古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「評」と「都督」の関係

2024年03月24日 | 古代史
 「九州倭国王権」は「六世紀末」という時期に「近畿」へ勢力を進出させ、「難波」に仮宮を設けたと思われますが、その際に「評制」を全面的に施行し、「評督」や「助督」(あるいは評造)という「制度」(職掌)を定めたと見られます。そしてこれらの「制度」の「トップ」と言うべき存在は「都督」であったと思料されます。
 『書紀』の『天智紀』には「熊津都督府」から「筑紫都督府」への人員送還記事があります。

「百濟鎭將劉仁願遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等 送大山下境部連石積等於筑紫都督府」「(天智)六年(六六七年)十一月丁巳朔乙丑条」

 これによれば「六六七年」という段階で「都督府」が存在していることとなりますから、(当然)「筑紫」には「都督」がいたことと考えざるを得ません。そして、この「都督」が「評督」と深く関係している制度であると言うことはすでに「古田氏」の研究により明らかになっていますが(「大化の改新と九州王朝」「市民の古代・古田武彦とともに第6集」1984年「市民の古代」編集委員会)、「都督」は文字通り「首都」防衛の最高責任者であり、「畿内」を制定し、「評制」を施行し「防人」を徴発する体制を確立した時点で、その「軍事的」防衛線の構築の最高責任者として、「阿毎多利思北孤」段階で施行・任命されたものと考えられます。
 そもそも南朝の制度では天子の下に「太宰」がおり、天子に次ぐ権力を有し、さらにこの下に「都督」がいました。つまり、都督は天子の臣下中ナンバー2の存在なのです。倭国でも、政治的な責任者である「太宰」と軍事的責任者である「都督」は本来は別の人間が当てられていたものと思われ、倭国では「太宰」の役には「皇子」が任命されており、「摂政」として政務をみていたとみられます。
 また、いわゆる「神護石」遺跡群のかなりのものはこの時点で造られたものと考えられ、これは「畿内」としての「筑紫」防衛の一端であったものと思料されます。
 ただし、この「神護石」はその造られた時期と使われた時期などがかなり多様であり、複雑なものと考えられています。出土する土器などから考えて、その一部については「卑弥呼」の時代まで遡るものもあると思われますし、また「物部」の「筑紫占拠時代」(六世紀前半から末まで)に造られ、使用されたものもあるものと考えられます。
 加えてこの「六世紀末」という時期に「難波」仮宮の朝廷から造られたものもかなりあると考えられ、それは「畿内」(首都)防衛のためのものであり、防人などと連動した施設であったものと考えられるものです。
 さらに「利歌彌多仏利」段階で「軍制」が制定され、施行されたものと考えられ、その中に「都督」なども規定されていたものと思料されますが、その時点でも「神籠石」という「山城」が構築されたと見られます。
 つまり「阿毎多利思北孤」段階では「太宰」-「国宰」という「行政システム」と同時に、「都督」-「評督」という組織が重なるように出来たわけであり、これは「太宰」-「国宰」ラインが、より「政治的」なシステムであったのに対して、「都督」-「評督」ラインは「軍事的」なシステムであった事が大きく相違していると考えられます。
 「難波副都」を制定し「難波宮殿」などが造られるという時点である「七世紀前半」は、「隋」が滅び「唐」が建てられた時期であり、また「隋」を滅ぼした「高句麗」の影響により「新羅」「百済」が対外戦闘能力を強化させるなどの策を講じていた時期であり、そのような時期に「最前線」とも言うべき場所にある「首都」「筑紫」に対する「防衛線」の構築という重要な事業が為され、その中で「都督」が任命され、「都督府」が設置されたと考えるのは大変「自然」であり妥当と考えられるものです。
 そして、その「都督」の「配下」と考えられる「評督」という官職名にも、軍事的要素が含まれていると考えられます。これは「評」が意味する地域の権力者と言うだけではなく、その地域の「軍事的」あるいは「警察・検察機構」としての指導力(治安維持能力)を持った人間を指すと思われます。それは「都督」という用語が「総大将」とか(特に)「首都の軍事的責任者」という意味合いがあるように、「評督」にはその地域の軍事的責任者(将軍)という意味合いが持たせられているのではないかと思われます。後に『大宝令』でも、兵衛府・衛門府等の長官職のことを「督」と呼ぶのはその名残と思われます。
 「六世紀末」の倭国中枢部は「富国強兵」策を取ろうとしていたと見られ、「軍事・警察」面強化という部分に着目し、「評」という制度を「天下」(国内)に全面的に適用し大規模に「徴兵」を開始したことと推量されるものです。このことは「国家体制」の頂点では「太宰」と「都督」、末端側では「国宰」と「評督」が並立・併用されていたことを意味していると考えられますが、この時代は「阿毎多利思北孤」の次代の倭国王としての「利歌彌多仏利」(これは「押坂彦人大兄」に擬される)とその弟の「難波王」という兄弟統治をしていたと見られますから、不自然ではありません。
「国宰」の管掌する範囲のなかには複数の「評督」がいたと考えられますが、「国宰」には軍事に関する権能がなかったと思われ、「評督」を管掌しているのは「総領」がいる地域では「総領」が、いない地域では「都督」直接が管掌していたものと見られ、「国宰-大宰」とは別の指揮命令系統があったものと考えられます。
 その分担の中身としては、「利歌彌多仏利」が「評制」施行に主体的役割を演じ、「東国巡行」をして「難波」に仮宮を築き、「評制」施行を実行したものと考えられます。しかし、その後彼は「宗教的権威」に身を転じ、「政治」の世界から遠ざかったと見られ、「軍事的システム」である「評」制の頂点にいたのは「弟王」である「難波皇子(王)」(それに擬される人物)であったと考えられます。
 その後『三国史記』や『旧唐書』『新唐書』などによると、「六七四年二月」という時点の事として「唐」の高宗が「新羅」の「文武王」の官位を剥奪し、「唐」と「新羅」は「戦闘状態」に入ったとされます。また『書紀』によればその直後の翌「六七五年」に「新羅」の王子「忠元」が来倭しています。
 この「来倭」記事は「対百済」への影響力行使の要請ではなかったかと考えられ、少なくとも「百済」を援助したり加勢したりすることのないようにという「強い要請」を行ったものと思料されます。それを示すように「王子」がまだ「筑紫」滞在中と思われる翌月(三月)に、筑紫太宰「栗隈王」を「兵政官長」(軍事部門の最高責任者)にし、「大伴連御行」をその次官である「大輔」に任命しており、筑紫地域の軍事部門の強化を図ったとみられます。

