「弥生時代」の遺跡として確認されるものに「高地性集落」というものがあります。これは「弥生中期」に「中部瀬戸内」と「大阪湾岸」、「弥生後期」に「近畿」とその周辺に顕著に見られるものであり、通常稲作の生産性向上による村落のコミュニティ内部の権力闘争など矛盾が発生した結果、軍事的色彩を帯びる形で「高地性集落」が形成されたとされます。しかし、確認される範囲ではその「高地性集落」からは「武器」あるいは「兵器」は発見されておらず、逆に平地の集落と同様の遺物が確認されるなど、これが純粋に「軍事的」なものであるかどうかさえはっきりはしていません。
ただし何らかの理由により「平野部」に留まっていることができなくなったがために、丘陵地帯に移動したものであり、しかもそれはある程度広範囲の地域でほぼ同時期に起きたものであることが重要です。
たとえば、紀伊半島の海岸線に近い各所で「銅鐸」が多数発見されています。その時代的変化を見てみると当初「沖積平野」で確認されていたものが後には海岸線から数km入った内陸の丘陵地帯に連なるように集落ができ、そこから型が異なる「銅鐸」が多数発見されるようになります。
このように「集落」が移動し、さらに「祭祀」に関わるものが「変化」するということが起きるためには「外的」な要因が必要であり、それはよほど強力な政治的、軍事的要因であるか、そうでなければ「自然災害」を考える必要があるでしょう。その場合この時期最も有力なものは「大地震」とそれに伴う「津波」の影響が考えられるのではないでしょうか。
今回の「東日本大震災」においてもそうでしたが、大規模な津波の場合海岸線から数km内陸まで津波が到達することがあるものであり、それは北海道の「釧路湿原」など各地の陸上地域に津波堆積物があることが確認されていることからも推定できます。このような被害を経験すると、「不安」と「物理的」な理由とから海岸近くに居住を継続することはできなくなったものと思われ、安全と思われる線まで後退し、さらに津波が到達しないであろう高さの場所まで退避した形で「集落」を再形成することとなったと考えられるわけです。