古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「伊勢王」とは

2018年05月06日 | 古代史

 『孝徳紀』によると「白雉改元」儀式の際に「執輿後頭置於御座之前」、つまり、「白雉」が入った籠が乗った御輿を担いで「天皇」と「皇太子」の前に置く、と言う重要な役どころで「伊勢王」という人物が登場します。

 (以下白雉献上の儀式)
「白雉元年(六五〇年)…二月庚午朔…甲寅。朝庭隊仗如元會儀。左右大臣。百官人等。爲四列於紫門外。以粟田臣飯中等四人使執雉輿。而在前去。左右大臣乃率百官及百濟君豐璋。其弟塞城忠勝。高麗侍醫毛治。新羅侍學士等而至中庭。使三國公麻呂。猪名公高見。三輪君甕穗。紀臣乎麻呂岐太四人代執雉輿而進殿前。時左右大臣就執輿前頭。『伊勢王』。三國公麻呂。倉臣小屎。執輿後頭置於御座之前。」

 古田史学の会の前代表である「水野氏」の指摘によれば、輿は担ぐ際には左右対称な人数が担がなければ安定しないわけですから、必ず「偶数」となるはずです。しかし、記事によれば「殿前」までは確かに「四人」で担いできたにも関わらず、「御座の前」まで持ってきたときには「五人」になっています。(前左右が「左右大臣」、後ろが「伊勢王。三國公麻呂。倉臣小屎」の三名です)
 つまり、「輿」の後ろを担ぐべき人間の数が一人多いと考えられます。この後ろを担いでいる三人の内「三國公麻呂」はその前から担ぎ続けているため、この時点で新たに後ろ側の担ぎ手となったのは「伊勢王」と「倉臣小屎」の二人です。このどちらかが「余計」であると考えられるでしょう。
 「余計」な人物を書き加えている、ということは、その人物が「重要」で意味のある人物である証拠です。そういう意味では「倉臣小屎」は『書紀』の中にはここ以外には全く出てきませんし、何の事績も書かれていません。このような人物をわざわざ書き加える理由がなく、彼が「余計に」追加させられた人物であるはずがないこととなります。つまり、追加させられた人物は「伊勢王」である可能性が強いこととなります。
 このことは「伊勢王」が輿を担いでいる、と言う事を強調したいがために(別の言い方をすると「輿を担ぐ身分である」と言うことを強調するために)「改変」されたものと考えられます。にも関わらず「死亡記事」(天智紀)では「未詳官位」とされており、これらの情報が欠如している(書かれていない)のは明らかに不審であり、「意図的」なものと考えられます。

 この『孝徳紀』からおよそ三十年離れた『天武紀』にも「伊勢王」に関連する記事が多く書かれています。この『天武紀』は「八世紀」に入ってから「付加」された部分とみられ、その内容は『孝徳紀』からの切り貼りであることが強く推量されます。つまり、「伊勢王」も本来は「白雉改元」の儀式で判るように「孝徳朝」の人物であったと見られるわけです。
 これを裏付けるのが「威奈大村」の「骨蔵器」に書かれた文章です。

 これは「壬申の乱」に登場する「伊那公高見」という人物の「子」に当たると思われる人物に関わるものと考えられていますが、「七〇七年」に埋葬されたことがその「骨蔵器」に書かれたものであり、ほぼ同時代資料と思われ、信頼性は高いと思われます。

 「卿諱大村檜前五百野宮/御宇 天皇之四世後岡/本宮聖朝紫冠威奈鏡公之/第三子也卿温良在性恭/倹為懐簡而廉隅柔而成/立後清原聖朝初授務広/肆藤原聖朝小納言闕於/是高門貴兜各望備員(スペース)/天皇特擢卿除小納言授/勤広肆居無幾進位直廣/肆大寶元年律令初定/更授従五位下乃兼侍従/…以慶雲四歳在丁未/四月廿四日寝疾終於越/城時年卌(四十)六粤其年冬/十一月乙未朔廿一日乙/卯帰葬於大倭国葛木下/郡山君里狛井山崗天潢/…」

