古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「五衛府制」について

2018年05月04日 | 古代史

 『養老令』に見える「五衛府」(「左右兵衛府」と「左右衛士府」「衛門府」)については、以前からその各々の構成の違いがあることが知られていました。明らかに「兵衛府」及び「衛門府」つまり「地方豪族」に関わる制度の方が先行し、「衛士府」など「班田農民」の存在を前提にしている制度が後出するといえます。
 従来は「兵衛」は「舎人」と関係しており、「衛門」は「靫負」と関係しているとされます。しかもいずれも「国造」の子弟から選ばれたものとも言われます。その意味では「泥氏」が言うように「兵衛府」や「衛門府」は「九州倭国王朝」時代の名残といえるかも知れません。(※)
 ところで、この「兵衛府」や「衛門府」の成立はいつ頃であったでしょう。
 これら「舎人」や「靫負」などに象徴される「地方」の勢力の存在の元に、そのサポートにより「共立」されていたというような時代はかなり古いと考えられますから、少なくとも「阿毎多利思北孤」の「革命政権」の樹立よりも先行すると考えられます。
 たとえば「倭の五王」の「武」の上表文には「虎賁」という表現が出てきます。

「…是以偃息未捷、至今欲練甲治兵、申父兄之志、義士『虎賁』、文武效功、白刃交前、亦所不顧。…」

 この「上表文」の中に出てくる「虎賁」(こほん)は中国では「皇帝」に直属する部隊をいい、いわば「親衛隊」を意味するものです。
 この「上表文」では「古典」に依拠した表現を使用し、「南朝」の「皇帝」など相手側に理解しやすいように言い換えていると思われますが、当然「倭国内」では別の呼称をしていたと思われ、それが「兵衛府」ではなかったかと考えられます。それは後の「藤原仲麻呂」時代(天平宝字二年(七五八年))に「兵衛府」が「虎賁衛」(こほんえい)と改称された例からもいえると思われます。
 その「兵衛」の典型的或いは代表的と言ってもいいのが「大伴」「佐伯」「久米」等の氏族であったと思われます。彼等は「聖武天皇」の「陸奥出金の詔」においても「海ゆかば」という彼等の家訓が示されているように、「皇帝」の至近に警衛している家柄であり、「虎賁」つまり「兵衛府」の有力な氏族であったと思われ、彼等のような氏族のサポートにより維持されていた時代が「倭の五王」の時代であることが推測されるものです。(この「海ゆかば」と「武」の上表文はどこか似ています)
 また、それは「兵衛府」が「中務省」という、「倭国王」に直結する組織に配されていることからも窺えます。更にその「兵衛府」の長官を「率」と表記し「そち」と訓ずるとされていたことも重要です。別途述べますがこの「率」は「魏晋朝」時代まで遡上する起源を持っていると思われ、「率善校尉」「一大率」に使用されている「率」と同義である可能性が強いと思われます。そのように「率」そのものの起源が古いと見られることはその「率」を以て「長官」としている「兵衛府」の組織自体もやはり歴史的なものである可能性を考えるべきでしょう。
 しかし、「阿毎多利思北孤」とそれに引き続く「利歌彌多仏利」の革命により、「公地公民」という概念が導入され、全ての「土地」と「人民」は「倭国王」の所有に帰するものという「テーゼ」が提示され、これに基づき諸制度が定められていったと思料されますが、そのようなものの中に「衛士」つまり「班田農民」からの選抜による「軍」の編成というものがあったと思われ、この事は「五十戸制」の導入と「衛士府」等の成立がほぼ同時であったことを推定させるものといえます。それは「隋制」に「衛士」があることからも推定できます。
 中国においていわゆる「府兵制」という制度は「隋」「唐」で完成したとされますが、これはいわゆる「班田農民」のうち一部を(輪番制で)「兵士」として、農閑期などに「折衝府」に集めて訓練し,また「衛士」として国都や辺境の守備に当たらせたものとされます。
 この事から「隋代」以降「倭国」が導入した諸制度の中に同様の「府兵制」と「衛士」の制度があった可能性が高く、「五十戸制」と同時の導入であったと考えられるでしょう。

 古代中国では「兵衛」は有力各豪族が自己の領域に開いた「軍府」の兵士を言い、「北周」以前から各地に存在していたものですが、これを「隋代」に再編成し「十二衛府」へと変更したものです。この段階で「府兵」と「禁軍」とに分かれました。「府兵」は「班田農民」で構成された「衛士」であり、「禁軍」は皇帝直属の「兵衛」であったものです。
 「倭国」にはこのような制度も存在していたと思われ、各々の諸国の有力者は各自軍団を保有していたと考えられ、それが「兵衛」の前身であったと思われますが、「倭の五王」の時代になり、いわば「大統一時代」、つまり「九州」やその周辺だけではなく、「東国」全般に影響力を及ぼすための(「戦闘」と言うより)「威圧行為」(それは「馬と剣」による)を行っていったと考えられますが、逐次勢力下に置いた各国の有力者から(「質」の意味もありますが)「子弟」を徴発し、「倭国王」の周辺の警護に配置していったものではないでしょうか。これが後の「兵衛府」となっていたものであり、「武」の上表文に書かれた「虎賁」であったと考えられます。
 彼等は「倭国王」の至近に存在することとなるわけですから「氏素性」が明確であることが求められたものであり、そのような人物を父ないし祖に持つようなものだけが「近習できる」というある意味特権でもあったのです。これは「隋・唐」でも行われていた「宿衛」に非常によく似た存在であったと思われます。
 「宿衛」は「各諸国」(例えば「新羅」や「吐播」など)からある種「人質」として受け入れた人員を「皇帝」の近くでボディーガード役とするものであり、「新羅」からは「金春秋」の息子(金仁問)が「宿衛」とされていたという記録があります。
 しかし、「倭国」ではこのような前代から継承した、ある意味「非近代的」ともいえる制度は、その後の「隋制」(「府兵制」と「五十戸制」)の導入により漸次その意味が低下していったと考えられ、「泥氏」も言うように「五衛府」の中で相対的に比重の低い地位しか与えられないと言うこととなったと考えられます。

