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古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「屯倉」と贖罪による献上

2018年03月18日 | 古代史

 「屯倉」の起源が「五世紀」にあるということを指摘したわけですが、それに対し別の一群の「屯倉」があります。「贖罪」か「代償」のために献上されたとされる「屯倉」です。
(以下の年次については修正が必要な可能性があります。詳細は後述)
 これらの「屯倉」記事は「磐井の乱」を除き全て「安閑紀」にありしかも「安閑紀」は実質三年間しか治世期間はないので、実質「屯倉記事」しかありません。それらは以下のものです。

(一)継体二十二年(五二八年)糟屋屯倉 (筑紫君磐井の乱の贖罪)

 「磐井の乱」の際に「葛子」が献上した「糟屋屯倉」が皮切りです。

(二)安閑元年(五三四年)伊甚屯倉 (春日皇后への罪の贖罪)

 「安閑元年」(五三四年)「上総伊甚直稚子(国造)」が「真珠」を献上する期限に遅れ、罪を恐れて皇后の寝殿に逃げ隠れたため、さらに罪が重くなった結果「伊甚屯倉」を献上した、と書かれています。

(三)安閑元年 (五三四年)竹村屯倉  (大河内直味張が贖罪で献上。併せて県主飯粒が土地四十町を献上。)

 「河内県主飯粒」が土地を献上するようにという「勅命」に従わず、そのことを「追求」された際に「贖罪」として「田部」として「河内縣部曲」と共に「竹村(たかふ)屯倉」が献上されています。(これは正確には「大伴金村への献上ですが)

(四)安閑元年(五三四年)廬城部屯倉  (娘の幡媛の贖罪)

是月。廬城部連枳唹女幡媛。偸取物部大連尾輿瓔珞。獻春日皇后。事至發覺。枳■喩以女幡媛。獻采女丁。是春日部釆女也。并獻安藝國過戸廬城部世倉。以贖女罪。物部大連尾輿恐事由己。不得自安。乃獻十市部。伊勢國來狭狭。登伊。検狭狭。登伊二邑名也。贄土師部。筑紫國膽狭山部也。

 ここでは「廬城部連枳唹女幡媛」に関する「不祥事」があり、この事に対する「贖罪」として「廬城部連枳唹」から「采女」と「安藝國過戸廬城部世倉」を「献上」したとされています。

(五)「武蔵国造」の地位を「笠原」と同族である「小杵」が争った際の「調停」に対する「代償」

(安閑元年)閏十二月己卯朔壬午。

武藏國造笠原直使主與同族小杵相爭國造。(使主。皆名小杵。也。)經年難決也。小杵性阻有逆。心高無順。密就求授於上毛野君小熊、而謀殺使主。使主覺之走出。詣京言状朝庭。臨斷以使主爲國造。而誅小杵國造使主悚憙交懷。不能默已。謹爲國家奉置横渟。橘花。多氷。倉樔。四處屯倉
 
 これは「武蔵国造」の座を「笠原」と「小杵」が争った際に「小杵」に対して「上毛野君小熊」が付き、それに対し「笠原」が「倭国王家」に対し助力を求め、結果「笠原」側が勝利したもので、その事に対する代償として「笠原」から「横渟」「橘花」「多氷」「倉樔」の四カ所の「屯倉」が献上された記事です。
 
 このように「屯倉」が「献上」されたという記事が並ぶわけですが、これらは「範囲」も「東国」にまでその範囲が広がるものであり、明らかに当初の「屯倉」よりも後代のものであることは確かです。また「屯倉」の成立については上に見たように当初は「倭国王権」の「直轄」として設置された「はず」であるにも関わらず、そうではなくなっていることが注目されます。
 この段階ですでに「屯倉」が成立した「起源」についての記憶が失われ、またその「屯倉」について既に在地豪族(国造や県主)に属する形と変わっていることからも、設置された年次からかなり年月が経過していることを示唆します。
 つまり、これらの「献上記事」は、「王権」の権威を再び届かせるための行為の一環と考えられ「屯倉」を本来の「王権」直轄とするための施策の一部であったと考えられます。このようなことが行われた時期は「磐井の乱」以降「肥後」に「蟄居」せざるを得なくなった時期を経た「後」の「六世紀後半」の事ではないかと推察され、「阿毎多利思北孤」と「利歌彌多仏利」の「革命」時点のものであることが推定されます。

