古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「不改常典」とは ―『懐風藻』の「淡海先帝」との関連

2024年03月08日 | 古代史
さらに前回から続きます。

 前稿では「十七条憲法」というものの性格がまさに「不改常典」たるにふさわしいことを述べたわけですが、問題となるのは「近江(淡海)大津宮御宇天皇」という表記と「聖徳太子」という存在の「食い違い」です。つまり『書紀』の中では「聖徳太子」は「近江(淡海)大津宮御宇天皇」とは呼称されていないわけです。彼はそもそも「即位」していません。その意味でも食い違うわけですが、その『書紀』の記述に疑問を突きつけているのが漢詩集『懐風藻』です。
 『懐風藻』の「序文」には以下のことが書かれています。(読み下しは「江口孝夫全訳注『懐風藻』(講談社学術文庫)」によります。)

「…聖德太子に逮(およ)んで,爵を設け官を分ち,肇(はじ)めて禮義を制す。然れども專(もっぱ)ら釋教を崇(あが)めて,未だ篇章に遑あらず。淡海先帝の命を受くるに至るに及びや,帝業を恢開し,皇猷を弘闡して,道乾坤に格(いた)り,功宇宙に光(て)れり。既にして以為(おもへ)らく,風を調へ俗を化することは,文より尚(たふと)きは莫(な)く,德に潤ひ身を光(て)らすことは,孰れか學より先ならん。爰に則ち庠序を建て,茂才を徴し、五禮を定め,百度を興す,憲章法則、規模弘遠なること、夐古以来いまだこれ有らざるなり。…」(『懐風藻』序)

 ここでは「聖徳太子」について「設爵分官,肇制禮義,然而專崇釋教,未遑篇章」とされており、それは「冠位制定」と「匍匐礼」などの朝廷内礼儀を定めたことを指していると思われますが、「十七条憲法」の制定に当たる事績が書かれていません。それに対し「淡海先帝」という人物については「定五禮,興百度,憲章法則」と書かれており、このうち「『憲』章『法』則」とは字義通り「憲法」を指すものであり、これはまさに「十七条憲法」に相当すると思われます。それは「古」以来このようなものがなかったという表現からも明らかであり、「十七条憲法」こそそれ以前にそのようなものはなかったと言いうるものです。
 それについては後の『弘仁格式』(以下のもの)でも「十七条憲法」について「法」の始まりであるとされ、それ以前には「法令未彰」であったとされています。

「古者世質時素、法令未彰、無為而治、不粛而化、曁乎推古天皇十二年、上宮太子親作憲法十七箇条、国家制法自茲始焉」(『弘仁格式』序)

 つまり以前は「未彰」つまり明確に書かれたものがなかったという意であると思われますが、「十七条憲法」に至って「書かれたもの」となったということであり、国が「法」を定めることがこの時から始まったものとされています。それは『懐風藻』の「憲章法則。規模弘遠,夐古以來,未之有也。」という表現にまさに重なっていると思われます。また「未彰」に対応するものとして「制法」とされており、この時点における「法」つまり「憲法十七箇条」がいわゆる「成文法」であったことを意味するものと思われます。
 さらに『続日本紀』には「藤原仲麻呂」の上表文があり、そこでも以下のような表現がされています。

「天平宝字元年(七五七年)閏八月壬戌十七」「紫微内相藤原朝臣仲麻呂等言。臣聞。旌功不朽。有國之通規。思孝無窮。承家之大業。緬尋古記。淡海大津宮御宇皇帝。天縱聖君。聡明睿主。孝正制度。創立章程。于時。功田一百町賜臣曾祖藤原内大臣。襃勵壹匡宇内之績。世世不絶。傳至于今。…」(『続日本紀』より)

