古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

前方後円墳の築造停止と薄葬令

2024年03月16日 | 古代史
以下は以前会報に投稿したものですが「未採用」となっているものです。
(投稿日付は二〇一二年十一月八日。)

「前方後円墳」の築造停止と「薄葬令」
  
「要旨」
「前方後円墳」は「六世紀末」と「七世紀初め」の二段階でその築造が停止されているが、これは「停止」に関する「詔」が出されたためと考えられ、『孝徳紀』の「薄葬令」が、その内容分析から、「前方後円墳」の築造停止に関する「詔」であると考えられること。以上について述べるものです。

(Ⅰ)前方後円墳の築造停止について
 「六世紀後半」という時期に「全国」で一斉に「前方後円墳」の築造が停止されます。正確に言うと「西日本」全体としては「六世紀」の終わり、「東国」はやや遅れて「七世紀」の始めという時期に「前方後円墳」の築造が停止され、終焉を迎えます。
 この「前方後円墳」の「築造停止」という現象については色々研究がなされ、意見もあるようですが、「仏教」との関連が考えられるのはもちろんです。何らかの「仏教」的動きと関連しているとは考えられていますが、それが「一斉」に「停止」されるという現象を正確に説明したものはまだ見ないようです。
 このように「一斉」に「前方後円墳」の築造が停止されることについては、拙稿(註一)でも論じたようにこの段階で列島に「強い権力者」が登場したことを意味すると思われ、「為政者」の意志を末端まで短期間に伝達・徹底させる組織が整備されたことを意味すると考えられるわけですが、またこの時点でその「意志」を明示する何らかの「詔」なり「令」が出されたことを推察させます。また、その終焉が「二回」別の時期として確認されるということは、そのような「詔」の類が「二回」出されたことを意味するとも思われます。
 そのように二回に分かれる原因としては、この「築造停止」の「発信源」が「近畿」ではなかったと考えられることと、「東国」の「行政組織」が「未熟」であったことがその理由として挙げられます。
 この時の「権力中心」が「近畿」にあるのなら、列島の「東西」に指示が伝搬するのに「時間差」が生じる理由がやや不明ですが、「発信源」がより「西方」にあったと考えると「時間差」はある意味必然です。当然「権力」の及ぶ範囲が「西日本」側に偏ることとなるものと思われますが、その場合発信源として最も考えられるのは「筑紫」であり、それが「倭国」の本国であったとしたとき、近隣の「諸国」である「西日本」と「遠距離」にある「東国」など「諸国」への「統治力」の「差」がここに現れたとして不自然ではありません。
 この時点では「東国」に対する「統治機構」の整備が「不十分」で「未発達」であったと推察され、それが「東国」における「前方後円墳」の停止が遅れる理由と思われます。
 しかし、出されたはずの「詔」に類するものが『書紀』の該当年次付近では見あたりません。わずかにそれに「近い」と思えるものとして、「推古二年」に出されたとされる「寺院造営」を督励する詔があります。

「(推古)二年(五九四年)春二月丙寅朔。詔皇太子及大臣令興隆三寶。是時諸臣連等各爲君親之恩競造佛舎。即是謂寺焉。」

 この「詔」は、六世紀末付近に各地に多くの寺院が建築される「根拠」となった「詔」であると考えられています。従来この事と「前方後円墳」の築造停止には「関連」があると考えられていました。つまり、「前方後円墳」で行われていた(と考えられる)「祭祀」がこの「詔」の制約を受けたと言うわけです。ここで行なわれていた「祭祀」は「当初」(「竪穴式石室」の段階)「円頂部」で行なわれ、後には(「横穴式石室」へ変遷して以降)「方」と「円」の「つなぎ目」付近で行なわれたと見られますが、これは「倭国中央」と「諸国」の王との間の「統治―被統治関係」を表す非常に重要なものであったものであり、上の「詔」を承ける形で書かれている「諸臣連等各爲君親之恩。」という言葉に象徴されるように、その「祭祀」は「君」や「親」に対する「敬意」の表現であると同時に、「統治―被統治」の関係を確認する「服属儀礼」の意味合いが強いものであったと考えられています。ですから、「寺院」を造営する、ということは、そのようなものを今後は「仏教形式」で行うように、という指示をも意味すると思われ、このことが「前方後円墳」の築造に関わる動きに非常に重大な影響を与えたことは間違いないとは考えられるものの、他方この「詔」が「前方後円墳」の「築造」を「停止」するように、という「直接的」なものではなかったことも重要です。なぜならば、「前方後円墳」は結局は「墓」であるのに対して、「寺」は「墓」ではなかったからです。
かなり後代まで「寺院」では「墓」も造られず、「葬儀」も行われなかったものであり、「寺」と「墓」とは当時は直接はつながらない存在であったものです。つまり、この「詔」では「墓」について何か述べているわけではないと考えられ、直接的に「古墳」築造停止にはつながらないと考えられますが、であればそのような「墳墓造営」に関する指示や「詔」が別に出ていた、と考えざるを得ないものです。
 しかし、資料上ではそのようなものが見あたりません。「何」を根拠として「前方後円墳」の「築造」が「一斉」に停止されることとなったのかが従来不明であったのです。

