古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「射日神話」と「シリウス」

2017年12月06日 | 古代史
 すでに、紀元前八世紀付近で各地に気候変動があり、より寒冷となった地域とより炎熱となった地域が出たと思われ、そのような気候変動がより快適で、より多くの食糧を得られる地域へと民族(というより地域に居住する人々)の移動が行われる源泉となったと思われるわけですが(それは即座に「武装化」の進行であり、金属器の発展となったと思われるわけであるわけですが)、その契機となったのが「シリウス」伴星による新星爆発現象であり、それに伴う多量の宇宙線の飛来が極域の雲量の増加に結びつき、その結果として「北極振動」が活性化された結果であるとみたわけですが、このような現象が地球上の誰もが目にすることのできたものであることは確かであり、すでにその例として「ギリシア」と「ローマ」の古文献を上げたものです。
 さらに渉猟していると、古田氏の論に出会いました。それは昭和五十九年に行われた「民俗学のシンポジウム」を氏が傍聴した際の経験からのものでした。それによれば「沿海州の現地民に伝わる「射日神話」に関するものであり、その中に「複数の太陽」というものが示されていたものです。

「…第二、「狩猟時代」(人類が弓矢を発明してより以後。日本列島の縄文期、そしておそらく旧石器期の、新しい段階も、これに入るであろう)。
 昔、二つの太陽があった。魚は跳びはねるとすっかり焦げて死んだ。赤ん坊は生れても生きることが出来ず、(暑さのために)呼吸が出来ずに死んだ。そこで老人が矢で太陽を射た。すると、太陽は上へ逃げ去った。二つの太陽があった時、木もまた良く生れる(育つ)ことが出来ず、(葉は)ちぢれ、(何故なら、太陽が低くて木々が枯れたので)、石もやはりすっかり溶け、穴だらけになった。二つの太陽があった時には。(オロチ族)〈同右〉…」(荻原真子氏による採取と翻訳:『盗まれた神話』 ―記・紀の秘密(ミネルヴァ書房) 二〇一〇年三月刊行 古代史コレクション3朝日文庫版 ―あとがきに代えて 補章 「神話と史実の結び目」より)

 これは氏が触れている様に「縄文時代」のこととみられ、ふたつの太陽とは「太陽」と「シリウス」を指すのではないかとみられます。それを示すのは「太陽が低くて」という表現であり、これは「シリウス」を意味するとして自然だからです。
 「シリウス」の高度は(北半球では)実際にはかなり低く(当時は「歳差」のためにさらに低かったはずです)、それは「ホメロス」の「イリアス」においても「オケアノスに湯あみして」という表現がされており、「オケアノス」が「海」を意味するものですから、太陽と違ってほぼ水平線付近に見えていたらしいことが推察できます。上の「オロチ族」の神話でも同様のことを意味しているのではないかと思われるわけです。また「生まれた赤ん坊も生きることができず」という表現は、古代ギリシアにおいて行われていた「アルテミス」に供物をささげる儀式をほうふつとさせるものです。この儀式も(すでに述べたように)「女性と子供あるいは妊婦」などに「アルテミス」の加護があるようにというのが原初としてあったと思われますから、同様の悲劇が横たわっていたことを示唆します。

これが実際にあったことの反映とはだれも考えないようですが、「神話」が実際にあったことの「写影像」であるのはほぼ常識であり、それは人類がその経験したことを伝承として残そうという集団意識のなせる業ではないかと思われるわけです。

 実際には「北極振動」は現象としてジェット気流の蛇行として現れ、極北からの冷気の流れ出す場所が移動・変化することで、特に北半球の中緯度地域を中心に気候変動菟が起きるとされます。「沿海州地域」においては蛇行が北側にずれたのではないかとみられ、そのため酷暑が発生することとなったと推察されるわけです。(逆に日本列島付近ではより南側にずれたものと思われます)
 このように世界の各地で紀元前八世紀付近に起きた気候変動が何らかの形で語り伝えられ現在に残っているのではないかと思われます。

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