古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「崇福寺」について(三)

2018年05月14日 | 古代史
 すでに述べたように「行基」が「崇福寺」の創建に関わっているとみるのは「菩提遷那」(「婆羅門僧正」)という人物との関連からも推定できます。
 この人物は「遣唐使」であった「多治比広成」「学問僧理鏡」「中臣名代」らの要請により「天平六年」(七三六年)に「唐」より来日した「インド僧」であり、彼が来日した際には「行基」が出迎えをするなど歓迎を受けています。そして彼は「東大寺」の大仏開眼の際には「導師」として「大仏の目に墨を入れる」という大任を果たしており、「聖武天皇」以下王権内部から強力な支持を受けていた事が解ります。その理由としてはやや不明な点はありますが、「大仏」つまり「毘盧舍那佛」そのものが「華厳経」に関連しているものであり、「菩提遷那」はその「華厳経」を常に読経していたとされますから、「毘盧舍那佛像」を造るという中に「菩提遷那」がかなり指導的役割をしていたものではないかと考えられます。
 またそれは後日「東大寺」を建立するために、「行基」(及び「橘諸兄」)が「伊勢神宮」に遣わされ、「舎利」を献上することで「伊勢神宮」の領地(飯高郡)から寄進を受けることとなったという経緯があったという「伝承」とも関連しているとされます。なぜならその「舎利」は「菩提遷那」が「天竺」から持ち来たったものと言うことが言われているからです。そして、その「舎利」について「伊勢神宮」ではこれを「(如意)寶珠」であるとして歓迎したとされます。(宮内庁書陵部に残される『行基菩薩秘文』による)
 それによれば「日輪」(これは天照大神)すなわち「大日如来」の本地は「廬舎那仏」であるとして、「大仏」を作りそれを収容する寺院を造ることを「善いこと」であるとしています。
 
(『行基菩薩秘文」)「日輪者大日如来也 本地者廬舎那佛也 … 実相真如之日輪、明生死長夜之闇/本有常住之月輪、掃無明煩悩之雲/我遇難遇之大願、於闇夜如得之燈/亦受難受之宝珠、於渡海如請之船/造聖武大仏殿故、慶豊受大神宮事/善哉善哉神妙神妙自珍者/五先垂跡地神霊、富相応所安一志/飯高施福衆生故、…」
 
 これについては一般には「平家」によって「東大寺」が焼亡した際に再建のため「伊勢神宮」に「重源上人」が「後白河法皇」から遣わされた時点で作られた話と解釈されています。しかし、そもそもこの「伊勢」参詣は「天平の創建時に伊勢に祈願したという先例」に基づくものであったとされており、そのような事実がないにも関わらず「先例」に基づくとしても説得力がないのは確かですから、話の内容から考えて実話であったという可能性が高いと思われます。そう考えて矛盾がないという点が重要です。飯高郡の豪族らしい人物が以下のように「位」を授けられているのはその現れと思われます。
「天平十年(七三八年)九月丙申朔甲寅。伊勢國飯高郡人无位伊勢直族大江授外從五位下。」
「天平十四年(七四二年)夏四月甲申。伊勢國飯高郡采女正八位下飯高君笠目之親族縣造等。皆賜飯高君姓。…」
 また「伊勢神宮」への参詣については多くの史料が「行基」と共に「橘諸兄」についても記していますが、『続日本紀』には確かに「伊勢神宮」へ使者として「橘諸兄等」が派遣された記事があります。
「天平十年(七三八年)五月辛夘。使右大臣正三位橘宿祢諸兄。神祇伯從四位下中臣朝臣名代。右少弁從五位下紀朝臣宇美。陰陽頭外從五位下高麥太。齎神寳奉于伊勢大神宮。」
 