 この中でも「淡海大津宮御宇皇帝」の治績として「創立章程」とされ、つまり「章程」(これは「規則」や「法式」を箇条書きにしたもの)を初めて作ったとするわけですから、「憲法」が始めて造られたという時点を想定して当然といえるでしょう。つまり「十七条憲法」はここでも「淡海大津宮御宇皇帝」によって創られたものとされているわけです。
 上で見たように『懐風藻』の序からは「十七条憲法」については「聖徳太子」ではなく「淡海先帝」の治績であったと理解するのが穏当といえます。
 この「淡海先帝」は通常「天智」と理解されており、その意味では「近江(淡海)大津宮御宇天皇」を「天智」とする理解に無理はないとも言えるわけですが、実際にはそれは困難です。例えば『懐風藻』の序の中に彼の治世を賞賛する表現があり、そこを見ると『書紀』の「天智」とは明らかに齟齬しています。
 そこには「淡海先帝」の統治期間の表現として「三階平煥、四海殷昌。旒纊無為,巖廊多暇。」つまり「瑞兆」とされる「三台星座」(北斗を意味する)が明るく輝き、国家は繁栄し、政治は無為でも構わない状態であったとされ、またそのため朝廷に暇が多くできたというような表現が続きますが、これが「天智」の治世を意味するとした場合、はなはだ違和感のあるものであることはいうまでもありません。何と云っても「天智朝」には「百済」をめぐる情勢が急展開し、倭国からも大量の軍勢を派遣しあげくに敗北するという国家を揺るがす大事変があったものです。にも関わらずそれに全く触れないで「三階平煥、四海殷昌」というような「美辞麗句」だけ並べているのはいかにも空々しく、はなはだ不自然であると思われます。(追従としても無理があります)
 上の『懐風藻』の序では「淡海先帝」の業績として「孰先於學。爰則建庠序,徴茂才」とあり、この中の文言である「庠序」とは学校を指しますから、「淡海先帝」は「学校」を建て、「才能」のあるものを集めたこととなると思われます。この「学校」創立に関連しているのが『推古紀』の「学生」記事の存在です。

「推古十六年(六〇八年)九月辛末朔辛巳。是時条」「遣於唐國『學生』倭漢直福因。奈羅譯語惠明。高向漢人玄理。新漢人大國。學問僧新漢人日文。南淵漢人請安。志賀漢人惠隱。新漢人廣齊等并八人也。」(『推古紀』より)

 つまり「裴世清」の帰国に「學生」が同行したというものです。「學生」がいるわけですから、この時点で「学校」の存在を想定すべきこととなるのは当然です。
 また、この記事以降であっても「白雉年間」に派遣された「遣唐使団」の中にも「學生」と称される人物が複数乗船しており、少なくとも『書紀』の「天智期」以前に「學生」が存在している事は確実と思われ、「学校」がこの時点で既成の存在であることが窺えます。
 これらに関して従来は『天智紀』に「鬼室集斯」(鬼室福信の子息か)を「学識頭」に任命した記事や「法官」記事があることを捉えて「大學」と「大學寮」がこの時点で整備されたという説を目にすることがありますが(註1)、この記事は「既にある」組織としての「法官」や「学識頭」を、たまたま「百済」から大量のインテリ層が渡来したため、彼等にそれを割り当てたというに過ぎないと考えられます。以前の「百済」における官位や職掌などを勘案した結果、「日本」でもその知識を重用すると言うこととなったものと見られますが、それはそれだけのことであり、それ以前に「官吏養成機関」としての「大學」設置の記事が『書紀』に見あたらない事に単純に結びつけたものと思料されますが、上に考察したように既にそれ以前から「學生」が存在しているわけですから「大學」(学校)があったことは明白と考えられます。
 つまり「学校」を建てたという記事からは「淡海先帝」の治世期間として『推古紀』に相当する時代が想定できるものであり、その意味で『書紀』の「聖徳太子」の時代とほぼ重なるものとなります。そのことから後代に「聖徳太子」の治績としていわば「すり替え」が起きたものと考えます。

(註)
1.今井陽美「律令国家における「大学」創始の企図」(『首都大学東京人文学報』二〇一二年など)

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「不改常典」とは ―「三輪高市麻呂」の諫言の意味(再度)

2024年03月08日 | 古代史
 以下前回からの続きとなります。

 『書紀』によれば「持統」は三月三日に「伊勢」へ行幸したというわけですが、この時「三輪(大神)高市麻呂」は「冠」を脱ぎ捨ててそれを止めようとしたとされています。なぜ彼は「冠位」を捨ててまで「持統」の伊勢行幸を止めようとしたのでしょうか。それは「高市麻呂」の奏上の中に「農時」には民を使役するべきではないという意味のことが言われていることが(当然ながら)重要です。

「(六九二年)六年二月丁酉朔丁未。詔諸官曰。當以三月三日將幸伊勢。宜知此意備諸衣物。賜陰陽博士沙門法藏。道基銀人廿兩。
乙卯。…是日中納言直大貳三輪朝臣高市麿上表敢直言。諌爭天皇欲幸伊勢妨於農時。
三月丙寅朔戊辰。以淨廣肆廣瀬王。直廣參當麻眞人智徳。直廣肆紀朝臣弓張等爲留守官。於是。中繩言三輪朝臣高市麿脱其冠位。■上於朝。重諌曰。農作之節。車駕未可以動。」

