先日『書紀』の年次移動というテーマで書いた中に「放生」に関するものがありました。この中で「倭国」で「薬師信仰」が行われていた関連の経典として「玄奘」譯の「藥師琉璃光如來本願功徳」を挙げましたが、この例について「服部氏」より「不適当」という指摘があり、検討した結果、指摘の通りであり、ここにこの部分を削除することとします。
そもそも「七世紀初め」にそのような仏教的考え方が導入されたという例として「玄奘」の訳による経典は全く不適当であり、論を構築するうえで検討が不足でした。
ただし他の例として挙げた東晋の「帛戸梨蜜多羅」による経典は依然として有効と思われ、ここでは東方におられるという「瑠璃光佛」(薬師如来)に対する信仰の一環として「放生」が七世紀半ばという時期以前に倭国内に存在していたことは確かとみています。
さらに「履中紀」に出てくる「目の周りに入れ墨をしていた河内飼部」に対し「血の臭いに堪えられない」と「神託」があったと書かれています。
(履中)五年…
秋九月乙酉朔壬寅(十八日)。天皇狩干淡路嶋。是日。河内飼部等從駕執轡。先是飼部之黥皆未差。時居嶋伊奘諾神託祝曰。「不堪血臭矣。」因以卜之。兆云。惡飼部等黥之氣。故自是以後。頓絶以不黥飼部而止之。
このように「血の臭い」を嫌うというのは「不殺生」という観点から「仏教」的な要素であり、このエピソードのベースに「仏教」があることがうかがえます。さらにこの漢文は「経典」の中にある文言にとても似ています。それは上に挙げた「帛戸梨蜜多羅」による経典がそうです。
「…是七神王當以威神。護國土之中有。雜毒之氣以撃人身。被輒寒熱起諸苞腫或乃徹骨。至潰之日濃血臭爛不可得近。唾呪不行或時致死。末世之中生此毒害。以某帶持結願經故。雜氣之毒不害某身。…」(佛説灌頂七萬二千神王護比丘呪經)
この中に「至潰之日濃血臭爛不可得近」という一節があり、まさに「血臭」により「近付けない」とするのですから「履中紀」の「神託」とされる文言によく似ていると思われます。
他の経典にも「血臭」は出てきますが、「履中紀」の表現に近いのはこの経典であり、すでに挙げた「薬師信仰」と「放生」記事の出現という点とともに「倭国」の内部において「不殺生」という観念がかなり以前から浸透していたことをうかがわせるものです。
この「経典」は「東晋」時代に訳されたとされていますから、倭国へは「仏教」の伝来とそれほど離れた時期に倭国にもたらされたとも思えず、その後の『法華経』伝来と「阿毎多利思歩孤」による国教化というエポックメーキングな出来事とともに「薬師信仰」として「倭国」内に急速に浸透していったものではないかと考えます。
すみません。勉強不足でした。
薬師経4経に目を通したところ、ご指摘の薬師経と放生との深い関係を理解できました。金光明経での放生の発展形としての薬師経の放生の扱いでした。
今回法隆寺の薬師像後背銘の研究の中で、やっと気付きました。今月関西例会で報告する予定ですが、ご参考までにEメール添付で別途送付いたします。