 この派遣の後に飯高郡の「无位伊勢直族大江」に対して「外從五位下」を授けるという褒賞が行われており、これは「飯高郡」からの調庸の施入に対するものではなかったかと考えられるものです。(特に銀あるいは水銀という特殊な金属材料が産出していた記録があり、これが目的であったとも考えられるでしょう)
 この時と前後して(時期は史料により異なる)「行基」も派遣されたとする伝承があります。たとえば『日本帝皇年代記』によれば「行基」は「天平十三年」に「伊勢神宮」に「仏舎利」を献上するため派遣されています。
「辛巳(天平)十三 勅行基法師、授仏舎利一粒、献伊勢太神宮、有種々神託…」
 この時の「仏舎利」が「菩提遷那」の提供したものであるということが言われているわけであり、そのことは「廬舎那佛」の造仏に際して「菩提遷那」の深く関わっていることと、それにさらに「伊勢神宮」とが関連していることを示すものです。
 そもそも「菩提遷那」が日本への渡海要請を受けた理由として、以前に既に「来倭」していたという「文殊菩薩」に逢うためであったという説があることが注目されます。
 その「文殊菩薩」については「行基」を指すという伝承がありますが、それは後代派生したものと思われ、彼の来日時点では既に過去の人物となっていた「誰か」であった可能性が強いでしょう。(水野氏によればこれは仏教初伝に関係しているとされる「雷山先如寺」の「清賀上人」を指す可能性があるとされます。)
 その「菩提遷那」が「唐」に滞在していた時点で所在していた寺院が長安(西京)の「崇福寺」なのです。
 後に「鑑真」が来日した際に「菩提遷那」が慰問に訪れ、「長安」の「崇福寺」であなたに「律」を教えられたことがあるか覚えているかという問いに「鑑真」が覚えていると返事したとされます。
(『東大寺要録』「大和尚伝」より)「…後有婆羅門僧正菩提亦来参問云。某甲在唐崇福寺住経三日。闍梨在彼講律。闍梨識否。和上云憶得也。」
 