(Ⅱ)「薄葬令」について
 『書紀』によれば「薄葬令」というものが「孝徳朝」期に出されています。
(以下「薄葬令」を示します。)

「(六四六年)大化二年…三月…甲申。詔曰。朕聞。西土之君戒其民曰。古之葬者。因高爲墓。不封不樹。棺槨足以朽骨。衣衿足以朽完而已。故吾營此丘墟不食之地。欲使易代之後不知其所。無藏金銀銅。一以以瓦器合古塗車蒭靈之義。棺漆際會。奠三過飯。含無以珠玉無。施珠襦玉■。諸愚俗所爲也。又曰。夫葬者藏也。欲人之不得見也。迺者我民貧絶。專由營墓。爰陳其制尊卑使別。夫王以上之墓者。其内長九尺。濶五尺。其外域方九尋。高五尋役一千人。七日使訖。其葬時帷帳等用白布。有轜車。上臣之墓者。其内長濶及高皆准於上。其外域方七等尋。高三尋。役五百人。五日使訖。其葬時帷帳等用白布。擔而行之。盖此以肩擔與而送之乎。下臣之墓者。其内長濶及高皆准於上。其外域方五尋。高二尋半。役二百五十人。三日使訖。其葬時帷帳等用白布。亦准於上。大仁。小仁之墓者。其内長九九尺。高濶各四尺。不封使平。役一百人。一日使訖。大禮以下小智以上之墓者。皆准大仁。役五十人。一日使訖。凡王以下小智以上之墓者。宜用小石。其帷帳等宜用白布。庶民亡時收埋於地。其帷帳等可用麁布。一日莫停。凡王以下及至庶民不得營殯。凡自畿内及諸國等。宜定一所。而使收埋不得汚穢散埋處處。凡人死亡之時。若經自殉。或絞人殉。及強殉亡人之馬。或爲亡人藏寶於墓或爲亡人斷髮刺股而誄。如此舊俗一皆悉斷。」

 この「詔」の中ではその墓域の大きさについて規定しており、それによれば「王以上」つまり高位の官人あるいは皇族でさえも「墓域」の外寸として「方九尋」とされています。
ここで「大きさ」の単位として使用している「尋」は、「両手を広げた」長さと言われ、主に「海」などの深さ(垂直方向)の単位として知られています。しかしここでは「墓」の外寸として使用されており、明らかに「水平方向」の長さを表すものとして使用されています。
 『説文』では「一尋」は「八尺」であるとされています。列島では「殷代」以降「尺」の単位長として「18cm」ほどが長期間に亘り使用されてきたと推定されるわけですが、『説文』が説くように「一尋」を「八尺」とした場合「一尋」は「1.44m」ほどとなります。これから計算すると、「薄葬令」に規定する「王以上」の墳墓の「外域」の大きさとして書かれた「九尋」は「13m」ほどにしかなりません。この数字は「終末期古墳」の大きさとはまったく整合していないのです。
この「薄葬令」は『書紀』では「七世紀半ば」の「孝徳紀」に現れるものですが、従来からこの「薄葬令」に適合する「墳墓」がこの時代には見あたらないことが指摘されていました。この「薄葬令」を出したとされる「孝徳」の陵墓とされる「大阪磯長陵」(円墳です)でさえも、その直径が三十五メートルほどあり、規定には合致していないと考えられています。そのため、この時点で出されたものではないという可能性が指摘されていました。より遅い時期である『持統紀』付近に出されたものではないかと考える向きもあったものです。(註二)その場合「持統」の「墓」が「薄葬令」に適合しているということを捉えて、『持統紀』に出されたものと考えるわけですが、しかし、この「薄葬令」には『書紀』によれば「六〇三年」から「六四七年」まで使われたとされる「冠位」が書かれています。

