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古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「碾磑」について

2018年05月15日 | 古代史

 『推古紀』に「碾磑」(てんがい)に関する記事があります。それによれば「推古十八年」に「高麗」から僧が来倭して彼らによりこの「碾磑」が「造られた」とされます。

「推古十八年(六一〇年)春三月。高麗王貢上僧曇徴。法定。曇徴知五經。且能作彩色及紙墨。并造『碾磑』。盖造碾磑始于是時歟。」

 この時の「碾磑」の使用目的は何だったでしょうか。
 そもそも「碾磑」は、元々「粉挽き用」の石臼であり、「米食」が盛んではなかった「北斉」「隋」「唐」と「北朝」に顕著なものであり、それらの地方では「雑穀」あるいは「小麦」を挽いて粉にし、それを加工する「粉食」が盛んであったものです。このため「川」などに「碾磑」を設置し、水力で「石臼」を回して「粉挽き」を行っていたものであり、このためたびたび「潅漑」の邪魔になり、トラブルが発生していたとされ、「唐代」には大量に破壊を命じた例まであります。
 その後これを「工業用」に改良したものが出てきます。工業用のものは上下の石臼の摺り合わせ部分の「溝」の形と深さが「製粉用」とは大きく異なっており、「水」を「溝」の中に流しながら「金属」を砕いて「微粉末」にする、いわゆる「湿式粉砕」を行うために特化しています。(ただしこの「粛宗」段階まで工業用のものが現れなかったという意味ではありません。後でも述べますが、「南北朝時期」ですでに造られていたと推定されます。)

 『推古紀』の「碾磑」がいずれの用途かが問題となりますが、当時の日本列島には「小麦」もなく、「碾磑」の本来の目的としては需要がなかったと考えられ、この『推古紀』の「碾磑」の用途としては「製粉」に用いるものではなかったと思われます。(ただし、『養老令』には「碾磑」が「主税寮」に関する事物として出てきますから、「祖」として納められた「米」あるいはそれ以外の雑穀を「碾磑」を使用して「製粉化」していたらしいことが推察され、この時点では本来の用途として使用される実態があったものと見られます。)

(参考)「職員令/主税寮条/主税寮。頭一人。掌。倉廩出納。諸国田租。舂米。碾磑事。…」

 中国の場合は「製粉用」がほとんどであり、これは「寺院」などが「小麦」を挽いて、それを販売するという「商売」のために使用していたことが判明していますが、倭国の場合「小麦」の需要も生産もなかったわけですから、「碾磑」の用途としては当初は「工業用」に特化したものしかなかったと考えられます。 
 さらに、それ以前に「黄金」が助成されていること、この「曇徴」という僧は「彩色」にも優れていると書かれていることから考えて、「寺院」などで「丹塗りの柱」などに使用する「朱丹」の生産に使用していたか、「金メッキ」をして「金銅仏」を製作したというケースが考えられます。「碾磑」を使用することによりそれらの原材料を短時間に大量に微粉末に加工することができるわけです。そのため他の寺院でも使用していたらしいことが推察され、「東大寺」にも存在したという記録があります。
 上の記事でも「曇徴」という僧について「彩色」に優れていることが書かれていますが、「彩色」という言葉が「寺院」と関係して使用されている場合は「塔」の「柱」を荘厳するための「彩色」のことと考えるのが相当のようです。

「…佛言。聽作。佛聽我以『彩色』赭土白灰莊嚴塔柱者善。佛言。聽莊嚴柱。佛聽我畫柱塔上者善。…」(「大正新脩大藏經/律部二/一四三五 十誦律/卷四十八第八誦之一/增一法之一」より)

 また「金銅」が助成された記事の翌年のこととして書かれている「仏像」を「堂」に入れるという記事(下記)では「金銅」とは書かれておらず、単に「銅像」と表現されていますから、まだ「鍍金」(金メッキ)はされていないこととなります。

「(推古)十四年(六〇六年)夏四月乙酉朔壬辰条」「銅繍丈六佛像並造竟。是日也。丈六銅像坐於元興寺金堂。時佛像高於金堂戸。以不得納堂。於是。諸工人等議曰。破堂戸而納之。然鞍作鳥之秀工。以不壌戸得入堂。即日設斎。於是。會集人衆不可勝數。自是年初毎寺。四月八日。七月十五日設齊。」

 この時点ではまだ「金メッキ」はされていないわけですが、実際に「金メッキ」するためには「黄金」を細かく砕いて「微粒子」にする必要があり、この時代の「倭国」にはまだその技術と機材がなく、メッキできる状況ではなかったと思われます。そのためには「碾磑」が必要であったわけであり、それが「倭国」にもたらされたのがそれから「五年」ほど経過した「推古十八年」であったということではないでしょうか。
 
 ところで、「観世音寺」には「碾磑」があったとされ、現在も保存されています。これはその溝の構造などから「製粉用」ではなく「工業用」であることが推定されています。(※1)このことから、この「碾磑」は『推古紀』の碾磑との関係が考えられるでしょう。そうであればこの『推古紀』記事は元々「筑紫」に関わるものであったという可能性も出てきます。さらにその「碾磑」が「元興寺」と関連しているというわけですから、「元興寺」そのものが「筑紫」に存在していたという可能性も考えられるところです 
 同様の「碾磑」が中国の「少林寺」にもあるとされますが、記録によれば「少林寺」は「唐」の「太宗」からこの「碾磑」を下賜されたとされ、さらにその時点で「土地」も「二十頃」併せて下賜されたと書かれています。

「…太宗嘉其義烈,頻降璽書宣慰,既奉優教,兼承寵錫,賜地廿頃,水碾一具,即柏穀莊是也。…」(『全唐文』より「少林寺碑」)

