古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「難波津」について(再度)

2024年03月09日 | 古代史
 『延喜式』の中に「諸国運漕雑物功賃」つまり「諸国」より物資を運ぶ際の料金を設定した記事があります。それを見ると「山陽道」「南海道」の諸国は「海路」による「与等津」までの運賃が記載されており、これらの国は「与等津」へ運ぶように決められていたと思われます。
いくつか例を挙げてみます。

山陽道
播磨国陸路。駄別稲十五束。海路。自国漕『与等津』船賃。石別稲一束。挾杪十八束。水手十二束。自『与等津』運京車賃。石別米五升。但挾杪一人。水手二人漕米
長門国陸路。六十三束。海路。自国漕『与等津』船賃。石別一束五把。挾杪?束。水手三十束。自余准播磨国。

南海道
紀伊国陸路。駄別稲十二束。海路。自国漕『与等津』船賃。石別一束。挾杪十二束。水手十束。自余准播磨国。
土佐国陸路。百五束。海路。自国漕『与等津』船賃。石別二束。挾杪五十束。水手三十束。但挾杪。水手各漕米八斛。自余准播磨国。

 この「与等津」については詳細不明ながら現在の「淀川」の河口付近にあった「津」と思われ、そこからやはり「水運」で「京」まで運んでいたようです。ところで「大宰府」については「与等津」ではなく「難波津」に運ぶこととなっていたようです。

大宰府海路。自愽多津漕『難波津』船賃。石別五束。挾杪六十束。水手?束。自余准播磨国。…

 「南海道」の諸国の中には「与等津」へ運ぶより「難波津」の方が近い国もあったはずであり、また逆に「博多」からであれば「与等津」の方が近いような気もしますが、当時は現実として「大宰府」は「難波津」へ運ぶとされていたのです。
 ところで「難波津」は歴史的に見て非常に重要な港であったと思われます。そもそも「難波」には迎賓館ともいうべき「難波館」が置かれたとされますし、その後「新羅」「唐」などの使者も皆「難波津」に入っています。(以下の例など)

(六三二年)四年秋八月。大唐遣高表仁送三田耜。共泊干對馬。是時學問僧靈雲。僧旻。及勝鳥養。新羅送使等從之。
冬十月辛亥朔甲寅。唐國使人高表仁等到干『難波津』。則遣大伴連馬養迎於江口。船卅二艘及鼓吹旗幟皆具整餝。

(六四二年)元年
二月丁亥朔…
壬辰。高麗使人泊『難波津』。

(五月)乙卯朔己未。於河内國依網屯倉前。召翹岐等。令觀射獵。
庚午。百濟國調使船與吉士船。倶泊于『難波津』。盖吉士前奉使於百濟乎。

 また以下では「新羅」に対する威嚇の方法として以下のように「難波津」から「筑紫の海の裏」まで船を並べるとされ、それを新羅人が目にすることを前提としていますから、「筑紫の海の裏」から「難波津」までが「新羅」からの使者の航行ルートであったことが推定できます。

(六五一年)白雉二年…
是歳。新羅貢調使知万沙餐等。著唐國服泊于筑紫。朝庭惡恣移俗。訶嘖追還。于時巨勢大臣奏請之曰。方今不伐新羅。於後必當有悔。其伐之状不須擧力。自『難波津』至于筑紫海裏。相接浮盈艫舳。召新羅問其罪者。可易得焉。

 また「遣唐使」の出発基地としての機能も「難波津」にあったと見られます。

(六五九年)五年
秋七月丙子朔戊寅。遣小錦下坂合部連石布。大仙下津守連吉祥。使於唐國。仍以陸道奥蝦夷男女二人示唐天子。伊吉連博徳書曰。同天皇之世。小錦下坂合部石布連。大山下津守吉祥連等二船。奉使呉唐之路。以己未年七月三日發自『難波三津之浦』。

 このように「難波」「難波津」は外交の拠点ともいうべき場所であったものと思われ、外交が「諸国」つまり「附庸国」ではなく「本国」つまり「宗主国」の専権事項であったことを含んで考えると、上の記事の時代に「難波」に拠点を持っていた「王権」は「倭国王」そのものであったと考えられ、「難波」が「倭王権」の本拠地(直轄地)であったことが知られます。 
 また「西国」に対してもいわば「窓口」としての機能が「難波」にあったものと思われ、「近畿」から見て「西国」が唐や半島の諸国に準ずる立場にいたことが知られます。
 関連するものとして「筑紫傀儡(くぐつ)」が現代に伝えた「筑紫舞」というものがあります。この舞の主要なレパートリーに「各地の翁」が「都」に集まり舞う、という趣向の「翁舞」があります。舞う翁の数で何種類かありますが、頻度が多いのは「五人」から「七人」であり、「七人立」の場合「七人の翁」とは「肥後の翁」「加賀の翁」「都の翁」「難波津より上りし翁」「尾張の翁」「出雲の翁」「夷の翁」とされています。
 この舞はかなり淵源として古いことが推定でき「倭王権」により征服、統合された地域を表すと思われますが、その中に「難波津より上りし」という表現がされている地域があります。
 上に見たように「難波津」は(後には)「外国」等「西方に存在する」重要な地域との交渉時出発あるいは到着するという目的で使用される港であったと思われ、この「舞」が成立した時点ではその「西方」の重要地域とは「倭国王権」そのものであり、またこの「難波津」を利用していた勢力は「近畿」の勢力であり(該当するのは「河内」か「明日香」だと思われます。)、彼らが「倭王権」に「上る」時の港であったと思われるものです。(この時点ですでに「梅」が「難波津」に植えられていたものか)
 また難波には古代官道が存在していたと思われますが、それを示唆する記事が以下のものです。