 これで見ると「威奈大村」は「七〇七年」で「四十六歳」であったというのですから、生年は「六六一年」となります。(日付から考えると「七〇七年」という年次には間違いがないと思われるため)
 また彼は「三子」とされますから、「父」である「威奈鏡公」はこの「六六一年」当時いわゆる「壮年」であったと思われ、四十歳前後ではなかったかと考えられますが、彼は「白雉改元」の儀式の際に「輿」を担いでいる「猪名公高見」と同一人物という説があり、それが正しければ「白雉改元」儀式は「六五二年」とされますから、この当時「威奈鏡公」という人物はその時点で三十歳程度と思われ(もしこれより若かったとしても「二十代前半」より若くはないと思われます)、年齢に関する点はそれほど不自然がありません。
 そもそも「猪名(伊奈とも)公」は『書紀』では「多治比王」と共に「宣化天皇」の「玄孫」とされており、「血筋」は卑しくなく、このような華やかで重要な儀式に参加したとして何ら不思議ではないと考えられるでしょう。
 その「猪名公高見」と共に「輿」を担いでいるのが「伊勢王」なのですから、彼もこの「猪名公高見(威奈鏡公)」と同時代を生きた人物であり、jまた同様に高貴な家柄であることが推測されます。当然「孝徳朝期」に存在した人物であることは間違いないと考えられます。しかし『天武紀』には「天武」の葬儀記事があり、そこに「伊勢王」が出てきます。

「(朱鳥)元年(六八六年)…
九月甲子。平旦。諸僧尼發哭於殯庭乃退之。是日。肇進奠。即誄之。第一大海宿禰蒭蒲誄壬生事。次『淨大肆伊勢王』誄諸王事。次直大參縣犬養宿禰大伴惣誄宮内事。次淨廣肆河内王誄左右大舍人事。次直大參當摩眞人國見誄左右兵衞事。次直大肆釆女朝臣筑羅誄内命婦事。次直廣肆紀朝臣眞人誄膳職事。…」

「(持統)二年(六八八年)八月丁亥朔丙申。甞于殯宮而慟哭焉。於是。大伴宿禰安麻呂誄焉。
丁酉。命淨大肆伊勢王奉宣葬儀。」

 ここに出てくる「伊勢王」と「孝徳紀」の「伊勢王」とが別人という説もありますが、それは『天智紀』と『斉明紀』に「伊勢王」の死去が記事となっていることからの推測と思われますが、共に重要な役をこなしているところから見ていずれも当時壮年であることは間違いなく、そうであれば『孝徳紀』の「伊勢王」がもし仮に「斉明朝期」に亡くなったとしてもその時点で「天武紀」の「伊勢王」がすでに生まれていた可能性が非常に高く、この両者を別人とするのは著しく困難と思われます。このことは『天武紀』の「伊勢王」関連記事には明らかな「潤色」あるいは「記事移動」があると考えなければならないことを示唆します。

 この「天武紀」の記事では彼の冠位として「淨大肆」と書かれています。この冠位は「六八五年」に定められたという「冠位四十八階」の十一番目のものです。
 この「冠位制」では「明位二階」が最上位にあり、その後が「浄位四階」となっています。通例では「明位二階」は誰も授与されなかったということになっています。しかし、そんなはずはないと思われます。「冠位(官位)制」は天子の元の最高側近ないし最高重要人物が「最高位」を授与されてしかるべきであると思われるからです。「最高位」の冠位を授与されるべき人物が誰もいないのにも関わらずそのような「冠位」を設定されたということを想定することは不思議に思われます。
 つまり、『書紀』でだれも「明位二階」を授与されていないのは、そこに書かれた人物達が「倭王権」から見ると「諸王」であって、「親王」ではないためであると理解せざるを得ません。
 そしてその中に「伊勢王」が配置されているわけですが、この「伊勢王」と「弟王」については『天智紀』と「斉明紀」と二回ある「死亡記事」のいずれにも「薨」という語が使用されており、これは『書紀』『続日本紀』では「三位以上」の高位者のみに使用されるものですから、「諸王五位」あるいは「淨大肆」という「五位」程度の位階しかなかったように書かれている事には疑いが生ずることとなります。これは彼らが「明位階」にあったことを示すものと思われますが、「押坂彦人大兄」の「弟王」である「難波王」の子供達(「栗隈王」など)も同様に「三位」以上の地位にあったと考えられており、そのことから「伊勢王」も彼らの近親者であり、同様に「明位」であったという可能性も考えられることとなります。そのことは『書紀』の中で「栗隈王」と「伊勢王」の二人だけが「諸王」と称されていることとも関係しているようです。
 『書紀』の中には「諸王諸卿」「諸王諸臣」というような形で一般名詞として記述される例は多くみられますが、名前が特定できるのはこの「栗隈王」と「伊勢王」の二人だけなのです。このことは「伊勢王」が「栗隈王」と同様「高位」の存在であったことを示していると思われることとなります。(『古代氏族集成』(※)によれば「彦人大兄」の孫(「彦人大兄」の子供とされる「百済王」(「久多良王」とも)の子供)とされており、上の推測を裏付けています。)