 この土地が「柏穀莊」と呼ばれたという事からもこの「土地」と「水碾(碾磑)」が「食料」(穀物)生産と関係していることが考えられ、「観世音寺」に残る「工業用」と同種のものではなかったと推定できるでしょう。
 そもそも「少林寺」は新しく建てられた寺ではないわけですから、柱の彩色などはすでに行われているわけですから、用途としてはそのようなものを想定することはできず、その意味で「観世音寺」とはその状況が異なると考えられます。つまり「少林寺」の「水碾(碾磑)」は『推古紀』の「碾磑」とは違うといえるでしょう。

 さらに、この「碾磑」は(「黄金」同様)「高麗」からもたらされたものと書かれているわけですが、その「高麗」が「隋」を意味する「隠語」として使用されているのではないかと推定をしたわけですから、この「碾磑」の出自についても同様である可能性が生じます。
 「銅仏」に「金メッキ」を施したいわゆる「金銅仏」は中国ではかなり早期から存在していたものであり、「北魏」成立以前の「五胡十六国時代」で盛んに小金銅仏が作られたとされます。それが「隋」が「中国」を統一して後「文帝」による仏教の半ば強制的拡大策により、一気に「金銅仏」作成の動きが高まりいわば大量生産がされるようになります。少なくとも、この時点付近で「金メッキ」技術も広範囲に広まったものと見られ、それとともに「碾磑」も「製粉用」から変化発展し、「工業用」としてのものが作られるようになった時点で「倭国」にもたらされることとなったと考えられるでしょう。
 それに対し「高麗」では「六世紀初め」には「金銅仏」として「千躰仏」が作られ、それが「高麗」周辺諸国に頒布されたらしいことが推定されていますが(※2)、その後それが更に活発に(つまり「碾磑」が必要なほど大量に黄金を使用して)なったというような記録は見られません。(仏像や寺院などが全く残っていないのです)

 また、『推古紀』の記録では派遣された「曇徴」と「法定」は「倭国」に来て当地で「碾磑」を作製しているようです。(「造」とされています)それは当然そのような技術がすでに「高麗」で一般化していたことを示すこととならざるを得ませんが、上に見るように「碾磑」を各資料に検索しても「高麗」に存在していたあるいは製法が確立していたというような記事、史料は見あたりません。「大興王」の件も含め『推古紀』の「高麗」はその多くが「隋」と読み替えて考えるべきではないかと推測されるものであり、「高麗」の僧とされる「曇徴」「法定」についても、「高麗」ならぬ「隋」から派遣されたものであり、彼らにより「碾磑」がもたらされたと見られることとなります。
 また「観世音寺」に現存する「碾磑」が『推古紀』に書かれたものと同一のものなのかは、「直接」的な証拠はないため不明ではあるものの、可能性はないとはいえないでしょう。

(ただし、「高麗」には「銀」生産があったものであり、「銀」の精錬のためには「微粉末」にする工程が必要でしたから、「碾磑」がそのために開発され、存在していたという可能性は「ゼロ」ではありませんが、後の「石見銀山」でも「石鎚」あるいは「金槌」で叩いて微粉末に加工していたことが確認されており、このような技術こそが「高麗」からもたらされたと考えて不自然ではなく、やはり「高麗」における「碾磑」という存在には疑問符がつくと思われます。)


(※1)三輪茂雄・下坂厚子・日高重助「太宰府・観世音寺の碾磑について」(『古代学研究』第108号(一九八五年))
(※2)一九六三年に新羅地域の慶尚南道の土中から発見された「延嘉七年」銘金銅仏立像の光背によれば、「延嘉七年」(これは「高麗」の「安原王」の時代と推定されており、「五三九年」を意味すると思われます)に高麗国の「楽良東寺」が流布させた千仏の一つであり、その二十九番目の仏像だという内容が刻まれています。(以下その光背銘文) 
「延嘉七年歳在己未高麗國樂良 東寺主敬弟子演師徒册(四十)人 共造賢劫千佛流布第廿九因現義佛比丘法穎一所供養 」


(この項の作成日 2012/05/20、最終更新 2015/04/03)(ホームページ記載記事を転記)

コメント

「元興寺」と「法興寺」

2018年05月15日 | 古代史

 「元興寺」という寺院があったとされます。(というより現存していますが、それが過去のものと同一かを問題にしようとするためこのような書き方としています。)
 この「寺」は一般には「法興寺」と同じものであり、またその「法興寺」は「飛鳥寺」と呼称したとも言われています。また、「平城京」に「法興寺」が移設された後は「本元興寺」と呼ばれるようになり、また奈良の「法興寺」は「元興寺」と呼称されたとされます。ちょっと考えても「複雑」であり、このような寺名の変遷は他の寺ではお目にかからないものです。このような「寺名」変更の過程を経た寺院は他にはなく、その背景に特別な事情があることが想像できます。
 そもそも「寺名」は「勝手に」変更できるものではなく、国家の承認が必要であったものです。そう考えると、「平城京」完成時に移転された寺院が全て「寺名」が変更されているというわけではないことからも、この「元興寺」の例が「八世紀」の「新日本国王権」にとっても、非常に重要で特別であることが分かります。
 しかも『書紀』では「移転前」であるのに「元興寺」と称した記事が存在しています。

「六〇六年」十四年夏四月乙酉朔壬辰。銅繍丈六佛像並造竟。是日也。丈六銅像坐於元興寺金堂。時佛像高於金堂戸。以不得納堂。於是。諸工人等議曰。破堂戸而納之。然鞍作鳥之秀工。以不壌戸得入堂。即日設斎。於是。會集人衆不可勝數。自是年初毎寺。四月八日。七月十五日設齊。

「六〇九年」十七年夏四月丁酉朔庚子。筑紫大宰奏上言。百濟僧道欣。惠彌爲首一十人。俗人七十五人。泊于肥後國葦北津。是時。遣難波吉士徳摩呂。船史龍以問之曰。何來也。對曰。百濟王命以遣於呉國。其國有亂不入。更返於本郷。忽逢暴風漂蕩海中。然有大幸而泊于聖帝之邊境。以歡喜。
五月丁卯朔壬午。徳摩呂等復奏之。則返徳呂。龍二人。而副百濟人等送本國。至于對馬以道人等十一皆請之欲留。乃上表而留之。因令住元興寺。

