古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「不改常典」とは ―「十七条憲法」とは

2024年03月07日 | 古代史
 さらに続きです。

「聖徳太子」が書いたとされる「十七条憲法」は、「憲法」という用語でも分かるように「最高法規」として作られました。
 また、この「憲法」の内容は「統治」の側である「王侯貴族及び官僚」に対する「心得」的条項がほとんどであり、「統治の根本」を記したものです。これはまさに「食国法」というべきものでしょう。
 また、これは「倭国」で(我が国で)始めて作られたものであり、後の「弘仁格式」の「序」にも「古者世質時素、法令未彰、無為而治、不粛而化、曁乎推古天皇十二年、上宮太子親作憲法十七箇条、国家制法自茲始焉」と書かれており、「国家制法」つまり、国が「法」を定めることがこの時から始まったとされる記念碑的なものであったことが読み取れます。
 またそれは「憲法」という用語でも分かるように「法」であり、しかも「容易に」「変改等」してはいけないものでした。
 つまり、「不改常典」に対して使用されている「天地共長日月共遠不改常典止立賜敷賜覇留法」という言い方は、「憲法」という用語がそもそも持っている「神聖性」「不可侵性」に「直線的に」つながっているものであり、これらのことから「十七条憲法」は「不改常典」という用語が使用されるにまさに「ふさわしい」ものと考えられるのです。
 また、このような「統治する立場の者」としての「行動原理」を「守り」「受け継ぎ」「進める」事を「即位」の際に「誓う」とすると、それは当然ともいうべきものです。
 ところで、『書紀』によると「十七条憲法」の制定は「推古十二年」(六〇四年)のこととされています。

「推古十二年(六〇四年)夏四月丙寅朔戊辰条」「皇太子親肇作憲法十七條。…」(推古紀)

 『推古紀』の「裴世清」来倭記事についてはすでに実際の年次より二十年程度の年次移動があると考察していますが、この記事についても同様に(というよりそのしわ寄せとして)年次移動されているものと思われ、実際には『隋書』(開皇年間の前半)のことではなかったかと考えられます。つまり実際には『隋書俀国伝』に云う「阿毎多利思北孤」に相当する人物によって造られまた施行されたものと考えられ、ここではそれが「聖徳太子」という人物に投影されていると推定できます。
 彼(阿毎多利思北孤)に対するその後の「倭国王権」の「傾倒」は今考えるよりもはるかに強かったものではなかったでしょうか。それが後に「聖徳太子信仰」として形をとって現れることとなる根本の理由なのではないかと思われます。そう考えると、その彼が作り上げた「憲法」を「変える」というようなことは、彼の直系の後継者達は考えもしなかったろうとも思われます。つまり、「阿毎多利思北孤」以降の倭国王は「即位の儀式」の一環で「十七条憲法」を遵守することを誓い、表明することを行っていたのではないでしょうか。この『続日本紀』の記事はそれを表しているものと考えられます。 
 これはたとえば、(唐突かも知れませんが)現代「米国」における「大統領就任式」の際に「合衆国憲法の名の下に」行われる「誓いの儀式(就任宣誓)」を彷彿とさせるものです。
 「合衆国憲法」は「合衆国」における最高法規でありまた「大統領」として「遵守」し「行うべき」根本法規でもあります。「新大統領」はその就任の式典において、これに対して「遵守」を「誓う」事で「新大統領」として「承認」されるわけです。ここにおける「合衆国憲法」というものが、単なる「大統領継承法」でないことは明らかです。
 また、現代の「日本国憲法」においても「内閣」は「最高法規」である「憲法」を遵守することを(その「憲法」の規定の中で)義務として負っているのです。
 このようなことは当時の「倭国」においても事情としては全く同じであったのではないかと思われ、新しく「倭国王」となった際には「阿毎多利思北孤」が造った国家統治の「根本法規」である「十七条憲法」を遵守することを誓うことで「即位」が成立していたものと推察します。
 また、このように「即位」の段階で「不改常典」という形で「憲法」が顔を出すのはその「第一条」で「以和爲貴。無忤爲宗。」と書かれていることと関係していると考えられます。つまり「無忤」(逆らわない)という言葉は、「皇位継承」の際にこそ重要な意味を持っていたからであると思われ、「和」という言葉は「日嗣ぎ」を「話し合い」で決めると言うことが強く求められていたことを示しているのではないでしょうか。(この点に関しては、「石井公成氏」の『「憲法十七条」が想定している争乱』印度学仏教学研究第四十一巻第一号平成四年十二月でも同様の指摘、つまり「十七条憲法」の存在意義が特に皇位継承の際に有効であると考えられるという点について言及されています。)
 またすでにこの「不改常典」について「皇位継承」の際のものと言うよりは「公法」としての意識からのものという解釈もされており、その場合「公」意識が高揚される「七世紀初め」の時代、特にそれが「十七条憲法」において顕著であることと整合するとも言えるでしょう。
 「十七条憲法」の中では「公」という用語がしきりに使用され、「公私」の区別をつけることが重要視されていました。そこでは「公務」「公事」「公賦」など、「公」の語が頻用されており、「公」の概念を前提として多用されていると思われます。また、以下の『推古紀』の「天皇記及び國記」記事においても「公民」という用語が現れるようにこの時期「国家」(公)と「公民」つまり全ての「民」は「公民」であり、国家に属するという観念が生まれていたことが窺えます。