 ただし、「武藏國造」を争った一件では「小杵」はここでは「惣領」に対してではなく、「京」に詣り「朝庭」に訴えています。このことから『常陸国風土記』に見る「我姫」を八国に分けたという政治的力量を見せた「高向臣(大夫)」はまだこの段階では任命・設置されておらず、「我姫」はまだ混沌としていたということを示すと思われ『常陸国風土記』にいう「古」の状態であったと思われます。というよりこのような各国造などの任命権をめぐって争いがある実態を「是正」するために「惣領」が設置・任命されたという流れが推定できるでしょう。


最終更新 2015/02/10(ホームページより転載)

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「屯倉」の設置と「古代官道」

2018年03月18日 | 古代史

 『書紀』によれば「履中」「安康」「清寧」等、いわゆる「倭の五王」のころと考えられる「五世紀」の初めごろ以降、近畿に「屯倉」の設置が相次ぎます。
 これらの「屯倉」は「堤」「池」「水田」などの整備事業を伴うものがほとんどであり、「屯倉」に収納するべき「稲」などの「産品」を安定的、継続的に収集する体制を整えたことを示すと思われますが、これらの「堤」「池」「水田」などが「道路」の設置と深く関係していることを考慮すると、この段階で「古代官道」が整備され始めたことを示唆するものでもあります。
 「古代官道」については別途述べますが、「直線的」構造が特徴であり、その結果「山」を切り通したり、「谷」をせき止めたりする工事を伴う場合が多いですが、それに伴い「池」や「沼」を作ったり、「堤」を設けたりする付属的工事が行われることがあります。
 また「地割」の標準となる例も多く、「官道」の周囲に「水田」ができるなどの例が見られることがあります。これらのことを考慮すると、この時期の「屯倉」設置が「官道」と深く関係していると考えるのは当然と思われます。
 「官道」が整備され、「池」などが灌漑の機能を持ち、「水田」が規格化された地割で造られ(これは「屯田兵」によると考えられます)、収穫された「稲」などをはじめとした「貢納品」の貯蔵所として「屯倉」が設置されるという一連の流れは、「行政」機能がこの時点で大幅に強化された事を示すと思われ、「拡張政策」をとっていた「倭の五王」により、「倭国王権」による地方支配、地方収奪の道具として「屯倉」が存在したことを示すと考えられます。これは、強力な「服属関係」を表すと同時に、その地方の安定的支配のための一環であったと考えられます。

 「倭の五王」の時代と「鉄器」拡大の時期が重なっていることから考えると、その時期に「屯倉」が出来はじめると言うことは、その意義として「武器」(軍事力)により「服属」させ「附庸国」とした領域に対して、その後の「統治」のための体制の構築を行う必要から設置されたとも考えられるところです。「官道」設置の意義も同様であったと考えられます。このことから当初の「屯倉」には軍事的意義つまり「邸閣」としての意義があったものと思われます。
 「邸閣」は『倭人伝』にも出てきますが、「後漢」から「三国」時代には「軍事」に供する兵糧を収納する場所としての機能を持っていたものです。つまり軍事行動を行う際の糧食の供給のために後方支援体制の一環として設置されていたものであり、最前線から一歩下がった位置に設置されるのが通常でした。そう考えると、「屯倉」の設置されている場所はほぼ最前線と言うべき場所であり、その場所まで「官道」が延伸されていたと言うことは支配地域の拡大を(軍事によって行う)体制が構築されたことを示すものであり、軍事行動のためのインフラである「古代官道」と同時期に「屯倉」が設置され始めるというのは非常に自然であり、理解できることとなります。
 そのことは「屯倉」という文字面にも現れています。これは「屯田」という用語と無縁ではなく、「屯田」が「三国時代」の「魏」などでは「屯田兵」という特殊な「兵戸」による辺境防衛体制の一貫として設置されたものであり、そのことから用語上からも「屯田兵」という組織と「屯倉」が不即不離であり、この時「屯倉」と共に「屯田兵」が同時に設置された可能性が高いことを示します。
 「屯倉」の場合「戦闘集団」であるところの「屯田兵」が至近に所在していたわけであり、彼らが「屯田」から収穫したものは全てこの「屯倉」に集められ、戦闘が拡大した場合などはここから彼らに対し臨時食料が供出されたものと思われます。
 この「屯田兵」としての役割を担っていた人々が「部民」であったと推量され、彼らは一般人としてではなく別戸籍(ここでは半ば)で把握され、使役させられていたものと推量します。