 また、これ以前の「六〇五年」に以下の記事があります。

「(推古)十三年(六〇五年)夏四月辛酉朔。天皇詔皇太子。大臣及諸王。諸臣。共同發誓願。以始造銅繍丈六佛像各一躯。乃命鞍作鳥爲造佛之工。是時。高麗國大興王聞日本國天皇造佛像。貢上黄金三百兩。」

 この寺院に対しては「天皇」以下諸臣に至るまで「共同」で「發誓願」しているわけであり、ほぼ「勅願」とも言えるものと理解できます。そのような経緯により「仏像」が納入されるような「寺院」そのものについても「勅願」といえるものであったと考えるのは不自然ではありません。
 「四天王寺」他「聖徳太子」の「御願」にかかる寺院はいくつかあったとされますが、「倭国王」直々の「勅願寺」もあったと想定して不審はないと思われます。
 この「仏像」が納められたのが冒頭の「六〇六年」記事であり、ここではその寺院名が「元興寺」であると明記されています。
(『元興寺伽藍縁起』にも「楷井等由羅宮治天下等與彌氣賀斯岐夜比賣命生年一百 歳次癸酉正月九日 馬屋戸豐聰耳皇子受勅 記元興寺等之本縁及等與彌氣命之發願 并諸臣等發願也」とされ、同様の記述となっています。)
 通常この寺院は上でみたように「法興寺」と同一であると考えられているわけですが、そうすると「法興寺」が「蘇我氏」の「私寺」であり、「官」つまり「朝廷」の寺ではない事と「矛盾」します。
 この寺が「勅願寺」ではなく「私寺」であったのは、その「創建」に関わる話を見ると明確です。つまり、以下に見るように「王権」と「蘇我」などのグループと「物部」が仏教信仰をきっかけに対立した際に、戦いにあたり「聖徳太子」が「四天王」に願を掛け、その勝利したことを感謝して「四天王寺」を創建したとされていますが、その時「蘇我馬子」も同様に願を掛け「法興寺」を建てたとされており、この経緯から考えて明らかに「蘇我」の「私寺」であって、「官寺」ではないこととなります。

「崇峻即位前紀」
「(用明)二年秋七月…軍の後に隨へり。自から忖度りて曰く。將(はた)敗らるること無からむや。願に非ずは成し難けむ。乃ち白膠木(ぬりで)を?(き)り取りて、疾く四天王の像に作りて、頂髮(たきふさ)に置きて、誓ひを發てて言はく。白膠木。此云農利泥。今若し我を使て敵(あた)に勝たしめたまはば、必ず護世四王の奉爲(みため)に寺塔を起立(たて)む。蘇我馬子大臣又誓ひを發てて言はく、凡そ諸天王・大神王たち等、我を助け衛りて、利益(か)つこと獲したまはば、願はくは當に諸天と大神王の奉爲に、寺塔を起立てて三寶を流通へむ。誓ひ已りて種種(くさぐさ)の兵を嚴ひて進みて討伐つ。…」
 
 しかし、「六〇五年」記事と「六〇六年記事」を重ねて考えると分かるように「元興寺」には「勅願」(倭国王以下諸臣に至るまで)としての「仏像」が納入されています。このことから、「元興寺」そのものが「勅願寺」であったと考えられ、「蘇我」の「私寺」であったと考えられる「法興寺」とは明らかに「別」の存在であることとなります。
 そもそも「平城京」遷都以降の寺院名であるはずの「元興寺」が「七世紀代」の『書紀』に登場するのは「矛盾」であるわけです。「寺名」は「国家」により正式に認定されたものだけが使用を認められていたものであり、「元興寺」と「法興寺」が同じ寺院の「別」の名称であるとして、それが『書紀』という「正史」に出てくるというのは、国家が「複数」の寺院名を認めていたこととなってしまいそれもまた「矛盾」と言えます。
 この事から「元興寺」という寺院名が「七世紀代」からあるものであり、決して「平城京遷都以降」だけに現れるものではないことを意味します。(「元興寺」というのが通称ではないのは「元興寺」という「寺名」を書いた「額」が掲げられていることからも明白です。このような「額」としてはその寺院の「正式名称」が掲げられて当然だからです。)
 
 また、「六〇六年記事」によれば、「元興寺」の「金堂」に「丈六像二体」が納められています。「銅繍丈六佛像並造竟」と言いますから、一体は「布地」に「刺繍」を施した「繍帳」(「タペストリー」様のもの)であったと思われ、もう一体が「銅仏」であったようです。
 また、ここで使用されている「金堂」という用語は、「本堂」であるとか「仏舎」というような用法がこの時代一般的であるのに比べ、『書紀』ではこの一箇所しか出てきません。そもそも「金堂」の「意義」(語義)は、「堂内」が金色であるか「本尊」が金色であるか、また「仏」のことを「金人」というからなど複数理由が考えられますが、「金人」説の場合、他の寺院では「金堂」という呼称をなぜしないのかその理由を別に探す必要があると思われます。
 そう考えると、「堂内」が金色であるか、「金色」に輝く「本尊」があったためか、いずれかの理由でそう呼ばれたものと推察されますが、いずれにしろ「高麗國大興王」から「貢上」された「黄金」がその「金色」に荘厳するために使用されたものと見られ、とすれば「元興寺」こそ「天皇」以下が「共同發誓願」した「勅願寺」であるとことはより明確になると思われます。(これについては「高麗大興王」が「隋」の「文帝」を指す用語であり、またこの「元興寺」創建に関しては「文帝」からの「訓令」というものの影響を考えるべきという考察からも、「倭国王」以下の勅願であるのは当然のこととなるでしょう。)
 しかし、「六〇六年」の段階ではまだ「金メッキ」に必要な技術も設備もなかったと思われ、「金堂」という表記は「後代」の「潤色」ではないかと考えられます。
 「金メッキ」は以下の記事にあるように「六一〇年」に「碾磑」(大型の石臼)が倭国にもたらされた後に「技術」として確立したと考えられ、それ以降であるならば首肯できるものです。

