土していますが、弦の数が「四弦」であると鑑定されています。しかし当時は「近畿」を含む西日本全体として「五弦」が主流の領域であったものであり、同一の政治圏であるとすると少なからず矛盾するでしょう。
 「弦」の数の相違は奏される「国楽」の違いであり、「祭祀領域」の相違につながるものであって、明らかにこの被葬者は「西日本」の王権とは別個の「祭祀」、「政治」領域に属していたと考えるしかないこととなります。
 では全く「西日本」の王権とは関係がなかったかというとそういうわけではなかったとみられます。それを示すのは「古墳」です。この領域には「前方後円墳」が多くみられ、その形は「相似形」のものが「近畿」などにあり、「近畿王権」同様「倭国王権」(倭の五王)の支配が及んでいることは間違いなく、その領域の一端に位置すると考える事はできると思われます。
 この「稲荷山古墳」の主も「辛亥」という「四七一年」を示すと思われる銘を持った鉄剣の存在からも「倭の五王」のうちの「武」あるいはその前代である「済」と「興」の影響下にあることが推定され、当時「親征」が行われていたとすると、彼らの「皇子」の一人であったということも推定できなくはありません。その場合は「軍事的圧力」の不足から、祭祀の方法などを強制的に変更できなかったことが「古墳」などに影響しているということも考えられるところです。

 北関東の「古墳時代」の遺跡からは「五弦琴」も出ており、「倭国王権」の影響が「やや」感じられますが、基本的には関東は祭祀に「鈴」を使用する「鈴釧」文明圏に覆われており、明らかに他の地域と比べて、「倭国王権」との支配-被支配の関係は緩いと考えられ、「倭の五王」の権威が強く及んではいないことが読み取れます。(それは後に「前方後円墳」の築造停止が行われた際に、西日本に二~三十年程度遅れたこととも関係しているといえそうです。)
また、もともと「関東」を中心的な密集地として「古墳」に遡るものとして「方形周溝墓」というものがありました。この分布は「関東」(特に「埼玉」)と「東海」が最密集地であり、それに次いで、「近畿」と「筑紫」でかなりの数が確認されています。
 この形式の墓制が全国各地にあり、その密集地が関東(特に「埼玉」)であることの意味は重大であり、弥生終末期から古墳時代にかけて「関東」の「王権」の影響する範囲がかなり広範囲に渡っていたことは事実と考えられます。このことと、この「関東」の地に「倭の五王」の影響が少ないことは強く関連している事柄と考えられるでしょう。
 (この「方形周溝墓」も「近畿」からの伝搬という相も変わらない発想とそれを前提とした編年が行われていますが、実際にはこれも筑紫発ではなかったかと考えられる点が確認できます。)
 この時代にはまだ「東山道」ができておらず、「東海道」も伊豆半島手前までしか伸びていなかったと思われます(それが「天女伝説」の場でもある「駿河国宇土浜」であったと思われます)。そこからは「船」に乗ったと思われ、「房総半島」や「常陸」に上陸するルートがメインであったと考えられており、『書紀』や『風土記』の説話にもそれを示唆するものが多く書かれています。
 このように「関東」全体が別の政治領域であり続けた最大の理由は「遠隔地」であったということであり、「官道」の整備が進捗していなかっため「陸路」により「関東」の中枢に「大量」に軍(武装勢力)を派遣できなかったことが、「倭国王権」の統治が弱く、影響力を強く行使できなかった最大の原因と思われるわけです。

(この項の作成日 2011/01/12、最終更新 2017/02/19)(ただしホームページより転載したものに加筆しています)

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「稲荷山古墳」の分析から

2018年03月18日 | 古代史

  埼玉県行田市に築造が五世紀後半と考えられる「稲荷山古墳」という前方後円墳があります。
 「一九六八年」の発掘で「金錯銘鉄剣(稲荷山鉄剣)」が発見され、「一九七八年」になり銘文が「金象嵌」されていることが判明しました。
 以下にその銘文全文を示します。

(表)「辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比跪其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比」

(裏)「其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也」

 この古墳の礫郭及び粘土郭は後円部の中央からややずれたところにあるため、中央にこの古墳の真の造墓者の為の主体部が有ると考えられています。(ただし未発掘です)
 この古墳と銘文についての「従来」の解釈は「『大彦』から代々続く家系であり、また「杖刀人」として「近畿天皇家」に仕えてきたものであって、彼は(彼らは)近畿王権に関係の深い大首長、またはその一族の有力者であった可能性が高い」というものです。

 しかし、これについては古田武彦氏より以下の疑問が表明されています。
 ①彼は「副郭」に「倍葬」されていた人物であり、鉄剣銘文でいう「獲加多支鹵大王」なる人物が近畿天皇家の王であるとすると、主郭の人物が「不在」になってしまうこと。
 ②彼が「主人」である「王」のすぐ側に「埋葬」されている、ということは非常に希なことであり、「臣下」として「栄誉」の「極致」であったと考えられ、それにふさわしい事績が「主郭」の人物とのあいだにあったことを示すものですが、そのことは「鉄剣」に書かれた内容についても「主郭」の人物との関係において考えるべきもと考えられること。(※『関東に大王あり』新泉社一九八七年)
 いずれも重要な指摘であり、これを前提に考察すべきものと思われます。

