古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「磐井の乱」と「神籠石」について

2018年11月17日 | 古代史

 すでに「神籠石(神護石)」遺跡について (https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/6b98ee46f828558af81960921e4d4c00)でも触れていますが、「神籠石遺蹟」と「物部」との関連について再度述べてみます。

 「磐井の乱」は『書紀』によれば「五三一年」に起きたとされていますが、この「磐井の乱」は「直接」的衝突としては「物部」とのものでした。『書紀』でも『古事記』でも「磐井」と直接対峙したのは「物部麁鹿火」(荒甲)であったとされています。この戦いで「磐井」が敗退したと言う事は、言い換えると「筑紫」が「物部」の手に落ちたことを示すものと言え、このことから「磐井の乱」と「筑紫」における「物部」の「消長」は深く関係していることとなるものと思われます。
 その「物部」は『書紀』によれば「五八七年」という年次に「蘇我」及び「聖徳太子」等の「王権主流派」との勢力争いの結果「当主」である「守屋」が滅ぼされ、大きく勢力を減退したとされます。
 こう考えると「六世紀前半」から「六世紀後半」という期間に直結する「考古学的資料」を初めとする各種資料の存在を証明することで「磐井の乱」そのものの存在も証明できるのではないかと推察されるわけです。
 そのようなものとして(1)阿蘇熔結凝灰岩(灰色岩)の「石棺材料」への使用が「六世紀前半」から「六世紀終末」まで、途切れる(見られなくなる)こと、(2)「蕨手文古墳」の発生とその終焉が「六世紀前半期」から「同終末期」までであることについて既にふれました。さらにそれに加えられるものとして(3)「神籠石」の分布と「物部」についての関係があると思われます。

 「神籠石」とは「北部九州」の他「山口県」などかなり広範囲に渡って築かれたもので、全国で「十箇所」ほど確認されているものですが、山の山頂から中腹付近にかなり大規模な「土塁」と「石積み」の遺構があるもので、いつ頃の年代のものか、誰か設置したのかなどで議論になっており、未だ結論が出ていません。ただし、この「神籠石」遺構の分布は明らかに「筑紫」が中心域となっており、外敵からの侵入に対し「筑紫」を防衛する体制を構築しているように見えます。それが正しいとすると「神籠石」が構築された時期としては「筑紫」に「王権」があり「倭国」の本拠があった時期を想定するべきですが、一概にそうとも言えないと思われるのが『書紀』における「神功皇后」の記事です。
 それによれば「神功皇后」の「北部九州」に対する「征討」の際に取られたルートは、「神護石」の分布域に沿っていることが分かります。例えば「田油津姫(たぶらつひめ)」は「女山(ぞやま)」に籠って、「神功皇后」を迎え撃っていますが、「女山」には「女山神籠石」遺跡があり、「田油津姫」が立て籠もったのはその「神護石」という「山城」であったのではないか、と推察されるわけです。
 「神功皇后」の実年代については諸説がありますが、少なくとも「六世紀以前」と考えられ、その時代に「神籠石」があり、それは「王権」の側が必要としたものと言うよりは、逆に「筑紫」の外に「王権」があり、彼らに対抗するものが「軍事的要塞」として利用していたという想定が可能ではないでしょうか。(「神功皇后」と「応神」達には九州の地との深い関係が看取されますから、彼らが「九州倭国王権」に連なる存在であるのは間違いないと思われます。)
 これらの時期と同様「筑紫」が「倭国王権」以外の勢力により「制圧」されたと想定したとき、このような「軍事的要塞」の必要性が最も高まった時期、つまり「筑紫」防衛の必要性の一番高かった時期というのは、実は「物部」が「筑紫」を奪い「制圧」していた時期ではなかったでしょうか。