『隋書俀国伝』に拠れば「朝会」の際には「儀仗」が「陳設」されると書かれており、また「国楽」を奏するとも書かれています。これらは主に「親衛隊」によるものであったものでしょう。

 「…雖有兵、無征戰。其王朝會、必陳設儀仗、奏其國樂…」

 「儀仗」とは「儀式用」の「武器」を指し、上の文章に拠ればそれを「陳設」するとされていますから、展示、並べるわけです。それは「倭国王」の威儀を示すものですが、それが「儀仗」となるためには「ストーリー」が必要であり、それは現在「無征戦」であっても過去においてはそれが「儀仗」ではなく「実用」であった時代の存在を想定させるものでもあります。
 そのことはいくつか例が挙げられている「武器」からもいえます。そこには「弩」や「投石機」のような大がかりな戦闘用のものが含まれており、これが上に見たような「大統一時代」に「倭国内」の統治領域を拡大する過程で活躍したことを推定させるものです。
 しかし、これら「武器」があってそれを使用する「人間」がいなくなったというはずがないわけですから、「無征戦」とはいいながら、「兵員」は確保されていたと思われます。ただし、それは「各氏族」に直結するものであり、「朝廷」(倭国王)のものではなかったものではないでしょうか。つまりこの記事は「府兵制」が未確立の段階の軍制であったと思われ、「兵衛」による「禁軍」だけの状態におけるものであった事が推定されます。(それは「八十戸制」と推察される戸数表現からも制度が未発達な段階にあることが推定されることからもいえます)
 その後「班田農民」による「衛士」が朝廷周辺の警護を担当するようになったと見られます。そして、これは「京師」構築と関係があるともいえるでしょう。つまり、「京師」「都城」が構築されたとすると、「倭国王」本人の警護だけではなく、その都城を守護する防衛組織も必要となったと思われるわけであり、これが後の「衛士府」「衛門府」へとつながっていったと考えられます。
 後の「五衛府」でも「兵衛府」以外は朝廷周囲の警護であり、また市中への見回りなどの役目もありました。これは「都城」あるいは「京師」の存在を前提に考えるべき組織であると思われます。

 また『続日本紀』には「筑紫」に対して「兵衛」と「采女」を貢上するよう指示を出した記事があります。

「(七〇二年)二年夏四月壬子条」「令筑紫七國及越後國簡點采女兵衛貢之。但陸奥國勿貢。」

 これによればそれまでは「筑紫七國」(及び「越後」)は「采女」も「兵衛」も出していなかったこととなります。この「兵衛」が上に見たように「諸国」から「質」として取った存在であるらしいことを念頭に入れると、この時点以前には「筑紫七国」は「諸国」ではなかったこととなり、逆に言えば「直轄領域」であったことが推定できます。つまり、「筑紫七国」のいずれかに「王都」があったこととなるわけですが、この「大宝二年」という段階では「諸国」つまり「王権」中央ではなくなっている事が読み取れ、「筑紫」から「王都」が「近畿」に移動した(遷都か)のがこの時点付近であることとなるでしょう。(ただし実際の年次としては『続日本紀』のこの周辺の年次が「移動」の可能性が考えられることを想定すると、「七世紀半ば」での「王権」の移動というものも考慮すべき事となります)

 ところで「天武」の死去の際に各「官」により「誄」が奏されたわけですが、その中では「左右兵衛府」だけが登場しており、「衛門府」(「衛士府」も)による「誄」がそこには見られません。
(以下関係記事)

「平旦。諸僧尼發哭於殯庭乃退之。是日。肇進奠。即誄之。第一大海宿禰蒭蒲誄壬生事。次淨大肆伊勢王誄諸王事。次直大參縣犬養宿禰大伴惣誄宮内事。次淨廣肆河内王誄左右大舍人事。次直大參當摩眞人國見誄左右兵衞事。次直大肆釆女朝臣筑羅誄内命婦事。次直廣肆紀朝臣眞人誄膳職事。
乙丑。諸僧尼亦哭於殯庭。是日。直大參布勢朝臣御主人誄太政官事。次直廣參石上朝臣麻呂誄法官事。次直大肆大三輪朝臣高市麻呂誄理官事。次直廣參大伴宿禰安麻呂誄大藏事。次直大肆藤原朝臣大嶋誄兵政官事。
丙寅。僧尼亦發哀。是日。直廣肆阿倍久努朝臣麻呂誄刑官事。次直廣肆紀朝臣弓張誄民官事。次直廣肆穗積朝臣虫麻呂誄諸國司事。次大隅。阿多隼人及倭。河内馬飼部造各誄之。
丁卯。僧尼發哀之。是日百濟王良虞代百濟王善光而誄之。次國々造等随參赴各誄之。仍奏種々歌舞。」「(六八六年)朱鳥元年九月戊戌朔甲子条」

 記事の中では「壬生」「諸王」「宮内」「左右大舍人」「左右兵衞」「内命婦」「膳職」「太政官」「法官」「理官」「大藏」「兵政官」「刑官」「民官」「諸國司」「隼人」「馬飼部造」「百濟王」「國々造等」という順列により国の各組織の各々が「誄」を奏しているにもかかわらず、「衛門府」(「衛士府」も)が登場していません。これは省略されたとは考えられず、この時点では「衛門府」「衛士府」は存在していなかったとみるべきでしょう。そのことはこの段階では「都城」が成立していなかったという可能性につながります。つまり「門」があってこその「衛門府」であり「衛士府」であったはずですから、彼らの存在が確認できないということは「都城」そのものが形成されていなかったか、あるいは「都城」に不可欠の「門」がなかったという事にならざるを得ません。
 よく知られているように「藤原京」やそれ以降の「平城京」などには複数の「門」があり、それには「王権」を守護する役目の各氏族の名前がつけられていたものであり、これは各々の氏族には名誉と考えられていたものです。彼らの氏族より選抜された者達により「門」と「宮城周囲」の警護が行われていたものであり、それが「衛門府」であったと思われるわけですが、発掘によれば「難波京」にはそのようなものが確認できず、そのような門が「難波京」では造られなかったという説があります。

