古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「高向玄理」について

2018年05月05日 | 古代史

 「白雉五年」の「遣唐使団」の肩書き(冠位)については「六六四年」に「天智」が定めたという官位制の中にあるものであり、時系列として矛盾していると見られます。

「天皇命大皇弟宣増換冠倍位階名及氏上民部家部等事。其冠有廿六階。大織。小織。大縫。小縫。大紫。小紫。大錦上。大錦中。大錦下。小錦上。小錦中。小錦下。大山上。大山中。大山下。小山上。小山中。小山下。大乙上。大乙中。大乙下。小乙上。小乙中。小乙下。大建。小建。是爲廿六階焉。改前華曰錦。從錦至乙加六階。又加換前初位一階。爲大建。小建二階。以此爲異。餘並依前。」「(天智)三年(六六四年)春二月己卯朔丁亥条」

 このうち「高向玄理」については「新羅」に派遣された際の肩書きが「小徳」と書かれており、これは『推古紀』に定められたという「冠位十二階」の上から二番目です。また、彼は「国博士」という地位にあって「僧旻」と共に「八省百官」を定めたとも書かれています。

「以沙門旻法師 高向史玄理爲國博士。」(天豐財重日足姫天皇四年(六四五年)六月庚戌条)

「遣小徳高向博士黒麻呂於新羅而使貢質。遂罷任那之調。黒麻呂更名玄理。」(大化二年(六四六年)九月条)

「詔博士高向玄理與釋僧旻。八省百官。」(大化五年(六四九年)二月 是月条)

 同じように「小徳」という冠位であったことが記されている「巨勢臣徳太」「大伴連馬飼」はその後「左大臣」「右大臣」となっており、彼らとはこの頃まではほぼ同格の扱いであったものと考えられます。

「初發息長足曰廣額天皇喪。是日。小徳巨勢臣徳太代大派皇子而誄。次小徳粟田臣細目代輕皇子而誄。次小徳大伴連馬飼代大臣而誄。」(六四二年)元年…十二月壬午朔。…甲午。

「於小紫巨勢徳陀古臣授大紫爲左大臣。於小紫大伴長徳連。字馬飼。授大紫爲右大臣。」「六四九年」大化五年夏四月乙卯朔甲午。

 ところが、この「六五四年」の遣唐使の際の「冠位」は「大錦上」となっており、これは上から「八番目」です。しかも上に述べたように時系列として矛盾しているというわけですが、「或曰く」として書かれている「大華下」が正しかったとしても「巨勢臣徳太」「大伴連馬飼」が「左右大臣」に任命される前が「小紫」であったのに比べ二段階低くなっており、さらに彼らは「大紫」に昇格したわけですから、いっそう差がついていることとなります。
 また、「六五〇年」の「白雉」が献上され、「改元」される際に、「倭国王」から「故事」に類似の瑞祥の出現があったか問いただされているメンバーの中には「高向玄理」の名前はありません。「国博士」という地位にあったものであれば、当然この場にいなければならないものと思えますが、その名が見えていません。これらは何を意味するものでしょうか。

 これについては以前は「降格」という可能性を念頭に考えていましたが、そうではないらしいことに最近気がつきました。
 ここに見える「小徳」と「大錦上」については一概に「矛盾」とはいえないという可能性もあると考えるようになりました。それは「平安時代」に「大江匡房」が著したという『江談抄』の中に「物部守屋と聖徳太子合戦のこと」という段があり、その中で「中臣國子」という人物について書かれた部分に以下のことが書かれていることからです。

「…太子勝於被戦畢于時以大錦上小徳官前事奏官兼祭主中臣国子大連公奉勅使今祈申於天照坐伊勢皇太神宮始リト云フ。」(『江談抄』巻三より)

 同様の内容の記録は『皇太神宮諸雑事記』(『続群書類従』所収)などにもあり、これをみると「対物部守屋」の戦い時点以前に「大錦上」という肩書きと「小徳」という階級とが併存している様子が窺えます。このうち「小徳」については『隋書俀国伝』では「内官」に十二等あるとされている中にあり、それらは「遣隋使」が「隋」の皇帝に語った内容に基づくと見られますが、ここに書かれた「内官」とは「隋」「唐」においては「在京」の官人を指すものでした。そう考えると「遣隋使」が「内官」という用語を使用した裏にはこれらの「隋」における体制が念頭にあったと見られ、これらの十二階の冠位が「隋」においてもそうであったように「京内」の「諸省」の官人に対するものであることが推定できるでしょう。では「京」の外部の人たちには「階級制」はなかったのかと云うこととなるとそれは考えられません。「内官」という表現自体が「外官」の存在を前提にしていると思われ、「外官」に対しても何らかの階級制度があったものと見るべきこととなるでしょう。つまり「大錦上」のような「冠位」が本来「内官」「外官」の別に関わらず付与されていたと推定されるものです。

 ここに書かれた「中臣國子」という人物は『書紀』には出てきませんが相当すると思われるのが『推古紀』に現れる「中臣國」です。

「新羅伐任那。任那附新羅。於是天皇將討新羅。謀及大臣。詢于群卿。田中臣對曰。不可急討。先察状以知逆。後撃之不晩也。請試遣使覩其消息。『中臣連國』曰。任那是元我内官家。今新羅人伐而有之。請戒戎旅。征伐新羅。以取任那附百濟。寧非益有于新羅乎。田中臣曰。不然。百濟是多反覆之國。道路之間尚詐之。凡彼所請皆非之。故不可附百濟。則不果征焉。爰遣吉士磐金於新羅。遣吉士倉下於任那。令問任那之事。時新羅國主遣八大夫。啓新羅國事於磐金。且啓任那國於倉下。因以約曰。任那小國。天皇附庸。何新羅輙有之。随常定内官家。願無煩矣。則遣奈末智洗遲。副於吉士磐金。復以任那人達率奈末遲。副於吉士倉下。仍貢兩國之調。然磐金等末及于還。即年以大徳境部臣雄摩侶。『小徳中臣連國』爲大將軍。以小徳河邊臣禰受。小徳物部依網連乙等。小徳波多臣廣庭。小徳近江脚身臣飯葢。小徳平群臣宇志。小徳大伴連。闕名。小徳大宅臣軍爲副將軍。率數萬衆以征討新羅。…」「(六二三年)卅一年。…是歳条」