 またその地域の軍事行動が一段落すると、それ以降「屯倉」はややその性格を変え、一般的な「蔵」としての機能が発揮されたものと見られ、「租賦」の集積及び上送の機能が全面に展開されることとなったものと思われます。これはその時点でその「屯倉」を中心とした地域の「責任者」を常駐させることが必要になることを意味します。そのためには当初は「別」や「造」を配置されたものと見られますが、後には「評制」が施行され、「評督」が「屯倉」の管理をするようになったらしいことが『皇太神宮儀式帳』などから明らかとなっています。
 当初任命されていた「別」や「造」は「倭国王朝」から「信任」を得て「統治行為」を代行するわけであり、一種の「信託統治」とでも言うべき存在であったと思われます。そして、これら「地方支配」の道具である「屯倉」が「近畿」に設置されるということは、その時点で「近畿」が「倭国王」から見ると「地方」(諸国)であったという証明でもあります。
 このような「官道」整備は一般には「七世紀」の始めに行われたと推定されています。しかし、上の記事はそれより「一五〇年」以上離れた「倭の五王」の時代と考えられ、実在性が問われる記事ではありますが、後の官道に比べ「幅」などは狭かったものの同様の意図を持った「官道」は一部ではあっても形成されていたと考えるのはそれほど不自然ではないと思われます。その様なものがなければ「領土拡張」という事業そのものの正否が問われるものだからでもあります。しかもその領土拡張の主役は騎馬によるものと思われますから、その意味でも「高規格道路」が部分的にでも竣工していなければそれも叶わぬ事となると思われるわけです。しかもこれらの「屯倉」が「近畿」に限定されていることは、「官道」もまた後の「山陽道」の延伸として「近畿」周辺地域に展開されたものと考えられ、それは「近畿」に巨大な古墳が形成されることと表裏を成すものといえます。

最終更新 2015/02/10(ホームページより転載)

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「前方後円墳」と王権

2018年03月18日 | 古代史

 いままでは「古墳時代」が「近畿」で始まり、それが各地に伝搬していった、という推定がされていました。 
 「古墳時代」の始まりは、また「弥生時代」の終わりをも意味するものですが、「弥生時代」の「終わり」は「全国一斉」ではありませんでした。この時代にはまだ「中央集権的」な統治者は現れてはいなかったのです。「弥生時代」から「古墳時代」への時代の変遷は、全国でかなり時間差を伴うものとなりました。
 そして「前方後円墳」の分布が示す事実は、「九州」には「古いタイプ」のものが多く、「近畿」には新しくて大型の「前方後円墳」が多い、という事実です。言い換えると「近畿」の方が「遅れている」こととなるのです。
 また、前述したように「古墳」の「石室」の形式の変遷も「九州」が先行し、「近畿」が遅れるのです。「横穴式石室」は「九州」では「四世紀末」に現れるのに対して、「近畿」では「五世紀末」と考えられています。つまり、「近畿」における「古墳」時代は「九州」に対して「百年以上」の遅れであったと考えられます。
 また「近畿」の古墳の「石室」に使用されている材料も、その多くが「阿蘇熔結凝灰岩」であることが判明し、「肥後」から運ばれたことが判明しています。
 さらに、「古墳」に埋納されることの多い「鏡」についても、その代表とも言える「三角縁神獣鏡」について言うと、最初期に確認される「古墳」は「近畿」ではなく、「東部瀬戸内」地域であることが確認されています。
 また「銅鐸」が近畿にその分布中心があることは確かですが、その「銅鐸」は「古墳」からは決して出土せず、このことは「古墳文化」と「銅鐸文化」が相容れないものであることを示しています。
 「銅鐸」のような「祭祀」に必要な器物が「取り替えられる」あるいは「使用されなくなる」というのは、その「祭祀」を執り行ってきた集団にとってはかなりのインパクトを伴うイベントであり、そのようなことが外的圧力や強制力が伴わず自主的に行われたとは考えにくいものです。つまりその意味でも「古墳文化」の主体と「銅鐸文化」との主体とは重ならないことを意味すると言え、「古墳」の初期型が「銅鐸」と関連の薄い「九州」に存在しているというのは大変整合的な状況であると思われます。(ただしこのことは「古墳祭祀」に「銅鐸」が使用されていたということは意味しませんが、古代において「葬送儀礼」は重要な意義を持っていたものであり、「鬼神信仰」の中で「銅鐸」が使用されていたとすると、「葬送」に関する「祭祀」が「鬼神信仰」から脱却させられたということを意味する可能性が強く、その場合他の「祭祀」(豊作祈願などの農耕儀礼など)においても同様に「鬼神信仰」ではない方法によることとなったということを意味するのかも知れません。)