(※)宝賀寿男編著『古代氏族集成(上巻)』古代氏族研究会

(この項の作成日 2011/07/03、最終更新 2017/02/26)(ホームページ記載記事に加筆)

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「難波副都」と「筑紫首都」

2018年05月06日 | 古代史

 「筑紫」の周辺には「朝鮮式山城」というように呼ばれる「城郭」遺跡が確認されています。そのような中に「大野城」という城があります。この「大野城」は「太宰府」「政庁」の「前面」つまり、海側にあり、海上から上陸侵入してくる外敵の防御の一端を担っていたものと考えられています。
 この「大野城」の遺跡から発掘された「柱」と考えられる木材は「年輪年代測定法」により「六四八年以降伐採」と鑑定されています。つまり、「白村江の戦い」の「前」に「修造」されていると考えられ、そのことは「戦術的」に見て合理的であると考えられると同時に、この時の「修造」は「難波朝廷」副都遷都と関連して行われた「一連」の作業と考えられるものです。
 
 既に記したように「大宰府政庁Ⅱ期」とされる「政庁中門」の中軸線を延長すると「基肄城」の「東北門」が位置しており、この門が「測量」の際に利用された可能性が強いと考えられます。つまり、既にその段階で「基肄城」は存在していたこととなります。そして、「基肄城」と同時の築造と考えられる「大野城」から出土した「木材」の年輪年代が「六四八年」であったことは、「基肄城」も同様の時期に築造されたと考えられますが、それは『続日本紀』の以下の記事からも推定されるものです。

「文武二年(六九八)五月甲申廿五条」「令大宰府繕治大野。基肄。鞠智三城。」

 ここでは明確に「大野」「基肄」及び「鞠智」の三城について「繕治」するとされている訳であり、「繕治」時期が接近しているのはそもそもの「築造時期」が接近している為であると考えると判りやすいものです。(以降ほぼ同じタイミングで「繕治」「修治」していたもの)
 また「難波宮殿」下層から発見された木簡に「戊申」という年次が書かれており、それが「六四八年」を意味していて、この「層」が「難波宮」の使用時期と重なっていると考えられていることからも、築造としてはもっと古いことを示すのかも知れません。(この「木簡」は「難波宮」の北西部の「谷」を埋め立てた場所から出土したものであり、その中身としては「宮殿」から廃棄されたものであるらしいことが判明しています)
 この時の「難波副都」整備事業は、「対唐」「対新羅」という戦略的なことを考慮して行われたと考えられるものであり、そのことは当然「筑紫」での「水際防衛」の必要性が発生する、ということになるわけですから、「筑紫」周辺の防衛線である「大野城」などの「修造」も同時に行われたと考えるべきでしょう。
 しかも、これはあくまでも「修造」であって「初めて」設置した、というものではありません。これら「太宰府」周辺の建物の築造時期に関して科学的調査をしたところ、「水城」では堀から出た「樋」を「C14年代測定」により測定した結果どんなに新しくても「四〇〇年」程度、という結果が出たのです。つまり「倭の五王」の一人である「讃」の頃のことと考えられることとなりました。
 「水城」は緊急時「水」を溜め、ダム状にして外敵侵入を防ぐと共に、一気に放流して外敵を流し去ろうと言う目的の施設であったと考えられます。
 この「水城」は「堤」状の施設ですが、その下方(底部)に「地盤固め用」に重ねられている木の枝(敷きソダ)について、「C14年代測定」を実施したところ、「上層部」が「六六〇年」、「中層部」が「四三〇年」、「下層部」では「二四〇年」という結果が出ています。(※)(ただし中層、下層については信頼性が高いとは言えないようであり、再調査が必要といわれています。)