 この記事は明らかに不審です。なぜならそこには「任那」が存在しており、それだけでも不審ですが、この時点で「百済」「新羅」と「倭国」を加えて「任那」の争奪戦をしていることとなっており、そのような戦いがこの時点付近の大陸や半島をめぐる国際情勢とは位相を異にするものと考えられるからです。
 この年次がもし正しければ、それは「隋」が「高句麗」と戦った影響もあって疲弊し衰亡して「唐」に取って代わられた直後であり、「半島」においてはその「隋」に拮抗し得た「高句麗」の影響力が強くなっていた時期です。当然「高句麗」は(五世紀のように)軍事力を背景として南下政策をとるという可能性もあり、「百済」も「新羅」も「高句麗」の脅威をいかに和らげるかを考えていたと思われます。
 他方「倭国」は「隋」から「宣諭」された一件以降「隋」からの脅威を感じていたわけですが、「唐」に代わって以降そのような関係を一旦清算して新たな友好関係を「唐」との間に築こうとしていたものと見られます。しかし、この「新羅出兵」記事はそのようなことが全く想定されておらず、半島の中の小領域の獲得合戦をやっているように見えます。いわばコップの中の嵐に過ぎないレベルの戦闘をしているようにしか見えないわけです。
 このことからこの戦いは「七世紀初め」のものと考えるには著しく不審があるものであり、この記事には「年次移動」という「潤色」が施されていると見るべきこととなります。つまり「小徳中臣國」という人物は(他の人物達と同様)ずっと以前の時代に生きていたものと思われるわけです。そう考えると、「小徳」からその後「大錦中」となったと見られる「高向玄理」の官位についても実際には「大錦中小徳」という並列称号ではなかったかと考えられることとなり、これを「六世紀末」から「七世紀初め」として考えて矛盾はなくなると思われます。

 以上「惠日」に関わることや「中臣国」に関わること、経過行路の選択などからこの時の「高向玄理」達は「遣唐使」ではなく「遣隋使」であったこととなります。彼等が「遣隋使」であったとすると、彼等が「日本國之地里及國初之神名」を聞かれたということには合理的理由があることとなります。これが干支一巡遡上する可能性を考えると、真の年次としては「五九四年」が考えられ、これは「倭国」の最初の遣隋使である「開皇の始め」に派遣された「小野妹子」達に引き続く使者であったこととなるものと思われます。
 
 また「高向玄理」は「唐」で死去したとされるわけですが、そこには全く理由が書かれていません。本来このような「押使」というような高位の人間が唐で「客死」したとするとその状況が語られて然るべきですが、そこには一切記事がなく、死因などが不明となっています。このような記事の状況から判断して「高向玄理」についてはその「死因」を書くわけにはいかなかった理由があるのではないかと思われます。それは彼が「隋」の官憲から取調べを受け、その最中に死去したのではないかと考えられるからです。
 なぜ彼が取り調べを受けていたかというとそれは「日本國之地里及國初之神名」を正確に答えられなかったのではないかと思われるわけです。(記事としてもこの「日本國之地里及國初之神名」を皆が聞かれて答えたというものと「高向玄理」の死についての記事が連続しており、それはその二つに関連があることを示唆するものと思われます。)
 彼は「渡来人」であったと思われますから、そのような国内伝承を正確に記憶していなかったと云うことも考えられるでしょう。このため、「スパイ」(特に「高句麗」からの)の疑いにより「取調べ」を受け、その途中で拷問として食料を与えられないことがあって、餓死ないし栄養失調で死亡したものではないでしょうか。
 そのような推測があながち無理ではないのは『宝物集』等各種資料に「燈台鬼」という伝承が残されていることです。(※)

 それによれば「高向玄理」とおぼしき人物である「可瑠大臣」という人物が「遣唐使」として赴き、そこで何らかの罪により「面皮」をはがれ「額」に「燈台」を打たれることとなったというものであり、これは「高向玄理」に対して「拷問」(というより「刑」か)が行われたことを示唆する伝承なのではないかと思われます。(各種史料ではこの「可瑠大臣」の息子である「宰相」が「唐」へ赴き父である「可瑠大臣」と再会するというストーリーのようです)
 この「可瑠大臣」については『推古紀』の人物であるというものや「高向玄理」という固有名詞が出ているものもあり、この伝承が発生した段階から「高向玄理」という人物が念頭に置かれたものであったのは間違いないものと思われます。また「伝承」というものが全体ではなくとも、一部は必ず事実に基づくものであると考えられることを思うと、彼が「遣隋使」として派遣されて帰ってこなかったという事実がその下敷きになっていると思われるわけです。

 同種のストーリーが語られる『平家物語』の「長門本」では彼が「唐」の官憲に捕らえられた嫌疑として「陰陽道」の奥義を日本に持ち帰ろうとしたためという説明がされており、一見そのような理由で拘束されるのは不審ですが、これは実際には「暦」に関する知識あるいは「渾天儀」など「暦」を製作するのに必要な機械を日本に持ち帰ろうとしたことを指すものではないでしょうか。
 「暦」やそれに必要な「漏刻」などの管理は「隋」でも「唐」でも(我が国でも)「陰陽寮」の管掌範囲ですから、「暦」関連の知識や技術を「陰陽道の奥義」として表現してもあながち間違いとはいえません。
 そもそも「暦」は「皇帝」の権威に直接関わるものであり、「暦」を作り頒布する権利は「皇帝」だけが持っていたものです。「附庸国」などはその暦が「頒布」されるのを受容する以上のことはできず、許可されていないのに自分で作ったりあるいは使用したりすることは固く禁じられていたものです。
 「倭国」は「隋」に遣使するまでは「南朝」に臣事していたものであり、少なくとも「百済」を通じて「南朝」の暦である「元嘉暦」を使用していたものと思われます。しかし「隋」との国交を持つこととなって以降「隋」で使用している暦について知ろうとしたものと思われますが、「倭国」は絶域であることなどから「隋」と同じ暦の頒布を受けられず(絶域のため毎年貢献のため渡海する必要がないとされたものと思われ、そうであれば暦が正確である必要がないと考えられたのではないでしょうか)、そのため「暦」を自力で作ろうとしたと考えられるわけです。
 「燈台鬼」説話では「物言わぬ薬」を飲まされたという描写も見られ、「拷問」であれば逆に自白を容易にするような薬が処方されて当然ですから、これは「秘密」を漏らせぬよう口止めのために薬を飲まされたものと理解できると思われるわけです。