 「藤原宮朝堂院東門と東第二堂の調査(奈良文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部二〇〇三・三・十五)」によれば「平城宮東区朝堂院以前の時代には、東門が存在するかは不明でした。今回藤原宮朝堂院で確認したことにより、藤原宮以後、平城宮東区朝堂院(上層)以前に造営された後期難波宮(なにわのみや)朝堂院、平城宮東区朝堂院下層にも、東西の門が存在していた可能性を指摘できます。一方、藤原宮造営以前の宮殿として前期難波宮がありますが、調査の結果からは門が存在する可能性は低く、現状では藤原宮朝堂院東門は朝堂院東西門の最も古い例といえます。」というように報告されており、「東門」がなかった可能性が報告されていますが、「東門」に限らず「西」の他「諸門」がなかったという可能性は高いと推量します。そのことは「天武」が「難波宮」にいたという可能性を推定させます。もし彼が「難波宮」にいたなら「衛門府」など「門」に関する警護の担当による「誄」が奏されなくて当然と言えるからです。それは「難波宮」の時代と「天武」という人間の時代について再検討をする必要があることを示唆するものです。


※泥憲和「大宝律令の中の九州王朝」(『古田史学会報』No.68 二〇〇五年六月一日)


(この項の作成日 2013/05/12、最終更新 2018/04/22)

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「放生」と「孝徳」

2018年05月04日 | 古代史

 「孝徳」という天皇については『書紀』では仏教を偏愛したとされ、はっきりいえば「貶されて」います。

(『孝徳紀』冒頭記事)
「…尊佛法輕神道。斮生國魂社樹之類是也。…」

 このように「國魂神社」の「樹木」(神木か)を「斮(切)った」とされ、「神道」を軽んじたとされる「孝徳」ですが、それと反するように彼の時代とされる「白雉年間」に創建されたという多数の神社があることが明らかになっています。
 「古田史学の会」のホームページには「九州年号」資料が収集されていますが、それによれば「白雉年間」に(主に東国に)「神社」が創建されている例が多く確認されています。たとえば、茨城県、福島県、埼玉県、千葉県、愛知県、東京都、富山県、福井県、長野県等々の神社の由来や縁起を記した文書にこの時代の創建が書かれている例が多く見られます。
 このように「白雉」年間の創建と伝える「神社」「仏閣」が東国を含め多数に上るわけですが、その「祭神」とされているものを見ると「保食神」あるいは「宇迦之御魂神」つまり「稲荷大神」としている場合が相当数あります。「保食神」と「宇迦之御魂神」は『古事記』に出てくるか『書紀』に出てくるかの違いであり、ほぼ同一神格と考えられます。
 また、伊勢神宮に伝わる「神道五部書」には「天照大神」以前には「ウカノヒコ」を祀っていたと書かれているようですが、この「ウカノヒコ」と「宇迦之御魂神」や「保食神」はほぼ同一神と考えられます。つまり、「伊勢神宮」でも、当初は「天照大神」ではなく、「宇迦之御魂神」、「保食神」を祭っていたということになります。また「伊勢神宮外宮」の「豊宇気比売大神」なども同一神とも言われますが、さらに(すでに見たように)「廣瀬大忌神」とも同一神であるともされていることが注意されます。
 これらに深く関係していると考えられるのが、『天武紀』にある以下の記事です。

「(天武)十年(六八一年)…
己丑。詔畿内及諸國。修理天社地社神宮。」

 ここには「天社」「地社」「神宮」という三通りのタイプの神社について言及がありますが、「天社」というのが「天神」を祀る「本社」であり、これは「畿内」つまり「倭国王」の「直下」の地域に存在していたものと思われるものです。この「天社」は彼らの信仰の「根源」とも言えるものであると思われ、非常に重要な扱いを受けていたと考えられます。そのため「改新の詔」においても「天神」の「命じるままに統治する」という言い方をしています。

「大化元年(六四五年)八月丙申朔庚子。拜東國等國司。仍詔國司等曰。『隨天神之所奉寄。方今始將修萬國。』…」

 このように自らの統治の根源として「天神」が出てくるわけであり、またそれを表明することで周囲の「支持」あるいは「承服」が得られるとしていることも「国内」(諸国も含め)におけるこの「天神」という存在の持つ「権威」の高さが知られます。
 また、「神宮」は「伊勢」の他「鹿島」「香取」「石上」にだけ使用される名称であることからこれらは「倭国王権」にとって特に意味のある「神社」であることが了解されるものですが、これらはその「天社」(天神社)から「神分け」された「分社」を云うと思われ、さらに「地社」はその「神宮」から「分社」したもので、「諸国」に存在していたものをいうと考えられます。つまり、「倭国内」の神社間では「序列」が構成されていたことを推定させるものであり、この「諸国」の「地社」が(「末端」として)「白雉年間」に多数創建された「東国」などの神社を指すと思われるものです。
 この記事は「正木氏」も言われるように、単なる建物の修理というようなものではなく、それまで仏教に偏していた倭国の「宗教的」な方向を「神道」にいわば「戻す」形となったと思われ、「常色の宗教改革」と彼により名付けられた所以であると思われます。
 この時点における、「神社改革」の「目玉」(主たる要点)は、「天社」(「伊勢神宮」)を「定め」さらにその祭神である「宇迦之御魂神」を全国(特に東国)に拡大し、「伊勢神宮」を頂点とする「国家祭祀」体系を形作ることにあったものと考えられ、それを「難波副都」という「近畿」における強力な前進基地としての存在と一体化することにより、東国経営を強化する策の一環であったと思料されます。
 しかし『孝徳紀』には実際には(それに反するように)「仏教奨励」と考えられる記事(以下)があります。