 このように「農時」あるいは「農作之節」の妨げとなってはいけないとするわけですが、それは『後漢書』に良く似た話があり、それを下敷きにしたものとも考えられます。(以下の例)

「…顯宗即位,徵為尚書。時交阯太守張恢,坐臧千金,徵還伏法,以資物簿入大司農,詔班賜羣臣。意得珠璣,悉以委地而不拜賜。帝怪而問其故。對曰:「臣聞孔子忍渴於盜泉之水,曾參回車於勝母之閭,惡其名也。。尸子又載其言也。此臧穢之寶,誠不敢拜。」帝嗟歎曰:「清乎尚書之言!」乃更以庫錢三十萬賜意。轉為尚書僕射。車駕數幸廣成苑,意以為從禽廢政,常當車陳諫般樂遊田之事,天子即時還宮。永平三年夏旱,而大起北宮,『意詣闕免冠上疏曰』:「伏見陛下以天時小旱,憂念元元,降避正殿,躬自克責,而比日密雲,遂無大潤,豈政有未得應天心者邪 昔成湯遭旱,以六事自責曰:『政不節邪 使人疾邪 宮室榮邪 女謁盛邪 苞苴行邪 讒夫昌邪』。竊見北宮大作,人失農時,此所謂宮室榮也。自古非苦宮室小狹,但患人不安寧。宜且罷止,以應天心。臣意以匹夫之才,無有行能,久食重祿,擢備近臣,比受厚賜,喜懼相并,不勝愚?征營,罪當萬死。」帝策詔報曰:「湯引六事,咎在一人。其冠履,勿謝。比上天降旱,密雲數會,朕戚然慙懼,思獲嘉應,故分布?請,?候風雲,北祈明堂,南設?塲。今又勑大匠止作諸宮,減省不急,庶消灾譴。」詔因謝公卿百僚,遂應時澍雨焉。」「後漢書/列傳 凡八十卷/卷四十一 第五鍾離宋寒列傳第三十一/鍾離意」

 ここでは「鍾離意」という「顯宗」の側近が「日照り」が続いて農民が苦労しているのに「宮殿」の造営に彼らを駆り出すなどの行いを「免冠」つまり「冠」を脱いで諫めています。一見これを下敷きにしただけのものともいえそうですが、「高市麻呂」の場合は当時それほど「天候不順」があったようにも受け取られず(前年には長雨があったとされてはいるものの)、「宮室」造営に比べれば「行幸」はそれほど農民の負担でもないともいえ、「免冠」して諫言」するほどのことでもなさそうです。そう考えると、この「免冠」しての「諫言」には別の理由があると見なければなりませんが、考えられるのは「聖徳太子」が定めたという「十七条憲法」(第十六条)に反していると言うことです。当時それは重要な意味を持っていたものと思われるわけです。

「十六曰。使民以時。古之良典。故冬月有間。以可使民。從春至秋。農桑之節。不可使民。其不農何食。不桑何服。」(『推古紀』十七条憲法)

 つまり「春」から「秋」までは「農桑之節」であるから「民」を使役すべきではないというわけです。この「十七条憲法」はすでに見たように当時の国家統治を担うものにとって従うべきものであったと思われ、以降「不改常典」と呼称されて「天皇」「即位」の際に必ずそれを「継承」することを誓約するということが儀式として行われていたと推定しました。
 「持統」も「元明」即位の詔によれば同様に誓約したことが窺え、この「伊勢行幸」はそれを自ら破る行為であると「高市麻呂」は考えたものでしょう。

「元明の即位の際の詔」
「(慶雲)四年…秋七月壬子。天皇即位於大極殿。詔曰。現神八洲御宇倭根子天皇詔旨勅命。親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞宣。關母威岐藤原宮御宇倭根子天皇丁酉八月尓。此食國天下之業乎日並知皇太子之嫡子。今御宇豆留天皇尓授賜而並坐而。此天下乎治賜比諧賜岐。是者關母威岐近江大津宮御宇大倭根子天皇乃与天地共長与日月共遠不改常典止立賜比敷賜覇留法乎。受被賜坐而行賜事止衆被賜而。恐美仕奉利豆羅久止詔命乎衆聞宣。…」