「六七五年三月庚申(十六日)諸王四位栗隈王爲兵政官長。小錦上大伴連御行爲大輔。」

 この「兵政官長」は実際には「都督」ではなかったかと考えられます。つまり、「筑紫太宰」という行政府の長たる職掌にある「栗隈王」に対し、軍事面においての「長」である「都督」も兼務するという人事が行われたと見られます。このような兼務は『二中歴』の「都督歴」によれば「蘇我日向」以来であるとされますが、実際には「太宰」はその後もそうですが、「親王任国」の対象であったものであり、親王(つまり「天皇」の後継資格を持った人物)が任命されていたと思われるわけです。それに対し「都督」はその「太宰」に次ぐ地位として軍事部門を専管していたものと考えられます。
 『書紀』には「大宰」はかなり出てきますが、「都督」は上記の「都督府」という形でしか出てきませんしそれもただ一度だけです。「都督」は「首都防衛軍」の長であるわけですから、「倭国九州王朝」の直属の人間で構成されていたと考えられ、そのことにより「都督」関係記事については「詳細」な描写や記事は「御法度」となったものではないでしょうか。
 このことから、『書紀』(つまり「八世紀」の新日本国王権関係者)が本当に隠したかったのは「都督」であり「都督府」であったと思われます。逆に言うと「大宰」は隠蔽の程度が薄いと考えられ、そのことは「利歌彌多仏利」の「弟王」(難波王)以降については「近畿王権」との関係が深かったという可能性が考えられるところです。
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猪と家畜

2024年03月24日 | 古代史
 ところで、なぜ「磐井」は自らの業績を誇るために設置した石像などで、特に「猪窃盗犯」の裁判風景を描写したのでしょう。
 他の物品でも良さそうなものではないか思われるわけですが、ここで「猪」が特に登場しているのには、「意味」があるのではないかと考えられるのです。それは「当時」「猪」が最高級品であったからではないでしょうか。一番高価なものを盗んだ事に対して行なわれた「審判」の情景を「例」としてそのまま「陳列」し「展示」すると言うこととなったのではないかと推察されるものです。 
 後に『天武紀』で「肉食禁止令」が出されますが、そこでは「且莫食牛馬犬猿鶏之完」とされ、「猪」が含まれていません。このことは「以前」から「猪」は食べて良いという事になっていたことを示すと考えられますが、その肉は「高級品」であり、「庶民」はなかなか口にできないものであり、そのため「家畜化」され、それを「盗み」転売するようなことが横行していたという可能性もあります。
 つまり、「磐井」の古墳の「裁判」の場にも表されている「猪」は「盗まれた」ものですが、それはこの「猪」が「家畜」として飼われていた「猪」であったことを表すものと思料します。
 これが「他人」が狩猟して得た獲物である「猪四頭」を「横取り」したと想定する、推定される「猪」の狩猟の実体と矛盾します。
 たとえば「埴輪」や「陶器」などには「猪狩」の描写がされている例がありますが、そこでは「猪」と格闘しているシーンと思われる例もあるなど、「猪狩」は「犬」と「人間」にとって「命がけ」であったことが判ります。
 『播磨風土記』では「応神天皇」と思しき人物が「猪狩り」を行ない、伴の「犬」が「猪」に殺されてしまうことなどが書かれています。
 つまり「猪狩」は狩猟の際には必然的に「殺され」てしまうものであったと考えられ、現場で解体され「肉」として運ばれたのではないかと思料されます。それは「丸ごと」「盗品」として裁判の場に出されていると考えられる事と矛盾するといえるでしょう。それは『雄略紀』の記事からも推測できます。
『雄略紀』には狩猟に出かけ獲得した獲物をその場で解体するという場面が出てきます。

「(雄略)二年…冬十月辛未朔…丙子。幸御馬瀬。命虞人縱獵。凌重■赴長莽。未及移影、■什七八。毎獵大獲。鳥獸將盡。遂旋憩乎林泉。相羊乎薮澤。息行未展車馬。問羣臣曰。獵場之樂使膳夫割鮮。何與自割。羣臣忽莫能對。於是天皇大怒。拔刀斬御者大津馬飼。…語皇太后曰。今日遊獵大獲禽獸。欲與羣臣割鮮野饗。歴問羣臣莫能有對。故朕嗔焉。皇太后知斯詔情。奉慰天皇曰。群臣不悟陛下因遊獵場置宍人部降問群臣。群臣黙然。理且難對。今貢未晩。以我爲初。膳臣長野能作宍膾。願以此貢。天皇跪禮而受曰。善哉鄙人所云。貴相知心。此之謂也。皇太后視天皇悦歡喜盈懷。更欲貢人曰。我之厨人菟田御戸部。眞鋒田高天。以此二人請將加貢。爲宍人部。自茲以後大倭國造吾子篭宿禰。貢狹穂子鳥別爲宍人部。臣連伴造國造又隨續貢。」(『雄略紀』より)

 ここでは「雄略」が自分で料理を作るといいだして群臣を困惑させていますが、基本的に「狩猟」は料理人を連れて行くのが原則であり、その場で調理する場合もあったらしいことが窺えますが、この場合の「禽獣」の中に「猪」もいたであろうと思われることから、「猪狩」の場合も「生け捕り」はかなり困難であり、その場で解体することが常態として行われていたことを示唆するものといえます。
 「家畜」というものが「古代」の「倭国」にもいたことは『書紀』の「大国主」と「少彦名命」の説話の中でも語られていることから推察できます。

「一書曰。大國主神。亦名大物主神。亦號國作大己貴命。亦曰葦原醜男。亦曰八千戈神。亦曰大國玉神。亦曰顯國玉神。其子凡有一百八十一神。夫大己貴命與少彦名命。戮力一心。經營天下。復爲顯見蒼生及畜産。則定其療病之方。又爲攘鳥獸昆虫之災異。則定其禁厭之法。」(『神代紀』第一巻第八段より)

 ここでは「畜産」と書かれているだけであり、どのようなものが「家畜」とされていたかはっきりしませんが、一番可能性のあるものが「猪」ではないでしょうか。
 『天武紀』にあるような「禁止された」他の動物よりは「猪」の方が考えやすいでしょう。基本的に「食用」以外に用途がありませんし、一頭から採れる肉量も多いですから「繁殖」さえうまくいけば有効なタンパク源として機能させられるでしょう。もちろん、狩猟に伴う危険性が減ることや、常に狩猟を続けなければならないという逼迫性が減少するということも重要です。
 そのような「家畜」の存在は『播磨風土記』に「猪」を「放し飼い」にしたという記事があることからも推定できます。