 「物部」が「磐井の乱」以降、「倭国王権」から「筑紫」を(いわば)「奪った」と仮定すると、当然「倭国王権」の反撃及び奪回が想定されるわけですから、それに備え各所に「山城」を築き、武器や食料を蓄えていたという想定はそれほど不自然ではありません。つまり「神護石」遺跡のかなりのものが「物部」が築いた山城ではないかと考えられるものであり、これらは「六世紀」半ば付近にその「築造」が想定されるものです。
 少なくとも「大野城」などの「朝鮮式山城」よりも「神籠石」は「古式」であると言われ、「大野城」などが、その材料の年輪年代から「七世紀半ば」の築造であると考えられることを踏まえると、それよりかなり古い時期を想定すべきであるのは明確です。(ただし一部のものはかなり時代を遡上するものが含まれているのは確かであり、たとえばこの「女山神籠石」遺跡内からは弥生後期の銅鉾が発見されており、実年代としては「卑弥呼」の時代である可能性もあります)
 また、この「神籠石」遺跡が「物部」と関連があると考えられるのは、その「物部」の本拠地とも「象徴」とも考えられる「高良大社」のある「高良山」の「山腹」に、大規模な「神護石」が存在している事からも窺い知れるものです。この「神籠石」は「物部」の勢力範囲の中にあるわけですから、その由来も当然のこととして「物部」との関連以外考えにくいと思われます。(「神籠石」という名称も「高良山」に発するといわれます)そのことは他の「神籠石」についても「物部」との関連を疑うべきこととなりますが、そもそも「物部」は「戦闘集団」ですから、「防御」施設でありまた「戦闘」の際の基地ともなったと思われる「山城」としての「神籠石」の構築とそこに陣を敷いた戦闘に、彼らが「無縁」であったとは考えにくいものです。
 「物部」は古代より「筑紫」を防衛するための施設として残っていた「山城」を「再利用」あるいはそれに付加増設して、強固な「防衛ライン」を構築し、「倭国王権」の「筑紫」に対する「圧力」に対抗しようとしていた想定してそれほど無理はないと思われるものです。 
 また「磐井」の乱が「近畿王権」によるものであり、その「乱」後の「倭国王権」が「近畿王権」側からの「筑紫」への軍事的圧力に対する防衛と監視の役割を担ったというという考え方もあり得るかもしれませんが、そう考えるには「神籠石」の中にはそのレイアウト(「方向」)に説明の付かないものがあり、「筑紫」を「全方向」から守護していると考えられる事と矛盾してしまいます。明らかに周辺に「敵」を想定した防御施設(軍事施設)とみるのが相当ではないでしょうか。

 以上のことから、「神籠石」遺跡についてはそれらが「筑紫」を防衛するために「外向き」に作られた「外部防衛線」であると考えたとき、その目的としても、また時代としても、「占拠」していた「筑紫」を防衛するために「物部」が「倭国王権」の勢力を遮断するという目的で設けたものと推定して矛盾がないと考えます。
 また、「岩戸山古墳」以降のこの地域の古墳が矮小化すること、あるいは「葛子」の古墳と見られる「鶴見山古墳 」以降「石人」等の「石文化」的副葬物が消えることなどの表象からも、この時代以降の「筑紫」地域の「政治的状況」に大きな変化があったのは確実であり、これらのことは「磐井の乱」の「実在の証明」でもあり、また「倭国王」の「逼塞」の事実の証明でもあるとも思われるものです。

 その後「逼塞」していた「倭国王」がその期間「どこに」その「都」を置いていたのかについては「肥後」であったのではないかと『隋書』の行程記事などから窺えることをすでに述べました( https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/0feee359f389173107af6f8307b488c8 )ので参照して頂ければと思います。

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3 コメント

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Unknown (通りすがりの素人)
2018-11-20 06:10:17
James Mac様

磐井の乱についての新説、興味深く拝読させて頂きました。
以下につきまして、James Mac様の見解を伺わせて頂きたく思います。

あくまでも、日本書紀の年代を信じればの話ですが
磐井の乱は531年、九州年号の教倒元年に当たります。
倒れると言う字が当てられていること、この凶事に対して改元されたのでは無いかと推察されます。

一方の物部守屋滅亡(丁未の乱)は587年、九州年号の勝照3年に当たります。
勝と照と言う字から、九州王朝には祝事があったか、祝事を祈ったのかと思われますが、
物部守屋滅亡は勝照3年であり、勝照は4年まで続き、589年に端政へと改元されています。
九州王朝が物部守屋から政権を奪回したとするなら、改元されて然るべきと考えられますから、
それであれば、587年か588年に改元されても良いのではないでしょうか?