「(推古)十八年(六一〇年)春三月。高麗王貢上僧曇徴。法定。曇徴知五經。且能作彩色及紙墨。并造『碾磑』。盖造『碾磑』始于是時歟。」

 実際に「金メッキ」するためには「黄金」を細かく砕いて「微粒子」にする必要がありますが、「黄金」が貢上された時代の「倭国」にはまだその技術と機材がなく、メッキできる状況ではなかったと思われます。
 そのためには「碾磑」(石臼)が必要であったわけであり、それが「倭国」にもたらされたのはそれから「五年」ほど経過した「六一〇年」であったと見られます。
 この記事からは「碾磑」が始めて「倭国」に出現したものであり、「高麗」から派遣されたという「曇徴」「法定」により「碾磑」を使用して「黄金」を砕くことができるようになり、それを利用して「銅像」その他に「金メッキ」を行なったり、堂内に金箔を張り付けたりすることが出来るようになったことを意味するものと考えられます。
 この「碾磑」とそれを利用する技術を持った人間により「金メッキ」が実用化されたものと思料されますが、そのことはそれを遡る時期である「六〇六年」段階ではまだ「金色」には染めることはできないことを示すものです。
 このように「黄金」をメッキ材料などに使用する技術が確立した後に、「堂内」に納められた仏像か、堂内そのものが「黄金」により「メッキ」されたことが想定され、まさに「金堂」の名にふさわしくなったものと見られます。 
 寺院多しといえど「黄金」で光り輝いていた「本尊」を持つ寺院はこの「元興寺」だけだったのです。
 また、『天武紀』には以下のような「詔」が出されています。

「(天武)九年(六八〇年)夏四月乙巳朔甲寅…
是月。勅。凡諸寺者。自今以後。除爲國大寺二三以外。官司莫治。唯其有食封者。先後限卅年。若數年滿卅則除之。且以爲。飛鳥寺不可關于司治。然元爲大寺而官司恒治。復嘗有功。是以猶入官治之例。」

 これは「國大寺二三以外」は「官治」すべきではないとしたもので、この除外された「寺院」の中には「飛鳥寺」が入っていないのです。この後半に書かれているように「飛鳥寺」は「以前から」「大寺」とされていたために「私寺」ではあるものの「官治」を継続するとされているわけです。
 この「飛鳥寺」は「法興寺」と同一の寺院を指すと考えられ、そうであればこの「詔」からも「法興寺」は「官寺」ではなく、「蘇我」の「私寺」でしかないこととなります。このような「寺院」を「元興寺」と同一視することはできるはずがないのです。(書かれてはいませんが「二三」の「大寺」という中には間違いなく「元興寺」は入っているものと推定します。)

 またこの時作られた「銅仏」はその「金メッキ」に要する黄金が「高麗」の「大興王」からの助成であったとされますが、これは実際には「隋」(文帝)からのものであったと考えられ、当然技術と水準もこの時点の「隋」のものであったと推定されますから、その「様式」も「北朝様式」であることとなります。
 もし「高麗王」が助成したとすると「寺院」や「本尊」などが「純粋」な「高麗様式」となって当然ですが、実際には「瓦」も「本尊」も明らかな「北朝形式」であり、「高麗」の独自なものが全く見られません。これは「高麗王」という表現に「虚偽」があることを意味するものであり、実際には「隋」の直接的援助があったと見られることとなります。(これは前述したように『隋書』の「開皇二十年記事」にある「訓令によりこれを改めしむ」という記事と対応しているという可能性もあると思われます。)
 現在この「隋」の様式と見られる「本尊」に該当するのは「飛鳥大仏」として知られる「安居院飛鳥寺」の本尊でしょう。これは「本体」だけで「三メートル」近くあり、「丈六」という表現に似つかわしいものです。
 この「仏像」が当初はこの場所に納入されたものではなかったと考えられるのは、その「光背」に「畢竟して坐す」という意味の表現があることからも分かります。ここでいう「畢竟」するとは、『様々な「途中経過」があったものの、最後にはここに来た』という意味を持っています。

(以下「丈六仏像」の光背銘を抜粋)
「…十三年歳次乙丑四月八日戊辰、以銅二萬三千斤、金七百五十九兩、敬造尺迦丈六像、銅繍二躯并挾侍。高麗大興王方睦大倭、尊重三寶、遙以隨喜、黄金三百廿兩助成大福、同心結縁、願以茲福力登遐諸皇遍及含識、有信心不絶、面奉諸佛、共登菩提之岸、速成正覺。
歳次戊辰、大隨國使主鴻艫寺掌客裴世清、使副尚書祠部主事遍光高等來奉之。
明年己巳四月八日甲辰、畢竟坐於元興寺。…」

 この銘文に書かれた内容はその年次と「高麗大興王」という名称からわかるように基本的には『書紀』によっていますが、「裴世清」とその副使である「遍光高」という人物などの肩書きや職掌などから、これが「隋初」という時期であることが強く推察されます。それらはこの銘文全体の信頼性をある程度担保するものであり、ここに使用されている「畢竟」という「語義」についても実態を表すものという可能性が示唆されるものです。つまり、元々この「仏像」がこの寺の「本尊」ではなかったものが「紆余曲折」の果てにこの寺院に収まったことを示すものといえるでしょう。