 つまり「菩提遷那」と「崇福寺」とは特別な関係であり、「インド」から唐に渡ってきた「菩提遷那」が(期間は不明ですが)学問僧として「崇福寺」に滞在していたものであり、その時点で「鑑真」を初めとした高僧から教義を授けられた意義深い場所であったものです。この「崇福寺」と今「紫香楽」の地にその創建を措定している寺院名が同じ「崇福寺」であるのは偶然ではなく、「行基」や「聖武天皇」は「菩提遷那」のために「長安」の「崇福寺」を再現しようとして同じ寺名の寺院を我が国にも作ろうとしていたのではないかと推察されるわけです。
 上に見るように『日本帝皇年代記』に拠れば(紫香楽の)「廬舎那仏」は「長一十六丈」とされ、大きさが指定されていることから実際には造られたものと考えられます。ただしこれがうまく行ったのかどうかは不明であり、大きすぎると型の内部で気泡などができやすく鋳造はかなり困難を極めたという可能性が高いと思われます。
 また「正倉院文書」の中の「筑後国正税帳」をみると、『造同( 銅) 竈工人』が献上された」旨の記事があります。これが「天平十年(七三八年)」のこととされていますから、上に見る伊勢神宮への参詣などと一環の事象であったことが推定され、彼らが「菩提遷那」と「廬舎那佛」の造仏に深く関わっているのは明白と思われます。
 「唐」の都「長安」にあった「崇福寺」ならば「菩提遷那」との関連で「聖武」や「行基」にとって特別の意義があったとみられ、それにちなんで命名したとして不思議はありません。しかも以下の史料からみて「長安」の「崇福寺」は「武則天」時代の「垂供末年」(六八八年)以降でなければ「崇福寺」という寺名ではなかったことが明らかです。
 彼が来日する以前に所在していたとされる長安の「崇福寺」は当初「西太源寺」という寺院であったとされます。(『大正新脩大蔵経』データベースより)
(『大正新脩大藏經』/史傳部二/二〇六一 『宋高僧傳』三十卷/卷二/譯經篇第一之二正傳十五人 附見八人/『周西京廣福寺日照傳』より)
「周西京廣福寺日照傳/地婆訶羅。華言日照。中印度人也。洞明八藏博曉五明。戒行高奇學業勤悴。而呪術尤工。以天皇時來遊此國。儀鳳四年五月表請翻度所齎經夾。仍準玄奘例。於一大寺別院安置。并大德三五人同譯。至天后垂拱末。於兩京東西太原寺《西太原寺後改西崇福寺。東太原寺後改大福先寺》及西京廣福寺。…」
 これをみると「崇福寺」は「天后垂拱末」つまり「六八八年」という段階ではまだ「西太原寺」という寺院名であり、「崇福寺」という寺院名に変えられるのはそれより後のことであったことがわかります。その意味からも『天智紀』の創建ではなかった可能性が高いと言えるでしょう。
 それに対しこの「崇福寺」が「七世紀半ば」の創建であるというのがもし正しいとすると、その「寺名」は別の由緒を考えなければなりませんが、その場合、「南朝」の首都建康に「晋(東晋)」の時代にあった「崇福院」に由来すると言う考えもあり得ます。
 『崇福寺志』によればその創建は「北宋」の「擁熙年間」という説もあれば「東晋」にあった「崇福院」がそれであるという説もあるなどとされ、定まっておらず、いわゆる天智朝の時代に存続し続けていたものかは疑わしいともいえるでしょう。(それが倭国に認知されていたかも同様に疑わしいといえます)
「…按艮山門在城東北、慶春門宋時為東靑門在城東、其地上下相距數里不能混也。崇福院與崇福寺本是二名惟咸?志謂之崇福院元係寶壽院祥符元年改額在艮山門外則非慶春門外難消埠之崇福院明矣嗣後府縣志皆稱為崇福寺。而刪去寶壽舊額但云改賜今額夫不載舊額則何從改賜府縣志之誤顯然至仁和趙志乃以寶壽院額屬之難消埠之崇福院…」
 またこの「紫香楽宮」の至近には後年「甲賀寺」があったとされます。そこに「盧舎那仏像」を建てる予定があったという伝承が伝えられています。推測するとこの「甲賀寺」が本来の「崇福寺」ではなかったでしょうか。
 またここに「甲賀寺」が建てられたとすると、『敏達紀』に登場する「弥勒像」を伝えたという「鹿深臣」との関連が考えられます。
「敏達十三年(五八四年)秋九月条」「從百濟來鹿深臣闕名字。有彌勒石像一躯。佐伯連闕名字。有佛像一躯。」
 
 この「鹿深」は「甲賀」と同一の地であり、ここがその「鹿深臣」の勢力の範囲であって、そこには「弥勒」に関する信仰拠点のようなものがあったとしても不思議ではありません。
 そう考えれば、当初「崇福寺」して建てられたもののその後「甲賀寺」として残ったということが推定されます。

(この項の作成日 2003/01/26、最終更新2015/03/15)(ホームページ記載記事を転記)
コメント

「崇福寺」について(二)

2018年05月14日 | 古代史
 『続日本紀』には「崇福寺」と「梵釈寺」の両方について「禅侶の聖なる地」であることを述べる下りがあります。
 
『日本後紀』巻廿四弘仁六年(八一五)正月丁亥十五」「…又崇福梵釋二寺者。禪居之淨域。伽藍之勝地也。今聞。道俗相集。還穢佛地。繋馬牽牛。犯汗良繁。宜令近江国嚴加禁斷。若有不從制者。五位已上録名。六位已下留身。並言上。」
 