「(推古)廿一年(六一三年)冬十一月。作掖上池。畝傍池。和珥池。又自難波至京置大道。」

 この「自難波至京「に置かれたという「大道」を「通例」では「難波津から竹内街道を経て横大路につながる東西幹線道路のこと」と理解されているようです。その場合「京」とは「明日香」の地を指して言うとする訳ですが、この「推古」の時代には「飛鳥」はまだ「京」(都)ではありません。「推古」の都は「小墾田宮」ですが、それは「飛鳥」の地名をかぶせられずに呼称されています。つまり「飛鳥」はこの時点では「京」でないわけですが、また「小墾田宮」のある地は「京」とされていたという訳でもないと思われます。そこには「条坊制」が施行されていませんし、何より「天子」がいません。そもそも「推古」は「天子」を自称したという記録はありませんし、それに見合う強い権力を行使した形跡もありません。
 「京」(京師)は「天子」の存在と不可分ですから、「天子」がいない状態では「京」は存在していないとするよりありません。このことからこの「京」については「小墾田宮」を指すとは考えられず、「本来」は(位置関係から見て)「難波京」を指すものと考えるべきでしょう。つまり「文章中」の「難波」とは「難波津」を意味するものであり「京」とは(いわゆる)「前期難波京」を指すと考えられます。
 これらはいずれも「難波」と「難波津」が当時「王権」にとって最重要地域であったことを示すと同時に、新日本王権に取って代わった後でも同様に重要な地域として残ったものであり、「倭王権」時代の慣例がそのまま残り「王権」として重要な地域である「筑紫」からの受け入れ先として「難波津」が設定されていたのではないかと推察されます。
 その後十世紀に書かれたと考えられている「竹取の翁の物語」の中で、「かぐや姫」に求婚した際に条件として「優曇華の花」を取りに行ってくるように言われた「車持皇子」は「筑紫」に行くと称して「難波」から出港していますが、これも「筑紫」と行き来するための港が「難波」と決まっていたことを推察させるものであり、それは古代から伝統となっていたものではなかったでしょうか。
 ところで、「なにはづにさくやこのはなふゆごもり、いまははるべとさくやこのはな」という和歌が書かれた大型木簡が各地に出現しています。それらは「徳島県」(観音寺遺跡)など地方にも及んでいます。
 この木簡は長さが「二尺」(60cm)以上あったと考えられ、全長を復元すると「74cm」あったのではないかとされるものもあるようです。
 これは「縦一行」に歌の全文が書かれているものであり、このような大きな木簡は日常的使用の観念を超えており、明らかに「儀式」など公的な場で、この木簡を「捧げながら」「朗詠」する際に使用されるものであったと思われます。(合唱したのではないかという考えもあるようです)
 これに関して「古今集」の「仮名序」には以下のようにあります。

 「なにはづのうたは、みかどのおほむはじめなり(おほささぎのみかど、なにはづにて、みこときこえける時、東宮をたがひにゆづりて、くらゐにつきたまはで、三とせになりにければ、王仁といふ人のいぶかり思ひて、よみてたてまつりける歌也。この花はむめの花をいふなるべし。)」という風に書かれています。

 この「仮名序」そのものは「紀貫之」の書いたものであると思われますが、「かっこ」の中の文章は「古注」と呼ばれ、誰が書いたものか不明なのですが、非常に古いものであり、「古今集」成立から余り時間が経過してない時期のものと推察されています。そして、この「注」によると、この「なにはづ」の歌は「おほささぎ」つまり「仁徳天皇」に関わるものであるとされているようです。
 ところでこの歌の中ではなぜ「なにはづ」であって「なには」ではないのでしょうか。「注」では「なにはづにてみこときこえけるとき」とされていますが、『書紀』では「仁徳」が「なにはづ」にいたという記述はありません。

元年春正月丁丑朔己卯。大鷦鷯尊即天皇位。尊皇后曰皇太后。都難波。是謂高津宮。

 この「高津宮」は上町台地上に措定されており、「難波津」という形容とは整合しないと思われます。また「みこ」つまり「皇子」の時代に「なにはづ」にいたという記録もありません。彼の父である「応神天皇」は「磐余」にいたとされますがこれはかなり内陸の場所であると思われ、「仁徳」も「磐余」にいたものではなかったでしょうか。
 つまり「なにはづ」にいた(あった)のは「梅」であって「太子」ではなかったものであり、「梅」は宮殿内ではなく「津」つまり「港」に植えられていたと思われるわけです。
 そもそも「梅」は「外来種」であり、現在でも特定の場所にしか存在していません。それらはいずれも人為的に植えられたものであり「根分け」されたものです。原産地は揚子江の南側とされており、また列島への招来は「倭の五王」の時代が想定されています。
 つまり派遣された倭国からの使者に対する返礼として「根分け(「梅鉢」のようなものか)」されたものとみられるわけです。そのことから「梅」は「倭王権」と強く結びつついていたものと思われ、当時は「倭王権」から「根分け」されたものが王権の象徴として「要所」に植えられたものと思われ、それが「なにはづ」に植えられていたこととなります。それは倭王権との関係を示す意味があったものであり、いわば「直轄地」ということを意味する「象徴」としてのものであったと思われ、それはまた「津」を利用する関係者の目に入るように植えられていたものであり、そこが「倭王権」と直接つながる地域であることを周知する意味があったものと思われます。このことから「なにはづ」には特別な地域という意味付けがされていたものですが、そもそも「なにはづ」がそのような意味づけをされる原点は「法円坂」に存在していた建物群との関係からでしょう。
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