 また、「三角縁神獣鏡」が出土する「古墳」からは「製鉄器具」といえるものは出てきません。たとえば「鍛冶工房」により造られたと考えられる「鉄鋏」などの「製鉄器具」が出土する場合に、「一緒」に出るのは、「漢鏡」などの「中国鏡」なのです。このことは「鉄製器具」が盛んに造られるようになった「卑弥呼」の時代及びその直後とも言える時期の「古墳」と「三角縁神獣鏡」とは明らかに「整合」していないことを示しています。
 またその「鏡」が古墳内のどの位置にどのように配置されるのかという「配置原則」とも言うべきものが最初に確立するのが、「近畿」ではなく、「北部九州」の「甕棺墓」や「方形周溝墓」である、という事実も合わせると、「弥生末期」における「近畿」の「優位性」というものがほとんど感じられないことを物語っており、このような中では、「古墳時代」が「近畿」に始まるという考えは全く論理的ではなく、一種の「信仰」に近いものと思われるものです。このような「非科学的」な態度は結局「破綻」するより他はなく、従来の「近畿一元論」的な、「前方後円墳」は「近畿」で出現し、それが各地へ拡散した、とする見方については、「決然」とした見直しが迫られているものと言えるでしょう。

 古代においては各地域への情報や文化の移動・伝搬には必ず「時間差」が伴います。現代と違い交通網・情報網が発達していなかった古代においては、「同時性」というものは(「統一政権」が造られなければ)あり得なかったものと思料され、そのことにより「古墳時代」全体を通じて、「情報」・「文化」の伝搬には「かなりの」時間差があったものと推定されることとなります。そういう意味では「土器編年」「鏡の編年」にとらわれていると、その「時間差」に気がつかない恐れがあります。
 従来の「土器編年」も「鏡の編年」も、基本は多数の土器ないしは鏡同士を比較して、その「形式」「形状」「文様」「埋められた状況」(壊されているか完全品であるか等)などで分類するものであり、同形式であったり、同様の「埋納状況」であったとすると「同時代」と推定しているわけですが、それでは「時間差」が検出できません。「時間差」あるいは「時代差」は別の基準や指標によらなければ推定は不可能と考えられ、そのような誤解の元に成立している従来の古代史編年全体には疑義が生じるものです。
 また、この時代が「倭の五王」の時代であることも注目です。「武」の上表文が示すように、彼らの時代が「武力」による「征服・統合」の時代、いってみれば「拡張主義」の時代であったことは確かでしょう。そのような中で「古墳」の形式やその使用材料などが多く「九州」に由来するということは「倭の五王」による「征服・統合」の中心点(出発点)も「九州」であったことを意味していると考えられるものです。

 またそれに関連して、「『九州』からの『伝搬』」はあったが、それが途中で停止した、という言い方がする論者もいるようです。(主に「近畿王権一元論」の立場からの論者ですが)しかし、この発言は「古墳時代」の始まりは「九州」からであると言っているのと同じです。それが途中で「伝搬」が停止した、と言うわけですから、その時点にいたってやっと「九州」に追いついた、と言う事の主張のようです。(そうは明言していませんが)
 また同趣旨の発言として、「古墳初期」までは「近畿」に権力中心がなかったことは認めるものの、それ「以降」については「近畿」に「権力中心」があったのは「明らか」というものもあります。
 しかし、もし仮に「伝搬」が停止したとして、それ以降「近畿」に巨大な権力が発生したとしても、その「根源」は「九州」であり「肥後」であるのは「変わらない」のです。そもそも、そのような「文化伝搬」が停止する「条件」は何だったのでしょうか。
 「九州」からの「文化伝搬」に対して、その文化的圧力を跳ね返すだけの「文化発信」が「近畿」から成されなければ「停止」には至らないでしょう。「近畿」という地域にそのような「文化発信」があったとは思えませんし、それが「前方後円墳」などに関連する状況と合致していないのは明白です。