「播磨風土記賀毛郡山田里の条」「山田里土中下 猪飼野 右 号山田者 人居山際 遂由為里,名猪養野 右 号猪飼者 難波高津宮御宇天皇之世 日向肥人朝戸君 天照大神坐舟於 猪持参来進之 可飼所 求申仰 仍所賜此処 而放飼猪 故袁猪飼野」

 ここで「猪」を「放し飼い」にしたとされていますが、「飼う」事とした理由については当然、安定的食料供給源として考えたためであると推察できますから、いわゆる「家畜」として考えるべきものでしょう。
 また、これは後代の例ですが、『聖武紀』では「私畜」している「猪」を「解放」するように「詔」が出ています。

「天平四年(七三二年)秋七月丁未条」「詔。和買畿内百姓私畜猪■頭。放於山野令遂性命。」

 これはこの年「天候不順」などで「凶作」が予想されたために、(この直前の「詔」では、「從春亢旱。至夏不雨。百川減水。五穀稍彫。」と表現されています)「聖武」が自らの不徳の至りとして「大赦」などを行なった一環として、「私畜」している「猪」などについても解放するように指示を出したものです。この「私畜」という表現からは、やはり「猪」が一般に「飼われていた」ことを示すものです。このような「猪」の飼育というものはかなり以前から(天武紀の禁止令以前)行なわれていたものではないでしょうか。それを示すのが、「猪養」という「姓」(かばね)があり、またそれを名を持つ人物がいたことです。

「養老七年(七二三年)春正月丙子。天皇御中宮。授從三位多治比眞人池守正三位。…正六位上引田朝臣秋庭。河邊朝臣智麻呂。紀朝臣猪養。」

 たとえば「牛養」「馬養」「犬養」(犬飼)はいずれも「部民」であり、それを職掌としていた氏族があったこと、それは「官」として存在していたものであり、「王権」に深く結びついていたことを表すものですが、同様に「猪養」という名前もそのような「職掌」があったことを示すものと考えられます。それが「猪使氏」ではなかったかと思われ、彼等は後の「宮城門」(「偉鑒門」)の整備にも活躍しています。

「日本後紀卷二逸文(『拾芥抄』宮城部)延暦十二年(七九三)六月庚午【廿三】」「同年六月庚午。令諸國造新宮諸門。尾張美濃二國造殷富門、伊福部氏也。越前國造美福門、壬生氏也。若狭越中二國造安嘉門、海犬耳氏(海犬甘)也。丹波國造偉鑒門、猪使氏也。但馬國造藻壁門、佐伯氏也。播磨國造待賢門、山氏也。備前國造陽明門、若犬甘氏也。備中備後二國造達智門、多治氏(多治比)也。阿波國造談天門、王手氏也。伊與國造郁芳門、達部(建部)氏也。」

 「猪」を「使う」といっても、意味は不明ですが、「猪養」(猪飼)が転じたものとも考えられ、「家畜」として「猪」を飼養することを「職掌」とする氏族がいたことを推定させるものです。
 そのような氏族がかなり大きな勢力として扱われているらしいことは、「猪」の肉がほぼ「王権」専用であったらしいことを推測させるものであり、それを盗んだ人間が厳しく罰せられたというのが「磐井」の「墳墓」の様子から窺えるものです。
 ちなみに、この家畜化された「猪」を「豚」であるとする理解もあるようですが、そうとは思われません。「豚」は「猪」を人間が家畜化したものであり、そのためにはかなりの時間(年月)を要します。当然「猪」と「豚」は見た目もそうですが、区別がされてしかるべき別の動物であることとなりますが、『書紀』の中では「猪」という名称しか現れません。しかも「応神紀」では「猪」を狩るのが命がけとされていますから、これは明らかに「豚」ではないと思われます。
 また「猪」は本来野生動物ですから、「豚」のように「柵」で仕切った狭い場所(檻など)に入れて飼育するというようなことは困難であったと思われます。それは当然「放し飼い」というスタイルとなったものと思われますが、これを(献上するために)捕らえて縛り上げるというようなことは誰にもできることではなく(「猪」は「猛獣」ですから)、専門の職掌がいたであろう事は想像ができ、それが「猪使部」という名称に現れていると思われます。
 ところで「猪」を家畜として飼育していたとするとその用途の第一は食用とするための「肉」の確保と考えられる訳ですが、そのためには「屠殺」の必要があります。それには「利器」(刃物の類)が必要です。特に切れ味が鋭くなければ「一太刀」では殺せません。「屠殺」の方法としては「崇峻」の記事にあるように「首」を切り落としていたと思われますが、そのためには「剣」の腕も「切れ味」も良くなければならないとすると、それに従事した「猪使」(猪飼)達は特別に訓練されていたと考えられると共に、「命」を奪い「血」を流させるという意味で「畏怖」され「嫌われていた」とも考えられます。このような職掌は「解部」との関連を考えさせられるものでもあります。
 「解部」は「犯罪」の取り調べから「刑」の執行まで行なっていた下級官吏であり、その際には「剣」や「杖」「笞」などの道具を使用していたと考えられますから、その取り調べなども「拷問」や「杖」などによる「脅し」を含んでいたものと見られます。彼等も「死刑」の一種である「斬首」の際にはその切れ味鋭い「剣」と「技」でこれを行っていたものと思われますが、(当然のように)一般からは「畏怖され」「嫌われていた」と思われます。(そのためか後代に「解部」を姓とすることがなかったようで現代に全く伝わりません)
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「評」と「防人」の関係

2024年03月24日 | 古代史
 『書紀』では『天武紀』に「諸国限分」を行った記事があります。

「(天武)十二年(六八三年)十二月甲寅朔丙寅。遣諸王五位伊勢王。大錦下羽田公八國。小錦下多臣品治。小錦下中臣連大嶋并判官。録史。工匠者等巡行天下而限分諸國之境堺。然是年不堪限分。」

