古田史学会報に最近「正木氏」が書かれた「倭人伝」についての解析記事を実はよく見ておらず、つい最近になってしげしげと見て思わず「感嘆」の声を発してしまったのですが、実は氏の論とやや重なる内容の文章をホームページ用に書いていた最中だったのです。
具体的なポイントとしては「一大率」の権能として「末廬国」に来た「魏使」に対する対応があったであろう事、「末廬国」の「官」が書かれていない理由がそこにあること。「倭人伝」の行路記事の距離数と日数についての確認などです。それらをみると当方より「氏」の論が詳細であり、またアイデアが豊富であって、さすがと言わざるを得ないものであり、脱帽致します。このような重要な論が「会報」に止まり、世間一般に触れる機会が少ないのはもったいない気がします。もちろん何らかの形でこの後公表されることとは思いますが…。
それに比べると冴えない論ではありますが、一応書いたからには公開しますので見てやっていただきたい。
但し、前段とも言える論に触れておく必要がありますので、まずそちらを御覧いただきます。それは「大津城」に関する議論です。
以下は「佐藤鉄太郎氏」の『実在した幻の城 ―大津城考―』中村学園研究紀要第二十六号一九九四年に依拠した部分があることを前記します。
「続日本紀」に「大津城」という名称が出てきます。
「『続日本紀』宝亀三年(七七二)十一月辛丑条」「罷筑紫營大津城監。」
この「大津城」という城は実際には存在していないとされているようです。つまり「朝鮮式山城」としては「基肄城」「大野城」という存在が「大宰府」の防衛のために築かれているわけですが、「大津」となると「博多」の海側の地名であり、「大宰府」近辺ではなく那珂川の河口付近のことを示すと思われます。そこに「城」があったというわけですが、「朝鮮式山城」だけが「城」であるという考え方をしていると、「城」はこの場所にはないこととなるのは当然です。しかし、「朝鮮式山城」はある程度後代のものであり、それ以前から存在していたとすると「山城」であるかどうかには拘る必要がないこととなるでしょう。
そう考えると、最も可能性があるのは後に福岡城が置かれた「平和台」付近であり、「鴻廬館」があったとされる場所ではないでしょうか。ここに「城」つまり軍事的拠点があったと考えるのはここが対外勢力にとって大宰府への入口であり、関門であったはずだからです。
「佐藤氏」も言われるように「筑紫大津」「娜大津」「博多大津」は「書紀」「続日本紀」では全く同義で使用されています。この事から「大津城」という「城」も上記「大津」の地に作られていたと考えるべきでしょう。
その「筑紫国」には「城」が存在していたことは「壬申の乱」の際に「栗隈王」に対し戦闘に参加するよう「近江朝」からの使者としてきた「佐伯連」に対して栗隈王が発言した中にも現れています。
「…筑紫国者元戌邊賊之難也,其峻城深湟,臨海守者,豈爲内賊耶,…」
ここでは「城」があり、それが海に臨んで立地しており、城そのものも険しく(急峻な城壁があるように書かれています)、また堀も深いとされます。このような「城」が実際に存在していたと考えて無理はないでしょう。「栗隈王」が言うとおり、それは「外敵」からの防衛のためには当然必要であったと思われるからです。
また「鴻廬館」に関しても「善隣国宝記」の中では「大津館」と記されている箇所があります。
(「善隣国宝記」上巻 鳥羽ノ院ノ元永元年条)「…天武天皇ノ元年、郭務宋等来、安置大津ノ舘、客上書ノ函題曰、大唐皇帝敬問倭王書、…」
これは「宋」の皇帝からの書が旧例に適っているか調べよという指示に対し「菅原在良」が答えた中にあるもので、彼の認識として当時「鴻廬館」が「大津館」と称されていたということであり、それは「鳥羽天皇」時代の宮廷官人の通常の認識であったことを示すものと思われます。
これについては同じく「善隣国宝記」の中に引用されている「海外国記」の中には「別館」という表現がされています。
(「善隣国宝記」上巻 (天智天皇)同三年条」「海外国記曰、天智三年四月、大唐客来朝。大使朝散大夫上柱国郭務宋等三十人・百済佐平禰軍等百余人、到対馬島。遣大山中采女通信侶・僧智弁等来。喚客於『別館』。於是智弁問曰、有表書并献物以不。使人答曰、有将軍牒書一函并献物。乃授牒書一函於智弁等、而奏上。但献物宗*看而不将也。…」