 従来の「近畿王権一元論」者の「思考」には「大義名分」論が欠如しているのです。どのような巨大権力であっても、この時代は「伝統」と「格式」というものが備わっていない権力は、「№1」にはなれないのです。「後発」の勢力、あるいは「分岐」した勢力には「大義名分」がないため、「決して」中心権力にはなり得ないのです。そのような政治学的背景を考えに入れると、「大和地域」の「優位性」というものは「雲散霧消」するしかありません。どれだけ「巨大」な古墳が他地域に造られ始めても、それは「肥後」王権(倭の五王)達の「優位性」「超越性」をゆるがすことは出来ないものなのです。

 また「古墳」に使用されている石材が「肥後」の産であるなどのことは、考古学的、科学的な「事実」ですから、この現状を「近畿王権」を中心としてきた従来の考え方で説明しなければなりませんが、それはほとんど不可能です。
 結局「近畿王権の支配力が『肥後』に及んだ結果」という考え方しかないでしょうが、それでは「古墳」に関する全てのことと矛盾してしまいます。
 近畿王権が「主」であり「九州(肥後)」が「従」であったとするなら、なぜ、その「従」たる文化を「主」たる側が取り入れなければならないのでしょうか。「近畿」の権力が「肥後」に及んだのなら、「近畿」の墓制が「肥後」に見られなければならないはずです。
 文化は中心から周辺に流れていくものであり、「文化勾配」は必ず「内から外」なのです。これと矛盾する事実を説明できるものはただ一つ、「倭の五王」は九州にいたものであり、肥後に「倭の五王」の権力の淵源があったのだ、ということしかないと思われます。

 「古墳時代」は、その「発生」とともに、「終焉」についても「九州」が先行します。「近畿」で「前方後円墳」が全盛となった「五世紀」の「倭の五王」の時代以降「九州」では「前方後円墳」の築造が「六世紀」全体を通じて先行してペースダウンしていましたが、(これは明らかに仏教の影響と考えられます)「六世紀後半」に一気に「終焉」を迎えます。「明日香」などの他の地域もそれに併せるように「前方後円墳」は突然作られなくなります。さらにそれに僅かに遅れて「七世紀初め」には「東国」においても同様に「前方後円墳」の築造が突然停止され、円墳や方墳が代って多く造られるようになりますが、それらも以前に比べ「小型化」することとなるのです。
 それはまるで『「倭国中枢」から「廃止令」が出された』かのようです。そして、そのようなものが実際にあったと考えられるものであり、それは「大化の薄葬令」と言われるものが該当するという可能性があると(私見では)みています。
 この「薄葬令」は「大化」つまり「六四五年」に出されたと『書紀』に記載されているものですが、そこに書かれた内容と「古墳」の実情を重ねて考えると「六世紀後半」段階でこれが出されたと考えなければ、実態を説明できないと考えられ、詳細は別途述べますが、この『書紀』の記載には強い疑義が発生するところです。

 このように「全国一斉」に「古墳」の築造が停止される、あるいはそのような事が可能となるためには「強い権力」が必要です。そして、前方後円墳」の停止に二段階あり、当初「西日本」が先行し「東日本」が追随するということを考えると、この時の「強い権力者」は当初「西」にいて、次に「東」に移動したという動き(遷都など)が推察されるものです。
 また「前方後円墳」はそれまでの権力者にとり「何代」か遡上する「祖先」とでも言うべき存在が造立あるいはそのような墓制を規定したと考えられますが、そのような「歴史的」「伝統的」なものを「停止する」ということの中に「新しい権力」を感じるものであり、この時の王権が「革命王朝」とでも言うべきものであったという可能性が感じられるものです。


最終更新 2014/01/23(ホームページより転載)

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「阿蘇ピンク岩」と畿内の石棺

2018年03月18日 | 古代史

 近畿を中心とした地域で発見される古墳の中にある特徴的な一群があります。(「継体」の陵墓とされる大阪府の今城塚古墳や、「推古」の初陵とされる奈良県の植山古墳など)
 それは五世紀後半から六世紀前半の間に集中して作られたと考えられているものですが、それらの特徴は古墳の「石棺」に、九州の「阿蘇山」の「溶結凝灰岩」(通称「ピンク岩」) が使用されていることです。また時代的には六世紀後半以降のものは全く見いだせないという特徴があります。

