古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「『遣隋使』はなかった」か?(再々再度かな-4)

2024年01月21日 | 古代史
さらに前回からの続きです。

「『遣隋使』はなかった」か?(四) ―『隋書』の成立に関する事情の考察から―

「要旨」
 前項では古田氏の指摘した部分について検討し、『推古紀』記事が「唐初」とはいえない可能性を指摘し、実際には「隋初」のことではなかったかという点について考察したわけですが、ここでは『隋書』の編纂においては「大業起居注」が利用できなかったとみられること。そのため「唐」の高祖時代には完成できなかったこと。「太宗」時代においても事情はさほど変わらず「起居注」がないまま「貞観修史事業」が完成していること。そのことから『隋書』の「大業年間記事」にはその年次に疑いがあること。以上について考察します。

Ⅰ.『隋書』に対する疑い -大業年間の「起居注」の亡失について-
 『隋書俀国伝』には「大業三年」の事として「隋皇帝」が「文林郎裴世清」を派遣したことが書かれています。この記事は、その年次が『書紀』の「遣隋使」記事と一致しているため、従来から疑われたことがありません。「遣隋使」に関わる議論の立脚点として「史実」であるという認定がされていたようです。
 『推古紀』記事についてそれが「大業三年」記事と同一ではないという指摘をされた古田氏においても、その「大業三年」記事そのものについては言ってみれば「ノーマーク」であったわけです。
 おなじ『隋書』中にある「開皇二十年」記事については該当すると思われる記事が『書紀』にないこともあり、特に戦前はその存在は疑問視と言うより無視されていました。近年はこの「開皇二十年」記事についてもその存在を認める方向で研究されているようですが、この「大業三年」記事については、『書紀』との食い違いがあったとしてもそれは『書紀』側の問題として考えられていたものであり、これについては問題視されることがありませんでした。しかし、他の資料(「通典」・「冊布元亀」)には「開皇二十年記事」と一括で書かれているなどの点が認められ、記事として確実性がやや劣ると見る立場もあるようです。それは「起居注」との関係からもいえることです。
 『隋書』に限らず、史書の根本史料として最も重視されるのは「起居注」と呼ばれるものです。「起居注」は皇帝に近侍する史官が「皇帝」の「言」と「動」を書き留めた資料であり、皇帝本人もその内容を見ることはできなかったとされる皇帝に直接関わる記録です。
 その「隋代」の「起居注」については「大業年間」のものが「唐代初期」の時点で既に大半失われていたという説があります。たとえば『隋書経籍志』(これは『隋書』編纂時点(初唐)で宮廷の秘府(宮廷内書庫)に所蔵されていた史料の一覧です)を見ても「開皇起居注」はありますが、「大業起居注」は見あたらず、亡失しているようです。
 また、「唐」が「隋」から禅譲を受けた段階ではすでに「秘府」にはほとんど史料が残っていなかったとさえ言われています。特に「大業年間」の資料の散逸が著しかったとされます。そのことは「隋代」から「唐初」にかけての人物である「杜宝」という人物が著した『大業雑記』という書の「序」に、「貞観修史(註1)が不完全だからこれを書いた」という意味のことが書かれている事(以下の記事)や、『資治通鑑』の「大業年中」の記事に複数の資料が参照されていることなどから「推測」されていることです。

「(大業雑記)唐著作郎杜宝撰。紀煬帝一代事。序言貞観修史。未尽実録。故為此以書。以弥縫闕漏」(「陳振孫」(北宋)『直斎書録解題』より)

 また同じことは『隋書』が「北宋」代に「刊行」(出版)される際の末尾に書かれた「跋文」からも窺えます。それによれば「隋代」に『隋書』の前身とも云うべき書が既にあったものですが、そこには「開皇」「仁寿」年間の記事しかなかったと受け取られることが書かれています。

「隋書自開皇、仁壽時,王劭為書八十卷,以類相從,定為篇目。至於編年紀傳,並闕其體。唐武德五年,起居舍人令狐德棻奏請修五代史。十二月,詔中書令封德彝、舍人顏師古修隋史,緜歷數載,不就而罷。貞觀三年,續詔秘書監魏徵修隋史,左僕射房喬總監。徵又奏於中書省置秘書內省,令前中書侍郎顏師古、給事中孔穎達、著作郎許敬宗撰隋史。徵總知其務,多所損益,務存簡正。序、論皆徵所作。凡成帝紀五,列傳五十。十年正月壬子,徵等詣闕上之。…」(『隋書/宋天聖二年隋書刊本原跋』 より)

 つまり『隋書』の原史料としては「王劭」が書いたものがあるもののそれは「高祖」(文帝)の治世期間である「開皇」と「仁寿」年間の記録しかないというわけです。
 ここで出てきた「王劭」という人物については以下に見るように「高祖」が即位した時点では「著作佐郎」であったものですが、その後「職」を去り私的に「晋史」を撰したものです。しかし、当時そのような「私撰」は禁止されており、それを咎められ「高祖」にその「晋史」を見られるところとなったものですが、そのできばえに感心した「高祖」から逆に「員外散騎侍郎」とされ、側近くに仕えることとなったものです。その際に「起居注」に関わることとなったというわけです。
(以下関係記事)