「(六四六年)大化二年秋八月丙申朔癸卯。遣使於大寺喚聚僧尼而詔曰。於磯城嶋宮御宇天皇十三年中。百濟明王奉傅佛法於我大倭。是時。羣臣倶不欲傳。而蘇我稻目宿禰獨信其法。天皇乃詔稻目宿禰使奉其法。於譯語田宮御宇天皇之世。蘇我馬子宿禰追遵考父之風。猶重能仁世之教。而餘臣不信。此典幾亡。天皇詔馬子宿禰而使奉其法。於小墾田宮御宇之世。馬子宿禰奉爲天皇造丈六繍像。丈六銅像。顯揚佛教恭敬僧尼。朕更復思崇正教光啓大猷。故以沙門狛大法師福亮。惠雲。常安。靈雲。惠至。寺主僧旻。道登。惠隣。而爲十師。別以惠妙法師爲百濟寺々主。此十師等宜能教導衆僧。修行釋教要使如法。凡自天皇至于伴造所造之寺。不能營者。朕皆助作。」

 この記事では「寺院」を「造る」ようにという「指示・命令」ともいえるような「詔」を出していますが、このような内容は明らかに多数の「神社創建」などという「神道」を重視した事績と全く整合しない内容であり、「白雉年間」の「倭国王」と、この『書紀』が云う「神道を軽んじた」という「孝徳」とは全く整合するものではなく、この両者を同一人物と考えるのは著しく困難です。

 また「難波宮殿」の下層域から「祭祀」に使用したと推定される「馬」の骨が多数出ています。ここでは「宮殿」ないしは「宮域」を建設するにあたり「地鎮祭」のような儀式が行なわれた事を示すと考えられますが、このような「生け贄」を伴う「儀式」を仏教を重んじた人物が行なう(あるいは行なわせた)とはとても思えません。
  仏教には「放生」という考え方があります。そもそも仏教では「不殺生」というのが「戒律」の重要な要素であったものであり、「五戒」の第一に数えられるものです。ただし、「中国」では仏教発祥の地である「インド」とは違って、以前より「犠牲」を伴う「儀礼」を行う文化がありました。それは仏教伝来後もかなり後代まで遺存したものであり、例えば「南朝」「梁」の「武帝」は深く仏教に帰依した結果、宗廟へのお供え物についても「疏菜果実」つまり「肉類」は取り止めということとされています。逆に言えばこの時点までは「宗廟」で犠牲を用いた儀式を行なっていたものであり、それは代々の皇帝の「義務」でもあったわけです。しかし、彼の代になって「儀式」には「犠牲」を用いないということとなり、それは、儀式において「犠牲」の血を猷り、肉を共食するということを止める事を意味しますから、当然それまでの「祭祀儀礼」の伝統に反することとなり、そのため公卿達から強い異議・反対の意思表示があったとされています。

 このように「伝統」と相反する行動となった「不殺生」ですが、この「不殺生」は即座に「放生」に結びつくわけであり、逆に言うと「生贄」という考え方は、それと「対極」にあると言っていいものといえます。
 「生類」全てに「人間」と同等の「命」の重さを見て、殺生を禁じ、解放するという考え方や行動は、「生贄」という「傷を付け」「血を流す」儀式を行なう思想とはかけ離れており、「梁の武帝」の例を見ても分かるように「両立」は困難なのです。
 このような「生贄」やそれを伴う儀式は「殷」や「周」など「古代中国」に淵源するものといえますが、仏教以前の古代的感覚であり、それは『隋書俀国伝』に「敬佛法」という表現と共に、「巫覡」を「最も」信じているという表現(「知卜筮、尤信巫覡。)があることからも、倭国の伝統であったことがわかります。
 このように「命」を重視するのが仏教の本質であると思われますし、それは古代にあってもと言うより、古代こそそのような根本教義に忠実であったといえるものですから、このことからもこの「難波宮殿」を建設した「倭国王」は仏教を重視した人物であるとは考えられないといえることとなると思われます。 
 また逆にいうと「仏式」を軽視し「神道」を重んじた人物は「廣瀬・龍田」という「神式」による「祖霊信仰」を行う事に「変更」した「倭国王」という存在と重なるものであり、またそれは「白雉」年間の「倭国王」に重なるものであるともいえます。

 このことは同時に、その『天武紀』『持統紀』の記事が実際には「孝徳朝期」である可能性を示し、そのことから「孝徳朝期」の記事の「本来の位置」は別の時期(もっと古い時期)に移動することとなると考えられることとなります。
 つまり、『推古紀』の「倭国王」と「孝徳」という人物の示す特徴が共通していることとなり、同一人物という可能性があると思われます。そして、それを示すのが『隋書俀国伝』の記事でしょう。そこでは「敬仏法」とされると共に「隋皇帝」に対し「菩薩天子」と呼びかけまた「(結)跏趺坐」しているとされます。この「(結)跏趺坐」は仏教に帰依した者の正式な「姿勢」であり、この用語が使用されていることからも、この人物が熱心な信者であることがわかります。

「大業三年 其王多利思比孤遣使朝貢。使者曰 聞海西菩薩天子重興佛法 故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法。…」

「開皇二十年 倭王姓阿毎字多利思比孤號阿輩?彌 遣使詣闕。上令所司訪其風俗。使者言 倭王以天為兄以日為弟 天未明時出聽政跏趺坐 日出便停理務云委我弟。高祖曰 此太無義理。於是訓令改之。」

 この時代は正に「推古朝」紀に該当していますが、また上の「仏教奨励の詔」でも「推古朝期」の事跡が紹介されており、それもこの「倭国王」が「推古朝期」の人物であるという示唆を与えるものです。


(この項の作成日 2013/02/09、最終更新 2015/01/20)(ホームページ記載記事を転記)

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廣瀬大忌神と龍田風神

2018年05月04日 | 古代史

 『推古紀』には四月(八日)と七月(十五日)にそれぞれ「灌仏会」と「盂蘭盆会」を始めたという記事があり、それ以来「毎年行なう」とその時点では決められたとされます。

「(推古)十四年(六〇六年)夏四月乙酉朔壬辰。銅繍丈六佛像並造竟。是日也。丈六銅像坐於元興寺金堂。時佛像高於金堂戸。以不得納堂。於是。諸工人等議曰。破堂戸而納之。然鞍作鳥之秀工。以不壌戸得入堂。即日設斎。於是。會集人衆不可勝數。『自是年初毎寺。四月八日。七月十五日設齊。』」