(※)山下哲郎「軽の大臣小こう-『宝物集』を中心とした燈台鬼説話の考察-」(『明治大学日本文学』第十五巻一九八七年)、浜畑圭吾「延慶本平家物語における「燈台鬼説話」(龍谷大学国文学論叢第五十一集)


(この項の作成日 2011/07/21、最終更新 2015/04/30)(ホームページ記載記事を転記)

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「遣唐使外交」について 白雉年間の連続遣唐使

2018年05月05日 | 古代史

 『書紀』によれば「白雉四年」と「白雉五年」に連続して「遣唐使」が派遣されています。

「發遣大唐大使小山上吉士長丹・副使小乙上吉士駒〈駒更名 絲〉・學問僧道嚴・道通・道光・惠施・覺勝・弁正・惠照・僧忍・知聡・道昭・定惠〈定惠 内大臣之長子也〉・安達〈安達中臣渠毎連之子〉・道觀〈道觀春日粟田臣百濟之子〉・學生巨?臣藥〈藥豐足臣之子〉・氷連老人〈老人眞玉之子。或本以學問僧知辨・義德・學生坂合部連磐積而増焉〉并一百二十一人倶乘 一舩。以室原首御田爲送使。又大使大山下高田首根麻呂〈更名八掬脛〉・副使小乙上掃守連小麻呂・學問僧道福・義向并一百二十人倶乘一舩。以土師連八手爲送使。」「白雉四年(六五三)五月壬戌条」

「遣大唐押使大錦上高向史玄理〈或本云 夏五月 遣大唐押使大華下高向玄理〉・大使小錦下河邊臣麻呂・副使大山下藥師惠日・判官大乙上書直麻呂・宮首阿彌陀〈或本云 判官小山下書直麻呂〉・小乙上崗君宜・置始連大伯・小乙下中臣間人連老〈老 此云 於唹(おゆ)〉・田邊史鳥等分乘二舩。留連數月取新羅道、泊于莱州。遂到于京、奉覲天子。於是東宮監門郭丈擧悉問日本國之地里及國初之神名。皆随問而答。押使高向玄理卒於大唐」「白雉五年(六五四)二月条」

 この連続「遣唐使」のうち「六五三年」(白雉四年)五月の遣唐使船は途中難船し、残りの一隻も到着がかなり遅れ、唐皇帝に拝謁したのは「六五四年」になってからのようです。彼らはその年の七月に筑紫に帰って来た、と『書紀』に書かれています。

「被遣大唐使人高田根麻呂等。於薩麻之曲。竹嶋之間合船没死。唯有五人。繋胸一板流遇竹嶋。不知所計。五人之中。門部金採竹爲筏。泊于神嶋。凡此五人經六日六夜。而全不食飯。於是。褒美金進位給祿。」「白雉四年(六五三年)秋七月条」

「甲戌朔丁酉条 西海使吉士長丹等。共百濟。新羅送使泊于筑紫。
是月。褒美西海使等奉對唐國天子。多得文書寶物。授小山上大使吉士長丹以小華下。賜封二百戸。賜姓爲呉氏。授小乙上副使吉士駒以小山上。」「白雉五年(六五四年)秋七月条」

 通常「白雉五年」の遣唐使団は、その前の「白雉四年」の遣唐使船が東シナ海を直接横断しようとして「遭難」したこともあり、より安全と考えられる「新羅道」という「新羅」経由でのルート(北路か)を経由しようとしたため、団の構成をより「親新羅」的にするために必要な人材を選抜したものと考えられていました。そのため「押使」という「高向玄理」を始め、かなりの数の「親新羅系」の人物が遣唐使中にいたとして、当初より「親新羅」的人物が選抜されていると考えられていたわけです。
 実際問題としてこの時の遣唐使団とその前年の遣唐使団については『書紀』の表現と内容が著しく異なります。以下に相違を示します。

1.「白雉四年」の遣唐使を派遣した記録には「日付」が書かれているのに対して、「白雉五年」の記録では「月」までしか書かれていません。

2.「白雉四年」の遣唐使は、参加した人数が「百二十一人」「百二十人」と明確に記載されているのに対し、「白雉五年」の方には「概数」さえ記載されていません。

3.共に「二船」に分乗しているわけですが、「白雉四年」の方は各々の乗船者がかなり細かく書いてあるのに対し、「白雉五年」の方はまったく触れておらず、「誰」が「どちら」に乗っていたか、不明となっています。

4.また、この乗船者については、「白雉四年」側には「父親」の名前などの補足の記録があるのに対し、「白雉五年」には皆無です。

5.さらに、「白雉四年」の方は各々の船に「送使」がいるのに対し、「白雉五年」の方は「送使」がいないのか、書かれていません。

6.「白雉五年」の遣使の使者の冠位は「後の時代」の冠位が書かれており、この時代のものではありません。これを補足・修正するように「或本伝」という形で別の情報が記載されています。それに対し「白雉四年」の方の冠位は当時のものが書かれているようです。

7.また、帰国した使者に対する対応も違います。「白雉四年」の使者が帰国した際には「唐皇帝」から贈り物をもらい、それを「倭国王」に進上し、「倭国王」から労をいたわられ、「褒美」を下賜されていますが、「白雉五年」の使者が帰国した際には、ただ「帰国した」という記事だけであり、功績が顕彰されていません。

8.「白雉五年」の遣唐使は「新羅道」を経由して唐に入国していますが、「白雉四年」の航路は「南路」という「東シナ海」を直接横断するルートを採用しています。

9.「伊吉博徳」の「言葉」として書かれた「細注」についても、「白雉四年」の遣唐使達の消息についてであり、「白雉五年」の遣唐使団についての情報が全く盛り込まれていないように考えられます。

 以上のように「白雉四年」遣使が緻密な記録であるのに対し、「白雉五年」遣使は非常に「大まか」な記録になっており、これは『書紀』編纂時の参考資料の「多寡」の差があったものと考えられます。
 しかしこの二つの「遣唐使」が「同じ機関」により「同じ時期」に派遣されたとすると、資料の不均衡の説明が付きません。つまりこれらは遣使した「機関」ないしは「時期」が異なる事を示すものであり、それは「白雉五年」の遣唐使派遣が本当に「倭国」からなのか、それが「白雉五年」の事実であったのかを含めて問われるものと思われます。
 その意味で注目される点が二つあります。一つはこの「白雉五年」の遣唐使の中に「薬師惠日」という人物がいることです。この人物は『推古紀』に帰国記事だけがあり、派遣記事がないことで知られます。しかも彼は「派遣されていた国」について「法式完備の国」という表現をしており、これは「唐」というより「隋」にこそ妥当する表現であると思われます。