 この「詔」はかなり難解ですが、大意としては「元明」が「即位」するにあたって「文武」から継承することとなった「食国天下之業」というものは「藤原宮御宇倭根子天皇」つまり「持統」が「近江大津宮御宇大倭根子天皇」が定めた「不改常典」を受けて行っていたものであり、またそれを「皇太子」(文武)へと授けたものであるというわけです。そして今それを「自分」(元明)が今「継承」するというわけです。
 つまり、「持統」は「即位」にあたって「不改常典」に反しないという誓約を行っていたことが推定され、ここで「伊勢行幸」を行うことはその「誓い」を自ら破ると言うこととなってしまいますが、これは古代では重大なことであったはずです。
 最高権威者が「天」と「祖先」に対して誓った言葉を自ら破るというのは、由々しき事態であり、これを必ず是正しなければ「天変地異」が起きても不思議はないと捉えられていたと思われます。そうであればそれを直言できるのは「神官」であり「祖霊」つまり「阿毎多利思北孤」を祀る役割であった自分しかいないと「高市麻呂」は思い定めたゆえに「冠」を脱ぎ捨ててまで阻止しようとしたのではないでしょうか。
 ただし、この「三月三日」の行幸については「中国」と同様の「節句」の行事であったと思われます。『隋書俀国伝』によれば「節」の行事は中国と同様であるとされているのです。

「…其餘節略與華同。」

 つまり「三月三日」の節句についても「隋」との交流以前から行っていたものであり、倭国としては当時ごく普通の年中行事であったものと思われます。 
 しかし「十七条憲法」が施行されて以降「農桑之節」は避けなければならなくなったものであり、そのこと自体がまだ浸透しきっていなかったということもあるでしょう。このことは「十七条憲法」の施行と「持統」の時代が年次の経過としてそれほど隔たったものではないことを推定させます。「三月三日」という日付が『書紀』に出てくるのがこれが最初であることもそれを裏付けます。
 この時「持統」は旧来の習慣に囚われて「憲法」の要請に違背することを余り強く意識していたなかったと見られるわけです。
 ところで、『続日本紀』の「和銅元年二月十五日条」には「元明天皇」が以下の詔を出したとされています。

「戊寅。詔曰。朕祗奉上玄。君臨宇内。以菲薄之徳。處紫宮之尊。常以爲。作之者勞。居之者逸。遷都之事。必未遑也。而王公大臣咸言。往古已降。至于近代。揆日瞻星。起宮室之基。卜世相土。建帝皇之邑。定鼎之基永固。無窮之業斯在。衆議難忍。詞情深切。然則京師者。百官之府。四海所歸。唯朕一人。豈獨逸豫。苟利於物。其可遠乎。昔殷王五遷。受中興之號。周后三定。致太平之稱。安以遷其久安宅。方今平城之地。四禽叶圖。三山作鎭。龜筮並從。宜建都邑。宜其營構資 須隨事條奏。亦待秋収後。令造路橋。子來之義勿致勞擾。制度之宜。令後不加。」

 これは「新都造営」の「詔」ですが、この「詔」は原典があります。それは「隋」の「高祖」(楊堅)の詔です。
 彼は新都の造営を決意し、「開皇二年(五八二年)六月」以下のような「詔」を出しました。

「朕砥奉上玄、君臨万国、厨生人之倣、処前代之宮、常以為 作之者労、居之者逸、改創之事、心未邉也、而王公大臣陳謀献策、威云、義・農以降、至干姫・劉、有当代而屡遷、無革命而不徒、曹・馬之後、時見因循、乃末代之宴安、非往聖之宏義、此城従漢、彫残日久、屡為戦場、旧経喪乱、今之宮室、事近権宜、又非謀笠従亀、謄星揆日、不足建皇王之邑、合大衆所聚、論変通之数、具幽顕之情、同心因請、詞情深切、然則京師 百官之府、四海帰向、非朕一人之所独有、荷利於物、其可違乎、且股之五遷、恐人尽死、是則以吉凶之土、制長短之命、謀新去故、如農望秋、錐暫鋤労、其究安宅、今区宇寧一、陰陽順序、安安以遷、勿懐脊怨、竜首山川原秀麗、卉物滋阜、卜食相土、宜建都邑、定鼎之基永固、無窮之業在斯、公私府宅、規模遠近、営構資費、随事条奏」