 また、「元興寺」記事が「七世紀の初め」(実際には六世紀末か)という時代にだけ現れるのには理由があり、それは『書紀』編纂時点の「八世紀」以降の時点では「丈六仏」は「法興寺」にあったからであると思われ、それは上に見たように「当初」からあったというわけではないものの、後年訳あって「丈六仏」が納まることとなった事に起因していると思われます。
 この「丈六仏」は「倭国王」の「勅願」として造られたものであり、それが納まって以降「阿毎多利思北孤」の「法号」にちなんで「由緒正しい」「法興寺」という寺名に変更されることとなったものと考えられます。
 
 また『書紀』において「七世紀初め」の記事として「元興寺」が出てくるのは、「難船」した「百済」からの漂流民が最終的に「元興寺」に所在していたということが、動かせない事実として記録されていたという可能性があります。そのような「明確」な事実と結びついていたがゆえにこれら「二例」だけ、「元興寺」という「寺名」を登場させざるを得なかったという可能性が考えられるものです。
 
 以上から、「元興寺」を「法興寺」と「読み替える」のは正しいとは言えないものであり、この両寺院は全く「別」の存在であると理解すべきと思われます。


(この項の作成日 2012/10/08、最終更新 2015/03/21)(ホームページ記載記事を転記)

コメント

「幡」と「鐘」

2018年05月15日 | 古代史

 また「法隆寺」には「幡」(灌頂幡)が何点か伝来しています。そこには「年次」が書かれているものがありますが、その「幡」の様式などから「八世紀に入ってからのもの」という推定がされているようですが(※1)、私見によればそれは疑わしいと思われます。なぜならそこには「大寶」とか「慶雲」というような「年号」が(一点を除き)書かれていないからです。少なくとも「年号」と「干支」の併用が為されて然るべき時期であると思われますが、そこでは「干支」しか書かれていません。
 ちなみに年次の「干支」表記は「壬午」「戊子」「壬辰」「己未」「辛酉」「癸亥」の各年であり、これらは各々「六八二年」「六八八年」「六九二年」「七二九年」「七二一年」「七二三年」と推定されています。
 しかし「大寶」建元以降は「年次表記」は「年号」によるというルールが定められたものであり、木簡なども「年号」「干支」の併用あるいは「年号」だけというスタイルに代わっています。(月日は別ですが)
 (『養老令』(以下)では以下に見るように「公文書」には「年号」を用いることとされたものであり、これは「民間」でも同様の事が行われたと見られ、「年次」を表記する場合には「年号」或いは「年号」と「干支」の併用というのが習慣化されたものと見られます。)

(儀制令公文条)「凡公文応記年者。皆用年号。」

 しかしこの「幡」では「干支」しか書かれておらず、これはその年次として「大寶」以後であるとは言い難いことを示すと思われ、それ以前のものである事が示唆されます。そうであればいずれも想定よりも六十年ないし百二十年遡上した時期を想定すべきこととなります。そうであれば「壬午」は「六二二年」、「戊子」は「六二八年」、「壬辰」は「六三二年」、「己未」は「六〇九年」、「辛酉」は「六〇一年」、「癸亥」は「六〇三年」という年次が推定されることとなるでしょう。
 実際にこれらの推定は「幡」の様式とも矛盾していません。この幡は「第一部」(最上部の区画)がかなり縦長であり、これは「古式」と考えられかなり時代が遡上する可能性を含んでいます。それは「隋代」が最も考えられるものであり、「遣隋使」という存在を抜きにしては考えられません。(この区画部分の形状は「初唐」段階では既に正方形に近づいていますから、この「法隆寺」の幡の年代を八世紀に入ってからのものとすると年代と形状が齟齬します。)
 これらのことから「法隆寺」に残されている「幡」はそのほとんどが「隋代」付近の製作であると思われ、それは「法隆寺」という寺院そのものの創建年代をも表していると思われることとなり、「七世紀初頭」段階で「法隆寺」が創建されていたという可能性を強く示唆するものです。

 このような推測は「西院伽藍」に残されている「梵鐘」の様式などからも言えることのようです。
 その「梵鐘」は、鋳上がりの程度や造形についての技術が「拙劣」であるという評価がされており(※2)、あきらかに創建時のものではなく、移築時点に新たに製造されたものと考えられることなります。しかし「観世音寺」や「妙心寺」の鐘のようにこの時代を少し下る時点で非常に優秀な「梵鐘」が「筑紫」では製造されており、それはこの「西院伽藍」の「梵鐘」が「筑紫」の製造ではなく現地である「飛鳥」で作られたことを示すものと思われることとなります。つまり「移築」に際して「鐘」が破損するなどのトラブルがあったものとみられ、新たに製造する必要が発生したということと思われますが、この「移築」が「倭国王権」の直轄事業であるなら、その「鐘」の再作製も同様に「倭国王」の直轄として行われたはずであり、「筑紫」の工房で鋳造されて当然と思われるのに対して、実際にはそれが現地の鋳物師により鋳造されているらしいという事の中に「移築」の主体が「倭国王権」ではなかったことが強く示唆されるものです。

 また「法起寺露盤名」によると「上宮聖徳王」の遺言により「福亮法師」が「法起寺」の「堂宇」(金堂)を建てたとされていますが、この「法起寺」はその「形式」が現行の「法隆寺」の形式と違い、「東面金堂」と考えられています。この形式は「法隆寺」の解体調査から判明した「法隆寺」の元々の形式に非常に近似していると思われ、参考にされたのが少なくとも「現行」の「法隆寺」でないことは明確です。
 逆に言うと、「原形式」で建っていた時点における「法隆寺」に「準拠」しているとも考えられ、建立された「戊戌年」(六三八年)という時点で「移築」前の「原・法隆寺」が建っていた証拠であるとも考えられます。


(※1)沢田むつ代「上代の幡の編年」(『繊維と工業』60号2004年)
(※2)坪井良平『新訂梵鐘と古文化 つりがねのすべて』(ビジネス教育出版社2005年)

(この項の作成日 2003/01/26、最終更新 2015/04/08)(ホームページ記載記事を転記)