「…高祖受禪,授著作佐郎。以母憂去職,在家著齊書。時制禁私撰史,為內史侍郎李元操所奏。上怒,遣使收其書,覽而悅之。於是起為員外散騎侍郎,修起居注。…」(『隋書/列傳第三十四/王劭』より)

 その後「高祖」が亡くなり、「煬帝」が即位した後「漢王諒」(「高祖」の五男、つまり「煬帝」の弟に当たる)の反乱時(六〇四年)、その「加誅」に積極的でなかった「煬帝」に対し「上書」して左遷され、数年後辞職したとされます。
 このことから彼が「起居注」の監修が可能であったのは「仁寿末年」(六〇四年)までであり、彼の『書』の作成に大業年間の「起居注」が利用できたとは言えないこととなるでしょう。彼の「著作郎」としての期間は「仁寿元年」までの二十年間であったと記されていまから、「王劭」はあくまでもその期間である「開皇」「仁寿」という高祖治世期間のデータしか持っていなかったこととなります。
 その後「唐」の「高祖」(李淵)により武徳年間に「顔師古」等に命じて『隋史』をまとめるよう「詔」が出されますが、結局それはできなかったとされます。理由は書かれていませんが最も考えられるのは「大業年間」以降の記録の亡失でしょう。
 『旧唐書』(「令狐徳菜伝」)によれば「武徳五年」(六二二)に「令狐徳菜」が「高祖」に対し「経籍」が多く亡失しているのを早く回復されるよう奏上し、それを受け入れた「高祖」により「宮廷」から散逸した諸書を「購募」つまり買い求めた結果、数年のうちにそれらは「ほぼ元の状態に戻った」とされています。(註2)
 しかしそこでは「亡逸」という表現がされており、それがかなりの量に上ったと思われるわけですが、それが数年の内に全て戻ったとも考えにくいものです。それを示すのは同じ『旧唐書』の「魏徴伝」です。(註3)
 そこでは「粲然畢備」とされ、「魏徴」等の努力によって原状回復がなされたように書かれていますが、それはそれ以前の史料回収作業が完璧ではなかったことを示すと共に、彼等の時にも全ての史料を集めることができたかはかなり疑問とみるべきことょ示すものであり、失われて戻らなかったものもかなりあったものと思われます。『経籍志』の中に『大業起居注』が漏れていることを見ても、これら史料収集の時点でも『大業起居注』という根本史料は見いだせなかったこととなります。
 推測によれば『大業起居注』に限らず多くの史料がなかったか、あっても一部欠損などの状態であったことが考えられるものであり、これに従えば「大業三年記事」もその信憑性に疑問符がつくものといえるでしょう。
 また、これに関しては「太宗」が「魏徴」に『隋書』の編纂について質問したことが記録にあるのが注意されます。

「太宗問侍臣隋大業起居注今有在者否 公對曰在者極少 太宗曰起居注既無何因今得成史 公對曰隋家舊史遺落甚多比其撰録皆是採訪或是其子孫自通家傳參校三人所傳者從二人為實 又問隋代誰作起居舎人 公對曰崔祖濬杜之松蔡允恭虞南等臣每見虞南說祖濬作舎人時大欲記録但隋主意不在此每須書手紙筆所司多不即供為此私將筆抄録非唯經亂零落當時亦不悉具」(王方慶撰『魏鄭公諌録』巻四・対隋大業起居注条)