「王以上之墓者…」「上臣之墓者…」「下臣之墓者…」「大仁。小仁之墓者…」「大禮以下小智以上之墓者…」

 このように「薄葬令」の中では「六四七年」までしか使用されなかった冠位が使用されていることから、これを捉えて「薄葬令」が「持統朝」に出されたとは言えない、とする考え方もあり、それが正しければ、「孝徳紀」以前に出されたものとしか考えられないこととなります。(もちろんこれを「八世紀以降」の「潤色」という考え方もあるとは思われますが)
 これについては、「前方後円墳」の築造停止という現象と関係しているとか考えることもできそうですが、その場合「七世紀半ば」というタイミングで出されたものではないのではないかという疑いが発生します。

(Ⅲ)「薄葬令」と前方後円墳の関係
 この「薄葬令」の中身を正視すると、「前方後円墳」の築造停止に直接つながるものであると判断できます。
 この「詔」の中では、たとえば「王以上」の場合を見てみると、「内」つまり「墓室」に関する規定として「長さ」が「九尺」、「濶」(広さ)「五尺」といいますからやや縦長の墓室が想定されているようですが、「外域」は「方」で表されており、これは「方形」などを想定したものであることが推定される表現です。(註三)『岩波古典文学大系』の「注」でも「方形」と考えているようです。もっとも、この「方~」という表現は「方形」に限るわけではなく、「縦」「横」が等しい形を表すものですから、例えば「円墳」等や「八角墳」なども含み得るものです。
 ちなみに「方」で外寸を表すのは以下のように『魏志倭人伝』にも現れていました。

「…又南渡一海千餘里、名曰瀚海。至一大國。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。『方可三百里』、多竹木叢林。有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。…」

 この「方」で外寸を表す表現法は「円形」も含め、この「島」の例のようにやや不定形のものについても適用されるものです。「墳墓」が不定形と言うこともないわけですが、かなりバリエーションが考えられる表現であることは確かでしょう。ただし、主たる「墳形」として「円墳」を想定しているというわけではない事は、『倭人伝』の卑弥呼の墓の形容にあるように「径~」という表現がされていないことからも明らかです。この表現は「円墳」に特有のものと考えられますから、このような表現がされていないことから、「円墳」を主として想定したものではないことは明白です。
 しかしいずれにせよ、明らかに「前方後円墳」についての規定ではないことも分かります。この「薄葬令」の規定に従えば「墳墓」として「前方後円墳」を造成することは「自動的に」できなくなるからです。なぜなら「前方後円墳」は「縦横」のサイズが異なり、「方」で表現するのにはなじまない形だからです。このことから考えて、「墳墓」の「形と大きさ」を規定した「薄葬令」が出されたことと、「前方後円墳」が築造されなくなるという現象の間には「深い関係」があることとなります。

(Ⅳ)「殉死」の禁止規定について
 さらに、この「薄葬令」が「七世紀半ば」に出されたとすると「矛盾」があると考えられるのが、後半に書かれている「人や馬」などについての「殉死」禁止の規定です。

「凡人死亡之時。若經自殉。或絞人殉。及強殉亡人之馬。或爲亡人藏寶於墓或爲亡人斷髮刺股而誄。如此舊俗一皆悉斷。」

 そもそも、「殉葬」は『倭人伝』にもあるように「卑弥呼」の頃から「倭国」では行なわれていたものと考えられるものの、出土した遺跡からは「七世紀」に入ってからそのような事が行なわれていた形跡は確認できていません。明らかに「馬」を「追葬」したと考えられる例や、「陪葬」と思われる例は「六世紀後半」辺りまでは確認できるものの、それ以降は見あたらないとされます。
 このことから考えて、このような内容の「詔」が出されたり、またそれにより「禁止」されるべき状況(現実)が「七世紀」に入ってからは存在していたとは考えられないのは確かです。存在しないものを「禁止」する必要はないわけですから、この「禁止規定」が有効であるためには、「殉葬」がまだ行われていると云う現実が必要であるわけであり、その意味からも「七世紀半ば」という年代は、「詔」の内容とは整合しないものです。