「新羅遣大使奈末智洗爾。任那遣達率奈末智。並來朝。…是時。大唐學問者僧惠齊。惠光。及『醫惠日』。福因等並從智洗爾等來之。於是。惠日等共奏聞曰。留于唐國學者。皆學以成業。應喚。且其大唐國者法式備定之珍國也。常須達。」「推古卅一年(六二三年)秋七月条」
 
 ここには「新羅」の使者に同行して帰国したという「大唐學問僧」四名の名前が書かれています。しかし、これらの人名は「福因」を除いて「派遣された」という記録がありません。その「福因」については「隋」の「大業年間」に発遣記事があります。つまり彼は「遣隋使」であったわけです。このことは、「惠日」を含めた彼等は『書紀』に書かれていない「遣隋使」の一員であったこととなると思われますが、ここで「惠日」が報告した内容である「其大唐國者法式備定之珍國也。常須達。」という言葉の中に出てくる「大唐」についても、既に考察したように実際には「隋」のことを指すという可能性が高いこととなります。
 また「法式が備わっている」という「恵日」の評価も特に「唐」に特定されるものではなく、「法式」が完備されたのは「隋」において画期的であったものですから、この「大唐」が「隋」を指すという考えるほうがより正しいと思われます。

 そもそも「礼制」や「法制度」「官僚制度」などが整ったのは「隋」の開皇年間(文帝の時代)においてであり、「唐」においてであるとはいいにくいものです。「隋」の制度等については「遣隋使」や「隋使」(裴世清)などとの交流があったわけですから、「法式が完備されている」ということは既知の事柄であったはずですが、あたかもそれが始めて判ったというような口吻は不審といえるでしょう。

 結局、彼らは「隋代」に派遣されたと見る事ができると思われるわけですが、さらに彼(恵日)の子孫が上奏した文章が『続日本紀』にありますがその内容も気になります。

「天平寳字二年(七五七年)夏四月…己巳。内藥司佑兼出雲國員外掾正六位上難波藥師奈良等一十一人言。奈良等遠祖徳來。本高麗人。歸百濟國。昔泊瀬朝倉朝廷詔百濟國。訪求才人。爰以徳來貢進聖朝。徳來五世孫惠日。小治田朝廷御世。被遣大唐。學得醫術。因号藥師。遂以爲姓。今愚闇子孫。不論男女。共蒙藥師之姓。竊恐名實錯乱。伏願。改藥師字。蒙難波連。許之。」(『続日本紀』巻二十「孝謙天皇紀」)

 これを見ると「惠日」については「小治田朝廷御世。被遣大唐。學得醫術。」とされていて確かに「推古」の時代に派遣され「醫術」を学んだと書かれていますが、「孝徳朝」(白雉五年)に「遣唐使」として派遣されたことについては何も触れられていません。
 この時は「高向玄理」に次ぐ「副使」という高い地位での「派遣」でしたから大変名誉なはずであり、その功績に触れない上表はあり得ないものでしょう。またそこには「薬師」とありますから、彼が「医薬」に関連したことを学業の目的として派遣されたことは間違いないことと思われますから、ますますそれに触れない上奏文はあり得ないこととなるでしょう。『推古紀』の記録でも帰国後代表者として奏上しているのは「惠日」であるらしく、彼が「使節団」の中でも上位の位置にいたことが窺えますが、それは「白雉」の使節団において「副使」であったという記録と整合すると言えます。
 これらのことは「惠日」の派遣は一回だけであり、それは『推古紀』のものであったと考えざるを得ないことを示すものです。それだけ年次としては「古い」こととなれば詳細な記録がなかったというのは不自然とは言えず、納得できるものです。実際『書紀』には「小野妹子」が派遣された際の記録にも、副使などの記載が一切ないことなど詳細は全く明らかではありませんから、それと似たような事情と考えることができるでしょう。

 そもそも「新羅道」というルートそのものが「遣唐使」の経路としては初期のものですから、その意味でも「時代」の位相が違うと思われるわけです。
 「白雉四年」の「遣唐使」がとった「南シナ海」を横断するルートは後発のものであり、元々は「半島」沿いに進む行路が一般的でした。
 それは「新羅」から水行で「百済」の沿岸を経由し「遼東半島」などを経て揚子江河口まで南下するルートでした。このルートは「倭の五王」の頃から「中国」へ使者を派遣する際には必ず使用されていたものです。このルートを選定していることから考えても「高向玄理」や「惠日」達の派遣時期としては相当遡上すると見るべきであったのです。
 その後「新羅」との関係が悪化した後はこの「ルート」を使用することが適わなくなったものであり、「難波朝」の存在する「難波」は「百済系氏族」が多数を占めている地域ですから彼等の支持が絶対必要であったわけであり、そのため「唐」へのルートには「新羅道」(「北路」)を取ることを避けざるを得ず「南路」を選定したものです。その結果「白雉四年」の遣唐使団は「遭難」することとなったものと推察されます。
 このような経緯を考えても「白雉五年」の遣唐使団の派遣はその時点の事実ではなく、実際にはもっと以前の派遣であったものと推量します。

 さらに注目される点は「高向玄理」等の「肩書き」にある「大錦上」や「小錦下」などの表記です。


(この項の作成日 2011/04/28、最終更新 2015/03/17)(ホームページ記載記事を転記)

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「仁徳」と「利歌彌多仏利」(二)

2018年05月05日 | 古代史

 前記事に引き続き「仁徳」と「利歌彌多仏利」の相似について考えます。(以下「歌謡」に関する部分は岡田喜久男氏の研究「記紀歌謡からみた『古事記』と『日本書紀』(Ⅰ、Ⅱ)山口県大学共同リポジトリ」に依拠しています。)