 この記事によれば「諸国」とありますが、実際には「限分」されたのは全て「東国」です。それは以下の記事が証明しています。

「詔曰。東山道美濃以東。東海道伊勢以東諸國有位人等。並免課役。」「(天武)十四年(六八五年)秋七月乙巳朔辛未条」

 この中の「東山道は美濃より東、東海道は伊勢より東の諸国」という言葉からは、「分限」されたのが「東国」諸国であったことを示しています。これは「評制」施行のために「境界画定」作業を行なったことを意味するものであり、その労苦に報いて「課役」を免除するという措置を下したものでしょう。これは「東国」に対する一種の懐柔策であると思われます。
 もともと、各地域にはその地を牛耳る権力者がおり、彼とその地域を防衛するための兵力は以前からあったものと思われますが、「評制」の全国的施行により(それは「官道整備」と関わるものと思われますが)「倭国王権」の支配が全国に透徹するようになったものと思われ、中央から諸国への軍事力の展開が可能となったことと、それとは逆に諸国からの農作物を始めとする物品の徴収あるいは搾取が可能となったほか、「直接」的兵力調達が可能となったものと思われます。
 それまでの「地域的ボス」(これを一般には「在地首長層」という言い方をするようです)だけが「兵力」保持できるものであったものが、この「評制」施行により「倭国王」が直接的に「兵力」を確保することが可能となったものと考えられます。そして、これらの兵力のうちの一部は「筑紫」(=畿内)の外部防衛線を形成するものとして徴発されたものであり、このような人々が「防人」(戌人)と呼ばれた人たちです。 
 この「兵力」確保については、この「評制」施行時点ではまだ「八十戸制」であったと考えられ(後述)、その時点ではまだ本格的な「軍制」は定められていなかったと見られますが、「遣隋使」が派遣されて「隋制」が導入されて以降「五十戸制」に変わったものと見られ、それによって「戸制」が「軍制」に関連させられることとなったと見られます。
 つまり「後の」『養老令』によると「軍隊組織」の基本である「隊」(一隊)の人数は「五十名」であり、これは「一戸一兵士」で選出するのが「基準」とされていたのではないかと推測されるものであり、それは「二〇一二年六月」に「大宰府」から発見された「戸籍木簡」でも「兵士」と書かれた人物は一名だけであったことからも理解できると思われます。(美濃戸籍でも同様)
 つまり、この事はこの時点以降「評」や「評督」そして、その頂点にいたと考えられる「都督」など「軍事的組織」と「戸制」とが強く結びつくこととなったと考えられるものです。
 この「六世紀末」という時期に「一隊五十人」を基礎単位とする「軍制」があったと考えられるのは、『書紀』で「蘇我入鹿」についての描写で「五十人」の兵士に警護されている様子が描かれていることからも推測できます。

「(皇極)三年(六四四年)冬十一月。蘇我大臣蝦夷・兒入鹿臣雙起家於甘梼岡。稱大臣家曰宮門。入鹿家曰谷宮門。谷。此云波佐麻。稱男女曰王子。家外作城柵。門傍作兵庫。毎門置盛水舟一。木鈎數十以備火災。恒使力人持兵守家。大臣使長直於大丹穗山造桙削寺。更起家於畝傍山東。穿池爲城。起庫儲箭。恒將五十兵士続身出入。名健人曰東方■從者。氏氏人等入侍其門。名曰祖子孺者。漢直等全侍二門。」

 このように「蘇我氏」は「私兵」を所有しており、それは国家の軍隊と同様「五十戸制」に則っていたことが推定され、自家の領地とされる場所から「私兵」を徴集する権利を有していたものと見られます。
 このように「利歌彌多仏利」により制定された「軍制」では「一戸一兵士制」で「兵士」が選抜されたと見られますが、それらの人々のうち「首都外縁」の防衛任務についたものが「防人」であると考えられ、これにより従来「評制」と「防人」はまったく別のことと考えられていたものが、実は強く結びついた事柄であると考えなければならないことを示すと見られます。
 ちなみに、「防人」関連記事の初出は「改新の詔」です。(これは『書紀』の通常の理解では「六四六年」)この「改新の詔」の中で「防人」について触れているのですが、この「詔」の中身についてはこの時点で実行されたものではないと考えられており、その意味でも「防人」ももっと後代のものであるという理解がされているようです。通説では「白村江の戦い」の後に「防人」という制度が設置されたと理解されているようですが、本来、戦いの前に必要な兵力を確保することが重要であるのに、戦争後に「防人」についての言及があることがそもそも奇妙な事と思われます。
 『天武紀』には「防人」の遭難記事があります。

「天武一四年(六八五)十二月乙亥四条」「遣筑紫防人等飄蕩海中 皆失衣裳。則爲防人衣服以布四百五十八端 給下於筑紫。」

 この記事の中では「防人衣服」として「布四百五十八端」が支給されたと書かれていますが、「衣料」としては「一反」(端)がおよそ「一着分」と考えられますから、この数字はそのまま「四百五十人分強」のものであることとなります。
 「船」の「乗員」の数としては、『書紀』に記載された「白村江の戦い」などの際の推定される「船の数」と「兵員数」から考えて、一隻当たり「一五〇-一八〇人」ほど乗り込んでいたのではないかと考えられます。
 もっとも「白雉年間」などの「遣唐使船」記事から見ると「二五〇人」ほど乗り込んでいたようですが、船の構造の違いや「戦闘員」以外もいたことを考えると、「軍艦」としてはそれよりはかなり減少すると思われ、一隻当たり「一五〇-一八〇人」ほどという推定は大きく違わないと考えられます。これで計算するとおよそ「四百五十人強」というのは「三隻」分に相当すると思われます。
 後の「防人」に関する「駿河国正税帳」などの史料によると、「防人」として「徴発」され「帰国」する人数は計「十一国」の約「二千名」とされています。その内訳を見るとたとえば「常陸」において「二六五人」とされています。この「常陸」の国は当時(七三八年)「十一」の「郡」から構成されていたと考えられ、この当時の「郡」の戸数は「評」時代よりは増加していると考えられますが、上で推定した「評制」下の「軍団」の「単位」が「評」を構成する「戸数」と等しい「七五〇人」であったと推定すると、その類推として、「軍防令」に示された「千人単位」の軍団というものが、当時の「郡」の「上限」の戸数を示すと考えられ、これは「郡」の戸数において以前の「評」の時代の「七五〇戸」程度から約「千戸」ほどに増えた事を意味すると考えると、「防人」の徴発の割合は「四~五十戸」に対して「一名」の「防人」を出したものと計算されるものであり、「五十戸一防人制」つまりひとつの里(さと)から一名の「防人兵士」を徴発する制度とされていたらしいことが推定できます。
 このことから考えて、「百五十人」という船の定員は「ひとつの『国』(広域行政体としての国)」からの防人を集めたものと考えられます。つまり上に書かれた「四百五十八名」というのはほぼ「三隻分」つまり「三国分」に相当するものと思われます。 
 また、この「遭難」はこれら徴発した「防人」を「現地」まで輸送する際のトラブルではないかと考えられます。それは「本来」「防人」は「船」で戦闘行為を行なうものではないからです。「砦」や「城」など半島や島などに造られた軍事基地に配置されるべき人員であり、彼らが「海中」に「漂う」事となったとすると、移動の途中の海難であった可能性が高いと思われるでしょう。
 この場合は実際には「瀬戸内」を航行しているうちに発生した「事故」ではないかと思われ、この「遭難記事」の直前の記事に「周防」という地名が出ることから(下記)、この記事との関連が考えられ、「関門海峡付近」で起きた事故(座礁か)と推定されます。