「海外」からの客あるいは「訪問者」は「鴻臚館」で接遇するべきとされていたわけですから、この別館が「鴻臚館」そのものか「鴻臚館」の中に複数の建物があり、その一つを指すのかは不明ですが、「鴻臚館」が「大津館」とも呼称されていたことが強く推定され、そのことから「大津城」が「鴻廬館」の至近に存在したことを示すと考えるのは相当であることとなります。その時点で「外敵」からの「警固」の拠点として機能していたと思われます。
「佐藤氏」も指摘するように平安時代になり「新羅」による(これは海賊か)博多湾侵入事件があって後「太宰府」警護の兵士達は(「選士」と名称が変えられた後)交替で「鴻臚館」の警護にも当たっていたものであり、それはここに「兵士」が詰めるべき「城」があったことの反映であると思われています。
この場所には後に「博多警固所」が造られます。これは「元寇」など海からの外敵に対する北部九州というより「倭国」(日本国)の防衛の拠点であり、ここが最前線であったことが知られます。
このように「大津城」は実在したものであり、それは「太宰府」の北方の海岸線に位置し「海」から侵入してくる外敵に対して防衛線を築いていたものですが、このようなものが「七世紀」以降に初めて築かれたと考えるのは明らかに不当というものでしょう。なぜなら「筑紫」の地が要害の地であるのは「宣化」の「詔」(以下)などでも明らかなように、歴代倭国王権にとって事実であったからです。
「(宣化)元年(五三六年)夏五月辛丑朔条」「詔曰。食者天下之本也。黄金萬貫不可療飢。白玉千箱何能救冷。夫筑紫國者遐迩之所朝届。去來之所關門。是以海表之國候海水以來賓。望天雲而奉貢。自胎中之帝洎于朕身。収藏穀稼。蓄積儲粮遥設凶年。厚饗良客。安國之方。更無過此。故朕遣阿蘇仍君。未詳也。加運河内國茨田郡屯倉之穀。蘇我大臣稻目宿禰。宜遣尾張連運尾張國屯倉之穀。物部大連麁鹿火宜遣新家連運新家屯倉之穀。阿倍臣宜遣伊賀臣運伊賀國屯倉之穀。修造官家那津之口。又其筑紫肥豐三國屯倉。散在縣隔。運輸遥阻。儻如須要。難以備卒。亦宜課諸郡分移。聚建那津之口。以備非常。永爲民命。早下郡縣令知朕心。」
ここでは「筑紫」は内外からの人々が「貢納品」などを持参してやってくる際の「関門」となるべき場所であるとされています。このように考えてみると「大津城」が相当以前からこの地に存在していたという可能性が考えられ、(規模はともかく)これは「卑弥呼」の時代の「伊都国」に常駐していたという「一大率」に重なるものとは考えられるものです。
既に述べたように「一大率」は「邪馬壹国」の北方に位置し、海上から侵入してる外敵(この場合は「狗奴国」)に対して強力な防衛線を構築していたものです。それが「水軍」とその拠点たる「城」(及び迎宴施設)とで構成されていたと考えるのは当然であり、その位置関係としては「倭人伝」に書かれた移動の方向と距離から、現在の「鴻廬館跡」の場所が「一大率」の治するところであった可能性が高いものと思われます。
弥生時代はこの場所はまだ河川による上流からの堆積物が少なく、平野部の形成が不十分であったと思われ、その「一大率」のいた場所は現在の「能古島」のように「砂州」で陸上とつながっていた程度はなかったかと思われますが、「博多湾」に浮かぶように突き出たその位置は湾内への侵入者に対する監視場所として理想的であったと思われます。そのような場所に「一大率」が城を構えていたとして不思議ではなく、また水軍の本拠地もこの至近にあったと考えるべきであり、これが後の「主船司」につながる存在となったと思われます。
従来この位置は「奴国」の領域と考えられているようですが、それでは「博多湾」には「一大率」が睨みをきかすことの出来る場所がないこととなります。「博多湾」は重要な港湾であり、その場所に基地というべきものを持たないで「一大率」がその機能を発揮できたとは思われません。とすればこの「大津城」のあった地域は元々は「伊都国」の範囲の中にあったものと思われることとなるでしょう。その後「伊都国」と「奴国」の間(あるいは「奴国」の背後にいる「邪馬壹国」との間)の関係が変化した結果「伊都国」の領域が減少し、代わって「奴国」が「大津城」付近を自家のものとしたという推移があった可能性が考えられます。(「伊都国」は倭国の中でも古参の存在であり、その実質的支配領域は時代が下るにつれ漸次減少していたのではないかと思われ、代わって「奴国」の領域が博多湾岸まで拡大したという可能性が考えられます。
またその「大津城」の構造としては、これは先に述べたように「朝鮮式山城」のようなものではなく、せいぜい「神籠石」のような列石を周囲に廻らした形のものであったとも考えられます。ちょうど「難波宮」のように海にやや突き出た位置にやや平坦な形で城を構成していたとも考えられるものです。(それは「鞠智城」にも似ているといえるでしょう。)