(Ⅳ)「薄葬令」の真の時期
 「前方後円墳」の築造停止と「薄葬令」の発布の間に関係があるとみた訳ですが、このように推定した場合、実際に「詔」が出されたのは「前方後円墳」の「終焉」の二つの時期のうち、当然先行する西日本において築造が停止される「六世紀後半」に出されたとみるべきです。また「薄葬令」上の「殉葬」についての禁止規定から考えても、「六世紀後半」が最も想定すべき時期でしょう。
 『隋書俀国伝』を見ると「貴人については三年間」と書かれており、「薄葬令」以前の状況であるのは明白です。「薄葬令」では「殯」自体が禁止されていますから整合しません。さらに「古墳造営」に必要な労働力である「役(えだち)」についても「五十人」の定数倍の人数が書かれており、これはこの時点で「一里五十戸制」である事が推定できますが、同じく『隋書俀国伝』では「一里八十戸制」と理解されることが書かれており、食い違っています。これらの「五十戸制」を示す記述や「殯の期間」に関する記述はその起源が「隋」にあり、倭国が「遣隋使」を派遣した時期以降であることが強く推定できますから、逆にいうと『隋書俀国伝』の記述はかなり早期に「倭国」と『隋』の間で使者のやり取りが行われたことを示すものでもあります。それは「隋代七部楽」の成立事情から考えても「開皇年間の初め」であり、「五九〇年以前」であることが推定できますが、そこで「隋帝」から「訓令」を受けたことが強く作用した結果「薄葬令」を出すこととなったものと思われ、「前方後円墳」とそこで行われていた「祭祀」を取りやめることで「時代」の位相を転換したものと考えられます。

(Ⅴ)「薄葬令」の起源 
 この「薄葬令」は中国に前例があり、「儀」の曹操が「厚葬」を批判する言葉を残しており、さらに彼の子息である「魏」の「文帝」(曹丕)が明確に「薄葬令」とでもいうべきものを出しています。
「大化」の「薄葬令」では以下のように書かれています。

「…西土之君戒其民曰。古之葬者。因高爲墓。不封不樹。棺槨足以朽骨。衣衿足以朽完而已。故吾營此丘墟不食之地。欲使易代之後不知其所。無藏金銀銅。一以以瓦器合古塗車蒭靈之義。棺漆際會。奠三過飯。含無以珠玉無。施珠襦玉■。諸愚俗所爲也。…」

ここでいう「西土之君」というのが「魏」の「文帝」とみられるわけです。
その彼が出した「詔」が以下のものです。

「冬十月甲子,表首陽山東為壽陵,作終制曰:「禮,國君即位為椑,椑音扶歷反。存不忘亡也。昔堯葬穀林,通樹之,禹葬會稽,農不易畝,故葬於山林,則合乎山林。封樹之制,非上古也,吾無取焉。壽陵因山為體,無為封樹,無立寢殿,造園邑,通神道。夫葬也者,藏也,欲人之不得見也。骨無痛痒之知,冢非棲神之宅,禮不墓祭,欲存亡之不黷也,『為棺槨足以朽骨,衣衾足以朽肉而已。故吾營此丘墟不食之地,欲使易代之後不知其處。無施葦炭,無藏金銀銅鐵,一以瓦器,合古塗車、芻靈之義。棺但漆際會三過,飯含無以珠玉,無施珠襦玉匣,諸愚俗所為也。』季孫以璵璠斂,孔子歷級而救之,譬之暴骸中原。」

 彼の父である「曹操」も「厚葬」を批判していたわけですが、「文帝」においても「漢代」以降傾向として存在していた「薄葬」へ明確に舵を切ったとされます。倭国でもこれを踏まえた上で出したものと考えられるわけですが、その背景としては、一般には「盗掘」を恐れたこと、墳墓の造成に伴う多大な出費と人民の労力の負担を哀れんだ為であるとされているようです。しかし最も大きな理由は「前方後円墳」に付随の「祭祀」を禁止するためというものではなかったでしょうか。というのは、この「前方後円墳」で行なわれていた祭祀の内容については「前王」が亡くなった後行なわれる「殯」の中で「新王」との「交代儀式」を「霊的存在の受け渡し」という、「古式」に則って行なっていたものと考えられており、このようなものを「忌避」しようとしたと考えられます。
 「王」の交代というものが「神意」によるということになると、相対的に「倭国王」の権威が低下することとなってしまいます。なぜならこの時「阿毎多利思北孤」は「統一王権」を造ろうとしていたものと推定され、「王」の権威を「諸国」の隅々まで行き渡らせようとしていたと推察されます。またそのことは「冠位」の制定と関係しているといえます。
 『書紀』によれば「冠位」の制定は「六〇四年」とされています。しかし『隋書俀国伝』には「遣隋使」からの情報として「冠位制定」が記されています。
(以下『隋書俀国伝』の一節)