 みると判るように、この「隋高祖」の詔を下敷きにして「元明」の詔が出されたと見られるわけですが、それに加え次の一行が付加されていることに注意すべきです。それは「秋収を待って」というものです。

「…亦待秋収後。令造路橋。…」
 
 この語は「隋高祖」の詔にはなく「元明」時点で新たに付加されたものですが、その内容は明らかに前述した「十七条憲法」の「第十六条」にある「從春至秋。農桑之節。不可使民。」という項に違背しないようにという配慮を示したものといえます。
 このことはやはり「即位」において誓った「不改常典」というものが重くのしかかっているものであり、これを「遵守」する事が「帝王」として必須であったことを強く窺わせるものです。
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「不改常典」とは ―「十七条憲法」と維摩経と「天智」

2024年03月08日 | 古代史
 以下さらに続きます。

 「聖徳太子」が書いたとされる「十七条憲法」は、「統治する側」の立場の人間に対して、国家統治の「心構え」「行なうべき事」「守るべき事」などを列挙したものです。また、「憲法」という用語でも分かるように「最高法規」として存在していたものでもあります。
 また、これは「倭国」で(我が国で)始めて作られたものであり、後の「弘仁格式」の「序」にも「古者世質時素、法令未彰、無為而治、不粛而化、曁乎推古天皇十二年、上宮太子親作憲法十七箇条、国家制法自茲始焉」と書かれており、「国家制法」つまり、国が「法」を定めることがこの時から始まったとされる記念碑的なものであったことが読み取れます。このような画期的なものが、その後「顧みられない」とか「無視」されたと言うことは考えられず、歴代の「王権」はこれを重視せざるを得なかったのではないかと思料されます。
 この「憲法」は「聖徳太子」が自ら起草したとされていますが、「聖徳太子」というのは『隋書俀国伝』に登場する「阿毎多利思北孤」とその「太子」のイメージを重ねて出来た「架空の人物」と考えられ、ここでも彼等の治績を「剽窃」していると考えられます。
 「森博達氏」によるとこの「憲法」は「倭臭」つまり、日本人が「不正確」な「慣用的」用法により書いたと思われる部分と、本格的な漢文(正格漢文)とに分かれているとされています。「正格漢文」の部分である「一、五、八、九、十一、十六条」の計六箇条について、後代のものと推定する根拠はなく、これは「当初」からのものと考えられるものでしょう。つまり、この部分(以下の条項)がこの時定められた「憲法」の「原型」であったのではないでしょうか。

一曰。以和爲貴。無忤爲宗。人皆有黨。亦少達者。是以或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦。詣於論事。則事理自通。何事不成。
五曰絶餮棄欲明辨訴訟。其百姓之訟。一日千事。一日尚爾。况乎累歳。頃治訟者。得利爲常。見賄聽?。便有財之訟。如石投水。乏者之訴。似水投石。是以貧民則不知所由。臣道亦於焉闕。
八曰。群卿百寮。早朝晏退。公事靡鹽。終日難盡。是以遲朝不逮于急。早退必事不盡。
九曰。信是義本。毎事有信。其善惡成敗。要在于信。群臣共信。何事不成。群臣無信。萬事悉敗。
十一曰。明察功過。賞罸必當。日者賞不在功。罸不在罪。執事群卿。宜明賞罸。
十六曰。使民以時。古之良典。故冬月有間。以可使民。從春至秋。農桑之節。不可使民。其不農何食。不桑何服。