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「斑鳩寺」と「火災」の痕跡

2018年05月15日 | 古代史

 『聖徳太子傳補闕記』という聖徳太子の伝記によれば、「寺」に仕える「」同士の「争論」があり、それを「寺」の「法頭」が裁定している様子が描かれています。

『聖徳太子伝傳補闕記』
「…家人馬手 草衣之馬手 鏡 中見 凡波多 犬甘 弓削 薦 何見等 並爲。黒女 蓮麻呂 爭論。麻呂弟万須等 仕奉寺法頭。家人等根本妙敎寺令白定。麻呂年八十四 己巳年(六〇九年か)死。子足人古年十四年壬午(六二二年か)八月廿九日出家大官大寺。麻呂者聖德太子十三年丙午年(五八六年か)十八年始爲舍人。癸亥年(六〇三年か)二月十五日始出家爲僧云云…」

 この記事以前に「斑鳩寺」については焼亡記事があります。このことから、一般にはこの「争論」記事はその後のことと考えられていますが、『補闕記』の冒頭にもあるように、この「元」となった資料は「ふたつ」あり、この後半部分は、「火災」を記した「前半」とは別資料と考えられ、年次が連続しているとは断言できません。
 この段階で「寺」と言って何の注釈も入れていないのは、まだ「斑鳩寺」が存在していることを示すとも推測され、「斑鳩寺」がまだ存在している段階で起きた争論に対して、その解決に自分たちの氏族が中心的役割があったとする「付会」の文章であると考えられ、「年次」を拘束するものではないと考えられます。
 これについて「東野氏」は「庚午年籍」造籍と関連しているものと考えられたようですが、推定される年次が「干支一巡」繰り上げて考える必要がある事や、また「斑鳩寺」があった時期を考慮する必要があるとすると、「庚午年籍」ではないこととなります。
 「六二〇年」という年次に「急いで」「達」の身分について確定する必要があったとすると、やはり「造籍」と関連しているのは確かであると考えられますが、そうであれば「正倉院」に残る戸籍からの分析として「女子人口」のピークが確認される「最古」の年が「六三〇年」であることとつながります。これはその十年前に「造籍」が行なわれ、戸籍がその時点で確定したことを示すものであること、その時点以降「十年後」の再造籍までに生まれた子供達を「一括」して記録したものと思われるわけです。この「六二〇年」はその「起点」となった年であり、この年次で最初の造籍が行なわれたことを示すと思われます。
 更に、同じく「正倉院戸籍」における「筑紫」地方の戸籍の様式が「両魏式戸籍」と近似していると判断される事ともつながるものでしょう。この「両魏式戸籍」は「隋」の時代以降は行なわれていないわけですから、「遣隋使」によってしかもたらされるはずのないものだったと言えます。であるとすると「六二〇年」という年次は、まさに「遣隋使」によりもたらされたその瞬間と言っても良いぐらいのものですから、ここでの造籍を想定することは合理性があることとなります。
 
 またこう考えると、『書紀』の六七〇年の「火災記事」は「事実ではない」ということとなります。
 確かに「法隆寺」に伝わる伝承では「創建以来」「火災」には遇ってはいないとされています。火災にあったのは「法隆寺」の「前身寺院」であり、「法隆寺」そのものではないということです。
 そもそも、「若草伽藍」と「法隆寺」はその「配置様式」から全て異なるものであり、同じものを再建したものではないわけですから、この時点では「新築」か「他からの移築か」いずれかしか考えられないのは明らかです。
 それを考える場合、「法隆寺」の各所に使用されている部材の年代が参考になると考えられます。その中には、かなり「新しい」ものも含まれており、これは「創建のままである」という伝承とは矛盾することとなります。ただし、古い部材もかなりの割合を占めており、逆に考えると、「法隆寺」がもし新築された建物であるなら、このように古い部材がなぜ多いのかを説明する必要がある事もまた確かでしょう。
 伐採された部材を「寝かせる」期間は、それが「太く」「長い」部材である場合は「あばれる」量が多くなり、寸法に狂いが出るものですから、長めに取るでしょう。(十年以上など)しかし、端材などの場合はそのような懸念も少ないわけですから、それほど長い期間は必要ないものと考えられ、せいぜい二~三年と考えられます。
 「法隆寺」の場合「年輪年代測定」された部材の一番早期(古い)のものは、「金堂」の場合で「六五〇年」と測定されており、「最新」との差は二十年以上となるわけですが、「五重塔」の場合はもっと広く「心柱」を除いても「五十年」以上の年代差があります。(※)
 もし「新築」であるとするともう少し伐採年代が揃っているものと思料され、そのことからも「新築」ではないと推察され「移築」である可能性が高くなります。そう考えると「新しい」と考えられる部材の年代は限りなく「移築」の年次に近いことが考えられます。
  一般に新築の場合は「法興寺」などがそうであったように「山に入る」などして「新しい部材」を調達します。しかし「法隆寺」には逆に「新しい」と考えられる部材もまた少ないわけですから、「少なくとも」「新築」された建物ではない、という事が言えると思われます。「新築」された建物でなければ、それは「移築」としか考えられません。
 部材のもっとも新しい伐採年代が「六七〇~六七三」年付近であると言うことは、その「直後」付近の年次が「移築」の年次ではないかと推定されるものであり、「六七五年」付近が想定できるものです。
 つまり、「斑鳩寺」は「六二〇年」に火災に遭い、焼失してしまったものであり、その跡地はかなりの期間「更地」のままであったものです。後に「法隆寺」を移築したのです。その「法隆寺」は「筑紫」に「六〇七年」に建てられたものであり、それは「阿毎多利思北孤」のために「利歌彌多仏利」が建てたものと考えます。
 そして「火災」があったとされる「庚午年」(六七〇年)という年次は、「移築」が「決定」した年次であったのではないでしょうか。そして、以前からここに「法隆寺」があったことを「装う」為に「火災記事」を置いたものと思料します。
 

(※)光谷拓実「年輪年代法と文化財」(『日本の美術』421 号2001 年など)