 しかし、それ以降これらに関する記事はありませんでしたが、『孝徳紀』に「冠位改定」の記事の最後に「四月七月齋時」に(その「冠」を)着用すると書かれています。

「六四七年」大化三年…
是歳。制七色一十三階之冠一曰。…此冠者大會饗客。四月七月齋時所着焉」

 これは明らかに「灌仏会」と「盂蘭盆会」の「齋時」の際に着用するということと考えられ、この時点では「灌仏会」も「盂蘭盆会」も「国家的行事」として行っていたものと考えられますが、これ以降明確に「灌仏会」「盂蘭盆会」と理解できる記事は、以下の「斉明紀」の「盂蘭盆会」記事だけになります。

「(斉明)三年(六五七年)秋七月…辛丑 作須彌山像於飛鳥寺西 且設『盂蘭盆會』」

「(斉明)五年(六五九年)…秋七月…庚寅 詔群臣 於京?諸寺 勸講『盂蘭盆經』 使報七世父母」

 ただし、下に見る「白雉三年」の記事は「灌仏会」と時期がほぼ重なっており、可能性があります。

「六五二年」白雉三年…夏四月戊子朔壬寅(十五日)。請沙門惠隱於内裏使講無量壽經。以沙門惠資爲論議者。以沙門一千爲作聽衆。
丁未(二十日)廿。罷講。…」

 しかし、その後は見あたらず、その後「忽然」として「六七五年四月」の「廣瀬」「龍田」記事になるのです。

「(天武)四年(六七五年)…夏四月甲戌朔…癸未。遣小紫美濃王。小錦下佐伯連廣足祠風神于龍田立野。遣小錦中間人連大盖。大山中曾禰連韓犬祭大忌神於廣瀬河曲。」

 これ以降、特に『持統紀』に入ってこの「廣瀬大忌神」「龍田風神」へ「使者」を派遣し「祭る」という記事が頻繁に見られるようになります。

 以下に全記事を挙げます。

六七五年 夏四月甲戌朔…癸未(十日)。遣小紫美濃王。小錦下佐伯連廣足祠風神于龍田立野。遣小錦中間人連大盖。大山中曾禰連韓犬祭大忌神於廣瀬河曲。」 (七月はなし)
六七六年 夏四月戊戌朔辛丑(四日)。祭龍田風神。廣瀬大忌神。 (七月はなし)
六七七年 (四月はなし) 秋七月辛酉朔癸亥(三日)。祭龍田風神。廣瀬大忌神。
六七八年 (四月七月ともになし)
六七九年 (夏四月辛亥朔)己未(九日)。祭廣瀬龍田神。  (秋七月己卯朔)壬辰(十四日)。祭廣瀬龍田神
六八〇年 夏四月乙巳朔甲寅(十日)。祭廣瀬龍田神。 (秋七月甲戌朔)辛巳(八日)。祭廣瀬龍田神。
六八一年 夏四月己亥朔庚子(二日)祭廣瀬龍田神。  (秋七月戊辰朔)丁丑(十日)。祭廣瀬龍田神。
六八二年 夏四月癸亥朔辛未(九日)祭廣瀬龍田神。  (秋七月壬辰朔)壬寅(十一日)。祭廣瀬龍田神。
六八三年 (夏四月戊午朔)戊寅(二十一日)。祭廣瀬龍田神。 (秋七月丙戌朔)乙巳(二十日)。祭廣瀬龍田神。
六八四年 (夏四月壬子朔)甲子(十三日)。祭廣瀬大忌神。龍田風神。 (秋七月庚戌朔)戊午(九日)。祭廣瀬龍田神。
六八五年 夏四月丙子朔己卯(五日)。祭廣瀬龍田神。 秋七月乙巳朔乙丑(二十一日)。祭廣瀬龍田神。
六八六年 (四月はなし)  (秋七月己亥朔)甲寅(十六日)。祭廣瀬龍田神。
六八七年 (四月七月ともになし)
六八八年 (四月七月ともになし)
六八九年 (四月七月ともになし)
六九〇年 夏四月丁未朔己酉(三日)。遣使祭廣瀬大忌神與龍田風神。  (秋七月丙子朔)癸巳(十八日)。遣使者祭廣瀬大忌神與龍田風神。
六九一年 (夏四月辛丑朔)辛亥(十一日)。遣使者祭廣瀬大忌神與龍田風神。  (七月はなし)
六九二年 (夏四月丙申朔)甲寅(十九日)。遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。  (秋七月甲午朔)甲辰(十一日)。遣使者祀廣瀬與龍田。
六九三年 夏四月庚申朔丙子(十七日)。遣大夫謁者。詣諸社祈雨。又遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。  (秋七月戊子朔)己亥(十二日)。遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。
六九四年 (夏四月甲寅朔)丙寅(十三日)。遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。  (秋七月癸未朔)丁酉(十五日)。遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。
六九五年 夏四月戊寅朔丙戌(九日)。遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。 秋七月丙午朔戊辰(二十三日)。遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。
六九六年 夏四月壬申朔辛巳(十日)。遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。 (秋七月辛丑朔)戊申(八日)。遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。
六九七年 (夏四月丙寅朔)己卯(十四日)。遣使者祀廣瀬與龍田。是日。至自吉野 (秋七月乙未朔)丙午(十二日)。遣使者祀廣瀬與龍田。

 上に見るように「六七五年」の記事以降、多数の(ほぼ毎年)「廣瀬」「龍田」記事が見られるようになります。さらに(六八七-六八九年)の間は全く行われていないようです。そして「六九〇年」以降「六九七年」という『書紀』の最終段階まで見られるものの、『続日本紀』に入ると「突然」、全く見えなくなります。(但し、『養老令』の中の「神祇令」では「神祗官」の祭る定期的な祭祀として、各季節ごとに定めがありますが、その「孟夏」と「孟秋」の祭祀として「大忌祭・風神祭」というものがあり、これが「廣瀬・龍田」であることは間違いなく、重要行事として継承されてはいるようですが)
 このように「廣瀬」「龍田」記事は「天武」「持統」時代に特徴的かつ集中的であるわけですが、これが何を意味する記事なのかという点については、余り多くの議論を聞きません。
 両神は「一見」「水神」と「風神」という自然神であるように受け取られており、単に「天候」に関するものとして「日照り」「大雨」などの自然災害のなきことを祈るという意味以上には受け取られていないようです。しかし、そうであれば、特にこの時期に集中する理由を説明する必要がありますが、それは困難であると思われます。