「天武一四年(六八五)十一月癸卯朔甲辰。儲用鐵一萬斤送於周芳惣令所。是日。筑紫大宰請儲用物。絁一百疋。絲一百斤。布三百端。庸布四百常。鐵一萬斤。箭竹二千連送下於筑紫。」

 このように「防人記事」の直前は「周防」と「筑紫」に軍事物資と思われるものを運搬・輸送している記事であり、これが「防人」と深い関係にあると考えるのは自然です。(ここでも「布三百端」とされ、三百人分の衣料用材料と考えられますが、やはり「一五〇」の倍数になっており、これも「国単位」となっているように思えます)
 ちなみに、「箭竹二千連」を「筑紫」に送ったとされていますが、「軍防令」では「毎人。弓一張。弓弦袋一口。副弦二条。征箭五十隻。」とされており、一人「五十隻」(本)の割当てがあったようです。そして、ここで言う「二千連」が「何隻」なのかが問題ですが、「連」と言うからには何本かがセットになっていると考えられ、「束」と同じではないかと思料すると「二十本」で「一束」となります。「二千連」が「二千束」を意味するなら「四万本(隻)」の矢があることとなり、軍防令の通り「一人五十本」割り当てると「八百人分」の「矢」であることとなります。これは「一国」の「兵士」の数と対応していると考えられます。
 このように「防人」は現実の存在として「東国」から徴発されていたわけですが、実際には木簡(※)からは「防人」ではなく「戌人」(じゅにん)という名称であったことが知られています。これは「隋・唐」時代に配置されていた辺境防備の「砦」である「鎮」のスケールダウンした規模としての「戌」というものと関係があるとみられ、そこに詰める兵士を「防人」の中でも特に「戌人」と称したものと思われます。

(「新唐書/志第三十九下/百官四下/外官/鎮[底本:北宋嘉祐十四行本]」より)
「…鎮將、鎮副、戍主、戍副,掌捍防守禦。凡上鎮二十,中鎮九十,下鎮一百三十五;上戍十一,中戍八十六,下戍二百四十五。倉曹參軍事,掌儀式、倉庫、飲膳、醫藥、付事、句稽、省署鈔目、監印、給紙筆、市易、公廨。中鎮則兵曹兼掌。兵曹參軍事,掌防人 名帳、戎器、管鑰、馬驢、土木、?罰之事。
《上鎮有?事一人,史一人,倉曹佐一人、史二人,兵曹佐、史各二人,倉督一人、史二人。中鎮,?事一人,兵曹佐一人、史四人,倉督一人、史二人。下鎮,?事一人,兵曹佐一人、史二人,倉督一人、史一人。凡軍鎮,五百人有押官一人,千人有子總管一人,五千人又有府三人、史四人。上戍,佐一人、史二人;中戍,史二人;下戍,史一人。唐廢戍子,? 防人五百人為上鎮,三百人為中鎮,不及者為下鎮;五十人為上戍,三十人為中戍,不及者為下戍。開元十五年,朔方五城各置田曹參軍事一人,品同諸軍判司,專?營田。永泰後,諸鎮官頗增減開元之舊。》…」

 当時倭国は「隋」との国交開始を旧制度打破という一大改革の契機と考え、積極的に「隋」の制度や文化を導入したものです。当然「防人」というものもその中にあったと見るべきでしょう。「改新の詔」の中では「五十戸制」と共に記載されていますから、「五十戸制」の導入とそれほど時期が違わないという想定が可能です。
 当時「北朝」では「周・斉」の時代から国境線沿いに「防」を設けていたものであり、「隋」が中国北半部を統一した後はかなりの部分の「防」を廃したものですが、「吐播」などとの国境沿いなどには「鎮」や「戌」を設け軍事的な脅威に対抗できる施設として機能していたものです。そしてそこは「郡県制」の対象外として、民政支配とはしなかったものです。 
 このことから「倭国」においても「遣隋使」以降「首都」の外縁防備の存在として「鎮」あるいは「戌」という制度を真似て設置していたものと考えられ、そこは「郡県制」の統治の外としていたものと思われます。また「防人」という名称も「隋代」に「防」が廃止された以降も「鎮」や「戌」などの兵士についての一般的呼称として残っていたものであり、それをそのまま「倭国」でも採用していたということが考えられます。
 そもそも「防人」とは、中国では「辺境」の警備にあたる兵力をいうとされ、天子の所在するところを中心とした考え方でそこから「三千里」の外周を警護するのが役割であったものです。そして「天子」の所在する場所「王城」から「千里四方」を「畿内」と称したものであり、この範囲を「天子の直轄地」としていたのです。さらにその周囲に「斥候」を置き、その外周に「防人」となる兵力を置いたのです。このようにして「隋」やそれ以前の「周」などの「北朝」では「王城」とその直轄範囲を防衛する体制を構築していたわけであり、「倭国」でもこれに倣い、「首都」である「筑紫」を中心とした場所に「畿内」を設定し、その防衛体制として「斥候」「防人」などを配置することとしたものと見られます。そのための兵力を徴発するのに必要であったのが東国に対する支配・統制の強化であり、局地的な施行であった「評制」の全面的施行への移行であったものと考えられます。
 「隋・唐」では「防」などへの配置は犯罪人などの配流地として選ばれ、彼らを兵力として使うという方針があったほか、一般人民からも選抜して兵力としていたものです。つまり「倭国王権」は「東国」の人々を「部民」として扱い、これを「兵力」として使役していたものと考えられる訳です。その点についても「隋」「等」にほぼ倣ったといえるでしょう。
 ところでこの「防人」あるいは「戌人」については史書にも木簡などの遺跡でも「七世紀」にこれが行われた、という「徴証」がありません。『万葉集』に「防人歌」がありますが、全て「八世紀」のものです。上に述べた「戌人木簡」も同様に八世紀のものと考えられています。それ以前のものが全く残されておらず、まるで「消された」ようにみられません。その様子は「評」や「国宰」の隠蔽とよく似ています。共に「八世紀以前」に「存在」したという詳細が明らかになってはいけないものであったものでしょう。