 ここでは、あたかもこの二寺院だけがいわば「特別扱い」されているように見えます。しかし数ある「寺院」の中でこの両寺院だけが「道俗相集、還穢佛地」であったとは思われません。多くの寺院においても同様であったのではないかと考えられます。しかし、「嵯峨天皇」はこの両寺院に限って、「淨域」とし、また「佛地」であるとされ、その神聖性を保つようにと言う「勅」を出しているわけです。このことから、「嵯峨」にとって、「崇福寺」と「梵釈寺」は重要な意味を持つものと位置づけられていたようです。
 ところで、「梵釈寺」はその創建が「桓武天皇」の時代とされています。この両寺院が並び称されているように見える事から、「崇福寺」についてもそれほどその創建が遡らないのではないかという推定が出来ると思われます。
 また「崇福寺」の位置を推定可能な資料が存在しています。
 上の『日本後紀(逸文)』では「崇福寺」と「梵釈寺」が並べて記され、「梵釈寺」の別当が「崇福寺」についても兼務し、「検校」を加えるようにと言う「勅」が出されています。
 この「梵釈寺」はその場所が現「東近江市蒲生」付近にあったものと推定されており、これは「大津」の「崇福寺」とされる寺院のある場所からはかなり遠いものの、「紫香楽宮」からはほど近く、「崇福寺」が「紫香楽宮」至近にあったとすると納得のいく記述であると思われます。
 さらに同様のことは『日本後紀(逸文)』の「嵯峨天皇」の行幸記事からも言えそうです。
 そこでは「滋賀」の「韓埼」へ行幸するとして、まず「崇福寺」を過ぎた後「梵釈寺」へと行き、そこから「湖」(琵琶湖)へ出ています。
  
「弘仁六年(八一五年)四月癸亥【廿二】」「幸近江國滋賀韓埼。便過崇福寺。大僧都永忠。護命法師等。率衆僧奉迎於門外。皇帝降輿。升堂禮佛。更過梵釋寺。停輿賦詩。皇太弟及群臣奉和者衆。大僧都永忠手自煎茶奉御。施御被。即御船泛湖。國司奏風俗歌舞。五位已上并掾以下賜衣被。史生以下郡司以上賜綿有差。」
 
 この行幸ルートから考えた場合、これを旧「大津京」を経由したとすると、「梵釈寺」へ行く道順が「迂回」ルートとなってしまい、遠回りになってしまいます。そう考えると、これは旧「紫香楽宮」を経由して「梵釈寺」に行きそのまま「湖」(琵琶湖)へ出たものと考えるとわかりやすいと思えます。その場合「崇福寺」を「紫香楽京」付近に措定することが可能であり、また妥当であると考えられることとなります。(「梵釈寺」については創建時の場所は違うという説もありますが、詳細は不明であり、また再建される際に全く別の場所が選ばれる理由も併せて不明ですから、当初からここに存在したという可能性も高いと思料します)
 
 「嵯峨」の「詔」には「禅侶之窟」という表現がされています。この「窟」は「比喩」ではなく実際に「洞窟」状の地形をしていることを表していると見るべきであり、「崇福寺」がその背後に「崖」のようなものがあり、そこに「窟」があったことを推察させます。しかし、「大津京」の至近にある「崇福寺」とされる「寺院跡」は、確かに山中にはあるものの「洞窟状」のものは発見されておらず、合致しないものと推定されます。
 それに対し「紫香楽宮」の「甲賀寺」の後背地には「崖」が存在しそこに「石仏」を刻む予定であったことが推定されています。(「聖武」は当初ここに「大仏殿」を建てるつもりでいたものであり、骨組みの中心となる部分までは建てられていました。
 
「天平十五年(七四三年)冬十月辛巳。詔曰。朕以薄徳恭承大位。志存兼濟。勤撫人物。雖率土之濱已霑仁恕。而普天之下未浴法恩。誠欲頼三寳之威靈乾坤相泰。修萬代之福業動植咸榮。粤以天平十五年歳次癸未十月十五日。發菩薩大願奉造盧舍那佛金銅像一躯。盡國銅而鎔象。削大山以構堂。廣及法界爲朕知識。遂使同蒙利益共致菩提。夫有天下之富者朕也。有天下之勢者朕也。以此富勢造此尊像。事也易成心也難至。但恐徒有勞人無能感聖。或生誹謗反墮罪辜。是故預知識者。懇發至誠。各招介福。宜毎日三拜盧舍那佛。自當存念各造盧舍那佛也。如更有人情願持一枝草一把土助造像者。恣聽之。國郡等司莫因此事侵擾百姓強令收斂。布告遐邇知朕意矣。」
「同月乙酉。皇帝御紫香樂宮。爲奉造盧舍那佛像。始開寺地。於是行基法師率弟子等勸誘衆庶。」
 