 これによれば、太宗(二代皇帝)が「隋の大業起居注はあるか」と聞くと魏徴は「ほとんど残っていない」と答えており、太宗が「起居注がなくてどのように『隋書』を編纂したのか」と問うと、魏徴は「隋の記録は遺落が激しかったので、『隋書』編纂に際しては、探訪して調査し、また子孫が家伝に通じていれば、三人の記録のうち二人が一致した場合にそれを事実として採用した」と答えているのです。さらに「そもそも大業年間には起居舎人はいたものの彼らによってしっかりした記録がとられなかった」旨のことが指摘されています。記録がないのは混乱のせいだけではないと言うことのようであり、「隋主」つまり「煬帝」がその様な事を気にかけなかったと言うことのようです。
 結局、この問答からも『大業起居注』は逸失のまま取り戻すことはできなかったものであり、せいぜい各家の家伝を参考資料とする事しかできなかったことを示すものです。(ただ「家伝」というのが誰のことを指すのか不明ですが、「起居舎人」のことを指すならば、彼等が自分の知り得たことを私的に書いていたとは思われず、使える史料があったとは思われません。また「口伝」の類であるなら、およそ正確性に欠くものであり、正史に使用できるレベルとは言えなかったのではないでしょうか。そうであるなら「魏徴」の言葉は単なる「言い訳」であり、彼としても正確には答えられない部分もあったということではないかと思われるのです。
 似たような例としてはこの「貞観修史」の中で『晋書』の再編集が行われていますが、この『晋書』は数々の民間伝承の類をその典拠として採用していることが確認されており、その信憑性に重大な疑義が呈されています。これも同様に「秘府」から必要な資料が散逸していたことがその理由と考えられ、そのため『晋書』作成に民間史料に多くを依存しなければならなかったと見られるわけですが、それと同様に『隋書』をまとめるための資料も実際には「開皇年間」(及び仁寿年間)の記事しかなかった、あるいは「大業年間」記事はわずかしかなかったと考えられるわけです。しかし、それならば、この「大業三年記事」を含む多くの記事はいったい何を元に書かれたと考えるべきでしょうか。特に『起居注』によるしかないはずの皇帝の言動が「大業年間」の記事中に散見されるのは大いに不審であるわけです。その典型的な例が「倭国」からの国書記事です。そこでは「皇帝」に対して「鴻臚卿」が「倭国」からの使者が持参した「国書」を読み上げ、それに対して「皇帝」が「無礼」である趣旨の発言をしたとされており、そのような「皇帝の言動記録」が本来「起居注」そのものであることを考えると、このときの「記事」が何に拠って書かれたかについては大いに疑問が発生するところです。
 『隋書』に関する研究(註4)では、この「大業年間」の記事に関して「『大業起居注』は利用できなかっただろうから、がその年代まで書いてあればそれを利用しただろうし、出来ていなければ、鴻臚寺ないし他の公的な書類・記録によっただろう。」とされていますが、上に見たように「王劭」版『隋書』には「仁寿」年間までしかなかったとされているわけですから、それを否定するにはそれなりの証明が必要ですし、「鴻臚寺」他の記録についてもそれが「秘府」に保存されていた限り亡失してしまったと見るのが相当と思われますから、そのような資料があっただろうと言うのはかなり恣意的な判断と思われます。
 また上に見た『大業雑記』については「煬帝」に関する記事は相当量あったものと思われますが、それが『雑記』という書名であるところから見ても正式な「起居注」やそれに基づく記事は含んでいなかったと見るべきであり、やはり皇帝に直接関わる記事は『大業起居注』を初めとして大業年間のものについては結局入手できなかったと考えられることとなるでしょう。
 そもそも「起居注」は本来「史官」だけが記録できる性質のものであり、例え「鴻廬卿」といえど内容を「起居注」とは「別に」「記録」として保存するというようなことは「越権行為」であったと思われます。「起居注」というものは皇帝自身さえその内容を見ることが出来なかったとされるものであり、それは「皇帝」の至近で行われる事柄が本来「非公開」のものであり、「コンフィデンシャル」なものであったわけですから、それを本来の職務を逸脱して「鴻臚寺」で記録していたとすると大いに問題であったはずです。それを考えると「起居注」が存在しない場合は「皇帝」に関わる言動の記録は存在しなくて当然のはずということになるでしょう。そう考えると『隋書俀国伝』の「倭国」からの使者に対する皇帝の発言や対応はどのような資料を基に書かれたものなのでしょうか。
 これについては推測するしかないわけですが、『大業起居注』が欠落した中で「史書」を書かざるを得なくなったという事情の中、やむをえず『開皇起居注』や「仁寿年間」の記録から記事(もちろん王劭版『隋書』も)を利用して「穴埋め」をしたという可能性(疑惑)が考えられるでしょう。その結果本来「開皇年間」に書かれるはずの記事が「大業年間」に見られるという「事象」が発生しているのではないでしょうか。つまり「大業年間」の「皇帝」の言動が直接関わる記事の多くが、本来もっと「以前」のこととして記録されていたものではないかという疑いが生じることとなり、それはこの記事についても「煬帝」ではなく「高祖」の治世期間のものであって、そこに書かれた「遣隋使」はまさに「遣隋使」だったという可能性を考えるべきということになると思われます。

 次稿では「大業三年記事」に現われる「重興仏法」等の用語に注目し、それがまさに「隋」の「高祖」に向けて使用されたものとしか考えられないことなどや「裴世清」の昇進スピードを解析し「大業三年」記事に疑いがあることなどを考察します。

(以下続く)

「註」
1.「…時承喪亂之餘,經籍亡逸,德棻奏請購募遺書,重加錢帛,增置楷書,令繕寫。數年間,羣書略備。…」(『舊唐書/列傳第二十三/令狐德棻』より)
2.この『隋書』の編纂事業は「唐」の二代皇帝「太宗」が臣下である「魏徴」に命じて「貞観年間」に行わせたものであり、(他に行われた歴代王朝の修史事業を含めて)「貞観修史」と称されています。
3.「…貞觀二年,遷秘書監,參預朝政。徵以喪亂之後,典章紛雜,奏引學者校定四部書。數年之間,秘府圖籍,粲然畢備。…」(『舊唐書/列傳第二十一/魏徵』より)
4.榎本淳一「『隋書』倭国伝の史料的性格について」 (『アリーナ 二〇〇八』、二〇〇八年三月)

「参考資料」
中村裕一『大業雑記の研究』(汲古書院二〇〇五年)


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