 仮にこの値が正しいとした場合、「二四〇年」付近という年代には注目されます。これは「卑弥呼」の時代に重なるものであり、このことはこの「水城」というものが「卑弥呼」の頃にすでにその原型があったと見るべきことになり、そのころから「営々」と造られ、「修造」されてきていたものであることを示すものともいえ、その「最終的補強」が「六六〇年」頃であって、「白村江の戦い」の「前」である可能性が高いのも、軍事戦略上は「当然」とも言えるものであり、「大野城」同様「難波副都」構築後の「防衛戦略」としての「修造」の一環として行ったものと考えられることを示します。
 また、外交使節を迎えるための「鴻臚館」でも、同じく「樋」の年代測定を実施したところ、「一番新しいもの」が「六五五年」のものとされており、それ以外はほとんどは四世紀後半から六世紀のもの、という結果が出ています。
 また、「狼煙」を上げる為に対馬に築かれた要塞である「金田城」についても同様の測定で「七世紀半ば」と判明しています。
 これらの結果は、これらの木材を使用している建物や施設の創建年代に疑義を呈せざるを得ないものであり、いずれの場合も重要なのは「白村江の戦い」(「六六三年」ないし「六六二年」)の「前」である、ということです。それは『書紀』が記載する「『白村江の戦い』の「後」に設置を命じた」とは異なっていて、すでにそれ以前からあった、ということを意味するものだからです。

 これらの「城」などは「戦い」の前に設置されるべきものであり、それが「年代測定」から「裏書き」されたことになりますから、このような戦いの前の構築というのは「自然」であると思われます。
 この戦いは「突然」起きたわけではなく、そのような緊迫感が以前よりかなり濃い密度で醸成されていたものであり、これらに備え、「倭国」としても「国土防衛体制」を整える必要があったはずであり、「軍事力」増強という国家的方向性を打ち出す必要が発生する「素地」が形成されつつあったといえます。
 こう考えると、「白村江の戦い」の後に作られた、という記事の信憑性が疑われるのは当然です。(『書紀』編纂において「年代」を操作しているという疑惑があると思われます)

 また、「難波遷都」時点で太宰府周辺の山城を修造している、ということは当時すでに「使用されなくなっていた」という可能性が考えられます。そのため必要な維持・修繕が行われておらず、「唐」の軍隊に備える必要から「急遽」既存の山城を使用することとなり、修造したものであるとも考えられます。
 『隋書俀国伝』に「征戦」がないと書かれたように、「対外戦争」は長期に亘ってなかったのではないでしょうか。このため周囲の国々とは「緊張関係」がなく、防衛ラインの構築ということにも関心が薄かったのではないかと推量されます。しかし、「隋」との折衝に失敗して直後、「琉球」が「隋」の侵攻を受けた事に衝撃を受け、「筑紫」の防衛強化を図る必要性を切実に感じたと思われ、「筑紫都城」の整備と共にその「外部防衛線」ともいうべき「博多湾」の防備能力の向上のための整備を行ったものとたものと思われます。
 これに関してすでに触れましたが「筑紫」に「大津城」という「城」があったことが明らかとなっています。それは「鴻臚館」に隣接されていたものであり、「水城」が「筑紫都城」の水際防衛線なら「大津城」はその外側で「博多湾」に進入してくる外敵を撃退するための拠点として存在していたものです。そこには「兵士」として「防人」(戍人)が詰めていたものであり、この「城」は「栗隈王」の発言からも「壬申の乱」時点では確実にあったと思われますから、その構築はそれ以前の「白村江の戦い」以前あるいはさらにそれを遡る時期が想定され、水城と共に「卑弥呼」の時代まで遡上すべきものとも考えられます。


