「屯倉」の起源が「五世紀」にあるということを指摘したわけですが、それに対し別の一群の「屯倉」があります。「贖罪」か「代償」のために献上されたとされる「屯倉」です。
(以下の年次については修正が必要な可能性があります。詳細は後述)
これらの「屯倉」記事は「磐井の乱」を除き全て「安閑紀」にありしかも「安閑紀」は実質三年間しか治世期間はないので、実質「屯倉記事」しかありません。それらは以下のものです。
(一)継体二十二年(五二八年)糟屋屯倉 (筑紫君磐井の乱の贖罪)
「磐井の乱」の際に「葛子」が献上した「糟屋屯倉」が皮切りです。
(二)安閑元年(五三四年)伊甚屯倉 (春日皇后への罪の贖罪)
「安閑元年」(五三四年)「上総伊甚直稚子(国造)」が「真珠」を献上する期限に遅れ、罪を恐れて皇后の寝殿に逃げ隠れたため、さらに罪が重くなった結果「伊甚屯倉」を献上した、と書かれています。
(三)安閑元年 (五三四年)竹村屯倉 (大河内直味張が贖罪で献上。併せて県主飯粒が土地四十町を献上。)
「河内県主飯粒」が土地を献上するようにという「勅命」に従わず、そのことを「追求」された際に「贖罪」として「田部」として「河内縣部曲」と共に「竹村(たかふ)屯倉」が献上されています。(これは正確には「大伴金村への献上ですが)
(四)安閑元年(五三四年)廬城部屯倉 (娘の幡媛の贖罪)
是月。廬城部連枳唹女幡媛。偸取物部大連尾輿瓔珞。獻春日皇后。事至發覺。枳■喩以女幡媛。獻采女丁。是春日部釆女也。并獻安藝國過戸廬城部世倉。以贖女罪。物部大連尾輿恐事由己。不得自安。乃獻十市部。伊勢國來狭狭。登伊。検狭狭。登伊二邑名也。贄土師部。筑紫國膽狭山部也。
ここでは「廬城部連枳唹女幡媛」に関する「不祥事」があり、この事に対する「贖罪」として「廬城部連枳唹」から「采女」と「安藝國過戸廬城部世倉」を「献上」したとされています。
(五)「武蔵国造」の地位を「笠原」と同族である「小杵」が争った際の「調停」に対する「代償」
(安閑元年)閏十二月己卯朔壬午。
武藏國造笠原直使主與同族小杵相爭國造。(使主。皆名小杵。也。)經年難決也。小杵性阻有逆。心高無順。密就求授於上毛野君小熊、而謀殺使主。使主覺之走出。詣京言状朝庭。臨斷以使主爲國造。而誅小杵國造使主悚憙交懷。不能默已。謹爲國家奉置横渟。橘花。多氷。倉樔。四處屯倉
これは「武蔵国造」の座を「笠原」と「小杵」が争った際に「小杵」に対して「上毛野君小熊」が付き、それに対し「笠原」が「倭国王家」に対し助力を求め、結果「笠原」側が勝利したもので、その事に対する代償として「笠原」から「横渟」「橘花」「多氷」「倉樔」の四カ所の「屯倉」が献上された記事です。
このように「屯倉」が「献上」されたという記事が並ぶわけですが、これらは「範囲」も「東国」にまでその範囲が広がるものであり、明らかに当初の「屯倉」よりも後代のものであることは確かです。また「屯倉」の成立については上に見たように当初は「倭国王権」の「直轄」として設置された「はず」であるにも関わらず、そうではなくなっていることが注目されます。
この段階ですでに「屯倉」が成立した「起源」についての記憶が失われ、またその「屯倉」について既に在地豪族(国造や県主)に属する形と変わっていることからも、設置された年次からかなり年月が経過していることを示唆します。
つまり、これらの「献上記事」は、「王権」の権威を再び届かせるための行為の一環と考えられ「屯倉」を本来の「王権」直轄とするための施策の一部であったと考えられます。このようなことが行われた時期は「磐井の乱」以降「肥後」に「蟄居」せざるを得なくなった時期を経た「後」の「六世紀後半」の事ではないかと推察され、「阿毎多利思北孤」と「利歌彌多仏利」の「革命」時点のものであることが推定されます。
ただし、「武藏國造」を争った一件では「小杵」はここでは「惣領」に対してではなく、「京」に詣り「朝庭」に訴えています。このことから『常陸国風土記』に見る「我姫」を八国に分けたという政治的力量を見せた「高向臣(大夫)」はまだこの段階では任命・設置されておらず、「我姫」はまだ混沌としていたということを示すと思われ『常陸国風土記』にいう「古」の状態であったと思われます。というよりこのような各国造などの任命権をめぐって争いがある実態を「是正」するために「惣領」が設置・任命されたという流れが推定できるでしょう。
最終更新 2015/02/10(ホームページより転載)