「推古天皇二十八年(六二〇年)是歳条」「皇太子。嶋大臣共議之録天皇記及國記。臣連伴造國造百八十部并公民等本記。」

 このように『推古紀』段階においては「公」と「法」の両立と一体性が主張されたものと考えられますが、このような記事群は「公」つまり「国家」の権限を重大に考え、間接的権力者の存在を許容しない姿勢の表れと見られますが、そのような「直接統治」という統治体制と「公」の観念は連動していることが推定され、その「公」の絶対性を保証しているのが「法」であり、その極致である「最高法規」が「十七条憲法」であるということと思われます。
 このように「六世紀終わり」から「七世紀初め」という時点において、「公」と「国家」と「法」という「三位一体」の概念が創出されたものと見られますが、「不改常典」の使用例において「法に随う」という表現によって間接的に「法」が「天皇」の上にあるという観念が現れているのは注目すべきです。このことは「十七条憲法」において「公」の観念が打ち出されていることの間には深い関係があると考えます。
 この「不改常典」と「十七条憲法」の「類似」と言うことに関しては「大山誠一氏」がその論(注)の中で言及されており、そこでは以下のような表現がされています。

「…十七条憲法と不改常典が、同じ理念のもとに作成されたと考えることを、もはや躊躇する必要はないであろう。…」

 このように「不改常典」と「十七条憲法」の中心的思想が共通している事が指摘されています。ただし、彼の場合「聖徳太子架空説」を唱えており、「八世紀」に入ってから「藤原不比等」により「不改常典」も「十七条憲法」も「捏造」されたという立場で語られていますからその点「注意」が必要です。
 彼の場合「聖徳太子」は「八世紀」の「書紀編纂者」の「捏造」というスタンスであるわけであり、これは「近畿王権」中に適当な人物が該当しなかったことの裏返しであるわけですから、その流れで「十七条憲法」も捏造としているわけです。ただし、「不改常典」と「十七条憲法」はほぼ同時期に「発生」したとされ、それらに「共通点」があるとするわけですが、その点については注目すべきでしょう。
 彼によればこの「両者」はどちらも「王権確立」に深く寄与するために(「藤原不比等」により)書かれたものであり、それが「明示」されるのにもっともふさわしい場は、その「権力継承」の場である「即位」の儀式の時であったというのです。
 この「思惟進行」は特にその「結論部分」が非常に重要であると考えられ、「十七条憲法」が「本来」「権力交代」の場面で出されたものではないかという推測は、『推古紀』に書かれた「十七条憲法」が出されたのが「冠位制定」直後であったことからも窺えます。つまり本来「冠位制定」は新王即位に伴う機構改定の一部であったと考えられますから、この時点で「新倭国王」が即位していたことが窺えるものであり、それに併せて布告されたものではなかったでしょうか。
 ただし、大山氏の考えとは裏腹に「聖徳太子」と「十七条憲法」は「実在」であったと思われ、それは決して「捏造」されたものではなかったと考えられます。そして、それは『隋書俀国伝』に「倭国王」として登場する「阿毎多利思北孤」(及びその太子「利歌彌多仏利」)がそれに該当する人物であったと見られることとなるでしょう。つまり、「大山説」はその点で誤解があり、また限界があると言えます。「実体」は「七世紀初め」の方にこそあると推察されるものです。
 さらに、以下の文章が『続日本紀』に出てきます。