具体的なポイントとしては「一大率」の権能として「末廬国」に来た「魏使」に対する対応があったであろう事、「末廬国」の「官」が書かれていない理由がそこにあること。「倭人伝」の行路記事の距離数と日数についての確認などです。それらをみると当方より「氏」の論が詳細であり、またアイデアが豊富であって、さすがと言わざるを得ないものであり、脱帽致します。このような重要な論が「会報」に止まり、世間一般に触れる機会が少ないのはもったいない気がします。もちろん何らかの形でこの後公表されることとは思いますが…。
それに比べると冴えない論ではありますが、一応書いたからには公開しますので見てやっていただきたい。
但し、前段とも言える論に触れておく必要がありますので、まずそちらを御覧いただきます。それは「大津城」に関する議論です。
以下は「佐藤鉄太郎氏」の『実在した幻の城 ―大津城考―』中村学園研究紀要第二十六号一九九四年に依拠した部分があることを前記します。
「続日本紀」に「大津城」という名称が出てきます。
「『続日本紀』宝亀三年(七七二)十一月辛丑条」「罷筑紫營大津城監。」
この「大津城」という城は実際には存在していないとされているようです。つまり「朝鮮式山城」としては「基肄城」「大野城」という存在が「大宰府」の防衛のために築かれているわけですが、「大津」となると「博多」の海側の地名であり、「大宰府」近辺ではなく那珂川の河口付近のことを示すと思われます。そこに「城」があったというわけですが、「朝鮮式山城」だけが「城」であるという考え方をしていると、「城」はこの場所にはないこととなるのは当然です。しかし、「朝鮮式山城」はある程度後代のものであり、それ以前から存在していたとすると「山城」であるかどうかには拘る必要がないこととなるでしょう。
そう考えると、最も可能性があるのは後に福岡城が置かれた「平和台」付近であり、「鴻廬館」があったとされる場所ではないでしょうか。ここに「城」つまり軍事的拠点があったと考えるのはここが対外勢力にとって大宰府への入口であり、関門であったはずだからです。
「佐藤氏」も言われるように「筑紫大津」「娜大津」「博多大津」は「書紀」「続日本紀」では全く同義で使用されています。この事から「大津城」という「城」も上記「大津」の地に作られていたと考えるべきでしょう。
その「筑紫国」には「城」が存在していたことは「壬申の乱」の際に「栗隈王」に対し戦闘に参加するよう「近江朝」からの使者としてきた「佐伯連」に対して栗隈王が発言した中にも現れています。
「…筑紫国者元戌邊賊之難也,其峻城深湟,臨海守者,豈爲内賊耶,…」
ここでは「城」があり、それが海に臨んで立地しており、城そのものも険しく(急峻な城壁があるように書かれています)、また堀も深いとされます。このような「城」が実際に存在していたと考えて無理はないでしょう。「栗隈王」が言うとおり、それは「外敵」からの防衛のためには当然必要であったと思われるからです。
また「鴻廬館」に関しても「善隣国宝記」の中では「大津館」と記されている箇所があります。
(「善隣国宝記」上巻 鳥羽ノ院ノ元永元年条)「…天武天皇ノ元年、郭務宋等来、安置大津ノ舘、客上書ノ函題曰、大唐皇帝敬問倭王書、…」
これは「宋」の皇帝からの書が旧例に適っているか調べよという指示に対し「菅原在良」が答えた中にあるもので、彼の認識として当時「鴻廬館」が「大津館」と称されていたということであり、それは「鳥羽天皇」時代の宮廷官人の通常の認識であったことを示すものと思われます。
これについては同じく「善隣国宝記」の中に引用されている「海外国記」の中には「別館」という表現がされています。
(「善隣国宝記」上巻 (天智天皇)同三年条」「海外国記曰、天智三年四月、大唐客来朝。大使朝散大夫上柱国郭務宋等三十人・百済佐平禰軍等百余人、到対馬島。遣大山中采女通信侶・僧智弁等来。喚客於『別館』。於是智弁問曰、有表書并献物以不。使人答曰、有将軍牒書一函并献物。乃授牒書一函於智弁等、而奏上。但献物宗*看而不将也。…」
「海外」からの客あるいは「訪問者」は「鴻臚館」で接遇するべきとされていたわけですから、この別館が「鴻臚館」そのものか「鴻臚館」の中に複数の建物があり、その一つを指すのかは不明ですが、「鴻臚館」が「大津館」とも呼称されていたことが強く推定され、そのことから「大津城」が「鴻廬館」の至近に存在したことを示すと考えるのは相当であることとなります。その時点で「外敵」からの「警固」の拠点として機能していたと思われます。