(※)内倉武久「理化学年代と九州の遺跡」 古田史学会報No.63  2004年8月8日


(この項の作成日 2003/01/26、最終更新 2014/08/23)(ホームページ記載記事を転記)

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「高表仁」の来倭の時期とルートについて

2018年05月06日 | 古代史

 「唐」の太宗からの使者「高表仁」の「来倭」については『書紀』に詳しい記事があります。それによれば、「高表仁」は大歓迎を受け交渉は双方にとり非常に有益であったらしい事が記載されています。「争った」形跡など微塵も感じられません。

「六三二年」「四年秋八月。大唐遣高表仁送三田耜共泊干對馬。是時學問僧靈雲僧旻及勝鳥養。新羅送使等從之。
冬十月辛亥朔甲寅。唐國使人高表仁等到干難波津。則遣大伴連馬養迎於江口。船卅二艘及鼓吹旗幟皆具整餝。便告高表仁等曰。聞天子所命之使到干天皇朝迎之。時高表仁對曰。風寒之日。餝整船艘。以賜迎之。歡愧也。於是。令難波吉士小槻。大河内直矢伏爲導者到干舘前。乃遣伊岐史乙等。難波吉士八牛。引客等入於舘。即日給神酒。」
「六三三年」「五年春正月己朔甲辰。大唐客高表仁等歸國。送使吉士雄摩呂。黒摩呂等。到對馬而還之。」

 しかしこの記事と「中国側資料」である『旧唐書』などについては明確に食い違いがあります。

『旧唐書』「東夷伝」
「貞觀五年(六三一年)、遣使獻方物。大宗矜其道遠、勅所司無令歳貢、又遺新州刺史高表仁持節往撫之。表仁無綏遠之才、與王子爭禮、不宣朝命而還。至二十二年(六四八年)又附新羅奉表、以通往起居。」

 これによれば「高表仁」について「無綏遠之才」とされ、「倭国」など「夷蛮の国」を「慰撫」する能力がないとされています。
 ただし、この「遣使」記録については『旧唐書』では「貞観五年」(六三一)となっているのに対して、『唐会要』では「貞観十五年」(六四一)となっているほか、『冊府元亀』だと「貞観十一年」(六三七年)となっているなど記録によってかなり異なります。また記事内容についても「高表仁」と礼を争った相手が『旧唐書』だけが倭国「王」ではなく、倭国「王子」となっているなどの違いも確認できます。ただし「元」の時代のことを編纂した『元史』によれば「太宗」の使者は「倭国王」に面会したという意味のことが書かれています。

「隋文帝遣裴清來,王郊迎成禮,唐太宗、高宗時,遣使皆得見王,王何獨不見大朝使臣乎」(『元史/列傳 第四十六/趙良弼』より)

 つまり「高宗」「太宗」の時の使者(これは「高表仁」と「劉徳髙」(「郭務そう」もか)を指すと思われます)は「倭国王」に面会できたのになぜ今の王(天皇)は私と会わないのかというわけです。これを信憑すると「高表仁」は「倭国王」と面会したというわけであり、礼を争った相手というのは「倭国王」であるという可能性が強いものと思われます。
 また『旧唐書』の年次については「貞観五年」(六三一)に倭国の使いが来た、という記事がメインであり、「高表仁」の派遣がこの年のことなのかは不明であるように見えます。
 『書紀』によれば「貞観六年」にあたる「六三二年」の「八月」に「高表仁」は「倭国の使者」と「新羅送使」を伴い、「対馬」に到着しています。
 このようにこの「高表仁」記事については情報が錯綜しているわけですが、この記事についてはすでに述べましたが、実際には「六四一年」のことではなかったかと考えられ、「六四〇年」に「唐」で開催された(と思われる)「甲子朔旦冬至」の祝宴に「遣唐使」を派遣し、その「報表使」として「高表仁」が派遣されたものとみられます。