「冬十月…
辛丑。詔曰。開闢已來。法令尚矣。君臣定位。運有所属。■于中古。雖由行。未彰綱目。降至近江之世。弛張悉備。迄於藤原之朝。頗有増損。由行無改。以爲恒法。」『続紀』養老三年(七一九)十月十七日

 この『続日本紀』の文章からは「近江朝」以前には「法令」がなかった、あるいは「書かれたもの」としては存在していなかったと云うことを示していると思われますが、このことが確かならば『書紀』の「十七条憲法」という存在と矛盾します。『書紀』では明らかに(書かれたものとして)「憲法」が制定されたことを示しますが、『続日本紀』では「近江之世」に至って「悉く」「備わった」としています。
 さらに上に見たように『弘仁格式』(以下のもの)では「十七条憲法」について「法」の始まりであるとされ、それ以前には「法令未彰」であったとされていますから、これらの食い違いは明確です。
 この食い違いは「近江之世」という表記が示す時代の認識についてかなり早い段階から「混乱」があることを示すものですが、推測としては実際にはもっと早い時期を示すことを示唆するものであり、「推古朝」として私たちが認識している六世紀末から七世紀初めであることを強く推定させるものです。
 ところで『令集解』(官位令)には以下のような問答が書かれています。

「…問。律令誰先誰後。答。令有律語〈仮如。獄令云。犯罪応入議請者。皆申太政官。応議者。大納言以上判事等。集官議定。雖非六議。本罪合議。処断有疑者。亦衆議量定是〉。律有令語〈仮令。雑律違令笞五十。注云。行路巷術。賎避貴之類是〉。以此案之耳。謂共制。但就書義論。令者教未然事。律者責違犯之然。則略可謂令先萌也。『又上宮太子并近江朝廷。唯制令而不制律。』以斯言也。亦令先萌也〈跡同〉。…」

 つまり「律令」の「律」と「令」のどちらが優先するのかというような問に対し「上宮太子と近江朝廷」では「令」があったが「律」がなかったとされ、「令」が優先する意義が回答として書かれています。この事自体も重要ですが、ここに「上宮太子」と「近江朝廷」が並列的に書かれている事もまた意味があると思われます。従来これは「近江令」の存在証明的扱いをされているようですが、それと同時に「上宮太子」の「令」と「近江朝廷」の「令」(というより「上宮太子」の朝廷と「近江朝廷」との間)とがすでに「混乱」しており、すでに「不分明」であったことを示すものではないでしょうか。
 さらに『続日本紀』には「藤原仲麻呂」の上表文があり、そこでも以下のような表現がされています。

「天平宝字元年(七五七年)閏八月壬戌十七」「紫微内相藤原朝臣仲麻呂等言。臣聞。旌功不朽。有國之通規。思孝無窮。承家之大業。緬尋古記。淡海大津宮御宇皇帝。天縱聖君。聡明睿主。孝正制度。創立章程。于時。功田一百町賜臣曾祖藤原内大臣。襃勵壹匡宇内之績。世世不絶。傳至于今。…」