(※)佐賀県唐津市原字西丸田 中原遺跡「小長□部□□〔束ヵ〕○/〈〉□□∥○甲斐国□〔津ヵ〕戌□〔人ヵ〕○/不知状之 ∥\○□□家□□〔注ヵ〕○【「首小黒七把」】・○□□〈〉桑□〔永ヵ〕\【「□ 〔延ヵ〕暦八年○§物部諸万七把○§日下部公小□〔浄ヵ〕〈〉\○§□田龍□□〔麻呂ヵ〕七把§□部大前」佐賀県教育委員会・唐津市教育委員会 遺構番号 SD502 出典 木研28-212頁-(2)(木研24-153頁-(7))
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「屯倉」と「駅家」

2024年03月24日 | 古代史
 『崇峻紀』に「猪」が献上された記事があります。

「有獻山猪。天皇指猪詔曰。何時如斷此猪之頚。斷朕所嫌之人。…」「(崇峻)五年(五九二年)冬十月癸酉朔丙子条」

 これを見ると「猪」が献上されたと書かれていますが、それは「生きたまま」であったものであり、それを食用にする直前に屠殺するものだったのでしょう。(記事からは「頚(くび)」を切断して屠殺したらしいことが推察されます)
 現代のように「冷凍」「冷蔵」が出来なかったとすると「猪」は食べる直前まで解体されなかったものと思われますが、それまでの間はどこかで生きた状態で「飼育」されており、「王権」の元へ送られるのを待っていたと思われます。それは「屯倉」においてであったと思われるわけです。 
 ところで「磐井」について書かれた『風土記』の記事の中に「解部」記事があります。そこでは「猪」を盗んだものを裁く「解部」の姿が描写されています。

「…彼處亦有石馬三疋 石殿三間 石藏二間…」『筑後國風土記』磐井君(前田家本『釋日本紀』卷十三「筑紫國造磐井」條)

 そこには「解部」と捕らえられた「窃盗犯」以外に上のように「建物」の描写があり、その「蔵」という表現からこれは役所(政庁)というより「屯倉」を示すものではないかと考えられます。つまり、「屯倉」で「保管」(飼育)されていた「猪」が「窃盗」の対象となったものと思われるわけです。
 「平城京」の門の造営にも「猪使氏」が登場すること(「丹波國造偉鑒門、猪使氏也」(日本後紀逸文))、「藤原京」の門にも「猪使門」があるなど「猪」にちなむ「氏族」が「王権」にとってかなり重要な位置を占めているらしいことが知られ、このことから当時「猪」の肉はほぼ「王権」専用であったのではないかと推測されるものです。
 その情景の説明では「偸人」について「生」きているとき、という表現がされていますから(「生為偸豬仍擬決罪」と書かれています)、彼は「死刑」となったらしいことが推定できます。このことから「猪四頭」を盗んだ事が「死罪」に値するというわけですが、それは「屯倉」に収められていた物品が「王」に直送される性質のものであったからではないでしょうか。(「屯倉(みやけ)」という語義にそもそも王権に直結する意味が含まれています)
 この裁判が「解部」の「役所」で行われたものとすると「蔵」の存在の意義が不明となるでしょう。「石殿三間」という「役所的建物」に「蔵」が併設されているというのは「屯倉」がまさにそのような構造であったものと推定され、「屯倉」を舞台とした「窃盗」であったことを物語っていると思われます。(猪が「蔵」にいたという意味ではありませんが)
 このように「磐井」の「墳墓」に記された情景が「屯倉」に関連しているとすると、その「屯倉」の監督官としての「評督」の存在を措定する必要が出てくるでしょう。
 他方「皇太神宮儀式帳」では「難波朝廷天下立評」とされていますから、「磐井」の時代にはまだ「天下」つまり「全国」に向けて「立評」されてはいなかったと考えられることとなります。つまり、この「屯倉」は当初「地域」的な制度として先行して施行されたと考えられるわけです。
 ところで「屯倉」の『書紀』での初出は『垂仁紀』です。

「興屯倉于來目邑。屯倉。此云彌夜氣。」「(垂仁)廿七年是歳条」

 この「來目邑」は『清寧前紀』にある「難波來目邑」のことを意味すると思われ、そこでは「雄略」の死後跡目争いが起きた際に「河内三野縣主小根」が「贖罪」として「大井戸田十町」を献上したとされるものであり、これがその「來目村」にあった「屯倉」の「屯田」とされたらしいことが推定されます。
 この『垂仁紀』はかなり古い時期のこととされていますが、その「妻」である「日葉酢媛命」の死に際して「殉葬」の風習を止めたということが書かれており、これが「近畿」における「古墳」の示す実態と合わないというのは有名です。「近畿」では「人型埴輪」は「五世紀」中頃付近で既にかなりの数が現れますから、これは確かに上のエピソードとは合わないわけですが、他方「九州」は「埴輪」そのものの受容も遅く、また「人形埴輪」については「五世紀後半」に九州地域にも一部に見られるようになりますが、それも「六世紀半ば」になると「埴輪」自体が姿を消すという状況があります。
 これらのことから『垂仁紀』そのものの地域性という問題と同時に、その実年代についてもかなり下った「六世紀半ば」のことであったのではないかと考えられ、それは「屯倉」の設置開始の実年代が「磐井」の時代付近となるという可能性が高いことを意味するものと思われます。
 この時点付近で「難波」を初めとする各地に「屯倉」が造られ、その地域に対して「評」が立てられたものと思われますが、それは「点」としての存在であり、「局所的」であったと思われます。
 確かに『安閑紀』には「屯倉」が大量設置されていますが、分布を見ても全国各地に隙間なく存在しているという訳ではありません。後に「改新の詔」から三ヶ月ほど経過して「天皇」からの下問に対する「皇太子」からの「奏上」の中では、「返上する」とされた「屯倉」の数は「百八十一箇所」とされていますから、それに比べると圧倒的な少数であった訳であり、それはそのまま「面的支配」へはまだ移行していなかったことを示すものと思われます。つまり、「倭国」の諸国全体がくまなく「評」で覆われるというようなことはこの時代にはまだ行われなかったものと考えられる訳ですが、その「始源」としてはこの時点付近にあったと考える事はできそうに思えます。
 また、このことは当然「古代官道」の建設時期とも関係してくると思われます。「道路」の整備が「軍事的支配」の前提であったと見られ、「屯倉」が「邸閣」的存在であって「兵」に対する「糧食」の供給が主な使命であったとすると、その配置(設置)と「道路」の整備は表裏一体のものであったこととなります。その意味で「駅家」と「屯倉」には重なる部分があると見ることができるでしょう。
 平安時代の人物である「慈覚大師円仁」の家系図として知られる『熊倉系図』では、彼の父は「駅長」であったとされ、これは「世襲」であった可能性が強いと思われますが、「同系図」によればその祖先は「郡司主帳」や「擬小領」であった事が書かれており、これはいずれも「郡司」の元の補助的な職掌とされ、これはそのまま「屯倉」の監督的職掌であったと見られる「督領」(評督)につながるものと考えられます。つまり、このことは「駅家」の前身が(少なくとも一部は)「屯倉」であったという可能性が高いことを示すと考えられるものです。
 「駅家」の中には役所的建物に「倉(蔵)」が併設されている場合がかなりあり、遺跡として出土した場合それが「駅家」なのか「屯倉」なのかは時代で区別されているようです。つまり、共に「官道」沿いに立地していたと考えられるため、その新旧を判断して「駅家」なのか「屯倉」なのかを判定しているという訳です。
 また「山陽道」などの多くの「駅家」が「礎石瓦葺き」とされていますが、それ以前には「掘立柱建物」であったものであり、このことは「駅家」の始源ともいうべき時期としてかなり時代が遡上することが想定されますが、これを「駅家」とする限りにおいて「七世紀半ば」よりも遡上を措定しないのが通常のようです。しかし「古代官道」の年代そのものが確定していない現在「駅家」と見なされているものの中にかなり「屯倉」が含まれているという可能性は排除できないと思われます。(それは先ほどの「磐井」の墓の情景描写中に「馬」が書かれている事もそのことを推定させるものです。)
 「邸閣」として造られたものが、「駅家」の意義を遅れて与えられ、その時点で「みやけ」と呼称するようになったという流れが想定できるのではないでしょうか。)
 以上から、「磐井」の時代に「律令」が施行され、それに基づき「評」が「立」てられ、「邸閣」として「屯倉」が造られ、その管理官としての「評督」「助督」が配置されるという体制が作られ、行政的な体制と共に軍事的体制も合わせて構築されたものと思料されることとなります。また同時に、「評督」と連動した職掌として「解部」が「廷尉評」的役割を持って設置され、「司法」「警察」権力がその前面に出て支配を貫徹する体制が造られ始めたものと推量できるでしょう。
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「屯倉」と「評」