 このことは、この「十七条憲法」というものの「原型」が「六箇条」からなるものであったらしい事が推定されることとなるわけですが、これは「北周」の「大統十年」(五四四年)に出された「六条詔書」というものの影響があるのではないでしょうか。
 この「六条詔書」というものは、「清心」「敦教化」「尽地利」「擢賢良」「恤獄訟」「均賦役」という項目を「地方官吏」に対して実行するよう命令したとされるものです。
 この「六条詔書」はその項目名でわかるように一種の地方官僚に対する倫理規定であったと考えられ、「宰相」であった「宇文泰」はこれを各人に「誦習」させたと言われており、「地方統治」の重要なものとして位置付けていたことが分かります。
 「七世紀初め」という時間帯において、「倭国」はその支配領域を「東国」に広げ「我姫(あづま)」地域に対する「行政制度再編成」を含め、諸改革を進めていたと考えられますが、このようなことを背景として「倭国」では「北周」に習い、「官人」に対して、新しく「倭国」の版図に組み込まれた地域への統治に対する基本姿勢として打ち出したものが「憲法」の意義であったものではないでしょうか。
 この時「北周」からそのようなことを学んだ可能性があると考えるのは、「筑紫都城」が『周礼考工記』から「都城の理想形」としてのレイアウトを採用したと考えられる事からも言えることです。
 「北周」はその国号に「周」という名称が使用されていることから分かるように、古の「周」に復帰することを望み、『周礼』によって制度等を整備することを選んだものです。「倭国」でも「短里制」や「官吏」などの制度に「周」の(あるいはそれ以前)古制を採用していたと思われますから、「北周」の制度等にも違和感はなかったと思われます。もちろん「南朝」を「唯一の皇帝の国」として考えていたことは変わらないものの、「北周」の制度に影響された部分もかなりあるものと推量します。(もちろん「百済」等半島諸国を経由した間接的なものではあったと思われますが)
 また、「六箇条」で当初成立していたはずの「憲法」が「十七条」に拡大されたことと、「聖徳太子」の筆になると云う考え方もある『維摩経義疏』との間に関連があることが指摘されています。
 この『維摩経義疏』では「十七」という数字が特別の位置に置かれているようであり、その中では「就第一正明万善是浄土因中凡有十七事」という文章があるように「万善」が即座に「十七」という数字に「直結」しています。
 これは「陰陽」というものに関係しているようであり、「易経」によれば「陽」が奇数で最大数が「九」、「陰」が偶数で最大値が「八」とされ、合計の「十七」が重要とされ、これが『維摩経義疏』に取り込まれ、更にそこから「憲法」に取り込まれたという可能性があります。
 この『維摩経義疏』を含む『三経義疏』は、「森博達氏」の研究により明らかにされた『書紀』の中の「倭臭漢文」(いわゆる「β群」)とほぼ同じ傾向の「倭臭」が看取されており、その意味からも『推古紀』ではなくもっと後の時代の「編集」であることが想定されます。それは、その『三経義疏』の「編集」時期が「憲法」の当初部分に「条文」を付加して「十七箇条」に改めた時期と接近しているという可能性を推測させるものです。
 この時条文を書き加えたと考えられる人物は、この『維摩経義疏』を深く読み込んでいたものと思われ、強く影響されて「憲法六条」に更に「十一箇条」を書き加え、「十七条」としたのではないでしょうか。
 ところで、『扶桑略記』や近年発見された『日本帝皇年代記』には「内大臣鎌子」が「元興寺呉僧福亮」から『維摩経』の「講説」を受けたことが記されています。

「(斉明)三年丁巳(六五七年)。内臣鎌子於山階陶原家。在山城国宇治郡。始立精舎。乃設斎會。是則維摩会始也。

同年 中臣鎌子於山階陶原家。屈請呉僧元興寺福亮法師。後任僧正。為其講匠。甫演維摩経奥旨。…」(『扶桑略記』)

「戊午(白雉)七(六五八年) 鎌子請呉僧元興寺福亮法師令講維摩経/智通・智達入唐、謁玄奘三蔵學唯識」(『日本帝皇年代記』)

 また同様の趣旨を示す「太政官符」も出ています。

「請抽出元興寺摂大乗論門徒一依常例住持興福寺事/右得皇后宮識觧稱。始興之本。従白鳳年。迄干淡海天朝。内大臣割取家財。爲講説資。伏願。永世万代勿令断絶。…」(『類従三代格』「太政官符謹奏」天平九年(七三七年)三月十日)

 ここでは「内大臣」(鎌子)が「講説」を受けるために「私財」を投じていたことが窺えます。このことから「内大臣鎌子」が「維摩経」に強く感化されたと考えて間違いないと思われますが、彼は「天智」と一心同体とも言われていたわけですから、「天智」も同様に「維摩経」に影響されていたと見ることは可能と思われ、「憲法」が「十七条」に拡大される事情も「天智」と「維摩経」との関連で考えて不自然ではないこととなるでしょう。
 さらにここで出てくる「福亮法師」という人物が「聖徳太子」と関連があると考えられていることも上の推定と関連して重要です。彼は「法起寺塔露盤銘」に彼の名前が出て来ますが、そこでも「聖徳太子」との関連が考えられる記述があるなど、「聖徳太子」に深く関わる人物と考えられています。