「開皇二十年(六〇〇年)…上令所司訪其風俗。使者言…頭亦無冠 但垂髮於兩耳上。 至隋其王始制冠 以錦綵為之以金銀鏤花為飾。…」

 これによれば、「遣隋使」が述べた「風俗」の中に「冠位制」について記されており、そこでは「至隋其王始制冠」とされており、文脈上「其王」とは「阿毎多利思北孤」を指すものと考えられますから、彼により「隋」が成立して以降の「六世紀後半」に「冠位制」が施行されたことを意味していると考えられます。(ただし「官位」と「冠」との関係がこの時できたということを示すものと思われ、「官位」そのものはそれ以前からあったと思われますが)
 それはすなわち「諸国」の王達も含めた「倭国王」を頂点とする権力のピラミッド構造を構築しようとしていたと考えられるものです。
 そうであれば「王」の交代というものに「倭国王」が介在しない形の「祭祀」が存在するのは問題であったかも知れず、これを避けようとするのは当然かも知れません。そのため、「古墳造営」に対して「制限」(特にその「形状」)を加えることで、そのような「古式」的呪術を取り除こうとしたものと推測され、そのため「前方後円墳」が「狙い撃ち」されたように「終焉」を迎えるのだと考えられます。
 そのことは「埴輪」の終焉が同時であることからも言えそうです。「埴輪」の意義については各種の議論がありますが、「前方後円墳」で行われていた「祭祀」の重要な要素であり、「墓域」を「聖域」化するためのパーツであるというものがあります。これらについても「前方後円墳」の築造停止と共に消滅するものであり、これは「祭祀」が停止されたことに付随する現象であると考えられるものです。
 さらに重要な事情として考えられるのは、それらの古典的祭祀が「隋」の皇帝から「道理がない」として拒否された「兄弟統治」そのものであったことが実は重要であったと思われます。
 「阿毎多利思歩孤」はその初めての使者を「隋」に送った際、倭国の統治形態として以下のようなことを「使者」に語らせており、それを「隋」の皇帝(高祖)から「太無義理」と一蹴されています。

「開皇二十年 倭王姓阿毎字多利思比孤號阿輩雞彌遣使詣闕。上令所司訪其風俗。使者言 倭王以天為兄以日為弟天未明時出聽政跏趺坐日出便停理務云委我弟。高祖曰此太無義理。於是訓令改之。」

 「隋」皇帝は倭国で行われていた旧態依然の祭祀とそれに基づく統治について異を唱えたものであり、それらを廃止するとともに「仏教」を統治の中心に据えるよう強く指導したものと思われます。それに対し「倭国王権」はその「訓令」を重大に受け取り、それに対応しようとした考えられるのです。
 「前方後円墳」で行われていた祭祀もこれに類するものであり、仏教的観念からは遠く離れたものであって、それを排除することで「隋」皇帝の「訓令」にかなうものと、「阿毎多利思北孤」が考えたものであって、そのような「古典的祭祀」が彼が統一王権を確立するのに障害となると考えられたため、それを「廃止」するという方向で施策が実施されたものと思われるわけです。
 また「隋」からの使者が再び訪れた際に「仏教」を中心としたた体制に確かに変わったと「使者」にアピールできるようにしておく必要もあったものと思われるわけです。
 以上のことから「開皇年間の初め」に派遣された「遣隋使」が「隋」皇帝から受けた「訓令」を基礎として「薄葬令」が出されたと考えて「事実」をよく説明できるものと思われ、これは実際に「薄葬令」が出された時期から『書紀』に書かれた年代である「七世紀半ば」まで「移動されている」と考えるよりなく、その場合年数として「約六十年」の記事移動の可能性が高いと考えられるものです。

(Ⅵ)「薄葬令」と放棄された巨大建造物
 また、『古田史学会報』七十四号(二〇〇六年六月六日)で「竹村順広」氏が「放棄石造物と九州王朝」という題で触れられた「益田岩船」(奈良県橿原市白橿町)や「石宝殿」(兵庫県高砂市竜山)などの「巨大建造物」は、明らかに「工事途中」の「古墳」の一部であり(外形はどのようなものになる予定であったかは不明ですが)、これは「竹村説」とは異なり、「六世紀終末」という時点で「薄葬令」が出されたことにより、その工事が途中で「放棄」されたものであると見る事ができるでしょう。
 この「古墳」が(竹村氏も引用するように)『播磨国風土記』の中で「聖徳王御世、弓削大連所造之石也。」とされているように「聖徳王」つまり「阿毎多利思北孤」(ないしはその太子「利歌彌多仏利」)の時代のこととされ、また「物部守屋」と関連して語られていることなどからも、この「石造物」が「六世紀末」のものであることを強く示唆しています。