 このように記事内容が全く食い違うわけですが、その理由については、次のことが考えられます。『書紀』編纂時点で『隋書』は完成していますが、当然『旧唐書』はまだできていません。『通典』などの実録をまとめたものもこの時点では成立していません。さらに「唐」と国交が回復した「六四八年」以降は「起居注」がもたらされていた可能性はありますが、それ以前の情報はなかったと思われ、結局「高表仁」の来倭に関する中国側資料は参照することができなかったものと思われます。というより外国史料に「合わせる」必要がないわけであり、そうであれば「倭国」にとって「不都合な真実」はカットされて当然という事となるでしょう。

 ところでこの「高表仁」の「遣使」に対して『唐会要』と『冊府元亀』には『旧唐書』にはないことが書かれています。

「唐會要 巻九十九 倭國」「貞觀十五年十一月。使至。太宗矜其路遠、遣高表仁持節撫之。表仁浮海、數月方至。自云路經地獄之門。親見其上氣色蓊鬱。又聞呼叫鎚鍛之聲。甚可畏懼也。表仁無綏遠之才。與王爭禮。不宣朝命而還。由是復絶。」

「冊府元龜 巻六六二 奉使部 絶域」「高表仁爲新州刺史。貞觀中倭國朝貢。太宗矜其道遠、詔所司無令歳貢。又遣表仁持節撫之。表仁浮海數月方至。云路經地獄之門、親見其上氣色葱鬱、有烟火之状、若鑪鎚號叫之聲、行者聞之、莫不危懼。」         

 これによれば「航海の途中」あるいは「上陸後」に「地獄の門」を通過したと書かれています。また「見其上氣色蓊鬱。又聞呼叫鎚鍛之聲。甚可畏懼也。」と言う状況が描写されています。「冊布元亀」では更に「有烟火之状」という一文が書き加えられていますが、この『冊布元亀』が資料的に最も新しく、その意味で正確さにおいてはやや劣るとも考えられるでしょう。
 これらの記事はややその表現が曖昧なため、何を指すものか推測するしかない訳ですが、ここで言う「地獄」という言葉は当然のことながら仏教に関わるものであり、「高表仁」が聞いたという「呼叫鎚鍛之聲」あるいは「鑪鎚號叫之聲」というのは「地獄」の中の「叫喚地獄」に関わるものと考えることもできそうです。(「聲」とは人間の声を指す言葉と思われます。)
 そこでは罪深い人物が「鉄棒で頭を叩かれたりする」と言われており、「高表仁」の表現はこれを彷彿とするものです。
 つまり、「高表仁」が聞いたのは「鉄棒」などで叩かれている人間の出す「悲鳴」のように聞こえるものであったことを示していると考えられます。
 この「叫喚地獄」というのは「殺生」、「盗み、「淫欲」、「飲酒」の四つの罪を犯した者が堕ちる場所とされており、これらのことから、「高表仁」が経過したこの場所は(「倭国内」か半島のどこかは不明)「罪人」を集めた「刑務所」のような場所ではなかったかと考えられ、そこを通過したことを示すものと思われます。そこで「罪人」に対する刑罰あるいは取り調べのため「拷問」などを行っていた際の「悲鳴」などを耳にしたのではないかと考えられます。この「収容所」のような場所について「地獄の門」と表現したのではないでしょうか。
 
 彼の「来倭」については『書紀』によれば「新羅送使」を伴っているところから判断して「高表仁」は「唐」を出発した後、いったん「新羅」を経由し、その後倭国に向かったと考えられます。
 この時「高表仁」が通ったルートは「表仁浮海數月方至」とあり、また「新羅」経由と考えると「北路」という海岸線航路だったのではないでしょうか。このルートは難船などの心配は余りありませんが行程が長くなりやすく、途中で天候不良により出港できなくなったとすると「数月」かかったというのも首肯できるところです。