「上宮太子聖徳皇壬午年(旁朱)推古天皇三十二月二十二日、臨崩之時、於山代兄王敕御愿旨、此山本宮殿宇即処専為作寺、及(入カ)大倭国田十二町、近江国田三十町。至于戊戌年旁朱舒明天皇十年『福亮僧正』、聖徳御分敬造弥勒像一躯、構立金堂。至于乙酉年旁朱白鳳十四惠施僧正、将竟御愿、構立堂塔。而丙午年三月、露盤営作。」「法起寺塔露盤銘文」

 彼を通じて「天智」と「聖徳太子」との間に関係があることが推測され、「聖徳太子」の制定による「憲法」を「天智」が「十七条」に拡大したという推定も可能と思われます。そして、それを行った「天智」は『二中歴』では「東院」と呼称されていたという可能性があります。

「白鳳二三辛酉 対馬採銀観世音寺東院造」

 この表記は同じ『二中歴』の「天王寺」記事の場合と比較すると、同じ文章構造であることが分かります。

「倭京五戊寅 二年難波天王寺聖徳造」

 このふたつの記事の比較から、「聖徳」という人物(これは「利歌彌多仏利」か)に「対応」するのが「東院」という名称であり、この事は「東院」が「聖徳」同様、個人名であり、また「聖徳」が「利歌彌多仏利」の「法号」である可能性が指摘されていることから、この「東院」についても同様である可能性が高いものと思料します。
 この「院」という「称号」が「出家」した「天子」や「天皇」を指す用語と考えられることも「東院」が「法号」であることを傍証しているようです。
 また、「観世音寺」創建に関しては、『書紀』など多くの資料が「天智」の発願としているところから考えて、この「東院」とは「天智」を指すものと考えざるをえません。さらに「東」という語の使用例から考えて「東宮」つまり「太子」あるいは「皇太子」としての存在と関連している可能性は高いと思われます。つまり「太子」の状態で出家した人物という意味を指すものでないかと見られるのです。
 「不改常典」として出された「憲法」に対して「書き加え」を行うというようなことは「一介の官吏」にできることではなく、必ず「倭国王」ないし「皇太子」的存在の人物の手によるものと考えるべきであり、その意味でもこの「条項拡大」が「東院」すなわち「東宮」の位置にあって出家した人物の事業であったことが強く推定されるものです。(これを一般に「天智」と見ているもの)
 「内大臣」の『維摩経』受講などを見ても「天智政権」として深く仏教に帰依していたものと考えられ、「観世音寺」を創建するという事情もそのあたりにあると思料されるものであり、そう考えると『維摩経義疏』などを「天智」自身が「参考」にしたというのは蓋然性の高い想定であると思われます。
 それを示すと思われる記事が『藤氏家伝』にあります。

「(摂政)七年…
先此、帝令大臣撰述礼儀。刊定律令。通天人之性、作朝廷之訓。大臣与時賢人、損益旧章、略為条例。一崇敬愛之道、同止奸邪之路。理慎折獄、徳洽好生。至於周之三典、漢之九篇。無以加焉。」(『藤氏家伝』)

 この文章はまず「撰述礼儀」といい、また「刊定律令」とも言っています。「刊定律令」とは「近江令」のことをいうと一般に推定されていますが、その前の「撰述礼儀」というものについては、これが「礼儀」に関することですから「律令」とは異なると思われ、そこに書かれた「天人之性」「朝廷之訓」という言い方からも、「自分」も含めた朝廷の官人達の「行動規範」を示したものと考えられます。
 後半に書かれている「周之三典、漢之九篇」とは、「周礼」の「軽中重の三典」及び「漢の高祖」の定めた「九章律」を指すと考えられますから、これについては「律令」を意味すると考えられますが、他の文言は「律令」と言うよりむしろ「礼儀」に関わるものと考えられ、「統治」するもののあるべき「道徳」を示したものであり、「十七条憲法」につながる内容を含んでいると考えられるものです。
 つまり、『書紀』編纂者の認識としては『書紀』に書かれているような形の「十七条憲法」を作り上げたのは「天智」であり、「近江朝廷」の事というものであったという事となります。
 以上のことから「不改常典」と「十七条憲法」とは同一であり、「新日本国王権」にとって「ゆるがせにできない」性質のものであって、皇位継承にあたってそれが「言及」されるのは、それが「国家統治」の根本を示すものであり、それを継承することが「禅譲」の条件であったからと見られることとなります。
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