「佐藤氏」も指摘するように平安時代になり「新羅」による(これは海賊か)博多湾侵入事件があって後「太宰府」警護の兵士達は(「選士」と名称が変えられた後)交替で「鴻臚館」の警護にも当たっていたものであり、それはここに「兵士」が詰めるべき「城」があったことの反映であると思われています。
この場所には後に「博多警固所」が造られます。これは「元寇」など海からの外敵に対する北部九州というより「倭国」(日本国)の防衛の拠点であり、ここが最前線であったことが知られます。
このように「大津城」は実在したものであり、それは「太宰府」の北方の海岸線に位置し「海」から侵入してくる外敵に対して防衛線を築いていたものですが、このようなものが「七世紀」以降に初めて築かれたと考えるのは明らかに不当というものでしょう。なぜなら「筑紫」の地が要害の地であるのは「宣化」の「詔」(以下)などでも明らかなように、歴代倭国王権にとって事実であったからです。
「(宣化)元年(五三六年)夏五月辛丑朔条」「詔曰。食者天下之本也。黄金萬貫不可療飢。白玉千箱何能救冷。夫筑紫國者遐迩之所朝届。去來之所關門。是以海表之國候海水以來賓。望天雲而奉貢。自胎中之帝洎于朕身。収藏穀稼。蓄積儲粮遥設凶年。厚饗良客。安國之方。更無過此。故朕遣阿蘇仍君。未詳也。加運河内國茨田郡屯倉之穀。蘇我大臣稻目宿禰。宜遣尾張連運尾張國屯倉之穀。物部大連麁鹿火宜遣新家連運新家屯倉之穀。阿倍臣宜遣伊賀臣運伊賀國屯倉之穀。修造官家那津之口。又其筑紫肥豐三國屯倉。散在縣隔。運輸遥阻。儻如須要。難以備卒。亦宜課諸郡分移。聚建那津之口。以備非常。永爲民命。早下郡縣令知朕心。」
ここでは「筑紫」は内外からの人々が「貢納品」などを持参してやってくる際の「関門」となるべき場所であるとされています。このように考えてみると「大津城」が相当以前からこの地に存在していたという可能性が考えられ、(規模はともかく)これは「卑弥呼」の時代の「伊都国」に常駐していたという「一大率」に重なるものとは考えられるものです。
既に述べたように「一大率」は「邪馬壹国」の北方に位置し、海上から侵入してる外敵(この場合は「狗奴国」)に対して強力な防衛線を構築していたものです。それが「水軍」とその拠点たる「城」(及び迎宴施設)とで構成されていたと考えるのは当然であり、その位置関係としては「倭人伝」に書かれた移動の方向と距離から、現在の「鴻廬館跡」の場所が「一大率」の治するところであった可能性が高いものと思われます。
弥生時代はこの場所はまだ河川による上流からの堆積物が少なく、平野部の形成が不十分であったと思われ、その「一大率」のいた場所は現在の「能古島」のように「砂州」で陸上とつながっていた程度はなかったかと思われますが、「博多湾」に浮かぶように突き出たその位置は湾内への侵入者に対する監視場所として理想的であったと思われます。そのような場所に「一大率」が城を構えていたとして不思議ではなく、また水軍の本拠地もこの至近にあったと考えるべきであり、これが後の「主船司」につながる存在となったと思われます。
従来この位置は「奴国」の領域と考えられているようですが、それでは「博多湾」には「一大率」が睨みをきかすことの出来る場所がないこととなります。「博多湾」は重要な港湾であり、その場所に基地というべきものを持たないで「一大率」がその機能を発揮できたとは思われません。とすればこの「大津城」のあった地域は元々は「伊都国」の範囲の中にあったものと思われることとなるでしょう。その後「伊都国」と「奴国」の間(あるいは「奴国」の背後にいる「邪馬壹国」との間)の関係が変化した結果「伊都国」の領域が減少し、代わって「奴国」が「大津城」付近を自家のものとしたという推移があった可能性が考えられます。(「伊都国」は倭国の中でも古参の存在であり、その実質的支配領域は時代が下るにつれ漸次減少していたのではないかと思われ、代わって「奴国」の領域が博多湾岸まで拡大したという可能性が考えられます。
またその「大津城」の構造としては、これは先に述べたように「朝鮮式山城」のようなものではなく、せいぜい「神籠石」のような列石を周囲に廻らした形のものであったとも考えられます。ちょうど「難波宮」のように海にやや突き出た位置にやや平坦な形で城を構成していたとも考えられるものです。(それは「鞠智城」にも似ているといえるでしょう。)