 この中でも「淡海大津宮御宇皇帝」の治績として「孝正制度。創立章程。」とされ、これは「官位制」(の「改正」)と「憲法」の制定を指すと考えるべきでしょう。

 『懐風藻』の中では「聖徳太子」の業績として「設爵分官,肇制禮義,然而專崇釋教,未遑篇章」とされており、それは「冠位制定」と「匍匐礼」などの朝廷内礼儀を定めたことを指していると思われますが、「十七条憲法」の制定に当たる事績が書かれていないようです。
 この「十七条憲法」の制定という記事は、『書紀』では「冠位」制定と「朝礼」制定の間に挟まるように書かれていますから、あたかも同一人物が制定したように受け取られることを想定して書かれていると思われます。しかし、実際には上に見るように彼によるものではなく「近江(淡海)帝」に関わるものであったものと考えられるものです。
 この『懐風藻』の記事が『書紀』にいう「天智」ではないと考えられるのはその治世期間についての形容からも言えると思われます。そこでは「三階平煥、四海殷昌。旒纊無為,巖廊多暇。」つまり「瑞兆」とされる「三台星座」(北斗を意味する)が明るく輝き、国家は繁栄し、政治は無為でも構わない状態であったとされ、またそのため朝廷に暇が多くできたというような表現が続きますが、これが『書紀』にいう「天智」の治世を意味するとした場合、はなはだ違和感のあるものです。何と云っても「天智朝」には「百済」をめぐる情勢が急展開し、倭国からも大量の軍勢を派遣しあげくに敗北するという大事変があったものです。にも関わらずそれに全く触れないで「三階平煥、四海殷昌」というような「美辞麗句」だけ並べているのはいかにも空々しく、はなはだ不自然であると思われます。
 つまりこの「淡海帝」を『書紀』の「天智」のこととするにはその「表現」が該当せず、かえって「六世紀末」の「倭国王」である「阿毎多利思北孤」に整合する内容であると思われるのです。
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「不改常典」とは ―古田氏の見解について(再度)

2024年03月07日 | 古代史
 以下前回の続きです。

 この「不改常典」に対する理解について、古田武彦氏はその著書(『よみがえる卑弥呼』所収「日本国の創建」)の中で、「皇位継承法」とは認めがたいとして、以下のように言及されています。

「…いわば、歴代の天皇中、天智ほど「己が皇位継承に関する意思」、その本意が無残に裏切られた天皇は、他にこれを発見することがほとんど困難なのである。このような「万人周知の事実」をかえりみず、いきなり、何の屈折もなく、「天智天皇の初め賜い、定め賜うた皇位継承法によって、わたし(新天皇)は即位する」などと、公的の即位の場において宣言しうるであろうか。わたしには、考えがたい。…」
 