 『書紀』と『古事記』にはかなり多数の「歌謡」が含まれており、(共通する「歌謡」を差し引いても残り百九十首あるとされています)その「歌謡」が最多出現するのが「応神」「仁徳」両天皇の時代であることが確認されています。このことだけでも「両書」の中でこの「二天皇」がいかに「特別視」されているか分かりますが、加えて、その歌謡に使用されている「枕詞」についても際だった特徴があることが判明しています。つまり、『書紀』と『古事記』には共通の「歌謡」があり(約五十首)、そこで使用される「枕詞」についてもほぼ共通しているわけですが、「応神」「仁徳」の時代に使用されている「枕詞」「だけ」が「両書」で異なっているのです。
 一般に「枕詞」は変化しにくいとされ、それは「短いこと」「すぐ下の音節や語に掛かる」必要があるという特徴などからですが、そのようなものが『古事記』と『書紀』の表面上の時間差(八年間)という期間の割には異なっているのは「不審」とされているわけです。しかも他にも「助詞」の違いなど「微細」な違いがこの「応神」「仁徳」という両天皇の部分に限って存在しているのです。これらの理由としては『「紀」と「記」が互いに意識した結果』という指摘がされることもあります。つまり(特に)「書紀編纂者」が『古事記』の内容を把握・熟知しており、「敢えて」それと変えているというのです。もちろん両史書の成立の事情を考えるとそのような可能性もなくはないと思いますが、しかし、それは「紀」と「記」の全般に言えることであり、特に「応神」「仁徳」の両帝の場所だけに限らないわけですから、そのような考え方では解決できる問題ではないといえます。
 この理由として最も考えられるのは「応神」「仁徳」の両天皇の時代の「歌謡」については「未定」つまり、定まった読みなどがなく、「確定」していなかったと言うことではないでしょうか。つまり、他の部分は既に定まった用字・用語があり、そのため「両書」で大きく異なる事はないと言うことと考えられるものです。この事は即座にこの「両天皇」の時代の歌謡が「新しい」と言うことを示していると考えられるでしょう。

 「応神」「仁徳」両天皇の時代が「新しい」とすると、特に『古事記』の場合は「推古朝」までしかない(つまり一番新しいのは『推古記』であると言う事)ことから、「応神」「仁徳」両天皇の「実年代」が「推古朝」から遠くない、あるいは「重なっている」ということを示すものではないかと思われます。
 『書紀』では「百済」から「王仁」という人物が「論語」と共に「千字文」を「応神朝」にもたらしたとされていますが、(この人物は「なにはづ」の歌を詠んだとされる)「千字文」は「南朝」「梁」の時代に作られたものであり、「応神」の時代とされている「四世紀」や「五世紀」とは時代が全く合いません。
 実際には「六世紀前半」に「千字文」は成立したものであるのは確実ですから、「倭国」に伝来したのが「六世紀後半」であるのはそれほど「不審」ではないこととなります。この事からも、「応神朝」の真の時代が「六世紀後半付近」であることが想定されることとなり、それは「阿毎多利思北孤」の時代に限りなく「接近」することとなるものです。
 またそれは『隋書たい国伝』の中で「倭国の風俗」を記した中に「如意寶珠」に関する記述があることにも関係していると思えます。なぜなら「千字文」の中に「如意寶珠」について「夜光るのが特に良い」という意味の語句があるからです。

(千字文)「1-18」「…劍號巨闕 珠稱夜光…」

 この「語句」を下敷きにしているとすると「遣隋使」の教養の中に「千字文」があったこととなり、「千字文」の伝来時期が彼の人生の中のことであった可能性が強いことを示すと思われます。

 また『日本後紀』の中に書かれている「藤原継縄」の「桓武天皇」に対する「上表文」の中には以下の表現があります。

「襲山肇基以降清原御寓之前、神代草昧之功往帝庇民之略」

 この文章は『続日本紀』の前に存在していた「前日本紀」の書かれている範囲としての表現です。そして、これに続く『続日本紀』の「範囲」としては「文武」から以降が書かれているという意味の文章となっていて、このことから「清原御寓」が「文武」の治世を指す表現と推察されるわけですが、この「清原宮」が実は「難波朝期」に「筑紫」に存在した「飛鳥浄御原宮」を指していたことが明確となったことにより、「清原御寓之前」という「倭国王」は「利歌彌多仏利」が該当すると考えざるを得ないこととなりました。
 ここでは「襲山肇基」と「神代草昧之功」、「清原御寓之前」と「往帝庇民之略」とが「対句」を構成していると見られるわけですが、「清原御寓之前」というのが『隋書俀国伝』に登場する「利歌彌多仏利」であるとすると、「清原御寓之前」と「対句」として構成されている「往(いに)しへの帝の庇民の略」という部分も「利歌彌多仏利」の治世を指していることとなります。
 ところで、「往帝」つまり「いにしえの帝」というように「帝」を冠して称される人物は「古今和歌集」でも「みかどのおほんはじめ」が「仁徳」とされ、また後の『懐風藻』その他でも「仁徳」は「聖帝」と称されているなどの例から、この『日本後記』の記述の「往帝」も「仁徳」を示すものであると考えるのが至当です。それを示すものが「庇民」という言葉です。この「庇民」とは「庇」が「かばう」「守る」という意義があることから「民を守護する」という、「為政者」の行なうべき最高のこととされ、『礼記』にも「庇民之大德」とも称される「先例」がある用語です。このような用語が使用される条件を備えているのは、「仁徳」に他ならないと考えられます。それは「竃の煙を見て租を停めた」と伝えられる古事がまさに「庇民」にふさわしい事績であり、それを行ったとされる「仁徳」がまさにその人物として適合すると考えられるものですが、このような「人物」について「清原御寓之前」つまり「利歌彌多仏利」の業績として描かれているということと考えられることとなります。
 更に「利歌彌多仏利」の業績と考えられる事に「十七条憲法」の制定があるとすると、その内容が「庇民」という用語にふさわしいことにも気づきます。「十七条憲法」の中身を見ると「統治者」に対する「心得」的条項が主なものであり、そこではあたかも「護民官」の如く「民衆」対する粗雑な取扱を戒めるものとなっています。その意味でも「仁徳」と「利歌彌多仏利」の同一性が否定できないこととなります。
 「仁徳」はその後「平安朝」などの各「王権」からも「賞賛」されている事実があり、この「天皇」を「理想」とする考え方が「八世紀以降」の王権にあったことが窺えます。


(この項の作成日 2011/04/19、最終更新 2018/04/22)(ホームページ記載記事を転記)

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「仁徳」と「利歌彌多仏利」(一)