(補足)
 『書紀』によると「薄葬令」は「改新の詔」と同じタイミング(直後)で出されたものであり、「改新の詔」の「直前」に出された「東国国司詔」などと「一連」「一体」になっているものですから、上の考察により、「改新の詔」を含む全体がもっと早期に出されたものと考える余地が出てきますが、その詳細については別途詳述したいと思います。

(注)
一.拙論 『「国県制」と「六十六国分国」(上)(下)』(『古田史学会報』一〇八号及び一〇九号)
二.中村幸雄氏などが「持統」の墓が「薄葬」の規定に則っていると指摘しています。(『新「大化改新」論争の提唱 ― 日本書紀の造作について』中村幸雄論集所収)
三.「外域」とは「墓域」全体を指すものか「墳墓」自体の外寸なのかやや意見が分かれるようですが、上では「墳墓」の外寸として受け取って理解しています。但しいずれでも論旨には変更ありません。
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「殯」と「寿陵」(磐井以降)

2024年03月16日 | 古代史
 前王が死去した後の「殯(もがり)」の期間は通常「蘇生」を願う「魂ふり」が行われ、その後「蘇生」が適わないとなった時点で「魂鎮め」へと移行するとされますが、本質的には「次代」の王を選定する期間でもあります。つまり前王の生前には次代の王は予定されておらず、前王の死後決定されることとなるわけです。
 「倭の五王」の時代「済」の死後、後継者として「世子」である「興」が選ばれたようですが、それが生前から決めてあったことなのかは疑問です。つまり「直系相続」というスタイルが既に決まっていたのかというとそうではないと思われるわけです。それはその直前の「讃」から「珍」への交替において「兄」から「弟」へと継承されたらしいことからも推測できます。(ただし「珍」と「済」の関係は不明)つまり「興」の場合のように「世子」とされることとなったのは「前王」の死後であり、皇族や臣下などの間で協議により決められたものではないかと推測されるわけです。
 たとえば、「推古」の死後「山背」と「田村」双方の皇子について、それぞれを推す臣下間で協議が行われたように、さらには『懐風藻』にあるように「皇太后」が主催して各位に意見を聞く機会が設けられたように、前王の死後に初めて次代の王をだれにするべきなのかが話し合われたと見るべきでしょう。
 またこれは意見が決裂するという可能性があり、その場合争いになることもまた起こりうるということを示します。「山背」と「田村」の場合が典型的であったと思われるわけです。またいわゆる「壬申の乱」においても同様のことが起きたものと思われます。
 ところで、よく言われるように「殯」の期間は「陵墓」の造成期間でもあると思われます。「殯」の後葬儀が行われるという推移からいうと、「陵墓」が未完成では「葬儀」が行うことはできないわけです。しかも「葬儀」では「誄(しのびごと)」が奏されるわけですが、そこには「日嗣ぎの次第」が含まれており、「後継者」が決まらなければ「日嗣ぎの次第」も述べられず、「誄」を奏することもできないこととなります。
 つまり葬儀が行われるためには後継者が決まっていると共に陵墓が完成している必要があることとなるでしょう。当然それには時間(日数)が必要ですから、ある程度の期間が「殯」の期間として確保されていたということを示します。
 これらのことを考えると、注目されるのは「磐井」の場合です。
 「風土記」によれば彼(磐井)は生前から陵墓を築いていたとされます(「岩戸山古墳」がそうであるとされている)。