(この項の作成日 2003/01/26、最終更新 2015/04/08)(ホームページ記事を転記)

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法華経講話と「法隆寺」創建について

2018年05月15日 | 古代史

 「法隆寺」については「五重塔」心柱伐採年次が「年輪年代測定法」により「五九四年」と確定したわけですが、『書紀』の中で「五九四年」の前後の項を見てみると「法興寺の用材を切り出しに山に入った」旨の文章など「法興寺」の関係の記事で埋められており、「法隆寺」の影も見えない状態です。『書紀』をみるとこの頃は「法興寺」の建築が最大関心事であり、重要なスケジュールとなっていたようです。しかし、実際には「五九四年」に伐採された材料が「法興寺」ならぬ「法隆寺」に使用されているわけです。
 仏教用語として「法興」と「法隆」とは対語です。「法興」とは最初に「仏法」を「興す」ことであり、「法隆」とは一度「興された」「仏法」を再び活発にすることです。(これは「重興仏法」という用語に近い意味があるようです。)このことからもこの二つの寺に、ある特別な関係があることは容易に想像されます。
 
 『法隆寺伽藍縁起竝流記資材帳』(いわゆる「西院資材帳」)には以下のように書かれています。

「合食封参佰戸
 右本記云、又大化三年歳次戊申九月廿一日己亥、許世徳陀高臣宣命納賜己卯年停止。」
「小治田/天皇大化三年歳次戊申九月二十一日己亥/許世徳陀高臣宣命為而食封三百烟/入賜〈岐〉」

 つまり、「大化三年」に「許世徳陀高臣」が「天皇の命」により「食封」に相当する戸を施入したとされているわけであり、それが「停止」されたのが「己卯年」であるとされているわけです。しかしに「小治田/天皇」とは「推古」を表すと思われますから、「大化」という年号とは時代が合いません。表記された「戊申」という干支から云うと「六四八年」ではなくその六十年前の「五八八年」がもっとも可能性が高く、「食封」が停止されたという時期も「六七九年」ではなく「六一九年」ではないかと思われるわけです。

 さらに「戊午年」に行われた法華経(勝鬘経)講義を受け、「高施徳陀」大臣が「播磨国」の「五十万代」(一代は八尺四方の広さ、一町が三百尺四方)を施入し、それを「伊河留我(斑鳩)本寺」「中宮尼寺」「片岡僧寺」分の寺封としたと書かれています。

「戊午(五八九年か)年四月十五日請上宮聖/徳法王令講 法華勝鬘等経岐/其儀如僧諸王公主及〈臣〉連公民信/受無不喜也講説竟高座尓〈坐〉奉而/大御語〈止〉為而 大臣〈乎〉香爐〈乎〉手擎/而誓願〈弖〉事立〈尓〉白〈之久〉七重寶〈毛〉非常/也人寶〈毛〉非常也是以遠〈岐須賣/呂次乃〉御地/〈乎〉布施之奉〈良久/波〉御世御世〈尓母〉不朽滅/可有物〈止奈/毛〉播磨國依西地五十万代布/施奉此地者他人口入犯事〈波〉不在〈止〉白/而布施奉〈止〉白〈岐〉是以聖徳法王受/賜而此物〈波〉私可用物〈尓波〉非有〈止〉為而/伊河留我本寺中宮尼寺片岡僧寺/此三寺分為而入賜〈岐〉」(『法隆寺伽藍縁起竝流記資材帳』より)

 この「戊午年」についても「五八九年」と見るべきですが、そうであればこの時の「法華経」講義の主体が「聖徳太子」(文中では『上宮聖徳法王』)ではなく「隋使」つまり「裴世清」ではなかったかと考えられる事となります。その場合この講義以降に『三経義疏』が書かれたとすると矛盾が生じるでしょう。それは「遣隋使」の歴史と整合しないからです。
 「遣隋使」がもし『書紀』(あるいは『隋書』)の記述通りであったとしても、「六〇〇年」や「六〇八年」には「遣隋使」が送られているわけですから、「堤婆達多品」が補綴された『法華経』が伝来して当然といえますが、そうであれば「六一〇年代」に成立したとされる『三経義疏』に「堤婆達多品」が欠けている理由が不明となってしまいます。
 
 既に述べたように『書紀』は『隋書』に合わせるべく原資料から相当の年数移動していることが推定され、「開皇年間の前半」つまり「五九〇年より以前」の記事が「六〇八年」の年次で書かれているとみられます。つまり移動年数としておよそ二十年が推定されるわけですが、それは同様に他の『推古紀』の記事についても移動の可能性があることを示唆します。
 その『書紀』の記事に『縁起』が「整合」させられているという可能性が高く、その場合「六〇七年」とされる「隋使」の来倭は実際には「五八八年」であるという可能性が高いものと推量します。そう考えると、この「講義」の主体は「隋使」であり、それは「皇帝」が発した「訓令」の中味を伝達する一環であったことが考えられます。つまり「皇帝」(「隋」の高祖「文帝」)は仏教を国家統治の中心に据えたのであり、同様のことを「絶域」である「倭国」に求めたと推量されるわけです。そう考えるとこの時の「法華経」は(「天台智顗」により)「提婆達多品」が添付された「最新」のものであり、その意味では『三経義疏』の内容と矛盾しているのは『三経義疏』の成立がこの「講義」にかなり先行した時期であったからとみるべきこととなります。

 実際に「百済」経由で『法華経』(これは提婆達多品が補綴されていないもの)がもたらされたのは「五八〇年」付近が想定されます。そうであれば、この縁起」に記された「伊河留我(斑鳩)本寺」とは「法隆寺」の前身寺院である「若草伽藍」を指すものではないかと考えられます。
 発掘された「若草伽藍」の「レイアウト」や「瓦」などの素材もすべて「百済」に関連しているとみられることからも、『法華経』の伝来はこれら「若草伽藍」などの創建年次に近いことが推定されますから、この時伝えられた『法華経』に対する『法華義疏』などに「提婆達多品」が脱落しているのも当然であり、それは『書紀』の記事の年次配列に疑いを抱くのが当然といえることを示します。