 調べてみると、これは基本的には「四月」及び『持統紀』の場合は大抵の場合「七月」にも行なわれており、それはあたかも「灌仏会」「盂蘭盆会」の如くであり、この両祭会との関連を推定させるものです。
 その「日付」を見ると、「四月」「七月」ともかなり「ばらつく」ものの、上に見るように「四月」の場合は「平均」すると「10.5日」、「七月」の場合は、同じく平均すると「13.2日」ほどとなり、ともにほぼ「灌仏会」の「七日」及び「盂蘭盆会」の十五日の周辺の日付が選ばれているように見えます。このことは、この「祭廣瀬龍田神」という行事(儀式)が、およそ「灌仏会」と「盂蘭盆会」に相当する行事であったと考えられるものではないでしょうか。
 このことから、「灌仏会」と「盂蘭盆会」という仏式による「国家的行事」がこの時点以降行なわれなくなり、代って「廣瀬大忌神」と「龍田風神」という一種「地方神」が「国家」により祭られるという事が始まったと想定できることとなります。
 それについては、そもそも「灌仏会」と「盂蘭盆会」という「齋時」が「祖霊(祖先)信仰」の要素が多分にあったことと関係していると考えられるものです。

 この「灌仏会」と「盂蘭盆会」は「中国」の南北朝期に両朝で盛行したものであり、「北魏」以降の北朝では特に盛大に「灌仏会」が「皇帝」に直接関わる宮廷行事として歴代王朝で行なわれたとされています。
 この「灌仏会」や「盂蘭盆会」を行なう際の経典として使用されたものとして推定されているものに「般泥?後灌鑞(にくづき)経」「仏説灌洗仏形像経」「仏説摩訶刹頭経」の三種があるとされ、いずれも「仏」に対する信仰と共に「祖霊(祖先)信仰」がそこに込められているようです。
 そこでは「四月八日及び七月十五日」の両日とも「灌仏」つまり「仏」の像に「香水」を掛けること、および「七月十五日」にも「灌仏」を行なう事は「七世父母五種親族」で苦しむものを救う功徳があると説かれるのです。
 たとえば、「般泥?後灌鑞(にくづき)経」では以下のように書かれています。

「若佛般泥?後。四輩弟子比丘比丘尼優婆塞優婆夷。四月八日七月十五日。灌臘當何所用。…」

 ここでは「佛」が涅槃に入られた後「四月八日」と「七月十五日」には「灌臘」(像にかける水のこと)は何を用いたらいいかと尋ねています。この質問の趣旨から考えて「灌仏」は「七月十五日」にも行う前提であると思われますし、また同じ経典の中の別の部分にも以下のようにあります。

「…七月十五日。自向七世父母五種親屬。有墮惡道勤苦劇者。因佛作禮福。欲令解脱憂苦。名爲灌臘。…」

 つまり、「七月十五日」に「灌仏」を行う事で「七世父母五種親屬」の中で「悪道」で苦しんでいるものを「解脱」させられるとされているのです。

 また中国南朝(南朝劉宋など)においても同様に「皇帝」(孝武帝)自ら関わる形で「内殿」において「灌仏会」を行い、その際には「初代皇帝」である「高祖(武帝)」の供養も併せて行なっていたという事例があります。
 これらのことから、「倭国」において「灌仏会」と「盂蘭盆会」が受容されるにあたっても、「祖霊信仰」がベースにあったものと考えられ、(そのことは「斉明紀」の「盂蘭盆会」記事において「使報七世父母」とあることからも推察できますが)、そのことが「祭廣瀬龍田神」という現象(儀式)と深くつながることとなった要因であると思われます。

 たとえば、「法隆寺釈迦三尊像」の光背の解析からは、「上宮法皇」という人物(これは「阿毎多利思北孤」と思われます)について「釈迦」と同一化する信仰があったと見られることが明らかになっており、「灌仏会」というものが「釈迦」の誕生日を祝うものですから、同時に「阿毎多利思北孤」に対する畏敬の念を表すには適切なタイミングと考えられたということも有り得ると思われます。
 「釈迦三尊」の光背銘文によるとこの「釈迦三尊」は「上宮法王」の「病気平癒」を祈念して造り始められたものとされています。この「銘文」の中には「懐愁毒」という用語があり、これが「大方便仏報恩経」という経典に典拠があるものと判明しています。(※)

「優填大王戀慕如來、心懷愁毒、即以牛頭栴檀、{てへん+票}像如來所有色身、禮事供養、如佛在時、無有異也」

 この銘文はこの「経典」を踏まえたものであり、「太后」が亡くなられた後すぐに、上宮法王とその夫人が亡くなられたのは、『お釈迦様』が、亡き母に説法するため天に行かれたのと同じ事」と理解されたことを示していると思われます。このことから「釈迦三尊像」が「法隆寺」の「首座」として入った時点以降「上宮法皇」(阿毎多利思北孤)は「釈迦」に擬されることとなったと思われますが(それはこの「釈迦像」が「尺寸王身」という表現から「王」そのものを示すものであったことからも分かります)、「釈迦」に対する「敬慕」を表す「灌仏会」を行なうという趣旨からも、この「阿毎多利思北孤」死去という時点以降については「先皇供養」という面も重視されるようになったと見られ、それが変じて「七世紀半ば」になると「利歌彌多仏利」死去という事態を承け、「利歌彌多仏利」を神格化したと思われる「宇加之御魂神」を祭る「廣瀬大忌神」に「使者」を派遣し「祭り」を行なうという儀式が始まったのではないでしょうか。(この時点での創建であったのかも知れません)