「上妻縣.…古老傳云:「當雄大跡天皇之世,筑紫君磐井,豪強暴虐,不偃皇風.生平之時,預造此墓.…」「筑後國風土記」

 上に見たように陵墓の造成期間が次代の王を選出する期間であるとすると、「磐井」の場合、生前のうちに「次代の王」つまり「日嗣ぎの皇子」が選定されていたこととなる可能性があるでしょう。(というより複数名の皇子がいて彼等の間に優先順位がつけられていたという可能性があると思われます。)
 このようないわば「念入り」のことが行われた背景には「武」の「父兄」が一気に亡くなったという「武」の上表文にあるような事態が想定されていると思われます。(上の中では「皇風にしたがわない」という文言に続いて「生平の時あらかじめ墓を作る」と書かれており、「生前に墓を作る行為がとがめられている」と思われ、それは『書紀』の大義名分からの文章と思われますが、逆に言うと「皇風」とは「生前に墓を作る」ことであり、それは「最高権力者」だけに認められていたことを推定させます。)
 「五世紀半ば過ぎ」に「倭国王」である「済」とその「世子」「興」等の倭国王権の主要人物が(推測によれば「天然痘」により)一挙に亡くなったと思われ、その際に、その後継が決まっておらず「末弟」で幼少であった「武」の成長を待つ間「皇太后」が称制せざるを得なくなったということが苦い経験としてあったものと思われます。そのことから生前中に後継者など「皇位継承順」をあらかじめ決めておくこととなったという事が推察されます。またそれは「後継者」をめぐる争いをなくすという意味でも必要と判断されたという可能性もあるでしょう。
 「葛子」はその意味で「世子」であり、また「太子」であり、いわゆる「日嗣ぎの皇子」であったと思われ、そのため「筑紫の君」と称されているのではないでしょうか。これは「父」である「磐井」と同じ呼称であり、「筑紫」の領域の統治権を正式に「磐井」から継承していた事を明白に示しています。しかし、「物部」などとの戦いの最中に後継者を決める協議が行われていたとも思われませんから、「葛子」は以前から「日嗣ぎの皇子」として存在していたものと思われるわけです。
 「筑紫の君」として登場するのは父である「磐井」の死後一ヶ月以内のことですから、このような早さで「後継者」が決められるというようなことがあったと考えるより、あらかじめ決められていたと考える方が穏当というものです。
 また彼は「長子」であった可能性が強く、この時点で「倭国王」の継承方法として「直系相続」が決められたものではないでしょうか。
 『隋書』では「倭国王」である「阿毎多利思北孤」の存命中に「太子」が存在しているようですから、これも同様に「皇位継承者」をあらかじめ決めてあったものと思われ、「磐井」の時代のスタイルがそのまま続いていたことを推定させます。
 そう考えると「阿毎多利思北孤」は生前の段階で「陵墓」を既に築造していた(これを「寿陵」というようです)という可能性が高くなるでしょう。しかも彼(というより太子である「利歌彌多仏利」)は「殯」を行わなかったという可能性もでてくるでしょう。
 なぜなら、「殯」の期間が次代の王の選出と陵墓の造営期間であるとすると、生前に「太子」が選定され、陵墓も造営されていたとすると、「殯」そのものがなかったという可能性さえ出てくるからです。
 彼や父である「阿毎多利思北孤」は「仏教」に深く染まっていたと思われますから、その意味からも「殯」という古典的であり、旧式でもあった儀式を行わなかったものとも考えられ、「殯」そのものがなくなったかあるいはそれまでに比して極端に短くなったということが推定されます。
 私見では「薄葬令」は彼等が造ったものと見るわけですが(これについては別途)、そこでは基本的には「殯」の期間は無いものとされており、この推定を裏付けます。

「甲申。詔曰。…凡王以下小智以上之墓者。宜用小石。其帷帳等宜用白布。庶民亡時收埋於地。其帷帳等可用麁布。一日莫停。凡王以下及至庶民不得營殯。凡自畿内及諸國等。宜定一所。而使收埋不得汚穢散埋處處。…」「孝徳紀」の『薄葬令』より

 ここでは「凡王以下及至庶民不得營殯」とあり、「薄葬令」中に見える「王以上」という言葉と比べて考えてみると「王権」の中心的人物を除いてすべての人物の死において「殯」を営むことを禁じる規定であると判断できます。(ただし「王以下」の場合、「後継者」についてはあらかじめ決めておくべしということなのか、あるいはそのような人物を「倭国中央」が指名して決めるという意味であったのかはやや判然としません)
 この事から「阿毎多利思北孤」や太子「利歌彌多仏利」の死の際には「殯」はあった可能性もありますが、それがいわゆる「もがり」というべきものであったのか、あるいは期間として相当の長さであったのかというと甚だ疑問であると思われます。
 この事から考えて「磐井」の場合も当初予定されていた「殯」の期間はそれまでに比べ相当短かったか、あるいは全くなかったという可能性があるでしょう。(実際には乱が起きたため「殯」が予定されていたとしてもそれどころではなくなったと思われるわけですが)
 そしてそれは「磐井」と「仏教」の関係の深さにもつながるものと思われます。
 ところで、『隋書俀国伝』には「倭国」における「葬儀」について「貴人の場合」は「三年間」とされています。