 このように述べられ、「皇位継承法」の類ではないことを強調されたあと更に「不改常典」の正体について考える場合には「三つの条件」があるとされました。ひとつは「統治の根本」を記すものであること、ふたつめにはそれが、『書紀』内に「特筆大書」されているものであること、もうひとつが「天智朝」のものであることとされています。
 古田氏が言われるように「不改常典」というものは「万人周知」のものでなければならないのは確かです。「宣命」を聞いた「誰もが」それが意味するところを即座に了解できるものでなければならないものだからです。そうでなければ「大義名分」を保有していることが証明できないばかりか、「権威の根源」が不明となり、「即位」の有効性にも関わるものとなってしまいます。
 またこれが「律令」に類するものではないことも理解できます。「律令」は(その中に「官人」に対する規定等を含むものの)基本としては「統治する側」ではなく「統治される側」に対して行うべき、守るべき条項を列挙したものであり、性格が全く異なると考えられるからです。
 この意味では「旧来説」(皇位継承法とみなすものや「近江令」とする説)のほとんどが条件を満たしていないこととなります。
 しかし「古田氏」自身は最終的には「天智朝」に出された「冠位法度之事」であるという見解に到達されたようです。しかし、「冠位法度」は確かに「国家」を統治するに必要なものではありますが、「国家統治」の「根本」と言うものとは少なからず性格が異なっていると考えられます。なぜならそれらは「変改」しうるものだからです。その時代に応じて「改定」され得るものであっては、「永遠に変えてはいけない基本法」とは言えないと思われます。
 現に「天智朝」で出された「冠位」や「法度」のほとんどは(あるいは全部)、「八世紀」以降までそれが生き続けたと言う事実はありません。例えば「冠位」は「七世紀の初め」の「聖徳太子」の時代に定められたとされるものを初めとして、何回か改定されています。「八世紀」には「八世紀」の新しい「冠位法度」が存在していたわけであり、時代の進展に応じて変化し、改められるのがそれらの宿命でもあります。そのように変化流転する中でも「永遠に変わらない」ものが「不改常典」なのであり、これが単なる「制度」や「令」の類ではないことは明らかであると思われます。
 こうしてみると『書紀』における「天智朝」にその様なものを見いだすのは不可能なのではないでしょうか。議論が混乱している最大の原因は『天智紀』にその様なものは「そもそも存在しなかった」からではないかと考えられるのです。つまり『書紀』における「天智朝」と限定する限り、それと「整合する」どのような徴証も見られないわけであり、(そのため議論が百出しているわけですが)「近江令」などの存在も不確かで、内容の稀薄なものに依拠するしかないとすると、この「不改常典」の際に必ず出てくる「近江(淡海)大津宮御宇倭根子天皇」という表記に対する従来の理解が正しいのかということが根本的な疑問として浮かび上がります。つまりこれは本当に『書紀』における「天智」を指すものなのかということです。
 この「近江(淡海)大津宮御宇倭根子天皇」という表記については古田氏はその著書『古代の霧の中から』の「近江宮と韓伝」という章において、「天智」とは異なるという主張をされています。つまり『書紀』においては「近江」に「都」を置いた天皇は複数あり、その中で「天智」の場合はただ「近江宮」という表現が行なわれており、それ以前の天皇とは異なっているとされたのです。これに従えばこの『続日本紀』の例も「天智」ではないという可能性を含んでいると思われます。
 古田氏によれば『書紀』編纂終了の「七二〇年時点」における「王朝関係者」の意識として「近江大津宮」というのは「景行」や「仲哀」達の都であったとするものであり、「天智」に対してその称号は使用しにくい性質のものであったとするのですが、これは『書紀』編纂者だけではなく『続日本紀』の編纂担当した人達についても同様のことが言えるのではないでしょうか。なぜなら『書紀』(というよりその原型ともいうべき『日本紀』)と『続日本紀』の前半部分(聖武紀)までについては、その編纂者も編纂時期も同一であったという可能性が考えられるからであり、そうであれば『続日本紀』においても「近江大津宮」という表現は「天智」ではない別の「倭国王」を指すという可能性があると思われます。少なくともこの「近江大津宮御宇天皇」という表記が「天智」を指すものではないと考えることは不可能ではないと思われるわけです。
 また、古田氏はその「磐井の乱」に関する研究の中で、「磐井の乱はなかった」という立場を表明されましたが、それに対して「会員」の飯田・今井両氏から「反論」が提出されました。それに対する再反論の形で書かれた「批判のルール 飯田・今井氏に答える」(古田史学会報六十四号 二〇〇四年十月十二日)の中で、「磐井の乱」の存在を否定する論理として『「書紀にあるから正しい」と言いえぬこと、津田批判以来、歴史学の通念だ。』とされ『古事記』『筑後国風土記』などとの「整合性」を問題にされると共に、「考古学的痕跡」の有無についても言及され、『イ、神籠石 ロ、土器 ハ、その他(金属器等)いずれを検討しても、「六世紀前半」に一大変動のあった証跡がない。』と結論されたのです。
 ここで語られていることは、『書紀』や『続日本紀』など「正史」と言われる「記録」に書かれているものであっても、それだけでは正しいとは言えず、「他文献」との整合性や考古学的痕跡などとの合致などにより裏打ちされることがその資料的価値を保持する上で重要であることを語っていると思われます。
 逆に言うと『書紀』や『続日本紀』に書かれている事であっても、他史料や木簡あるいは石碑などの金石文との不一致が存在する場合、その記事内容については「疑って」かかるべきものであることを示すものであり、その資料に準拠して議論を展開することは困難な状況となることを示しています。
 たとえば『書紀』の「郡制」表記の場合を想定すると分かりやすいと思われます。『書紀』には徹頭徹尾「郡」としてしか出てこないわけですが、「木簡」及び「金石文」には「評」が出現し、その結果「郡」という表記は『書紀』という「正史」に書かれているにも関わらず、その表記の持っている価値は地に落ちました。『書紀』に「郡」とあるから…というような論理進行で議論を進めることは不可能となったのです。
 つまりいくら「史料」に「天智」を意味すると思える表記があったとしてもそれを担保するどのような史料も木簡も発見もされず、存在もしていないとすると、疑うべきはその「天智」という「理解」の方ではないかと考えるのは少しも不自然ではありません。
 また、「不改常典」に関する古田氏の提示した条件のうち前二つは、『続日本紀』の「複数」の「詔」から考察して帰納されたものであり、論理的な性格を有しています。しかし、「天智朝」である、という事は、単に史料にそう書いてあるというだけの「表面的」な事であって、「論理性」を有しているとはいえない事項です。つまり一種「書き換え」が可能な事項に部類すると思われるものです。
 これらのことを踏まえると、「近江大津宮御宇天皇」という表記についてもそれが『書紀』における「天智」を指すと即断できるものではないことがわかると思われます。その場合「天智」以外の代の記事中に「不改常典」と思しきものを探すべきこととなりますが、そうすると答えは割合「容易」に出ると思われます。つまり「国家の統治に関する根本法規」であり、「『書紀』内」に書かれていて、誰でもが容易に想起しうるものというと(実は)ただひとつしかないと思われます。それは「十七条憲法」です。
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「不改常典」とは(再度)