2024年03月24日 | 古代史
 「改新の詔」の中に「公地公民」制に関する部分があり、そこに「屯倉」に関する事が書かれています。

「 罷昔在天皇等所立子代之民処々屯倉及臣連伴造国造村首所有部曲之民処々田荘。」

 これは「従前の天皇等が立てた子代の民と各地の屯倉、そして臣・連・伴造・国造・村首の所有する部曲の民と各地の田荘は、これを廃止する。」という意味であり、一種の国有化政策です。(というより「倭国王一元化」政策と言うべきでしょうか)
 しかし、「評制施行」が書かれていた『皇太神宮儀式帳』の中にはその「評」の施行と共に「屯倉」の設置記事が含まれているのです。

(『皇太神宮儀式帳』)
「難波朝廷天下立評給時、以十郷分、度会山田原立屯倉、新家連珂久多督領、磯連牟良助督仕奉。以十郷分竹村立屯倉、麻績連広背督領、磯部真夜手助督仕奉。(中略)近江大津朝廷天命開別天皇御代、以甲子年、小乙中久米勝麿多気郡四箇郷申割、立飯野(高)宮村屯倉、評督領仕奉」

 上の資料を見ると「廃止」されたはずの「屯倉」が「設置」されていることが分かります。しかもそれは「難波朝廷」からのものとされ、これは通常「孝徳」の王権を意味するとされますが、それでは「廃止」の「詔」を出した「改新の詔」中身と大きく食い違います。この事からこの『皇太神宮儀式帳』の記事と「改新の詔」とは「両立しない」と言うことが分かります。その場合「改新の詔」が出される相当以前に「評」が施行されていたらしいこととならざるを得ません。(この事は「難波朝廷」なるものの存在時期も同様に遡上する可能性を示唆するものです。)
 ところで、『常陸国風土記』によれば「郡家」が遠く不便である、ということで「茨城」と「那珂」から「戸」を割いて新しく「行方」郡を作った際のことが記事に書かれています。

『常陸国風土記』「行方郡」の条
「行方郡東南西並流海北茨城郡古老曰 難波長柄豊前大宮馭宇天皇之世 癸丑年 茨城国造小乙下壬生連麿 那珂国造大建壬生直夫子等 請惣領高向大夫中臣幡織田大夫等 割茨城地八里 那珂地七里 合七百余戸 別置郡家」

