古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

 「短里」と「倭人伝」の行路記事

2014年09月07日 | 古代史
つづいて「短里」と「倭人伝」の行路記事についてです。

 「魏志倭人伝」を理解する上で重要なものに「短里」があります。
 「邪馬台国」(邪馬壹国)がどこにあったか、といういわゆる「邪馬台国」論争というものがありますが、この論争の中で明らかになった事の一つは、距離の単位である「里」の実距離です。
 「魏志倭人伝」の中では(というより「三国志全体」にわたり)通例知られていた「漢代」の実距離とはまったく違う「里」が使用されている事が判明しています。それは「魏晋朝短里」という呼称で言われているもので、「周代」に使用され、「魏晋朝」に至って復活したものと思われ、中国最古の天文算術書「周髀算経」の中に現れる「里」の実長がそれと考えられます。
 この「周髀算経」の中で太陽の角度から二点間の距離を求める測量法が紹介されており、この既知の二点間の距離と実際の距離とから換算すると、従来の「漢代」のものとは別の「里単位」がそこに述べられていることが判明します。(谷本茂氏の研究による)それによればその「一里」は約75m程度と思われるとのことです。
(以下「倭人伝」の行路記載部分)

「倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。舊百餘國、漢時有朝見者、今使譯所通三十國。從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。始度一海、千餘里至對馬國。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百餘里。土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸、無良田、食海物自活、乘船南北市糴。
又南渡一海千餘里、名曰瀚海。至一大國。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里、多竹木叢林。有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。
又渡一海、千餘里至末盧國。有四千餘戸、濱山海居、草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之。
東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸。世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。
東南至奴國百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。
東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離。有千餘家。
南至投馬國水行二十日。官曰彌彌、副曰彌彌那利。可五萬餘戸。
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮。可七萬餘戸。」

 これら「倭人伝」に出てくる「里数」を漢代の長里と解すると「一里」はおよそ「440m」程度あったとされますから、「千里」と記されている「半島」(狗邪韓国)から「対海国」(対馬)までの距離などは400km以上あることとなり、これを「釜山―対馬間」の最短距離として置き換えて考えると、55km程度しかないことと大きく食い違います。
 また「末盧国」から「伊都国」までの距離も「200km」以上となってしまい、「末盧國」を「唐津」付近と推定した場合、山口県を越えて広島まで届いてしまう距離となってしまいます。しかし「伊都国」は「福岡平野」の一端と言うことで衆目が一致しているわけですから、実距離との乖離が激しくなるのは避けられません。(奴国も同様の意味で食い違ってしまいます)
 また「郡治」からの総距離として書かれている「万二千余里」もこれが長里であるとすると「5000km」程度になってしまいますから、南洋諸島側にルートをとると台湾やフィリピンを超えインドネシアまで届いてしまい、列島内には全く収りません。これらのことから「短里」の存在は確実視されているわけです。

 「漢書西域伝」などでは常に「長安」と近隣の「郡治」からの距離表示がされており、行程に何日かかったかというような情報はそこには書かれていません。これは「倭人伝」とは違い「行路記事」とは厳密には言えないと思われます。「倭人伝」の場合は魏使の行程をなぞったように書かれており、単純に「帯方郡治」からの距離だけではなく移動に要した時間も記録されていると理解するべきでしょう。その意味では「五百里」という距離は、「草木茂盛、行不見前人」というような描写に見られる移動区間の道路整備の不十分さや、後の隋・唐代の官道を利用した場合の移動距離が「一日」以内ならば「五十里」を最大とするという規定から考えても(これは「長里」)、この距離を移動するには一日では困難であり、二日間の行程を想定する必要があります。
 