 そもそも、「廣瀬大忌神」とは、奈良県北葛城郡河合町に現在も存在する神社であり(現在は「広瀬大社」と名乗っています)、その祭神は社伝では「若宇加能売命 」(わかうかのめのみこと)とされていて、これは「伊勢神宮外宮」の「豊宇気比売大神」や、「伏見稲荷大社」の「宇迦之御魂神」と「同神」ともされています。
 また、この「宇迦之御魂神」は「全国」の「稲荷社」において祭神であるとされる場合が非常に多く(特に「東国」で多いとされる)、このように多数の神社で祭神とされるためには、「国家」による祭祀が行われるなどの事象が無くてはならないと考えられ、「ある時点」で全国に半ば強制的に「創建」されるなどのことがあったと見なければならないと思われます。これを示すと考えられるのが「白雉年間」に創建された「寺社」についての解析です。

 「古田史学」の会のホームページには「九州年号資料」が閲覧可能ですが、それを見ると「白雉」年間に創建された寺社が非常に多いことが判ります。しかもその寺社のうちかなりの数が、その祭神を「宇迦之御魂神」としている「稲荷社」であるようです。
 つまり「白雉年間」(七世紀半ば)に多数の神社(および寺院)が「創建」されたことと、この「廣瀬・龍田祭祀」というものが強く関連していると考えられるわけです。
 またそれは「稲荷台古墳」「稲荷山古墳」という名称の古墳が特に東国に多いと言う事とも関連していると考えられます。これらの古墳は共通して「五世紀」以前のものであり、既にその古墳の主であった人物については「神格化」されて、地場では信仰の対象であったのではないかと考えられますが、それを「宇迦之御魂神」を祀る神社に変更するよう「(政治的)圧力」をかけられたのではないでしょうか。これらのことがあったため、東国に多くの「稲荷社」ができる事となったと考えられるものです。

 また「龍田風神」は奈良県生駒郡三郷町にある「龍田神社」の祭神であったものであり、『延喜式』に載る「龍田風神祭祝詞」では、「崇神天皇」の時代、数年に渡って凶作が続き疫病が流行したため、天皇自ら「天神地祇」を祀って祈願したところ、「天御柱命」「国御柱命」の二柱の神を「龍田山」に祀るように「夢告」があり、これに基づき創建されたと書かれています。
 『書紀』を見ると、「風神」として「級長戸邊命」「級長津彦命」が「伊弉諾」から生まれています。

(『日本書紀』巻一第五段一書第六)
「一書曰。伊弉諾尊與伊弉冊尊。共生大八洲國。然後伊弉諾尊曰。我所生之國唯有朝霧而薫滿之哉。乃吹撥之氣化爲神。號曰級長戸邊命。亦曰級長津彦命。是風神也。又飢時生兒號倉稻魂命。…」

 この両者が『延喜式』にいう「龍田風神」を指すと考えられ、「二柱」の神というのがこの両者であると推測できます。
 また、この時点で「倉稻魂命」(宇迦之御魂神)も生まれており、共に「伊弉諾」の吐く息から生まれた事となっていますから、これらの神は非常に近しい関係にあったということがわかります。
 
 また「龍田」はその名が示すとおり「龍」に関係しているという伝承もあり、「龍宮」伝説もあるようです。
 謡曲の「逆鉾」ではこの「龍田の神」は「瀧祭の明神」とされ、また「天地開闢」の際の「天瓊矛」を納めてあるともされ、「国生み」に直接関わる神とする伝承があったことが判ります。

「…時に国常立伊弉諾に託して宣はく。豊芦原千百五種の国あり。汝よく知るべしとて。則ち天の御矛を授け給ふ。伊弉諾伊弉冊は。天祖の御教。すぐなる道をあらためんと。天の浮橋に。二神たゝずみ給ひて。この御矛を海中に。さしおろし給ひしより。御矛を改めて。天の逆矛と名づけそめ。国富み民を治め得て。二神の始より。今の代までの宝なり。その後国土治まりて。御世平かになりしかば。瀧祭の明神。この御矛を預かりて。所もあまねしや。この御山に納めて。宝の山と号すなり。…」

(ただし、これについてはその他の伝承は全て「伊勢神宮」にその「天瓊矛」はあるとされますが、上に見たように「祭神」が共通していることには注意すべきでしょう。)
 このように「龍田風神」は「風神」であるはずにも関わらず、「瀧」「龍宮」など明らかに「水」に関係している部分があり、また「天瓊矛」伝承とも関係していることなど不可思議な点が多々あるように思えます。

 この「広瀬」「龍田」両神が「祖霊信仰」の対象とされていたわけであり、それに対して「国家」として「祭祀」が行なわれたものとすると、これらの神は「倭国王権」と深い関係にあると考えざるを得ないものです。
 その意味では「広瀬」という地が特別な意味を持っていたものと思われますが、この地が「百済」と称される領域の中にあり、そこは「敏達」を初めとする「忍坂王家」の代々の本拠地となっていたことを考え合わせると(「敏達」の「殯宮」も「広瀬」の地に設けられたものであり、そこは「息長氏」から夫人として迎えた「廣姫」との宮の至近の地でもあります)、この「広瀬神社」あるいは「広瀬大忌神」という存在が彼あるいはその太子とされる「忍坂日子人大兄」につながる神社であったということも考えられるところです。
 彼は『書紀』では「皇祖大兄」と称される特別な存在であったわけですし、また『隋書』にいう「阿毎多利思北孤」あるいは「利歌彌多仏利」という人物に該当する可能性も高いと思われますから、以降の王権が彼に対する追慕と畏敬の念を表すために「使者」を派遣していたということも想定できるでしょう。
 またこの「広瀬神社」で祭られていたとされる「宇迦之御魂神」については、「素戔嗚尊」の子供という伝承もあるように「出雲」系の神であり、「医薬」や「武器」などの点で「倭国王権」と深い関係があったものと考えられます。
 さらに風神とされる「級長戸邊命」「級長津彦命」には「級長(しなが)」という「地名」が冠せられていることも重要でしょう。これについては「押坂彦人大兄(忍坂日子人太子)」の陵墓が「磯長(しなが)」にあるとされることが重要であると思われ、「風神」の本性は彼ではなかったかと考えられ、彼が「皇祖」とされることと深く関係していると思われます。

※石井公成「聖徳太子研究の最前線」2010年10月31日(https://blog.goo.ne.jp/kosei-gooblog/e/5e2efa94ebc42700d52f50d043abde2a )