あくまでも、日本書紀の年代を信じればの話ですが・・
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コメントをいただいて (James Mac)
2018-11-23 00:51:16
通りすがりの素人様

ブログを御覧頂きありがとうございます。

頂きましたご意見はそれはそれでまっとうなものと思います。ご指摘のように守屋打倒と改元時期がずれていることについては(『書紀』を信ずる限り)確かですが、そもそも「勝照」改元の理由が(その時期が選ばれた理由も)不明確な中ではそれが「端正」に改元される理由も(時期として何が契機なのか)不明確なのは当然ともいえます。
この点については想像によるしかないわけですが、「勝照」への改元は「守屋打倒」の体制の意志が明確化されたことがあったと見るべきと思います。いわば「反守屋」の旗印を明確に掲げ、王権奪還の意思を表明したことが「改元」の背景にあったと見ます。さらに「勝照」が「守屋打倒」後も継続しているのは「戦後処理」的状況が継続していたからではないかと考えています。その中身として「遣隋使派遣」という事業の準備と進捗があったと見ます。単に「守屋」を打倒しただけではなく、それまでの「倭国」から諸国を統治する体制としての「封建的」な体制を一新する事業を行う過程があったと見ており、その重要なピースが「遣隋使」ではなかったかと考えます。守屋を打倒しただけではその揺り戻しがあることを畏れたのではないかと思われ、統治の体制を一新することでそれらの芽を摘んでしまう意図があったものと推量します。既に以前ブログに書いていますのでご存じかもしれませんが、私見では「遣隋使」が派遣されたのは「開皇年間の始」とみており、それが五八八年付近であって、それに応え「隋使」(鴻臚寺掌客裴世清)が派遣されたのが「五八九年」ではなかったかと見ており、ここで派遣された「鴻臚寺掌客」というのは下級ながら正式な外務官僚ですから、彼が派遣されたことで「隋」との正式な外交が樹立したこととなり、それを承けて「新体制」の方向性が確定したこと、それを強調する意味もあって改元したというストーリーを考えています。改元には政治体制の変更等を知らせたり、強調する意があったと見ており、この時の改元がまさにそう言う意義であったものと推量します。
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Unknown (通りすがりの素人)
2018-11-23 11:06:11
James Mac様

返信ありがとうございます。

>王権奪還の意思を表明したことが「改元」の背景(後略)
から、「守屋打倒」まで3年は長すぎると思われるのですが、実際には、この3年の間に両軍の抗争が絶え間なくあり、それがカットされているとも考えられると思います。(かなり強引ですが)
なにぶん、主張者は日本書記しかいないのですから・・・

また、
>「遣隋使」が派遣されたのは「開皇年間の始」とみており(後略)
申し訳ございません。見落としていました。探してみます。

実は、先日書き込みをさせて頂いてから、更なる疑問を持ちました。
これは、James Mac様の説に反対するためではなく、非常に興味を持った故の疑問とお考えいただきたいと思います。
それは

物部氏は独自の年号を持たなかったのか?
です。

敗れた「磐井」側は517年から(少なくとも522年から)九州年号を発布していました。
そして、磐井の乱によって敗退後も、敗者の九州年号を発布し続けています。教倒から勝照まで54年間13年号も。

一方の勝者である「物部」側は、独自の年号を発布していなかったのか?
また、勝者の「物部」側は、敗者の年号発布を許したことになります。これは大きな矛盾ではないでしょうか?
年号の発布者は天子のみであるとすれば(この仮定が正しければ)、これはどのように考えれば良いのでしょうか?
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