2018年05月05日 | 古代史

 『古事記』は上巻・中巻・下巻と分かれています。当然ではありますが、このように三巻に分かれていることには意味があるのであり、特に各「巻」の始めに配置されている、「天御中主神」、「神倭伊波禮毘古天皇」、「大雀皇帝」は「画期」とも言うべき「三者」であると考えられます。
彼等にはそれぞれ「神」、「天皇」、「皇帝」という称号が付いているわけですが、いずれも「始祖」とも「開祖」とも言えることを示すものです。
 「天御中主神」は「古事記上巻冒頭」で「天地初發之時、於高天原成神名天之御中主神(以下略)」というように最初に産まれた神とされ、まさにこの国の(というよりこの「世界」の)「始祖」です。
 また「神倭伊波禮毘古天皇」は「神武天皇」ですが、彼は「九州」から「東征」して「近畿の王」である「長脛彦」を打倒し「橿原宮」に初めて朝廷を開いたとされています。つまり「近畿王権」の「開祖」というわけです。
 また「大雀皇帝」という人物については、「仁徳」であるとされていますが、彼に使用されている「皇帝」という称号は重要な意味を持つものであり、彼以前にはこのような称号を持った「天皇」(倭国王)は存在していませんでした。彼がこの国で初めて「皇帝」という称号を与えられた(使用した)人物なのです。そして、この「皇帝」という称号は周知のように「唯一無二」の存在であり、それはそれまでの「倭国王」とは違う「レベル」の権力者である事を示すものです。

 この三者が「各巻」の冒頭を飾るわけですが、またそのことは彼等に共通するものがあったことを示すものでもあると思われます。つまり、「仁徳」「神武」「天之御中主」は各々比肩しうる治績やその王権の性格があったものと考えられるわけですが、特に『古事記』が書かれた時点における「王」から見て、この三者のうち「最近」の「人物」である「仁徳」が重要視されているのは明らかと考えられ、その「仁徳」の治績が「神武」、ひいては「天之御中主」に投影されている事を示すと推量されます。この事は「吉野の国栖(国巣)」が「奉仕」する記事が「神武」と「仁徳」にだけ見られることからもいえると思われます。

 「神武」との関連では「神武」達が「熊野」から「大和」へ移動途中に「吉野」の山中で「彷徨」しているときに出会う形で登場するのが「吉野の国巣(国栖)の祖である」と「注」に書かれています。
 また、『延喜式』などに描かれる「大嘗祭」でも「寿詞」を奏する役目として「吉野の国栖」が登場しますが、彼らは「仁徳」の時代以降毎年朝貢するようになったものであり、それほど昔から「皇室」と関係が「密接」である、というわけではないと思われます。その意味では「神武」との関連と言うより「仁徳」との関連の方が関係が重視された結果の「大嘗祭」での「寿詞」を奏するという役割であると言えるわけです。
 つまり、このことはこの「三者」の中では「最近」の人物である「仁徳」が最重要人物であることを示すものであり、彼が「皇帝」と称せられていると言うことは、この『古事記』が書かれた時点の「王」とその側近において「仁徳」を賛美し、「正統化」することが最重要課題であったことを示すと考えられます。

 また、そのような「正統化」というものが『仁徳記』と「神話」の構造の近似という形で表されているとも考えられます。
 そこでは「応神」がその皇子達「三兄弟」(「大山守」「大雀」「宇遅能和紀郎子」)に「治めるべき」「分野」を各々に割り振った事が書かれていますが、これは「神話」において「伊弉諾」が割り当てた「天照」「月読」「素戔嗚」の三兄弟に対する「分治」と「相似構造」を持っていると考えられます。

 「応神記」によれば「大山守命」には「山海の政」を、「大雀命」には「食国の政」、そして「宇遅能和紀郎子」には「天津日継」を治めさせるというように書かれています。
 それに対し「国生み神話」では「天照」に「高天原」を統治させ、「月読」には「夜の食国」を、「素戔嗚」には「海原」を統治させるとしています。
 このように「この世界」を三者に「分治」させるようにしたという点で、「応神紀」と「国生み神話」の世界は共通していると考えられるわけです。ただし、『記』では「大山守命」と「素戔嗚尊」、「宇遅能和紀郎子」と「天照」、「大雀尊」と「月読命」という対応となると考えられますが、「追放される」運命の人物の対応は成立しているものの、「天津日嗣」を受けるはずの人物(「宇遅能和紀郎子」)は現実には「死に至る」事となったわけであり、ここでは「対応関係」が成立していません。このことから「仁徳」以降の「王権」は「月読」系のものであったことが知られます。
 これに関しては『隋書』の記事が参考になるでしょう。そこでは「遣隋使」が「隋」の皇帝(これは「文帝」)から問われて答えたという中に「天為兄以日為弟」という表現があり、それを「無義理」とされ「訓令」により改めさせられたとされています。
 ここでは「倭国王」が、自らが「天」であることを規定していたことを示すと思われますが、文脈から見ても「天」とは「夜」でありまた「月」であると思われます。「記紀」の神話では「イザナミ」「イザナギ」から「天照」「月読」「素戔嗚」が生まれたとされますが、この「使者」の言葉からは「阿毎多利思北孤」が「月読」であってしかも「兄」であることとなります。(万葉では「月読壮人(おとこ)」という表現が見られ、「月読」は元来男性と考えられていたことがわかります)また「天照」(日神)が弟(これも本来は「男」)であったと理解できるでしょう。
 そして「神話」の世界では「弟」である「山幸彦」が「兄」である「海幸彦」と互いの支配する領域を取り替える事となるストーリーが展開されるわけであり、そう考えるとこのような「神話」の形成は「遣隋使」以降のことと考えるのが正しいこととなるでしょう。逆に言うと「仁徳」段階ではまだ「神話」の形成が進んでおらず、「月読」である「大雀尊」が「兄」であり、また主役となっていると思われることとなります。それが「阿毎多利思北孤」の代まで継承されていたと言うこととなるでしょう。
 「阿毎多利思北孤」が「月読」であり、「海人」であり「海幸彦」であるというのはその「阿毎(あま)」という「姓」からも窺えるものです。これはその後も「海人族」を示す語として残ることとなったものです。