 上の記事はここに「崇福寺」が建てられていた明証と思われるわけです。
 

(この項の作成日 2003/01/26、最終更新2016/02/21)(ホームページ記事から転記)
コメント

「崇福寺」について(一)

2018年05月14日 | 古代史
 「天智」が左手無名指を切り落としたという伝承についてすでに述べましたが、それらを記した各種史料には「天智」が創建したとされる「崇福寺」について、その創建が「天智七年」あるいは「戊辰」の年と記され、これは通常「六六八年」の事と理解されています。しかし、それは以下の記事等から疑問と考えられます。
 
(『日本帝皇年代記(上)』より)「戊辰(白鳳)八」「行基並誕生、姓高志氏、泉州大鳥郡人、百済国王後胤也、(改行)志賀郡建福寺、建百済寺安丈六釈迦像」(二行書きになっています)
 
 この『日本帝皇年代記』の特徴として、「寺院」の建立創建記事がある場合は、必ずその「主体」が書かれています。これに従えば上の「(崇)福寺」と「百済寺」の主体は「行基」と判断せざるを得ません。そうであれば、この年次は「行基」の誕生を記したものですから、この年に「行基」により建てられたはずがないこととなります。
 一見この記事の全ては冒頭の「戊申(白鳳)八」という年次にかかるものと理解されそうですが、実際にはこの年次の記事は全て「行基」に関わるものであり、「改行」以降は彼の生前の業績を記した文章であると考えられます。もしこの記事の順序が逆で「行基」の誕生記事が後に書かれてあれば「(崇)福寺」と「百済寺」の創建の主体は「天皇」(倭国王)と言うこととなると思われますが、この場合は「行基」の業績として「崇福寺」と「百済寺」が挙げられていると考えるべきです。
 また、この中に書かれた「百済寺」は現在も「志賀県東近江市」に存在する寺院と考えられ、「志賀」という郡名は「(崇)福寺」と「百済寺」の双方にかかると思われます。結局この「福寺」というのが「崇福寺」を指すとすると、その創建年はずっと後の事となり、「行基」による開基であるとすると、「八世紀」に入ってからの事と考えざるを得なくなるでしょう。
 ここに書かれたものの「原資料」となったものについては他の「崇福寺」と「天智」をつなげる「史料群」と「原資料」が共通であったものと見られ、それらにおいてはこの記事を「行基」と切り離して、「六六八年」という年次に「福寺」と「百済寺」創建が成されたと「誤解」したという可能性があると思われます。つまり、他の「史料」(『扶桑略記』『元享釈書』等)などでは、原史料を見誤り、この年次(六六八年)の「創建」として誤伝したという可能性があると推定され、実際にはもっと遅い時期のことであったと見られる訳です。それを示すものが『続日本紀』における「崇福寺」の初出時期です。
 「崇福寺」は「聖武」の時代に始めてその寺名が現れます。またそれは「紫香楽宮」を設営後に始めて現れるという事も確認できます。つまり、「紫香楽村」に「離宮」を作ったというのが「七四二年」のこととされますが、「崇福寺」という寺名の初出はその「七年後」です。
 
『続日本紀』「天平十四年(七四二年)八月癸未条」「詔曰。朕將行幸近江國甲賀郡紫香樂村。即以造宮卿正四位下智努王。輔外從五位下高岡連河内等四人。爲造離宮司。」
『同』「天平廿一年(七四九年)閏五月甲午朔癸丑条」「…『崇福。』香山藥師。建興。法花四寺。各?二百疋。布四百端。綿一千屯。稻一十万束。墾田地一百町。…」
 
 しかし、ここでもこの「崇福寺」が「天智」の創建である旨の注記等は一切ありません。もしここに以前から「崇福寺」があり、それが「天智」の勅願であったならそれに言及しないというのは考えられません。
 さらにこの「紫香楽宮」の至近には「寺地」が開削され、そこに「盧舎那仏像」を建てる予定であったとされます。