 この文章の中では「佐治天下」という「用語」が使用されていますが、この「歴史的」用語が使用されている、ということはそれなりの事実を背景としていると考えざるを得ません。これは中国の故事に発している用語であり、「殷(商)」の「紂王」を滅ぼした「武王」により「周王朝」が始まった後、彼は亡くなり、その跡を第二代「成王」が継いだのですが、彼はまだ幼少だったため、「武王」の遺言で、武王の弟である「周公」が統治行為を代わって行なったことを意味する用語であり、そのことを「佐治天下」と言う語で表現しているのです。
 つまり、この用語を使用しているからには、王に替わって政務を執るというような「最高権力者」の「補佐」や「代行」などの事実があったものと考えなくてはならず、この点については、多くの古代史学者などは「大言壮語」などのレッテルを貼って済ましていますが、論証という点では全く不足です。
 この「佐治天下」という用語使用が「誇大」ではないと考えられるのは、歴代の祖先の中にあって彼(乎獲居臣)だけが「臣」という称号を称していることがあります。
 よく見ると彼の前二代は「無称号」であり、「獲居」(ワケか)などの称号を持っているのは更にそれ以前の先祖です。「乎獲居臣」は「乎獲居」というように「ワケ」は既に名前の一部になっていて、「称号」ではなくなっており、「普通名詞」化しています。このような例は『書紀』や『古事記』でもあり、「武内宿禰」や「野見宿禰」のように「姓」(カバネ)が「名前」の一部になってしまっている例がありますが、これと同様であったと思われます。彼はこのように「姓」が「名称化」した時点で更に「臣」を称すると言うことになったものと考えられ、この事は「彼」(乎獲居臣)に至って何らかの優秀さを示したことにより「抜擢」されるような事があったものを推定させます。そうであれば「彼」が「佐治天下」にふさわしい活躍をしたと言う事を実際にあったということを示すものかもしれません。

 またこの「臣」は明らかに「音」表記となっています。つまり、表記として「訓」(万葉仮名)ではなく漢字(「音」)であると言う事はかなり重要ではないでしょうか。
 たとえば、先に出てきた「獲居」(ワケ)は「獲」の「ワ」は「訓」表記です(「居」を「ケ」は「音」か)、また「ワケ」自体中国には存在しないもの(制度)です。つまり「臣」は「中国流」であり、当時の先進的用語使用であると思われ、それは王権を支える勢力の間に「差異」ないしは「等級」を設けるための新制度が導入されていたという可能性を示唆するものです。それは「丈刀人」という用語にも現れていると思われます。

 この「杖刀人」という用語は国内ではこの「鉄剣」に書かれた(彫られた)ものが初出であり、これが何を意味するかの検討が不十分であり、それが不十分のまま「授刀人」と同義であると即断されているようです。「授刀人」は『書紀』に出て来ますが、いわば宮殿の親衛隊であり、門番のようなものです。時代も『続日本紀』によれば「元明天皇」の時代になって「初めて」設置されたとされ、これと無批判に同一視しているわけです。
 本来「杖刀」という単語は『三國志』に出てくるもので武将が剣(刀)を立てて直立する姿勢を示しており、武将としての「威儀」をしめす姿勢とされます。この場合「武将」と言っても「下っ端」ではなく、「将軍」のような高官であるのが「本意」であり、その意味でも「佐治天下」という用語との関連を示唆するものです。この「杖刀」という単語との関連を考えるのが正しい思惟進行ではないでしょうか。
 
 これら「臣」と「杖刀人」については「音」で表記されており「万葉仮名」では表記されていません。「臣」が「意彌」などという表記になっていないのは、可能性としては「読み」も「音」であったことを示すとも考えられます。つまり「臣」は「オミ」ではなく「シン」、「杖刀人」は「ジョウトウジン」と呼称したという可能性があると思われます。「万葉仮名」で表記されていない理由はそこにあるのではないでしょうか。そのことはこの時点付近以降「官職」に関しては「音読み」とすると云う決まりができていた可能性を示唆します。そうであれば『隋書俀国伝』で「官職」様のものとして「軍尼」という表記とも関連しているという可能性が考えられます。つまりこの「軍尼」については(これが「漢音」であると考えられること及び「昆布」(コンブ)のことを「軍布」とする表記が存在していることなどから)「コンジ」と発音するのではないかと考えられますが、これは一見しては「倭語」とは思えません。「ン」という発音は元々「倭語」にはなかったとされています。つまりこれは「漢語」の「音読み」ではないかと考えられ、想定可能なものとしては「根子」があると考えられます。「根子」は「天皇」の「和名」として何人かに出てきますが、通常は「ネコ」と発音し、「直系」を意味する用語(呼称)と考えられていますが、この『隋書俀国伝』時点付近では各「クニ」の長に当たる人物の「役職名」であったという可能性も考えられます。
 また別の考え方としては「軍郡」つまり「軍郡事」を略して「軍事」と称していたという可能性もあります。「倭の五王」の時代「南朝」から「軍郡事」を除されていたとすると倭国では「州」の軍事力のトップの位置にいるものについて「軍事」という呼称の職掌があったという可能性もあります。それを「北朝」たる「隋」では「南朝」との関係に気づかず「倭国」独自のもとして「軍尼」という「表音表記」としたのかもしれません。
 いずれにしても「音」で役職を表す慣習がこの頃作られたのではないかと思われます。


最終更新 2017/02/21(ホームページより転載)

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