 また、同様にして「天孫降臨神話」というものも「仁徳」とその周辺人物の事績を「神話」として「固定化」し「偶像化」するために書かれたものと思料されます。
 西村秀己氏の研究に拠れば、「記紀」の「天孫降臨神話」時点の系図と「神功皇后」付近の系図が「酷似」していることが確認されています。
 それによれば「天下り」の「当人」である「瓊瓊杵尊」とその「母」である「萬旗姫」、更に「父」である「天忍穂耳命」や「瓊瓊杵」の子である「彦火火出見」などの関係の「全体」が、「応神天皇」とその周辺の人物達に対応するとされます。つまり、「瓊瓊杵尊」が「応神天皇」に比定されるのを始め、その母「神功皇后」、「父」の「仲哀天皇」、「子」の「仁徳天皇」などの関係が「天孫降臨神話」と「相似形」を為すとされています。これらのことも先ほどの「分治」策と同様に「仁徳」の正統化のために位置づけられたものと見ることが出来るでしょう。

 「天孫降臨」という事績(行為)については、すでに考察したように本来的には「弥生時代」の始まりという時期に「周」の王権の関係者が「倭国」へやって来て、倭国の権力中心となったという事実の反映と考えられるわけですが、これと同様それまで「統治実績」がないか、著しく「原始的」であった領域に「支配」の「くさび」を入れたことを示すと考えられ、それは「仁徳」が「皇帝」と称されるような行動をとったことを示すことを裏付けるものであり、ここで何らかの「強い権力」の発現に相当することが行われたことを示すものと思料します。(それが神話の時代から予定されていたことという主張となっているわけです)

 このように「仁徳」が「下巻」の冒頭に「開祖」として書かれ、しかも「最近」の「祖」として書かれている事、そして彼に対してその「正統性」の証明が必要になるということは、『古事記』が「推古」の時代までしか書かれていない事とつながります。つまり「推古」までがある「一時代」を示すものであり、それ以降は「別の時代」の位相を呈するということと思われるわけです。
 また「下巻」が「仁徳」(大雀皇帝)で始まり「推古」で終わるというのはある意味「絶妙」な配置であり、その『推古記』が『隋書俀国伝』に書かれた「利歌彌多仏利」の時代であることは偶然ではないと考えられます。
 
 「仁徳」の尊称として書かれている「皇帝」という称号は、中国で「秦の始皇帝」に始まるものですが、それ以前には「王の王」という地位にある立場の自称として「帝」が既に使用されていました。この「帝」はそれまでの「天子」と違い、「実力」(武力)により「覇権」を握った王という意味があったと考えられ、「祭祀」の主催者という意味合いが大きい「天子」という「称号」とは明らかにその性格が異なるものでした。しかし、「秦」の「始皇帝」に至って、「諸国」から「王」を廃止し、「官」が各地域へ派遣され、「始皇帝」の意思を忠実に実現するための体制が構築されるに及んで、「皇帝」という「帝」を更に上回る「強い権力者」としての呼称が生まれたものなのです。そのような「強い権力者」として「皇帝」の存在と、彼の意志を透徹するための制度である「郡県制」を構築し維持するためのツールである「律令」及びそれによる「法治国家」の成立と、それを可能にした「官道」の整備とそれを通じて展開可能な軍事力の充実などは、軌を一にするものであると考えられます。
 「大雀皇帝」という存在についても同様な事情がその「皇帝」称号の背後にあると考えられ、彼の時代に「強い権力」が発現されたことを示すものと言えます。
 
 「宇佐八幡宮」に伝わる『八幡託宣集』の中には「仁徳の代」の記事として「此皇始置諸国司又始位階」と書かれていますが、『書紀』中にはそのような記事が見られないことから、これは「独自性」のある記事と考えられます。しかし私見によれば「利歌彌多仏利」は「六十六国分国」事業を行い、「我姫」などに「令制国」と同等の領域を持つ「國」を成立させたと考えられますから、この『宇佐八幡託宣集』の記事は「利歌彌多仏利」と「仁徳」とがまさに「重なる」ということを示すと言えるでしょう。

 また、このように「仁徳」に冠せられている「皇帝」という「称号」は、その思想的立場として『隋書俀国伝』において「遣隋使」が持参した「国書」に記載されていたという「日出所の『天子』」というように、自身のことを「天子」と称する「思想」と重なるものです。このことから、彼の生きた時代というものが、本来は「隋」代であった事を示すものではないかと推察され、「彼」(仁徳)が「利歌彌多仏利」の投影であるならば、「彼」の時代において「権力」が「大幅」に「強化」されたことは「諸史料」から「事実」と考えられるわけであり、「皇帝」というような称号は彼にこそふさわしいと言えると思われます。
(上に見たように中国では「皇帝」以前から「天子」称号は存在していたわけですが、「倭国」ではそれが「同時」に導入されたものであり、「中国」でもこの二つの称号は以降ほぼ「同義」であることとなって、特に差異を云々する必然性がない事態となります。このような時代性がこの「皇帝」「天子」という両称号が併用される素地となっていると考えられます。)


(この項の作成日 2011/04/19、最終更新 2018/04/22)

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『懐風藻』の「淡海帝」について

2018年05月05日 | 古代史

 漢詩集『懐風藻』し「淡海三船」の撰として知られていますが、その中での「淡海帝」についての文章は「激賞」というべきものであり、「聖徳太子」の業績を引き継ぎ発展させたという導入部から始まり、言葉の限りを尽くして顕彰しています。

「…逮乎聖德太子,設爵分官,肇制禮義,然而專崇釋教,未遑篇章。及至淡海先帝之受命也,恢開帝業,弘闡皇猷,道格乾坤,功光宇宙。既而以為,調風化俗,莫尚於文,潤德光身,孰先於學。爰則建庠序,?茂才,定五禮,興百度,憲章法則。規模弘遠,夐古以來,未之有也。於是三階平煥,四海殷昌。旒纊無為,巖廊多暇。旋招文學之士,時開置醴之遊。當此之際,宸瀚垂文,賢臣獻頌。雕章麗筆,非唯百篇。…」

 ここでは「定五禮」とされていますが、この「五禮」とは「吉禮、凶禮、賓禮、軍禮、嘉禮」を言うとされ、いずれも「周礼」にその重要性が書かれているものであり、「隋代」に重視されそれは初唐段階でも同様に継承されたとされています。
 この「周礼」の積極的導入は「隋制」の導入と軌を一にするものと見られ、それは「遣隋使」が「隋初」に派遣され持ち帰ったものをベースにしていると考えられ、「六世紀末」の時期が推定されますから、この「淡海帝」は「阿毎多利思北孤」を指すのではないかと考えられるものであり、さらに彼は「憲章法則」を興したともされていますが、これは「憲法十七条」を指すと考えられます。それに対し「天智」が定めたという「近江令」はその語義から云っても「憲章法則」ではないと考えられます。それは「古」以来このようなものがなかったという表現からも明らかであり、「十七条憲法」こそそれ以前にその様なものはなかったと言いうるものです。それは「弘仁格式」(序)にも同様の表現があります。