(この項の作成日 2013/01/23、最終更新 2015/01/06)(ホームページ記載記事に加筆)

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押坂王家と倭国王

2018年05月04日 | 古代史

 「皇祖大兄」についてそれが「押坂彦人大兄」であることは『書紀』の記述からも明らかですが、彼は「息長氏」の系列に属する人物でした。彼の母親は「息長眞手王女廣姫」とされています。また彼女は「敏達」の最初の皇后であったとされており、彼らの宮は「百済大井宮」と呼称されていたようです。

「(五七二年)(敏達)元年夏四月壬申朔甲戌。三。皇太子即天皇位。尊皇后曰皇太后。
是月。宮于百濟大井。」

「(五七五年)(敏達)四年春正月丙辰朔甲子。立息長眞手王女廣姫爲皇后。是生一男。二女。其一曰押坂彦人大兄皇子。更名麻呂古皇子。其二曰逆登皇女。其三曰菟道磯津貝皇女。…」

 この「宮」の所在地については諸説あるようですが、「奈良県桜井市」の「広陵町」にあったとみられます。その後「廣姫」が亡くなり、新たに迎えたのが「推古」でした。そして彼らの宮は新たに設けられた「譯語田宮」という場所であったものです。

「(五七五年)(敏達)四年…
是歳。命卜者占海部王家地與絲井王家地。卜便襲吉。遂營宮於譯語田。是謂幸玉宮。
冬十一月。皇后廣姫薨。」

「(五七六年)(敏達)五年春三月己卯朔戊子。有司請立皇后。詔立豐御食炊屋姫尊爲皇后。是生二男。五女。其一曰菟道貝鮹皇女。更名菟道磯津貝皇女也。是嫁於東宮聖徳。其二曰竹田皇子。其三曰小墾田皇女。是嫁於彦人大兄皇子。其四曰■■守皇女。更名輕守皇女。其五曰尾張皇子。其六曰田眼皇女。是嫁於息長足日廣額天皇。其七曰櫻井弓張皇女。」

 「敏達」が死去した際には「殯宮」は「広瀬」に設けられたとされていますが、これは「百済大井宮」の至近であったと見られます。

「(五八五年)(敏達)十四年…
秋八月乙酉朔己亥。天皇病彌留崩于大殿。是時起殯宮於廣瀬。」

 このような場合「宮」の近くに「殯」する場所を設けるのが通常であり、その意味では「推古」との「譯語田宮」の近くではなく前皇后との宮である「百済大井宮」の至近が選ばれているのは不審といえます。
 またこの「推古」の「母」が「蘇我稲目」の「娘」である「堅鹽媛」であることを考えると、『書紀』などで「蘇我氏」の権威が高かったと一般に考えられることと齟齬しているように感じられます。

(五四一年)(欽明)二年春三月。納五妃。元妃。皇后弟曰稚綾姫皇女。是生石上皇子。次有皇后弟。曰日影皇女。此曰皇后弟。明是桧隈高田天皇女。而列后妃之名。不見母妃姓與皇女名字。不知出何書。後勘者知之。是生倉皇子。次蘇我大臣稻目宿禰女曰堅鹽媛。堅鹽。此云岐施志。生七男。六女。…其四曰豐御食炊屋姫尊。…」

 しかし、既に述べたように「敏達」以降「押坂彦人大兄」またその「弟王」である「難波王」などに権威が継承されていったらしいことが推測されるわけですが、それはとりもなおさず「息長氏」の影響力が強かったことを意味するものであり、その意味で「敏達」の殯宮も「廣姫」との「宮」の至近である「広瀬」に営まれたことは、その時点では当然であったともいえます。それは「敏達」の「夫人」として「蘇我氏」が父親である子供が一人もいないと言うことにも現れています。このような婚姻関係の薄さは「敏達」の前後を見ると希有なことであり、「押坂王家」と「蘇我氏」の関係の薄さを物語るものであり、同時に「押坂王家」とその背後にいる「息長氏」の関係の深さをまた物語るものでもあります。

 またこれについては『書紀』によれば「大臣」である「蘇我馬子」が自ら「吉備」に赴き「屯倉」に関する事務を処理している間にこれらの后と夫人達の人選が行われたと見られ、その意味でも「蘇我氏」の意向は強く反映されていないものと思われます。

 『書紀』では「推古」と「蘇我氏」あるいは「聖徳太子」にクローズアップされて書かれていますが、実際には「敏達」以降「押坂王家」が「王権」の主流であったと見るべきと思われるわけであり、そう考えれば『隋書』に「倭国王」と描かれた人物が「男性」であることは奇妙ではなく、「押坂彦大兄」あるいは「難波皇子」などの「押坂王家」の人物が該当すると考えることができるでしょう。(この段階で「王権」と「息長氏」との関係が深いとされるのは、すでに検討した「神功皇后」の時代がちょうどこの年次付近であると推定されることと重なっています。なぜなら「神功皇后」はその名を「息長足姫尊」といい、「息長氏」の一員である事が明確だからです)

 ところで「押坂彦人太子」は『古事記』では「忍坂日子人太子」と書かれ、「甲辰年」つまり「五八四年」に死去したとされます。(この部分の解析からはこの「崩年」が「敏達」に関わるものではないことが推察できます)
 この年次は明らかに「隋使」発遣以前ですから、この『隋書』の中の「倭国王」は「日子人太子」ではないこととなります。その場合次代の「倭国王」は誰であったでしょうか。
 この時代は「兄弟相承」が基本であったという考え方がありますが、もしそうなら必然的に「難波皇子」にその座が行くこととなります。
 つまり、この『隋書』に書かれた「倭国の風俗」部分が「遣使」以前の状態を写したものと考えると、この時点の「阿毎多利思北孤」と称した人物は「難波皇子」であったという可能性が高いのではないでしょうか。そうすると、彼の朝廷を「難波朝廷」と称したとしても不思議ではなく、「評制」の全国展開が彼の時代とすると、伊勢神宮の起源とも関連して整合的理解ができると思われます。(「なにはづ」の歌との関連も考えるべきことでしょう)


(この項の作成日 2014/12/10、最終更新 2018/04/21)(ホームページ記載記事に加筆)

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