 従来からこの『縁起』については記述内容も曖昧であって、「法隆寺」の創建時期が明確でないことが挙げられていました。
 既に述べたように現行の「法隆寺」はその関わる全てにおいて「百済」の影響が見られず、「隋」ないしは「初唐」と思われるものしか確認できません。このことからも「法華経講義」と「若草伽藍」(斑鳩寺)の間に関連があるのではなく、その後身といえる「法隆寺」との関連を考えるべきこととなるでしょう。(『縁起』の日付が「干支」で書かれていることもそれを裏付けるものであり、後代的と思われるわけです。)
 
 「法隆寺」は「五九四年」と測定されている心柱以外の部材は(「六二四年」伐採のものもあるものの)「かなり遅い」年代のものが多く、それを詳細に眺めると「金堂」に関しては一番新しい部材でも「六七〇年より以前」に伐採されたものが使用されていると考えられるのに対して、「五重塔」の場合は「六七三年より以前」の部材が使用されていると考えられています。このことは「金堂」と「五重塔」にはその建立年代に違いがある、という事を示しています。

 また、これらのことは『書紀』が言う「法隆寺」の火災における表現「一屋余すなし」という「全焼」記事とも大きく矛盾するものです。「法隆寺」ではこの寺は「聖徳太子」創建のままであるという伝承を持っていました。つまり「火災」になど遇っていない、と言うのです。この伝承に従えば「六七〇年」に焼けたとされているのは「別」の寺院である、という事となります。そう考えると上に見た「前身寺院」と思われる「斑鳩寺」という寺の存在が注目されます。

 「舒明」死去後「田村皇子」と「山背大兄皇子」の間で後継争いが起き、「山背大兄皇子」が立てこもったのが「斑鳩寺」とされます。この直前に「聖徳太子」の宮であった「斑鳩宮」が焼かれ、同様に「聖徳太子」ゆかりの寺である「斑鳩寺」についても攻撃を受けます。

「(皇極)二年(六四三年)十一月丙子朔。…「巨勢徳太臣等燒斑鳩宮」…。」

 そして、この寺はその後『書紀』で「法隆寺」に火災があったと記す一年前に同様に「火災」に襲われているようです。

「(天智)八年(六六九年)是冬。修高安城收畿内之田税。于時災斑鳩寺。」

 ところで、『書紀』中でも「斑鳩寺」と「法隆寺」が同一であるとはどこにも書いてありません。「法隆寺」については「聖徳太子」との関連も『書紀』中では触れられていないのです。
 しかし、一般には「斑鳩寺」と「法隆寺」は同一視されているわけですが、(それは「聖徳太子」に関する各種の伝記などの影響と考えられますが)明らかに、この両者は「別」の寺院であると考えられます。なぜなら、「法隆寺」の地下から別の寺院跡が発見されており、こちらが「斑鳩寺」であると考えられるからです。
 また、「法隆寺東院」の地下からも「遺構」が発見され、これについては「斑鳩宮」跡と推定されているようです。この「遺構」には火災の痕跡が確認され、『書紀』の記事から、「皇極二年」(六四三年)のことと考えられています。
 この「斑鳩宮」は『書紀』によれば「聖徳太子」が自身の宮として営んだものとされています。

「(推古)九年(六〇一年)春二月。皇太子初興宮室于斑鳩。」

 これによれば「斑鳩寺」とほぼ同じ時期に造られたと見られます。

 上で見たように「己卯年」(実際には「六七九年でも六一九年でもないと思われますが)という年次が「元興寺」から「法隆寺」へ「寺名」が切り替えられた年と考えられるものであり、この「食封停止」が書かれた「法隆寺伽藍縁起并流記資財帳」の「原資料」となったものは「元興寺」に関するものであったと考えられ、「寺名」が変更になった結果、(推測によれば移築も行われたものと思われます)「名前」も「実体」も「筑紫」から「消えてしまったと云うことが「食封停止」の直接的理由であったと思料されるものです。

 ところで、『聖徳太子傳補闕記』の記事によれば「乙卯年」の記事に連続して「庚午年四月卅日夜半有災斑鳩寺…」という記事が書かれています。しかし、「乙卯」の次の年は「庚辰」であり「庚午」ではありません。ここには明らかな錯誤か混乱があるわけですが、「東野治之氏」は其の論文(「文献資料から見た法隆寺の火災年代」)の中で、「火災記事」が「乙卯年」の翌年に配されているにも拘わらず「干支」が「庚午」であるのは、『書紀』に記された「法隆寺」火災記事が「庚午」であることとの関連で、「正しい」とされ、そのまま「六七〇年」の「庚午年籍」と結びつけられました。しかし、それでは「太子在世中」ではなくなるはずですが、それにはコメントされていません。
 これは「乙卯年」の翌年なのですから「本来」は「庚辰年」であったものを、『補闕記』の作者が『書紀』の表記に「引きずられ」た結果、「庚午年」と誤記したと考えるのが正しいと思われます。そうなると、「太子在世中」という考えからはこの「乙卯年」は「六一九年」、その「翌年」である「火災記事」は「庚辰年」の「六二〇年」と推定されます。この「直後」の「太子」の「愛馬」の記事も「辛巳」の年のこととして書かれており、この「辛巳」という干支が「六二一年」を示すことから、「前後」の干支の連続性が確保されているという点では「庚辰」年と解釈する方がはるかに良いと思われます。
 そもそも、この「補闕記」の「年次」は全て「六世紀後半」から「七世紀初め」の事と考えられますので、ここに「庚午年」という年次で記事が挿入されている事自体が甚だ不審であり、疑わしいものです。


(この項の作成日 2003/01/26、最終更新 2017/07/22)(ホームページ記載記事を転記)

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