 そもそも、これら石棺材料は非常に大きく、重量のあるものであり、運搬には大きな困難があったものと考えられますが、このようなものをあえて「九州」から運んだのはなぜか? という疑問があります。
 すでに触れたように瀬戸内、畿内の多くの石棺には阿蘇の灰色凝灰岩が使われているのが明らかになっており、それによると石棺の形も九州(熊本)の古墳のものと同一でした。このことからこれらの石棺と肥後(熊本)との深い関係が考えられるところですが、しかし、灰色石石棺とピンク岩石棺には明確な違いがあり、灰色石石棺は九州でもポピュラーであるのに対して、ピンク岩石棺は地元からは全く出ない、という事実があります。これらは畿内・瀬戸内の特定の古墳にしか出ないのです。
 (ただし、九州の古墳に「石人・石馬」というものが随伴することがあり、ちょうど「埴輪」のように古墳の周囲に設置されたものですが、これに「阿蘇ピンク岩」が使用されていることがあります。たとえば「磐井」の墓として有名な「岩戸山古墳」やそのすぐ近くにある「石人山古墳」などがそうです。これらの例は五世紀前半から六世紀中ごろのものと考えられており、畿内・瀬戸内の古墳で石棺にピンク岩が使用される直前の使用法を示しているようです。)

 一般に「古墳」というものが、「仏教以前」の時代に区分される宗教的建築物なのは常識です。そこで行われていた「祭儀」は国内に仏教が認知、普及されていくと「古墳(特に前方後円墳)」に替わり「寺院」において「仏式」による「祭儀」が行われるようになります。その転換点は六世紀の終わりであり、このころ近畿では寺院が造られ始めます。(「法興寺」「元興寺」など)が建設されます。これ以降、古墳(前方後円墳)は急速に衰退し、墓としては「終末期古墳」と呼ばれる小型の方墳や円墳が作られ始めます。さらに各地に権力者の手により寺院が多数建築されることとなります。
 ピンク岩を石棺の材料として使用している古墳というのはちょうどこの古墳時代の最終末に位置しており、あたかも古墳と寺院をつなぐ役割をしているようです。そして主要な材料として「九州」の岩が使用されているということは、これらの古墳が仏教に関する影響の第一波を「九州から」受けた、ということを意味していると考えられます。
 寺院建築の技術において九州が常に先行しているのはすでに各種の研究で明らかになっていますが、これは単に技術の問題ではなく仏教というものの国内における淵源が九州にあり、そこから波及して全国に行き渡って行った、という事実の裏返しであろうと考えられます。
 この「ピンク岩」を使用した石棺が「阿毎多利思北孤」の時代と重なっている、ということはもちろん偶然ではなく、彼の推進した「仏教」(特に「法華経」)の広がりと深い関係があると思われます。彼は倭国内統治策の柱として仏教を利用したものであり、そのことにより「古式」としての「祭儀」にかかわる勢力に打撃を加える意図もあったであろうと思われます。

 『隋書俀国伝』に現れる「阿毎多利思北孤」は「隋」の高祖(文帝)から「統治体制」について「前近代的」だとされ改善するよう「訓令」を受けています。この「訓令」が当時「文帝」が推進していた「仏教治国策」と同質の内容であったであろうことは想像に難くなく、これを受け入れざるを得なかった「阿毎多利思北孤」は、これを逆に好機と捉え、国内統治に利用する方針により「諸国」に「仏教」推進策を進めていったものと思われますが、その時点で「大古墳」の築造が停止させられたものと思われ、「前方後円墳」の築造がその時点以降不可能となったものです。
 しかし「遣隋使」を派遣するなどの行為の前提として、その時点である程度国内統治が進んでいたと思われるものの、「仏教」を統治に利用する施策(方針)はそれほど強力ではなく、古墳に使用する材料に対して制約あるいは強制があった程度ではなかったかと思われ、それが「肥後」から材料を調達するという行為の中に現れていると思われるわけです。

 またこの信仰が基本的に「海人」に受け入れられやすいものであることも重要な要素です。経典にもあるように「如意宝珠」を手に入れるには「海中に入る」必要があり、それらが可能なのは「海人族」なのです。九州では「安曇氏」や「宗像氏」など海人族の勢力が強く、彼らの信仰に仏教的要素が加わっていく過程においてこれらの「如意宝珠」に関する経典が重要な役目を果たしているようです。
 このような時期に発生した「古墳」は、「仏教寺院」が現れる「過渡期」としての存在であり、またそこに「阿蘇山」の「ピンク岩」が使用されているというのは、死後も「阿蘇山」の懐に抱かれていたい、という願望があるようです。このような「古墳」は「九州」と関係がある人物の墓である可能性が非常に高いものと考えられます。