2024年03月07日 | 古代史
 以下は以前会報に投稿したものですが、古賀会長から『続日本紀』の記述と整合しないというコメントがあり、そのまま没となったものです。
 しかし当方は『続日本紀』記事を絶対不可侵のものとは考えておりませんので、現時点でも変わらず論旨を有効と考えています。
 ここに改めて掲載いたします。

 「文武朝廷」以降の八世紀の「日本国」朝廷では「即位」の儀の際に「詔」を出し、その中で「不改常典」というものが持ち出され、それを遵守するということが「宣命」として出されています。
 たとえば「元明即位」の際の詔には、「持統」から「文武」への「譲位」の際に「天智」が定めた「『不改常典』を「受け」「行なう」として即位したように書かれており、自分もその「天智」の定めた「法」を同様に「傾けず」「動かさず」行なうというように宣言しているのです。

「元明の即位の際の詔」
「慶雲四年(七〇七年)秋七月壬子。天皇即位於大極殿。詔曰。現神八洲御宇倭根子天皇詔旨勅命。親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞宣。…是者關母威岐『近江大津宮御宇大倭根子天皇乃与天地共長日月共遠不改常典止立賜敷賜覇留法乎』受賜坐而行賜事止衆被賜而。恐美仕奉利豆羅久止詔命乎衆聞宣。…此食國天下之政事者平長將在止奈母所念坐。『又天地之共長遠不改常典』止立賜覇留食國法母。傾事無久動事无久渡將去止奈母所念行左久止詔命衆聞宣。…」

 また「元正」が「聖武」に「譲位」する際にも同様の記述があります。

「聖武」の即位の際の「元正」の詔
「神亀元年(七二四年)二月甲午。受禪即位於大極殿。大赦天下。詔曰。現神大八洲所知倭根子天皇詔旨止勅大命乎親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞食宣。…依此而是平城大宮尓現御神止坐而大八嶋國所知而靈龜元年尓此乃天日嗣高御座之業食國天下之政乎朕尓授賜讓賜而教賜詔賜都良久。挂畏『淡海大津宮御宇倭根子天皇乃万世尓不改常典止立賜敷賜閇留隨法』後遂者我子尓佐太加尓牟倶佐加尓無過事授賜止負賜詔賜比志尓依弖今授賜牟止所念坐間尓…」

 さらに「桓武天皇」の即位の詔勅にも、「不改常典」という用語は使用されていないものの、「近江大津乃宮尓御宇之天皇」が「初め賜い」「定め賜える」「法」と云う形で出てきます。

「天應元年(七八一年)三月庚申朔。癸夘。天皇御大極殿。詔曰。明神止大八洲所知天皇詔旨良麻止宣勅親王諸王百官人等天下公民衆聞食宣。挂畏現神坐倭根子天皇我皇此天日嗣高座之業乎掛畏『近江大津乃宮尓御宇之天皇乃初賜比定賜部流法』隨尓被賜弖仕奉止仰賜比授賜閉婆頂尓受賜利恐美受賜利懼進母不知尓退母不知尓恐美坐久止宣天皇勅衆聞食宣。然皇坐弖天下治賜君者賢人乃能臣乎得弖之天下乎婆平久安久治物尓在良之止奈母聞行須。故是以大命坐宣久。朕雖拙劣親王始弖王臣等乃相穴奈比奉利相扶奉牟事依弖之此之仰賜比授賜夫食國天下之政者平久安久仕奉倍之止奈母所念行。是以無■欺之心以忠明之誠天皇朝廷乃立賜部流食國天下之政者衆助仕奉止宣天皇勅衆聞食宣。」