「死者斂以棺槨、親賓就屍歌舞、妻子兄弟以白布製服。貴人三年殯於外、庶人卜日而瘞。及葬、置屍船上、陸地牽之、或以小輿。」

 これによれば「隋」へ派遣された使者は「倭国」の風俗について問いに答える中で「葬儀」について、「貴人」には三年間の「殯」の期間があるとしたわけです。これは上の推定と一見食い違っているようですが、その背景には「磐井」に対する反乱の影響があるように思われます。
 この部分に限らず、この「風俗」について述べられた部分にはあまり「仏教的」な雰囲気が見られません。確かに「如意寶珠」に関する逸話が書かれていますが、これは「阿蘇山」に対する「火山」信仰が形を変えたものであり、根本の部分で「古典的」といえるものです。このように全体として「仏教的」な雰囲気が薄いと見られるわけですが、それは『書紀』によってもあるいは多元史観においても「仏教」の伝来とその信仰の興隆がそれ以前に既にあった可能性があることとやや矛盾するといえるでしょう。
 その理由について考えてみると、「磐井」が「物部」の反乱により死に至った後、国内に「鬼神信仰」への回帰ともいうべき状況が生まれていたことを示すものと思われます。
 「物部」は『書紀』のエピソードにもあるように「反仏教」的立場にいたわけですが、では彼の行動を支配していた「信仰」はどのようなものであったかというのは明確ではないものの古典的な「鬼神信仰」ではなかったかと考えられます。(『書紀』内で「天神地祇」への信仰が書かれています。)
 すでに明らかとなっているように半島において「五世紀後半」という時期に「前方後円墳」が集中的に営まれます。このことが「倭国王権」による「拡張政策」の一環であり、半島において「倭国」の信仰が局地的ながら行われたことを示すものと思われますが、この「前方後円墳」は「五世紀末」に突然その築造が停止されます。このことは「武」の時代以降「拡張政策」が停止されたことを示すと思われ、「半島」や「東国」への武力侵攻や武力による威嚇などの政策は方針が転換された結果取りやめられ、倭国の中心部においては「文治政策」へと移行したものと見られます。
 「鬼神信仰」はそれまで「倭の五王」の「讃」や「珍」などの時代まで「倭国」において中心的位置にいたと思われますが、彼らと「南朝」との結びつきが強まるに及んで、当時南朝で発展し「国教」的位置にいた「道教」が国内に流入したものと思われます。
 「倭国」における「古典的」な宗教である「鬼神信仰」はその「道教」と(完全にではないものの)その一部が結びついて「王権内部」で信仰されるようになったものと思われますが、これは当時拡張政策をとっていた「王権」において「戦い」における「守護神」的な位置に置かれていたものであり、その時代にはかなり篤く尊崇されていたものと思われます。しかし、「拡張政策」の停止と共に「倭王権」の立場として「仏教」を重んずるものへとシフトしていったものと思われるわけです。
 「仏教」はすべてのものに「生命」を見出す性格があり、「血」を好みません。つまり「戦い」においては「無力」というより「邪魔」であったものですが、政策の変更により状況が一変し、「鬼神信仰」やそれと同一化していた「道教」は王権から排除され、「仏教」がその中心に据えられることとなったものと思われます。このため「武」の治世の後半「太子」として「磐井」が定められることとなって時点以降、王権の治世の中心に「仏教」が据えられたものと思われますが、そのことが「陵墓」の生前造営と「太子」の生前予定という事につながっていると思われます。
 しかしそのような状況に反旗を翻したのが「物部」を中心とした「戦闘集団」であったと思われ、彼等は「仏教」が重視されることと、それによって排除されることとなった鬼神―道教信仰というものとを自らに重ねて考えていたものと思われます。自分たち戦闘集団が軽視される、排除される事態に対して異議を申し立てる意味で立ち上がったものと思われるわけであり、この「反乱」により「磐井」率いる「筑紫」本国の勢威が大きく低下した結果、「仏教」もその位置を低下させ、再び「鬼神―道教信仰」が倭国の宗教のメインストリームに出ることとなったものではないでしょうか。そのことが『隋書俀国伝』に書かれた「葬儀」の描写に反映していると思われるのです。
 「倭国」からの使者は「隋皇帝」に対して統治形態について説明したわけですが、その情報の範囲には貴人に対する「殯」の儀式についても含まれていたものであり、それら全体として非仏教的である点について「隋皇帝」から「無義理」とされ「訓告」を受けたと書かれており、それらは以降改定されることとなったと思われるわけですが、「殯」の停止と陵墓の生前造営がその流れの中にあったものと推測します。
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