(この項の作成日 2011/01/03、最終更新 2021/03/0)(ホームページより転載)

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石室の変遷について

2018年03月18日 | 古代史

 古墳の「石室」(「棺」を置く空間)の形式の変遷を見てみると、「四世紀後半」から末にかけての時期に北部九州の「玄界灘」沿岸地域に「横穴式石室」と呼ばれる石室が現れます。(佐賀県松浦群浜谷町の谷口古墳、福岡市の鋤崎古墳・老司古墳など)
 このタイプの石室は、一度しか埋葬することができないそれまでの「竪穴式石室」と違って「追葬」することができます。この「横穴式石室」はその後「五世紀前半」になると「有明海沿岸」(肥後)に中心が移動したと考えられ、そこで発展・拡大したとみられます。
 「畿内」を中心とした地域でも、この「横穴式石室」は見られますが、出現する時期としては「五世紀末」から「六世紀初め」ごろと考えられ、「九州」よりも「百年」ほど遅れた時期のことになります。しかも、この点については「定説」は、このタイプの石室は「近畿」で「一般化」した、という言い方をしており、あたかも「肥後」などが何か「特殊」な状況であったかのような扱いとなっています。
 さらに「定説」では、この「近畿」における「横穴式石室」というものは「百済」から「直接」取り入れた、という解釈がされているのです。しかし、それは甚だしい誤解ないしは曲解というものでしょう。なぜなら、近畿で「横穴式石室」が造られるようになった時に使われた「材料」は「阿蘇熔結凝灰岩(灰色石)」だったからです。
 この岩は「火山灰」が高圧を受けて圧縮され岩石となったものですが、火山灰は噴火の際の「熱」と「圧力」により、生成される「火山灰」も性質などが異なります。その火山灰が固まった岩である「凝灰岩」についても、近年この「生成した火山により性質が異なる」という性質を利用して生成元の火山の特定が可能となりました。これを「近畿」の古墳に適用したところ、その「石室」内の「石棺」に使用されていた材料の産地が、従来考えられていた「奈良の二上山」の他、熊本県(肥後)の「阿蘇熔結凝灰岩」が使用されているものが多数あることが判明したのです。(産地としては熊本県氷川地域と菊池川上流が確認できています)
 このように「材料」を「九州」から調達しながら、設計思想は別の場所からというのははなはだ理解しにくいことであり、従来の論者の論理は破綻しているのが明確です。理性的に考えれば材料の調達先が明確になったのですから、「設計思想」もそこ(肥後)から調達したと考えるべきでしょう。
 さらに、「畿内」における「刳抜式家形石棺」の祖形と考えられてきた大阪府藤井寺市の「長持山古墳」・「唐櫃山古墳」出土の「舟形石棺」も調査により同様に「阿蘇溶結凝灰岩(灰色岩)」製であることが判明し、しかもこの時期に作られた九州の「舟形石棺」の特徴を備えていることから、「九州」から「持ち込まれたもの」あるいはその影響を強く受けたものであることは明白になりました。 
 つまり、「畿内」の前方後円墳については「畿内」にその祖型が確認できないと同時に、「九州(肥後)からその「石室」の形式と材料を受け継いでいることが明らかとなったわけであり、さらに「墳墓」そのものや、その構成のうち主たる場所である「石室」「石棺」などが「肥後」に影響を受けていることは明確であると思われることにもなります。
 
 以上のように「五世紀」の中頃から「阿蘇熔結凝灰岩(灰色岩)」による石棺などが使用された古墳が「畿内」にできはじめるわけですが、これはちょうど「倭の五王」の時代に重なっており、彼らによる「倭国内」拡張政策という政治的行動との関連が考えられるものです。たとえば、「倭国」の軍事的威圧等の前に「附庸国」となり「服属」することとなった「諸国」の、「倭国王権」への「帰属」の証しとして「墓制」が統一されていくなどの状況が想定できるのではないでしょうか。


最終更新 2017/02/19(ホームページからの転載)

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