「古者世質時素、法令未彰、無為而治、不粛而化、曁乎推古天皇十二年、上宮太子親作憲法十七箇条、国家制法自茲始焉」

 つまり国が「法」を定めることがこの時から始まったとされているのです。それは『懐風藻』の「憲章法則。規模弘遠,夐古以來,未之有也。」という表現にまさに重なっていると思われます。

 さらに『続日本紀』には「藤原仲麻呂」の上表文があり、そこでも以下のような表現がされています。

「天平宝字元年(七五七年)閏八月壬戌十七」「紫微内相藤原朝臣仲麻呂等言。臣聞。旌功不朽。有國之通規。思孝無窮。承家之大業。緬尋古記。淡海大津宮御宇皇帝。天縱聖君。聡明睿主。孝正制度。創立章程。于時。功田一百町賜臣曾祖藤原内大臣。襃勵壹匡宇内之績。世世不絶。傳至于今。…」

 この中でも「淡海大津宮御宇皇帝」の治績として「孝正制度。創立章程。」とされ、これは「官位制」(の「改正」)と「憲法」の制定を言うと考えるべきでしょう。
 『懐風藻』の中では「聖徳太子」の業績として「設爵分官,肇制禮義,然而專崇釋教,未遑篇章」とされており、それは「冠位制定」と「匍匐礼」などの朝廷内礼儀を定めたことを指していると思われますが、「十七条憲法」の制定に当たる事績が書かれていないようです。この「十七条憲法」の記事はこの「冠位」制定と「朝礼」制定の間に挟まるように書かれていますから、あたかも同一人物が制定したように受け取られることを想定して書かれていると思われます。しかし、実際には「淡海帝」に関わるものと推定され、『懐風藻』記事はそれを補強するものといえるでしょう。

 またここで「淡海先帝」の統治期間の表現として「三階平煥、四海殷昌。旒纊無為,巖廊多暇。」つまり「瑞兆」とされる「三台星座」(北斗を意味する)が明るく輝き、国家は繁栄し、政治は無為でも構わない状態であったとされ、またそのため朝廷に暇が多くできたというような表現が続きますが、これが「天智」の治世を意味するとした場合、はなはだ違和感のあるものではないでしょうか。何と云っても「天智朝」には「百済」をめぐる情勢が急展開し、倭国からも大量の軍勢を派遣しあげくに敗北するという大事変があったものです。にも関わらずそれに全く触れないで「三階平煥、四海殷昌」というような「美辞麗句」だけ並べているのはいかにも空々しく、はなはだ不自然であると思われます。
 つまりこの「淡海先帝」を「天智」とするにはその使用されている表現が該当せず、かえって「六世紀末」の「倭国王」である「阿毎多利思北孤」に整合する内容と考えると理解できるものです。

 ところで上に行なった考察は、各資料に書かれている「白鳳元年」の「僧正任命記事」や『天武紀』の「一切経書写記事」と一見矛盾しているように見えます。
 『扶桑略記』や『元亨釈書』の記事として「天武二年」に「一切経」の「書写」に彼「智蔵」が関与したと書かれていたり、『書紀』の「六七三年」の記事中には「河原寺」で「一切経」の書写が行なわれたとされています。『元亨釈書』や『扶桑略記』ではこの時に「智蔵」が「役」を「督」したとされ、その功績で「僧正」に任命されたとされています。
(以下『元享釈書』の関係部分)

 『元亨釈書』(巻二十一)「(天武)二年二月二十七に帝は即位す。勅して川原寺に於いて大蔵経を写せしむ。沙門の智藏、役を督す。故に僧正に任ぜらる」

 これを信憑すると先の考察は成立しなくなりますが、ここで「一切経書写記事」が『天武紀』のものとされているのは、「原資料」に「浄御原天皇」等の表記があったからではないかという可能性が考えられます。つまり「浄御原天皇」とは「天武」を指すという「不動の考え」により、これを『天武紀』に持って行ったと考えられると同時にここにそのような「浄御原天皇」等の表記がないのは、それが「不審」を呼んだからではないかと思われるのです。それは『三国仏法伝通縁起』における「道光律師」の遣唐使派遣記事において端的に表れています。そこでは『書紀』の「白雉年間」の遣唐使記事中に「道光」の名前があるにも関わらず、彼の帰国後の自著の「序」に「浄御原天皇大勅命」とあったため、この「白雉年間」の記事を無視して「派遣」も『天武紀』のこととして書かれており、そのため「入唐年未詳」とせざるを得なくなったことがあったからです。
 つまり「元亨釈書」などの原資料にも「浄御原天皇」などの文言があったため同様の思惟進行の結果、これを『天武紀』のことを意味するとして記事を構成しているという事が考えられるのです。
 それは「天武」という漢風諡号により記事が構成されていることからも分かります。「漢風諡号」は(「淡海御船」の撰進によるとする説もあるようです)、ここに書かれた記事の年次からかなり後代のものであると考えられ、『書紀』や『続日本紀』の主張に影響されたあるいは全く沿ったものとなっているという可能性があり、そのような「前提」が構築されているとすると「浄御原天皇」は即座に「天武」を意味するものとなったと考えられ、この「天武」という表記もそのような思惟進行の結果であると推定されるものです。

 また『懐風藻』に書かれた以下の記事には「智蔵」の年齢として「七十三歳」と書かれています。

「太后天皇世,師向本朝。同伴登陸,曝涼經書。法師開襟對風曰:「我亦曝涼經典之奧義。」?皆嗤笑,以為妖言。臨於試業,昇座敷演,辭義峻遠。音詞雅麗,應對如流。皆屈服莫不驚駭。帝嘉之拜僧正。時歳七十三。」

 この「年齢」は一見「僧正」に任じられたときの年齢と考える説とへ没年齢という説とあるようですが、いずれにしても当時として「七十三歳」は相当高齢ですから、これが「没年齢」ではなくてもそれほど実際と違わないという想定が可能であり、これが何年のことなのかは不明ですが、彼は「六〇〇年以前」にその生年を推定したわけですから、没年としては六六〇年代後半であることが考えられます。


(この項の作成日 2013/04/04、最終更新 2014/04/06)(ホームページ記載記事に加筆)

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