 「不改常典」については既に多くの研究があり、また多くの説が出されています。しかし未だ衆目の一致するものがありません。それらを詳述する事はしませんが、代表的な考え方として「皇位継承法」である、というもの及び「国家統治」に関するものである、という大きく分けて二つあるとされています。
 例えば、これらの用例が全て「即位」に関するものであることから、「不改常典」とは「皇位継承」に関わるものとされ、「皇位継承法」のようなものではないかというのが一番「有力」な説でした。しかし、上の「詔」の文章の中では、「元明」によると「天地之共長遠不改常典止立賜覇留食國法」とされていますから、つまりは「食國法」であり、また「元正」の言葉では「天日嗣高御座之業食國天下之政」に関わるとされています。
 「食國法」や「天日嗣高御座之業」、「食國天下之政」などは皆同じ内容を指すものであり、たとえば「天日嗣高御座之業」とは『天皇位に即いたものとしての「行なうべき」、「守るべき」「国家統治」のありかた』ということを意味すると考えられ、このことから、これは「統治する側」から見た「統治」における「基本法」のようなものを示すものではないかと考えられます。(そのような種類の反論も既に行なわれているようです)
 上の文章中の他の部分でも、この「不改常典」は、「不改」つまり「変えてはいけない」ものであり、「常典」つまり「いつも変わらないルール」として、「近江大津宮御宇天皇」が、「立て給い、敷き給える『法』」とされています。
 つまりそれは「法」なのであり、ただ、その「法」は「天地共長日月共遠不改常典」あるいは「万世尓不改常典」というように「永遠に」「変えてはいけないもの」とされているわけです。これは当然「法」一般を指すのではなく、特にここでいう「法」に限った表現と言えるものです。
 また「元明」の詔に出てくる二回の「不改常典」を別のものとする説も出ています。しかし文脈から考えても、どちらも「同じ」事を別の表現をしているだけであり、初めのものは「持統」が継承してきた、という文脈で現れ、後のものはそれを自分が継承するという中で出てきたものですから、同じ内容を指すと考えるのが自然です。
 また、重要なことはこれらの例では決して「不改常典」に「基づいて」即位するといっている訳ではありません。これはかなり誤解されています。文章からは「即位」の根拠として「不改常典」があると言っている訳ではないことがわかります。
 「元明」の宣命に最も明らかですが、母である「持統」が「受」け「行」ってきた「近江大津宮御宇大倭根子天皇乃与天地共長日月共遠不改常典止立賜敷賜覇留法」を、我が子(つまり文武)に「授けた」という趣旨であり、さらに「元正」の詔でも、「淡海大津宮御宇倭根子天皇」が作り、施行した「不改常典」というものを「母」である「元明」から自分(元正)が「受け」て「行なう」ということ、つまり「継承」したとされ、さらにこれを「聖武」へとまた「授ける」(継承する)という宣言であるわけです。これらの例から帰納して、「不改常典」とは「国の統治の根本精神」を云い、「永遠に変えてはいけない基本法」のようなものであるという理解が最も妥当なものでしょう。そのようなものを新天皇が継承するということが、その即位の正当性と正統性を担保するものであるということです。だとすればこれは「皇位継承法」とは似ても似つかないものです。もちろん「直系相続」を決めたものというような「穿った」ものでないことも明確です。
 つまり、あくまでも代々重視し尊重されて来た「不改常典」という「法典」を、以降の代にも継承させ、それに基づき統治を行なっていく趣旨であり、「倭国王」足る者の「遵守義務」を記したものとしか理解できないものです。それは柴田博子氏の議論(※)でも「…この「天智天皇の法」にしたがって統治することが、新天皇の統治の内容を正当化するのではなかろうか…」とされているように新天皇の権威の依拠する点の確認行為として「不改常典」の継承が挙げられていると理解すべきでしょう。
 ただし柴田氏がその論の中でいうように「食国法」がその後「即位宣命」から消えること、「立太子宣命」にだけ現われることなどを考えると、「食国法」そのものは「国家統治」に関する「法」ではあるものの「普通名詞」的なものであり、特定の「法」だけを示すものではないことが推定され、「不改常典」に特定すべきものというわけではなく、「淡海大津宮御宇倭根子天皇乃万世尓不改常典止立賜敷賜閇留隨法」だけが「食国法」の中でも最も重視すべきであるという趣旨と思われます。

(※)柴田博子「立太子宣命に見える「食国法」 ―天皇と「法」との関係において―」(門脇禎二編『日本古代国家の展開(上巻)』所収 一九九五年十一月 思文閣出版)
 (続く)
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