 ここでは「茨城」と「那珂」から併せて「十五里(さと)」を割いて「行方郡」を作ったと書かれており、それが計七百余戸といいますから、計算すると一つの「里」が五十戸程度となります。このことからこの段階ないしはそれ以前に「五十戸制」が敷かれているとする見解が有力でしたが、確かに分郡されたこの時点では当然そのように想定できるものですが、「それ以前」にも「五十戸制」であったかは以下の理由により、そうとは断定できないと考えられます。(これは以前の当方の見解を変更したものです)
 この分郡には複数の理由が考えられますが、「利便性」という観点だけで考えても、新しく建てられた「行方郡」はともかく「割譲」された「茨城」と「那珂」が小さくなりすぎては奇妙ですし、困ると思えます。
 これが「利便性」を優先したものでないことは「分郡」に当たって「理由」が示されていないことでも推測できます。通常「郡家」まで遠い等の理由が「分郡」ないしは「新設」の場合よく見受けられる訳ですが、この場合はそのような事は書かれていません。このことは「分郡」の理由がもっぱら「茨城」と「那珂」の人口増加にあったと見るべき事となりますが、そうであるとすると、この両郡は「割譲」後、スリム化されて基準(標準)値である「七五〇-八〇〇戸」程度まで「減数」されたと考えられることとなるでしょう。「分郡」の場合、元の「郡」(評)のサイズが小さくなりすぎない規模になるように調整されると考えられ、その場合両郡とも元々基準値をかなり超えた状態で「分郡」措置が適用されることとなったと見るべきです。
 「現在」の都市の「分区」などにおいても「人口」の大きくなりすぎた区を分ける際には「元」の区の規模が必ず「新設区」よりも大きい状態を維持しています。これはそもそも「分区」が「人口増加」によるからであり、その「人口増加」の著しいエリアを新設区側に割り当てることにより、そう遠くない未来に似たような規模になることを見込んでいる訳ですが、この時の「分郡」も状況としては似ていたものと思われ、「行方郡」の領域の人口増加が大きかったためにその部分を切り離すこととなったものでしょう。そうであれば「茨城」「那珂」の両郡の「分郡後」の戸数は「新設」された「行方郡」よりも小さくはないことが推定できます。
 「行方郡」が「七百余戸」とされているわけであり、このことから、「茨城」「那珂」の両郡は八百~千戸程度あったのではないかと考えられます。つまり、元々の基準値である「八百戸」の二倍を超えた時点で各々から半分弱程度を分けたという想定が最も蓋然性が高いと見られます。
 この時の「里数」を「五十戸」制として考えると「三十五里」程度あったこととなります。
 「改新の詔」では「郡の大小」について書かれており、「四十里」を超える「郡」の存在も許容しているようですから、「三十五里」付近で分郡しなければならないという必然性はないこととなります。しかし、この時点で「八十戸制」であったとして、分郡前に「茨城」「那珂」両郡とも「千九百戸」程度であったとすると、両郡とも元々「二十二~三里」程度となって『隋書俀国伝』に記された「十里」で一軍尼が管理するという基準の二倍をやや超えたぐらいになります。これは上の想定と一致しており、この程度であれば存在としてあり得ますし、またその程度で「分郡」するというのも規模、タイミングとして理解できるものです。
 ここから各々七-八里引いて新郡を増設したとすると「茨城」「那珂」がやや大きく、新設された「行方」がやや小さいという推定にほぼ整合します。
 このことからこの「分郡」時点以前では「五十戸制」ではなく「八十戸制」であったものであり、この「癸丑」という干支の指し示す時点で「分郡」と共に「五十戸制」に移行したのではないかと考えられることとなるでしょう。それは「遣隋使」の派遣された時期との関連で考えても首肯できるところです。つまり、この「癸丑」という年次は「六〇〇年以前」であるところの「五九四年」であるという可能性が高いと思料します。
 『皇太神宮儀式帳』の記事では「度会山田原」と「竹村」では共に「十郷」で一つの「屯倉」に充て、そのために「評督」(督領)を置いたとされていますが、「評」の戸数は上に見るように「七百-八百戸」程度あったと考えられるわけですから、「一郷」は「七十-八十戸」程度あることとなり、これは『隋書俀国伝』に言う「八十戸制」そのものであると理解できます。(この場合は「分郡」というわけではないと思われます)
 この「八十戸制」は「隋制」が導入された「阿毎多利思北孤」時代(六世紀末か)の時点で「五十戸制」に「改定」されたと見られますから、この「儀式帳」記事の年次は遅くとも「六世紀末」ごろの事を記したものではないかと推定されることとなり、「立評」そのものも「阿毎多利思北孤」の頃を想定しなければならないと言う事にもなります。つまり「難波朝廷」「難波長柄豊前大宮馭宇天皇」とは「阿毎多利思北孤」あるいは彼に目される「押坂彦人大兄」と共に「兄弟統治」を行なっていた「難波皇子」の「朝廷」を意味するものではないかと考えられることとなるでしょう。
 これは既に指摘した「六十六国分国」時点の倭国王についての表現である「難波長柄豊崎臨軒天皇」と同じであると考えられ、同一時点の記事であることが推定されるものです。
 またこのことは「屯倉」と「評」の間に密接な関係があることが推定されるものであり、「屯倉」の設置された領域だけに「評」という制度が施行され、「屯倉」の監督官として「督領」(評督)が任命されていたことが窺えます。
 既に述べましたが、「屯倉」は「邸閣」の意義を持っていたものと思われ、ある意味軍事施設と言ってもいいものでしたが、「評」や「評督」に軍事的意味があると考えられているわけですから、その意味では整合します。
 また、『常陸国風土記』には「香島神宮」の「神戸」の戸数の変遷について興味ある記録が書かれています。

「美麻貴天皇之世 大坂山乃頂爾 白細乃大御服々坐而 白桙御杖取坐 識賜命者 我前乎治奉者 汝聞看食国乎 大国小国 事依給等識賜岐 于時 追集八十之伴緒 挙此事而訪問 於是大中臣神聞勝命答曰 大八島国汝所知食国止事向賜之 香島国坐天津大御神乃挙教事者 天皇聞諸即恐驚 奉納前件幣帛於神宮也 神戸六十五烟 本八戸 難波天皇之世加奉五十戸 飛鳥浄見原大朝加奉九戸 合六十七戸 庚寅年編戸減二戸 令定六十五戸 淡海大津朝初遣使人造神之宮 自爾已来修理不絶」

 つまり、「香島神宮」の「神部」の戸数の変遷について、「本八戸」であったものが「難波天皇の世」に「加奉五十戸」となり、その後「飛鳥浄見原大朝」に「加奉九戸」され、「庚寅年」に「編戸減二戸」となったと書かれています。(ここでは「朝廷名」が書かれていません)そして、「令定」として「六十五戸」となったとされています。(ここでも明確には「朝廷名」が書かれていません)
 ここでいう「難波天皇」や「難波朝廷」というのは上に考察したように「六世紀末」の「阿毎多利思北孤」(あるいは「難波皇子」)の朝廷を指すと考えられ、その時点で「神戸」を加増したと考えられます。
 このような「神戸数」の変遷は「倭国」と「香島」の関係の変化を記すものであり、「阿毎多利思北孤」や「利歌彌多仏利」の時代(難波天皇の時代)には「国家」の起源の一部として「神話」が創成され、その中で彼の祖先が全国を「平定」したこと示す説話を作り上げたことと「一体」を成すものであり、「東国」などに対して彼の時代に関与を強めたことを示すものと考えられるものですが、それは即座に「惣領」として「高向」「中臣」両氏が「我姫」(特に常陸)に配置されたと見られることと関連していると考えられます。
 また「香島」「香取」両神宮と「中臣氏」の関係が深いとされていることもそのことの反映であると思われます。またその「加増」した戸数として「五十戸」とされていることからも、「五十戸制」の導入時点と至近の時期に加増されたであろうことを想定させるものです。 
 また上の記事を見ると各天皇の表記は「難波天皇之世」、「飛鳥浄見原大朝」、「淡海大津朝」というように各々微妙に異なっています。このうち「難波天皇之世」という表現は他の二つに比べ明らかに意味の異なるものです。
 「飛鳥」と「近江」の場合は「大朝」「朝」というように「大」の字がつくか否かの違いはあるものの、共に「行為」の主体が「朝」つまり「朝廷」であったことを示しますが、「難波」の場合は単に「時代」を示しているのみであって、行為の主体が「難波天皇」ないしは「朝廷」であったとは読み取れません。
 これは「常陸」を含む「アヅマ」に「総領」が配置されていたことと関係があると思われます。つまり「行為」の主体は「総領」であった「高向大夫」「中臣大夫」であり、「難波天皇」ではなかったと言う事を意味していると考えられ、逆に言うと「飛鳥」と「近江」の「朝廷」は「直接」この「香島神宮」に対して「神戸」の「加奉」を行ったものと言うこととなると思われます。
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