 また「倭人伝」には「郡治」からの総距離として「万二千余里」と書かれているわけですが、半島内だけで「七千余里」とされています。さらに「狗邪韓国」から「対海国」、「対海国」から「壱岐国」、「壱岐国」から「末廬国」へと海を渡るわけですが、その距離が各々「千余里」と書かれており、ここまでの合計で「一万里以上」となってしまいます。
 ここで「韓半島」の「七千餘里」を「七千」から「七千五百」の間と仮に理解することとして、同様に「千余里」は「千」から「千五百」の間とします。そうすると「郡治」から「末廬国」までの距離合計は「一万里」から「一万二千里」の間にあることとなります。
 また総計の「万二千余里」を「一万二千里」から「一万二千五百里」の間と理解した場合、「末廬国」以降「邪馬壹国」までの距離は最小「五百里」最大「二千五百里」となる計算です。
 これをおよそ短里によって実距離を計算すると「38km」程度から「190km」程度の間ぐらいとなります。
 地図上で「末廬国」からこの距離範囲を検索してみると、太宰府の手前の博多湾岸からその後背地である筑紫小郡付近(甘木・朝倉等の場所)までぐらいがその範囲となります。
 個別の区間から考えてみると、「魏使」の到着地点を「唐津」と仮に考えて、「短里」つまり「一里」が「75m程度」として「伊都国」の位置を推定すると「福岡市」の中心部に届きます。この場所には(後でも触れますが)「筑紫大津城」「鴻廬館」「主船司」などが存在していたと推定される場所であり、「一大率」の常置していた場所として最も蓋然性の高いものと考えられます。
 また「奴国」はそこから「百里」つまり「7-8km」程度の距離の場所にあるというわけですから、「弥生王墓」として知られる「須久・岡本遺跡」付近が想定される場所となります。さらに「不彌国」は「水城」付近ではないかと思われ、「水城」という防衛施設の存在と共に「不彌国」自体が「首都防衛軍」の体を成していたという可能性があると思われます。
 また、その背後に「邪馬壹国」があるとするとちょうど「太宰府」付近あるいはその後背地と言える場所がそれに該当する可能性が高いこととなります。(戸数が「七万余戸」というようにきわめて大きいことからも「太宰府」付近だけではなく相当広範囲の地域が「邪馬壹国」の領域とされていたことが窺えます。)
 
 また、このことから「邪馬壹国」の部分に書かれた「水行十日、陸行一月」という記述は「邪馬壹国」への全行程を記したものと推定されることとなるでしょう。なぜなら、「邪馬壹国」までの移動日数がさらに計四十日分追加されるとすると「総距離数」と矛盾するのは明白だからです。
 ここからさらに水行と陸行を重ねるとすると、当時の倭国がまだ道路整備が不十分であったという可能性を考えて、(漢代の長里で)一日二十里(実距離として10km弱程度)として40日分を計算すると「400km」がさらに加わることとなります。これは短里で「五千三百里」程度となりますから、合計で「一万八千里」程度まで膨らんでしまうでしょう。つまり、ここに書かれた日数は「帯方郡治」からの全行程に関わるものと見るのが妥当であることとなります。
 その場合「水行」は10日間とされており、また「半島」から「末廬国」までに三回海を渡るわけであり、その際各々1日は消費していると見れば残りの7日間は半島内での日数となるでしょう。郡治からの行程の冒頭に「海岸に従って水行する」とされていますから、当然水行部分はあるわけですが、その際は半島の西海岸を南下したこととなります。しかしこの部分を全水行するとした場合、「陸行一月」というのが全て「倭国」の内部とならざるを得なくなりますが、距離が短すぎて一月もかからないで「邪馬壹国」まで到着すると考えられることと食い違います。このことは「半島内」は部分的に「水行」し、また部分的に「陸行」したことを示すものです。そう考えれば「水行」の七日分で半島の西海岸を約半分ほど来たと考えれば、そこから「狗邪韓国」(これは場所不明ですが、推定によれば「釜山」付近ではないかと思われます。)までを「陸行」したこととなりますが、ほとんどが山道であり、道のり距離としては相当の距離となったものと思われます。地図上で確認すると「ソウル」近郊の港である「仁川」付近から船出したとして「錦江」河口付近まで水行したとすると、その距離としては約250から280km程度となります。これを「七日間」で進んだとすると1日あたり40km程度となり、水行距離として不自然に短くはありません。
 また「錦江」河口付近の町である「群山」から半島を横断する形で「釜山」まで陸行したと仮定した場合約300kmの行程となります。これを1日10km程度の移動距離とするとちょうど一ヶ月となりまさに「陸行一月」となります。(もちろん「一月」と言っても幅があるでしょうし、少ないながらも「倭国内」の陸行にも日数がかかってはいますが、韓国内陸行として「一月」程度の日数が必要であることは間違いないところです)
 と、ここまで書いたところで「古田史学会報一二一号」の正木氏の論を見ました。それによれば水行の場合1日500里であるとして対馬海峡横断に要する日数を各二日間とっているようです。その分朝鮮半島の西岸の水行部分を削ったようですが、おおよそは私見と同様のようであり、得心のいくものでした。また1刻100里という考え方はなるほどと感心せざるを得ないものであり、優れた論考と思われます。

 これらのことは「邪馬壹国」(邪馬台国)が「近畿」にあったという説には決定的に不利なこととなります。「南」を「東」に変えたところで、「郡治」から「末盧国」までで総距離の九割方を所要してしまうとすれば、「近畿」には全く届かないこととなります。しかし「長里」では列島内から大きくはみ出してしまうわけですから、「邪馬壹国近畿説」は成立の余地がないこととなるでしょう。(近畿に届くように距離と方角を調節すると言うことであれば、それはすでに「学問」とはいえないのは当然です)
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