『続日本紀』「天平十五年(七四三年)冬十月辛巳条」「詔曰。…粤以天平十五年歳次癸未十月十五日。發菩薩大願奉造盧舍那佛金銅像一躯。盡國銅而鎔象。削大山以構堂。…」
『同』「同月壬午条」「東海東山北陸三道廿五國今年調庸等物皆令貢於紫香樂宮。」
『同』「同月乙酉条」「皇帝御紫香樂宮。爲奉造盧舍那佛像。始開寺地。於是行基法師率弟子等勸誘衆庶。」

 ここにみられる「詔」は「聖武」の「廬舎那佛」を造る意気込みを物語るものとして著名なものですが、これは「紫香楽宮」で出されたものであり、ここでは「盧舍那佛像」の為の「寺院」を「開く」とされ、また「削大山以構堂」とされていますから、山勝ちの場所を切り開き「寺地」を確保しようとしていることが判ります。
 「聖武」は当初ここに「大仏殿」を建てるつもりでいたものであり、骨組みの中心となる部分までは建てられていました。

「天平十五年(七四三年)冬十月辛巳。詔曰。朕以薄徳恭承大位。志存兼濟。勤撫人物。雖率土之濱已霑仁恕。而普天之下未浴法恩。誠欲頼三寳之威靈乾坤相泰。修萬代之福業動植咸榮。粤以天平十五年歳次癸未十月十五日。發菩薩大願奉造盧舍那佛金銅像一躯。盡國銅而鎔象。削大山以構堂。廣及法界爲朕知識。遂使同蒙利益共致菩提。夫有天下之富者朕也。有天下之勢者朕也。以此富勢造此尊像。事也易成心也難至。但恐徒有勞人無能感聖。或生誹謗反墮罪辜。是故預知識者。懇發至誠。各招介福。宜毎日三拜盧舍那佛。自當存念各造盧舍那佛也。如更有人情願持一枝草一把土助造像者。恣聽之。國郡等司莫因此事侵擾百姓強令收斂。布告遐邇知朕意矣。」
「同月乙酉。皇帝御紫香樂宮。爲奉造盧舍那佛像。始開寺地。於是行基法師率弟子等勸誘衆庶。」

 この詔でも「削大山講堂」とされ(これは一部実行されたもののようですが)、このことからも「寺院」と山が近接した地形であることが知られます。文脈からみてこれが「紫香楽宮」の至近に開く予定のものであったことは間違いないものですが、さらに「行基法師」が弟子達を引き連れ、多くの人々を「勧誘」したとされています。ここにおいてこの「寺地」と「行基」の間に関係があることが推測できます。この「寺地」こそが本来の「崇福寺」に相当するものではなかったと考えられるものであり、この事が『日本帝皇年代記』に書かれた「行基」の業績としての「崇福寺」の開基であったと考えられないでしょうか。

 この「紫香楽宮」は各種資料からここに「正式」に遷都され「都」として機能していたことが明らかとなっています。そうであれば「都」を「鎮護」する「寺院」がなかったはずはないこととなるでしょう。そう考えれば上に見た寺院は確かにこの時点で創建されたものであり、「盧舎那仏像」を造る計画が正式に進行していたこととなります。
 これについては『日本帝皇年代記』にも「紫香楽」に「廬舎那仏」を造ったという記事があり裏付けられます。

「癸未十五(七四三年)十月十五日帝近江信楽京鋳初廬遮那佛銅像/長一十六丈、依良弁勧化也」

 ただしここではなぜか寺院名が書かれていませんし、また「行基」ではなく、彼の弟子である「良弁」の勧化(勧進)であるように書かれています。しかし、この時「行基」と「良弁」はほぼ一体となって行動していましたから、この「良弁」の行動も「行基」の意思を体したものと考えて問題ないものと思われます。


(この項の作成日 2003/01/26、最終更新2016/02/21)(ホームページ記事を転機)
コメント