 あるいはこの「高表仁」の表現について何かの「自然現象」を表すと云う可能性もなくはないですが、(書き方が曖昧ですから、可能性はなくはないと考えられます)その場合は「火山」の噴火の描写が考えられ、そうであれば「阿蘇山」である可能性が高いと考えられます。このことは「倭国王」と「王子」が「阿蘇山」の至近にいたと考えられ、「肥後」に所在していたと考えられるものです。
 「高表仁」達は「新羅」の送使に導かれ「対馬」に到着したわけであり、その後「倭国」に上陸していったと想定すると「火山」としては「阿蘇山」か「雲仙」の可能性しかないものと考えられます。「雲仙」であった場合は「佐賀」付近に上陸し、「肥前」を横断し有明海を横切って「肥後」へ、と言うルートが想定されます。これであれば「雲仙」の至近を通過することとなりますが、この場合は「首都」「筑紫」に立ち寄っていないわけであり、この地にあったと推定される「迎賓館」に入らず、セレモニーもなかったこととなりますが、それは不審です。
 そう考えると、この「火山」は「雲仙」ではなく「阿蘇」であったと想定され、この場合は「対馬」から「筑紫」に入り「迎賓」を受けその後「筑後」へ抜け、そこから「肥後」へ行き「倭国王」及び「王子」と面会したというルートが考えられます。
 そもそも「高表仁」は「対馬」に八月(何日かは不明)に到着後「難波津」に来たのが「十月」であり、二ヶ月かかっています。(到着は十月四日です)この間どこで何をしていたのでしょうか。
 彼の前に倭国を訪れた「唐使」の「裴世清」は「肥後」にいた「阿毎多利思北孤」に面会したと考えられます。「高表仁」も「肥後」に行き「利歌彌多仏利」の「王子」である人物に面会したのではないでしょうか。
 「阿蘇山」については「裴世清」も『隋書俀国伝』で特記しているように、頻繁に「噴火」しているようであり、このことを「高表仁」なりの表現で表したのかもしれません。(大噴火ではない可能性はありますが、現代の「阿蘇」や「桜島」などのように「常に」「噴煙」をあげ、「雷鳴」を轟せていたのではないでしょうか)
 こう考えた場合この時「利歌彌多仏利」と「王子」は「肥後」の古都にいたとも考えられ、「筑紫」の新都から「筑後」の「離宮」、「肥後」の「古宮」を結ぶ九州の王都ラインが想定されます。

 ところで「高表仁」は帰国の際も「対馬」を経由しています。

『舒明紀』五年(六三三年)春正月己朔甲辰。大唐客高表仁等歸國。送使吉士雄摩呂。黒摩呂等。到對馬而還之。

 このことは「来倭」時と同様「新羅」を経由したものと推察され、「来倭」の際に随行した「新羅送使」は、「新羅」と「対馬」間を「道案内」として先導し、その時点で「倭国」の「使者」に引き継ぎ、「高表仁」を送った後そのまま「対馬」にとどまり、帰国時の案内役を務めたものではないでしょうか。
 このような手続きは「倭国」-「新羅」間では以前から決められていたことと思われ、それが実際には「卑弥呼」の時代から続く手続きであり、「一大率」による北方検察の一環であった過去を反映していると思われます。
 『倭人伝』では「対馬国」以降「一大率」によって「末廬国」へ誘導されたものであり、この時の「高表仁」もそれ以前の「裴世清」も同様に「末廬国」へ誘導され、そこから陸路で「邪馬壹国」なと都のある場所へと案内されたものではないでしょうか。
 この「対馬国」つまり「対馬」において、「倭国」と「新羅」あるいは「百済」などは互いに相手を識別する「印」をやりとりしていた可能性もあるでしょう。(「符契」のようなものか)そのようなものを双方で持っていて、それで正しい相手であることを確認するなどの方法を採っていたものかと推定されます。でなければ「唐」国の使者を、間違いなく「倭国にお送りした」ということになりませんし、「間違った相手」や「詐称」した相手に引き渡すと国際問題になりかねません。


(この項の作成日 2011/06/26、最終更新 2015/04/24)(ホームページ記載記事に加筆修正)

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